第1部 第13話 蝕の門
夜の端で、月がまた欠けていた。
昨日はかすかな欠けだったのに、今夜は目で見て分かるほどはっきりしている。
(早い……)
蝕の進行は予定よりも速い。
塔の円環に記された《風視》と《灰視》の記録も、異常な波形を示していた。
「街がざわついています」
セリーヌの報告は短い。
「明かりを消す家が増えている。怖がっているんじゃなく、“見ない”選択をしているようです」
胸が締め付けられる。
(街の方が先に学んだ……)
第三の目が見せる世界では、王都全体が大きなまぶたを閉じ始めていた。
蝕の夜、塔の頂にひとり立つ。
街の灯は半分以上が落ちている。
音も薄い。子供の泣き声さえ止んでいる。
(これが……見ない勇気か)
だが同時に、胸の奥でざわつきが広がる。
この静けさは、世界を閉ざす安堵と同時に、無防備さをも孕んでいる。
「リュシアン様、始めますか?」
セリーヌの声も、やけに小さい。
「ああ。……でもこれは、戦いじゃない。
試しに来るものを、まず“迎える”」
杖を立て、詠唱を開始する。
「《灰視・影相》、開眼」
第三の目が開く──だが光は出さない。
影を“視る”目を開く。
塔の周囲に、黒い靄が集まる。
形を持たず、ただ濃く、冷たい。
《見ないなら、消えよう》
声がする。
それは懇願に似て、同時に呪いにも似ていた。
(違う……お前は消したいんじゃない。見てほしいんだ)
胸に手を当て、影へ一歩踏み出す。
「ここにいる。見る。でも、すべては見ない」
言葉が宙に残り、靄が震える。
影は形を変え、過去の自分の姿を作った。
追放されたあの日のリュシアン。
宮廷での嘲笑、セリーヌの冷たい瞳、崩れ落ちる名誉。
「……」
喉が焼ける。
全身が汗ばむ。
(俺は、あの日の俺を許せていない)
足元の塔の石が冷たい。
膝が沈みそうになる。
「でも、もう背を向けない。
あの日の俺を“見ない”わけにはいかない。
けれど……あの日に縛られもしない!」
杖を叩きつける。
衝撃で影が波紋のように広がり、薄れる。
靄の中から声がした。
《ならば、お前に“選ばない権利”を与える》
胸が熱くなる。
選ばない権利──それは、戦場で命を選び取る立場に立った者が最も欲しかったものだ。
「……ありがとう」
影が完全に形を失い、塔の周りに薄い輪を描いた。
それが夜空に浮かび、蝕の輪郭と重なる。
《次は、太陽だ》
声が消え、蝕が終わる。
月が再び丸くなり、光が街を満たした。
窓がひとつ、またひとつ灯る。
遠くで、笛の音が響いた。
街は静かに目を開き、再び息をし始める。
「やったのね」
セリーヌが塔へ駆け上がってくる。
顔は泣き笑いのようだった。
「街は……影と折り合った」
「ああ。これで、次は太陽だ」
遠くの地平線に、赤い光がわずかに揺らめいた。
それは夜明けではなく、太陽そのものが試練となる前触れに見えた。




