幸福という名の溺死
――夢の中でだけ、わたしの大切な彼女は生きている。
頬に触れる手は温かく、「このまま目覚めなければ」と心から願ってしまう。
瞼を閉じれば、笑いながら駆け寄ってくる彼女。昨日の続きを始めるように。
けれど、目を開けた途端、その安らぎは一瞬で消える。悲しくて、寂しくて、嫌でたまらない――それでも、そんな日々の繰り返しに、わたしはいつしか慣れすぎてしまっていた。
ある夜、彼女が囁いた。耳の奥に傷を刻むように。
「……目を、覚まさないで」
優しいはずの声が、底知れぬ闇を孕んでいた。
*
翌朝、目覚ましが鳴った。だが時計の針は昨日から止まったままで、窓の外はまるで夢の色をしている。
気がつくと、指で喉を掻きむしっていた。
喉の奥から渇きがせり上がり、爪が脳へ「水分を取れ」と命令を送っている。
仕方なくコーヒーを淹れようと立ち上がり――カップを手にして凍りつく。
それは、現実では割れて捨てたはずのものだった。
背筋に寒気が走り、夢と現実の境界が削られるように崩れていく。遠くで彼女の笑い声。安堵と恐怖が同じ匂いを放ち、脳裏を鈍く締めつける。
視界の端で家具の輪郭が揺れ、壁の色は淡く変わり、夢の部屋に近づいていく。
気づけば足元は湖畔の木道。冷たく湿った匂いが肺を満たす。
――足音が近づく。影のように、音もなく。
闇がじわじわとこちらへにじり寄り、その奥から、彼女がぬっと姿を現した。
かつて最愛だったはずのその姿は、人間とは思えぬぎこちない動きで地を這い、虫のように、かさかさと乾いた音を立てて這い寄ってくる。
次の瞬間、地を弾くように勢いよく迫ってきた。
そして、ほとんど触れられる距離まで来たかと思うと、ぴたりと止まり、わたしをじっと穿つように凝視する。
死を孕んだ熱を帯びた荒い呼吸が、不気味に泡立つ。
水面の影のように揺れる異形が、耳元で心臓を鷲掴みにするような低い声を吐き、ぼそりと囁いた。
「……目を、覚まさないで」
――耳を貸してしまった。
大量の水を飲み込み、水底に沈んだわたしは、目の前で微笑む異形と同じ存在へと変わっていく。
夢か現実かを選ぶことは、もうできない。
暗黒の景色の向こうには、これまで見えなかった異形の世界が広がっていた。
そこに差し出されたのは、永遠に続くであろう何気ない日々。
それが最上の幸福であり、同時に最悪の不幸だと知りながらも、わたしは未だ目を閉じている。
かつて夢の中で、彼女の親友が言った――
「“この世界に、本当に真実なんてあるんですかね?”」
あの時は意味がわからなかったが、異形となった今、その意味がはっきりと理解できる。
わたしの前には、無表情の異形が立ち、歪んだ音を立てて全身をねじりながら、奇声を上げて佇んでいた。
頭の中に声が響く。
『「零」から「壱」へ。“零番物流”は、やがて世界の全てを創り出す』
あなたへ誠心誠意、純白の真心を――。
永遠の闇に包まれたこの「常闇の虚殻」に祈りが芽吹く。わたしたち異形は、「永遠の楽園」を目指す。
それが人間に痛みをもたらそうとも、悲しみを経てこそ人は深化するのだ。
――れまくまとせかなせまれまときしまにかてにわえわえゆふよあゆにいきしりけれしりひひねつるさねひひさつろむとちりとむせらにいてかわうなんらいままきとしりきまきしりのきしけしせにうわにあがあむたからかちいきききりむけしねろねろさつねつもこみこまきせらなせいかないからにあにあえわえほぬよぬええほへえあぬよえあゆえあえほわゆよおゆよわうおうよ――
耳鳴りが頭を破裂させそうなほど響き、わたしの「大切で神聖な場所」を根こそぎ奪っていく。
ぬめる手が頬に触れる。――彼女だ。赤い瞳が大きく笑い、腕をひしゃげるほど強く握った。
「 」は牙を剥いて嗤った。
もう大丈夫。これからは、あなたのためだけに生きていこう。
大好きだよ、「 」。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご覧いただき、心より感謝申し上げます。