第1部 第6話 宮廷粛清と新たな陰謀
夜がわずかに薄まり、王城の尖塔が灰色に滲む。
戦火の匂いはまだ石畳にしみついていて、風が吹くたび、焦げた皮と鉄の匂いが鼻腔を掠めた。
──終わっていない。
胸の底で、冷たい声が繰り返す。
王都は救った。名誉も回復した。けれど、あの日の“断罪”に、手を染めた手は一人ではない。
俺は王城の大広間に向かって歩を進める。
歩幅を一つ進めるたび、靴底に瓦礫の粉が小さく鳴いた。
扉の向こうでざわめく貴族たちの喉奥には、まだ取り繕いきれない恐怖が残っているはずだ。
それを、俺は見逃さない。
◇
大広間。
王は蒼白の面差しに疲労を隠し、玉座の肘掛を握っていた。
左右に列をなす大臣と諸侯。肩書と刺繍は立派でも、眼は泳ぎ、指先は落ち着きを失っている。
俺は一礼も最小限に、正面へ歩み出る。
舌の上に載せた言葉が、冷たく研がれているのを自分でも感じた。
「陛下──粛清の場を。今すぐに」
ざわめきが走る。
誰かが「早計だ」と呟き、誰かが「それは王権の専権だ」と囁く。
俺は視線だけで、その雑音を押し流した。
「王都が破られたのは偶然ではない。
結界の維持術式に意図的な欠落が仕込まれていた。
設計図を改竄できたのは、宮廷魔術師団と財務局、そして宰相府――三者の接点に立つ者だ」
王の瞳がわずかに揺れる。
昨夜、玉座の間で交わした“名誉回復”の宣言。その直後に俺が提示した、焼け焦げた書簡と、暗号を解いた出納帳。
バルクの屋敷から回収したそれらは、ここへ運ぶ途中もずっと、俺の胸の内で熱を帯びていた。
「名を挙げよ」
王が低く言う。
俺は、静かに三つの名を告げた。
財務局次官ガルナ、術式監査役エーディン、宮廷参事官ベルメ。
空気が凍りつく。
列の中ほど、豪奢な外套の一角が微かに震え、視線が泳いだ。
俺はそこへ、刃を当てるみたいに、言葉を差し込む。
「昨夜のうちに捜索した。バルクの机の二重底から、異国の銀貨と印章、そしてこの“契約文言”が出た」
従者が布に包んだ証物を捧げ持つ。
印章の面には、黒曜石に似た艶のない紋──円の中に灰が舞い、一本の斜線がそれを切り裂いている。
見た瞬間、胸骨の内側が固く鳴る。
この印、俺は知っている。
禁書庫の、埃をかぶった一冊で見た。
“聖灰会”。王国のはじまりより古い、影の結社。
血と灰、そして誓約を媒介に、境界を穿つ儀を行う連中。
(やはり、ただの利権争いじゃない。外から“裂いた”のでもない。
内側に踏み石を置いた者たちが、門を開けた)
口腔が乾く。
怒りと、氷のような恐怖と、しかしどうしようもなく湧く“理解”の熱。
俺の頭の中で、点が線になる感触があった。
王都決戦で現れた異形。あの数、あの質。
自然の魔物が、偶然に、あのタイミングで、城門へ一直線に押し寄せるはずがない。
「ガルナ、エーディン、ベルメ」
俺は振り返らない王の代わりに、名指しする。
「前へ」
三人は動かない。
左右にいる護衛の手が柄に落ちる。
数拍ののち、エーディンが一歩だけ進む。笑っていた。薄氷の上で踊る道化のように。
「証拠の『解釈』はいつだって恣意的だ、リュシアン殿。術式監査の印は、貴殿の“旧設計”にも押されている。君が王都を去ったあと、我々は君の仕事の尻拭いをしていただけだ」
言葉の刃先が、古傷をなぞる。
俺は眉一つ動かさず、手に持った薄い紙束を掲げた。
「君の署名がある。
《境界通路・一時的抑止解除》の承認。
そして、バルクが“外”へ送った書簡に書かれた《灰の礼》の日付が、門が破られた前夜へぴたりと重なる」
エーディンの笑みが一瞬だけ歪む。
そこへ、ガルナが叫んだ。
「貴様に何がわかる! 王都の財がいつから枯れ始めたか! 民は腹を空かせ、貴族は財布の底を鳴らし、術師どもは莫大な予算を食らう! 何かを犠牲にしなければ、何も守れはしない! 我々は、王都を、王国を──」
「守った、と言いたいのか」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「守るために、門を開けたのか。
守るために、誰かの血を捧げ、誰かの村を焼き、誰かの帰る場所を灰にしたのか」
胸の内側が焼ける。
エリナの笑顔が、焚き火の炎の色と一緒に浮かぶ。
“ここが居場所だ”と言ってくれた、あの夜の声。
それを奪うものが、この大広間にいる。
