第1部 第10話 深海の門
リミエの港の沖に、古い神殿跡がある。
半分沈み、満潮のたびに天井まで海に浸かる場所。
聖灰会は次の集会をそこで開くと告げてきた。
船に乗る前、俺は港の柵に手を置いた。
手のひらに潮の湿り気と、木材のざらつきが伝わる。
(もう“陸”の戦いではない。
足場が水になるということは、秩序そのものが揺らぐということだ)
胸の奥にわずかな恐怖が芽生える。
足を踏み外せば沈む世界──自分の術も、言葉も、届かない場所。
「リュシアン様」
振り向くと、セリーヌがいた。
彼女の瞳は揺れていない。
「王都の目は起動し続けています。あなたが海に潜っても、ここから見ています」
その言葉に、胸が少し温かくなる。
(そうだ。もう一人じゃない)
小舟が波を切る。
沖に近づくほど、海の色が濃くなる。
青から群青、やがて深緑に変わる。
胸が締め付けられる。
海は、森よりも深く、広く、そして静かだ。
第三の目も、ここではまだ試作段階に過ぎない。
(“見る”だけでなく、“潜る”必要がある)
神殿が見えてきた。
天井の柱は苔と貝に覆われ、波が反射して光をゆらめかせている。
水をかき分け、神殿の奥へ進む。
冷たい海水が服に染み、体温を奪う。
杖の先に小さな光を灯し、床の模様を探る。
やがて中央の祭壇にたどり着いた。
その前に、ひとりの影が立っていた。
「……来たか」
見知らぬ男だった。
黒い短髪、鋭い目、左腕に焼き印。
アルガスとは違う、もっと若い。
だがその眼差しには同じ灰の光が宿っている。
「俺はカエル。聖灰会の“潮見役”だ」
カエルの声は静かだった。
「アルガスは師としてお前を試した。
俺は“鏡”としてお前を試す。
お前が王都を守った理由──本当にそれは他者のためか?」
胸の奥が痛む。
村、エリナ、セリーヌ、王都の民──確かに守りたいと思った。
だが同時に、あの日の屈辱を晴らすために戦ったのも事実だ。
(俺は、どこまで利己的で、どこから利他的なんだ?)
海の水が冷たく感じる。
全身が重くなり、思考が深みに沈んでいく。
「答えろ、リュシアン。
お前が“今”を救うのは、過去の自分を救うためじゃないのか?」
歯を食いしばる。
「そうだ。俺は俺を救うために戦った。
だがそれが何だ? 俺が俺を救えなければ、誰も救えない!」
声が神殿に反響し、海面が震える。
カエルが腕を上げると、海水が渦を巻いた。
灰色の刃がいくつも生まれ、周囲を取り囲む。
「なら証明しろ。自分のための救済が、他人も救えることを」
杖を構え、詠唱する。
「──《雷環結界》!」
海中に雷が走り、光が渦を裂く。
水泡が上昇し、視界が白くなる。
(落ちるな……ここで沈んだら、全部終わる)
肺が苦しい。
だが同時に、胸の奥が熱くなる。
(まだ、終わらせない)
最後の詠唱を放つ。
「《灰視・海相》!」
第三の目が水中に開き、海の履歴が光として浮かぶ。
過去の戦、沈んだ船、祈り、血──すべてが像となり、神殿の壁に投影される。
カエルが目を見開いた。
「……これが、お前の見る“海”か」
渦が静まり、海が落ち着く。
カエルは剣を収め、深く息を吐いた。
「認めよう。お前の救済は、お前だけのものではない」
手を差し出してくる。
その手を握ると、焼き印が熱く、しかし痛くはなかった。
「次は“深海”で会おう。
そこには、アルガスよりも深い“声”がいる」
カエルは海中に沈み、姿を消した。
神殿を出ると、夜が明けかけていた。
水平線の彼方から光が差し、海面を銀色に染める。
船へ戻る途中、胸の奥が軽くなるのを感じた。
(俺は、俺を救った。そして、他人も救える)
セリーヌが港で待っていた。
彼女の笑顔が、朝の光の中で鮮やかに見えた。
「おかえりなさい、リュシアン」
俺は頷き、短く答えた。
「ただいま」




