第1部 第11話 深海神殿と“声”
満月の夜。
港町リミエの外れに、船を出す者はいなかった。
海は静かすぎるほど静かで、月明かりを鏡のように映している。
俺は船縁から海を見下ろした。
水面は黒いガラスのようで、そこに自分の顔が映る。
(いまの俺は……誰だ?
追放された罪人か、王国を救った英雄か、それとも境界の“目”か)
胸の奥が波打つ。
だがその波は、もう恐怖だけではなかった。
「行きますね、リュシアン様」
セリーヌが頷き、儀式用の灯を掲げる。
港に設置された魔法陣が光り、海面に薄い円が描かれた。
「深海ゲート、開放」
呪文が響き、水面が割れる。
その裂け目から、深い蒼が覗いた。
降下と同時に、音が消えた。
鼓膜が圧に押され、呼吸のたびに胸がきしむ。
周囲は青黒く、光はほとんど届かない。
杖の先に灯した光が、かろうじて足元の石畳を照らす。
(ここが……深海神殿)
古い石柱が並び、壁には無数の眼のような彫刻が刻まれている。
それらが、俺を見ている気がした。
奥の祭壇から、低い音が響いた。
耳ではなく、骨で聞く声。
《来たか、境界の子》
空気が震え、心臓が跳ねる。
「お前が……聖灰会の“声”か」
《声は私であり、私ではない。
私たちは灰であり、灰は声である》
意味を掴む前に、頭の奥が焼けるように熱くなる。
思考が渦に巻き込まれ、記憶が引き出される。
脳裏に、過去の光景が次々と浮かんだ。
追放の日、セリーヌの冷たい目、村の焚き火、王都決戦、森の裂け目、カエルとの水中戦──。
(全部、俺だ。逃げても消えない。
なら、抱えて進むしかない)
胸が熱くなる。
この瞬間、もう後戻りはできないと悟る。
《お前に問う。王都は二度死んだ。
次に死ぬのは、王都か、世界か》
喉がひりつく。
答えを間違えれば、この場所で飲み込まれる予感があった。
「どちらも死なせない。
死ぬのは“古い境界”だ。
世界を分ける秤は壊し、作り直す」
その言葉に、神殿の壁の眼が一斉に光った。
《ならば証明せよ》
床の模様が動き出し、水流が渦を巻く。
灰色の幻影が立ち上がり、過去の王都の姿を象る。
幻影は俺に襲いかかる。
王都の兵士、貴族、断罪の日の玉座──
すべてが俺を責める声で満ちる。
(負けるな。あの日の俺に勝たなければ、未来は作れない)
「《雷環結界・完全展開》!」
雷光が水中を走り、幻影を吹き飛ばす。
しかし次の瞬間、幻影は形を変え、今度は村の姿になる。
「……やめろ!」
胸が痛む。
守りたいものまで敵として現れる。
(本当に俺は村を守る資格があるのか?
俺が戦えば、また誰かが傷つくかもしれない)
膝が沈みかけたその時、耳に声が届いた。
「リュシアン様!」
セリーヌの声だ。
港から魔法陣を通じて届いている。
「あなたは一人じゃない! 王都も村も、あなたと一緒にある!」
胸の奥に火が灯る。
「……そうだ、俺はもう一人じゃない!」
杖を高く掲げる。
「灰は俺だ! 俺が選び、俺が繋ぐ!」
第三の目が深海に開き、光が神殿全体を満たした。
幻影が一斉に砕け散り、海が静まる。
低い振動音が止み、祭壇の上に淡い光が集まる。
《認めよう。お前は境界を越え、境界を作り変えた》
光が杖の先に吸い込まれ、海面へと続く道が開かれる。
《次は“空”だ。空にも境界がある》
声が消え、神殿は再び沈黙した。
港へ戻ると、夜明け前の空がわずかに白んでいた。
セリーヌが駆け寄る。
「……生きて帰った!」
俺は笑い、頷いた。
「まだ終わりじゃない。
次は空だ──世界の屋根で決着をつける」
海風が吹き、港の灯が揺れた。