そして、その背後に“印”を持つ影がいる。
王が静かに手を上げた。
「監察官──いや、今はお前にふさわしい名がないな、リュシアン。
私は王として命ずる。
ここでの裁定を進めよ。
お前の術と、理と、目をもって」
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
俺は一度、短く頷く。
「陛下の権威のもと、三名を拘束する。
ついで、宰相府・財務局・術式監査室の記録すべてを封鎖。
出納と通過印、魔力流路のログ、使い魔の往来記録。
すべて、私に提出してもらう」
護衛が動く。
鎖の音、布擦れ、抗弁。
大広間の空気が、刃に触れた紙のように乾いていった。
◇
尋問は、塔の一室で行った。
朝と昼の境目、光が白く差し込み、埃が踊る。
言葉は刃に等しい。
だが刃は、ただ振り下ろせば良いわけではない。
研いで、角度を測り、次にどこへ当てるかを読む。
最初に崩れたのはベルメだ。
目が泳ぎ、額に汗を滲ませていた彼は、三杯目の水を飲む前に、指先を震わせた。
彼の口から出たのは、ひどく生々しい“手順”だった。
王都の外郭に点在する封印石。
そこへ“灰”を撒き、静脈のように広がる魔力管路の二箇所で、流れを逆転させる。
儀は、夜半。歌の代わりに誓文を唱え、血滴を用いて門の目付けを盲目にする。
俺は吐き気を飲み下した。
指先が冷たくなり、代わりに背骨の中が熱くなる。
「誰が教えた」
「……印が来た。黒い印章。バルクが持っていた。商人を名乗る男が、夜ごとに出入りして──」
「名は」
「聞いていない。ただ、奴は指に焼き印があった。“灰”の紋に、斜線」
“灰”。
喉奥に砂が詰まるみたいな感覚。
俺の記憶に沈んでいる禁書の頁が、水面に浮かんだ。
聖灰会。
境界を扱う古い術。
対価を支払い、秩序を一時的に盲目にする禁忌。
(やっぱり、いる)
俺は壁の石の冷たさに、掌を一度当てる。
指の腹に、石の目の細かさと、わずかな割れ目が伝わった。
不意に、自分が石になってしまえたらと、子供じみた願いが過った。
何も感じず、何も決めず、ただそこにあるだけのものに。
だが、俺は術師だ。
見てしまうし、決めてしまう側の生き物だ。
◇
夕刻、塔の回廊でセリーヌが待っていた。
光は傾き、横から差し込んで、彼女の睫毛の影を長く落とした。
「……手は、震えている?」
セリーヌが問う。
俺は自分の手を見る。
気づけば、ほんのわずかに震えていた。
怒りで、あるいは、自分の中の何かが擦り減っていく音のために。
「平気だ」
そう言いながら、声の端が自分でも驚くほど柔らかかった。
セリーヌが目を伏せる。
「私、告解したい。あの日、あなたを信じなかったことを、償いたい。
名ばかりの令嬢でしかなかった私にできることなんて、ないのかもしれないけれど」
胸の奥の硬い部分が、少しだけ形を変える。
赦しとは別の名前を持つ感情。
“共に在る”という形に似ている。
「なら、見届けてくれ。
俺が刃を振るうとき、間違えないように。
王でさえ、人である以上、迷う。
俺だって、迷う。
だから、目で止めてくれ」
セリーヌは、静かに頷いた。
その頷きが、俺の肩の位置をほんの少し正しい場所に戻してくれる。
◇
粛清は二日に及んだ。
拘束、尋問、記録照合、再現実験。
“術式監査局”は解体し、“境界監”の職を新設。
王命で、俺は“王国大術監”に任ぜられた。
本来なら誇らしいはずの称号。
けれど、肩にかかるのは栄光ではなく、鉛のような重みだった。
夜更け、書見台の上で、古文書がかたんと鳴る。
瞼の裏に、村の焚き火が灯る。
エリナの笑い声が、紙の擦れる音にまじる。
あそこへ、必ず帰る。
そのために、今はここで手を汚す。
(戻る。戻るために、繋ぐ)
文字が、意味を成し、線となり、図となり、術式の骨格へ変わっていく。
結界の再構築。
薄くなった膜を、編み直し、補強し、新たな“目”を付ける。
灰に盲目化された“瞳孔”を、別の周波で見張らせる。
喩えるなら、眠らされた門番の背中に、もう一人、眠らない衛兵を立てるような……。
ふと、窓の外で羽音がした。
一羽の鴉が、夜を裂くように舞い降り、格子に止まる。
脚に結びつけられた小さな筒。
中から出てきた羊皮紙には、たった一行。
《ヘルムの森、空が裂けた》
心臓が、音を忘れた。
