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第7部 第1話 最初の航路

 星図都市の夜明けは、驚くほど穏やかだった。

 再統合を祝う旗は降ろされ、連邦庁舎にはいつもの喧噪が戻っている。

 その静けさの中で――胸の奥の環が、かすかに音を立てた。


(呼ばれている……どこから?)


 音はいつもの白金の拍とは違う。もっと古い、土の匂いのする震え。

 耳ではなく骨に響く、起源の鼓動。


 エファが記録板を抱えて駆け込んだ。


「リュシアン、星図の“外”からパターンが来た。既知の符号じゃない。

 でも……翻訳層を外したら、形になったの。見て」


 表示されたのは言葉でも図でもなく、一本の線だった。

 都市の中心から始まり、すべての航路を逆巻くように遡っていき、やがて星図の端を越えて――何もない空白の彼方へ消える線。


「名は?」とガルド。


「……《最初の航路》」


 胸の奥の環が答えるように鳴った。(帰ってこい、と)


(行くべきか? 今なら、ここで留まる選択もできる)


 会議を開けば誰かが止めるだろう。航路監の不在は不安を生む。

 だが、留まればこの音は止まらない。

 平和の上に薄い影を落とし続ける。


「行くよ」と、リュシアンは静かに言った。


 セリーヌが眉を上げる。「どこへ?」


「星図の外。線の終わりまで」


 短い沈黙。次に来たのは、彼女のため息と微笑だった。


「なら歌を用意する。帰り道を忘れないための、境界の旋律を」


 港に降りると、オルビタの帆は風を待っていた。

 船体には外界の補助骨格、均衡者の調律環が新たに組み込まれている。

 皆が準備に散っていく中、イシュナが近づいた。


「連邦は動かしておく。あなたがいなくても回る仕組みを、もう作った。

 ……行って、見てきて。私は戻る場所を守る」


 ガルドが無骨に笑う。「何があっても舵輪から手を離すなよ」


「離すかもしれない」とリュシアン。自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。

「必要なら、託すさ」


 ガルドは一瞬だけ目を細め、強く頷いた。


 議場の机に、一通の書簡を残す。


航路は人が選ぶ。

恐怖も光も、等しく重い。

もし私が戻らなくても――舵は、あなたたちで取れる。


 書き終えると、胸の奥の環の音がわずかに柔らいだ。(そうだ、それでいい)


 大勢の見送りはない。噂を聞きつけた子どもたちと、早起きの商人たち。

 それでも、誰かが手を振れば、誰かがそれに応える。

 セリーヌの旋律が低く流れ、都市がゆっくり目を覚ます。


 エファが最後の点検を終え、親指を立てる。

「航跡記録は連邦に同時送信。帰還ウィンドウは七日ごとに開く」


「無理はしない」と返すと、彼女は即座に首を振った。


「無理はするでしょ。でも、“独りでは”しないで」


 言葉に苦笑がこぼれ、同時に胸が温かくなる。


 オルビタが静かに滑り出す。星図の縁が近づくたび、環の拍が深くなる。

 やがて既知の光が尽き、空白の海が広がった。


 そこで線が、はっきりと見えた。

 何もない闇に一本だけ刻まれた、かすかな傷痕のような航路――誰かが最初に引いた、たったひと筋の道。


(君か。最初の門渡り)


 目を閉じると、古い風の匂いがした。火の気配。祈りの残り香。

 遠い昔の指先が、震えながら空間に線を描く感触。


 胸の奥の環が、それに重なる。

(続け、と)


 線に舵を合わせた瞬間、船体がわずかに軋んだ。

 感覚が古層へ引きずられる。体が軽く、声が遅れて届く。


「境界の旋律、上げるわ」セリーヌの声が遠いところから届き、

 オルビタを包む薄膜が震えた。波は弱まるが、消えない。


「これは……時間の擦れだな」とガルド。

「線の向こうの時制とこちらが噛み合ってねえ」


 エファが素早く符丁を書き換える。「位相同期、三分遅延に調整!」


 衝撃が一度、二度。やがて揺れが落ち着く。

 線は目の前で、やさしく光った。


(怖い。けれど――この怖さは知っている)


 第1部で辺境に出た朝の寒さ。第2部で王都の石段を上った足の震え。

 第5部で影に剣を差し出した時の吐息。

 どれも同じ、踏み出す前の静かな恐れだ。


(恐れが道の形をしている。なら、歩ける)


 舵輪を握る掌に、誰かの小さな手の記憶が重なる。

 教えてくれた人のいない昔の、最初の旅人の手。


「進む。速度、ひとつ上げる」


 オルビタが音もなく加速し、空白の海を切り裂いていく。

 やがて、遠くに灯が見えた。灯は点ではなく、縦に細く伸びる柱。

 柱は七本、並んでいる。七度、世界に線が引かれた痕跡。


「記録ある?」と問うと、エファは首を振る。


「ない。どの星図にも載っていない……まるで“書き出し”の跡」


 セリーヌが息を整え、短い旋律を重ねる。

 柱の一番手前が、応えるように微かに明滅した。


 聞こえたのは言葉ではなかった。

 乾いた土に雨が落ちる音。

 最初の火が燃え移る音。

 産声と、別れの吐息。

 そして――線を引く刃の、細い鳴き。


《待っていた》


 胸の奥の環が、忘れていた律で回る。(これは、ずっと昔に聞いた声だ)


《君は 線を継ぐ者か それとも 線を閉じに来た者か》


 答えは用意していない。けれど、言葉は迷わずに出た。


「継ぐために来た。必要なら、手放すためにも」


 短い沈黙。次いで、七本の柱が一斉に灯った。


《ならば見よ――最初の門》


 空白の闇に、いちばん古い輪郭が現れる。

 円でも門でもなく、ただ“開き”としか呼べない裂け目。

 そこから吹いた風は、火と塩と、ほんの少しの涙の匂いがした。


(ここがはじまりだ)


 リュシアンは舵輪を押し、仲間たちを見た。

 ガルドが笑い、セリーヌが頷き、エファが震える指で記録を始める。


「行こう。物語の最初へ」


 オルビタが、最初の門をくぐった。

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