胸が空洞になり、次の瞬間、熱と氷が同時に流れ込む。
ヘルムの森──俺の“辺境の村”の、北の境だ。
(間に合わなかった、のか……いや、まだだ)
鴉の黒い目が、夜の端で鈍く光る。
指先が勝手に動いて、杖を掴む。
踵が床に音を刻む。
走る。
廊下を、階段を、眠らない城を、裂くように。
◇
城門までの道すがら、地下の詰所から兵が駆け上がる。
王の私兵隊長が肩で息をしながら、俺の前に立った。
「大術監、報せは確かか」
「確かだ。森の封印石が“外側”からではなく、“こちら”から盲目にされた形跡がある。
灰の印を持つ者が、まだ王都にいる」
隊長ののど仏が上下する。
「こちらから……? まさか」
「あり得ない話じゃない。
粛清は“首”を落としたにすぎない。
胴には、まだ血がめぐっている」
喉の奥で、鉄の味がする。
怒りとも焦りとも違う、狩人が嗅ぎ取る血の匂いだ。
「俺は先に向かう。王には──」
「伝令は私が」
「頼む。王都の外郭結界の再起動は、セリーヌ……王女殿下に」
隊長が目を丸くする間もなく、俺は塔の石段を駆け上がり、転移陣の扉を開いた。
魔方陣の線が、青白く脈動する。
陣の中央に立つ。
胸の内で、二つの声が争い、やがて、ひとつになった。
(守るために──裁く)
光が、世界を塗り替えた。
◇
移動の瞬間、“声”が聞こえた。
遠くから、灰を踏む音に似た、乾いた囁き。
《九日後、灰は王都を覆う》
《境界は二度、盲目になる》
《最初の裂け目は囮だ》
耳ではない場所で聞く声。
術式の余白に忍ばせた、呪いの残響。
喉元が詰まる。
九日。
それは、結界再編に必要な“最低限”の調律日数と、奇妙に重なる。
(時間を、奪いに来ている)
視界が戻ったとき、ヘルムの森の黒い木々が、夜の縁でざわめいていた。
空の高みに、薄い裂け目が光る。
まるで硝子に走った亀裂に、月の光が絡まっているように。
足元の土が、かすかに脈を打つ。
森が息をする。
口を開きかけている。
俺は杖を掲げた。
背中のどこかに、遠い王城の気配がまだ残っている。
セリーヌの瞳。
王の「任せる」という重い一言。
村人たちの、焦げた夜と酒の笑い。
全部が背骨を支える。
「──誰が、そこにいる」
森の暗がりへ、言葉を投げる。
風が葉を掻き、同時に、別の音がした。
歩く音。柔らかい底で、森に慣れている歩き方。
影から、フードを被った男が一人、出てきた。
顎から喉仏にかけて、白い古傷。
そして右手の甲に、焼き印──灰の紋と、斜線。
「久しぶりだな、リュシアン」
声が骨に触れた瞬間、背骨の奥が冷たくなった。
かつての、師。
術の初歩を叩き込んだ、言葉の厳しい男。
王都の混乱で死んだと聞かされ、俺が心のどこかで、もういないと片付けた人間。
「……アルガス」
名を出すと、男は小さく笑った。
フードの下の目が、灰の光を宿している。
「九日。
間に合うなら、止めてみろ。
選べ、リュシアン。
王都を守るか、村を守るか。
境界の秤は、片方しか持てない」
胸の内側で、何かが裂けた。
怒りでも悲しみでもない。
“選択”という名の、冷たい刃が、心臓の縁をなぞる。
俺は、ゆっくりと、杖を構えた。
指の震えは、もう、ない。
喉の奥に金属の味が上がる。
視界の隅で、空の裂け目が細く笑ったように見えた。
「秤ごと、造り替える」
自分の声が、驚くほど静かだった。
「お前たちが知っている境界は、もう古い。
灰は、光にもなる。
灰を、目にする術を俺は編んだ。
九日は、お前の時間であって、俺の時間じゃない」
アルガスの口角が、僅かに跳ね上がる。
「なら、見せてみろ。
“救済”と“断罪”を、同時に掲げる術を」
森が鳴る。
空の裂け目が、音もなく開き始める。
俺は、呼吸を一つ深く取り、地脈へ指を差し入れるように意識を沈めた。
(帰るために。
帰る場所を、これからも帰る場所にするために)
術式が、骨の中で目を覚ます。
王都の塔で一晩中書き換えた、新しい“目”。
灰に盲目化された瞳孔の、さらに奥に置いた、第三の視力。
俺が俺であることの、いちばん硬い場所。
光が走った。
森の影が裂け目に向かって傾き、そして、俺の周囲は、音を失った。
──選ばない。
選ばず、両方を掴む。
そのために、俺は追放され、ここまで来た。
胸の内側で、何かが静かに微笑んだ。
闘いが、始まる。
◇
(※続く:第7話「灰の予言」)