番外編(3) 怪物
フレイアの部屋に缶詰めにされてから約一週間半が過ぎた頃、魔法書の秘術の翻訳が終わった。
私が窓の外に目を向けると、夜明けを迎え、空がぼんやりと明るくなり始めている。
私は椅子から立ち上がって伸びをすると、部屋のランプに光魔法を灯していった。それまで私の周りだけを明るくしていた光が部屋中のランプに宿り、昼間のように明るくなっていく。
ランプに光を灯し終えた後、私は就寝中のフレイアを起こすため、彼女のベッドに近付いた。
「フレイア様! 秘術の魔法陣と詠唱の翻訳が終わりましたよ! 起きてください!」
フレイアは身体にブランケットを掛けることなく、ベッドの上にワンピースのパジャマ姿のまま寝転んでいる。この一週間半、一緒に過ごして分かったことだが、彼女はとても寝相が悪い。
──私に無防備に寝ている姿をさらして、恥ずかしくないのでしょうか……。
ただ、フレイアは寝相が悪くても、その姿はまるで天使が寝ているかのようだ。ストレートの髪の毛が程よくベッドの上に広がり、まるで絵画の一場面を切り出してきたように見える。何度見ても、私はフレイアの姿に魅了された。
──フレイア様は綺麗ですね……。私もこんな風に美人だったら良かったのに……。
私がフレイアの美しい姿を見て呆けていると、彼女は寝返りを打ちながら口を開いた。
「ソフィア様ぁ……。もうお腹いっぱいです……。口にアイスを突っ込まないでください……。むにゃむにゃ……」
とはいえ、彼女の見ている夢はくだらないようだ。
私はフレイアが寝ているベッドの上に乗ると、彼女の身体を揺すった。
「フレイア様! 起きてください! 女性同士で子をなす秘術を知りたくないんですか?」
「もう食べられません……。むにゃむにゃ……」
私はフレイアの耳元に口を近付けた。
「フレイア様! フレイア様が起きないなら、私が女王陛下と秘術を使ってしまいますよ! いいんですか?」
「ダメ~~ッ!!」
フレイアは叫びながらベッドの上にジャンプするように立つと、一瞬で神剣を出して、その切っ先を私に向けた。彼女の神剣から放たれる邪気が、私の身体を威圧する。
「ひぃぃ~~っ!!!!」
私は邪気に押されるようにして、ベッドの上で後方に尻餅をついた。
これだけの近距離だと、私が自身の神剣を抜いている時間は無い。天下一武闘会でこれをされたら、私はおそらく負けていた。フレイアの抜刀速度は人並外れている。
私が尻餅をついたまま震えていると、寝ぼけ眼のフレイアが目を見開いて私を見下ろした。
「……あれ? エレナさん? どうしてここにいらっしゃるのですか?」
「いや、その、ですから、秘術の魔法陣と詠唱に関する翻訳が終わったんです! フレイア様がちっとも起きないから、こうしてベッドの上まで起こしに来たんです!」
「……そうなのですか?」
フレイアは神剣を手の平の中に収める。そして、怪訝な表情を浮かべて、じっと私を見た。
「おかしいですね。それだけで、私の上級魔法が発動するはずがないのですが……」
「……え?」
「私は常に暗殺の危険がありますので、寝ていても神剣を抜けるように、危険察知の上級魔法を自分に掛けているのです」
私はその説明を聞いて目を丸くした。
「そっ、そんな魔法があるのですか!?」
彼女はベッドの上で前に屈むようにして、私に顔を近付ける。
「……エレナさん。もしかして、私を襲おうとしましたか?」
私は全力で首を左右に振った。
「いいえ! 私はそういうことはいたしません! 私がフレイア様を害して、一体何の得があるというのですか!? そもそも私がフレイア様に危害を加えるなら、別の機会がいくらでもあります!」
「なるほど……。では、私に何か脅し文句を言ったりしましたか?」
「ぅっ……」
私は思わずフレイアから視線を逸らす。おそらく、「女王陛下と秘術を使ってしまいますよ!」と言ったのが、彼女に脅し文句と認識されたのだろう。しかし、それをここで白状したら、私は半殺しの目に遭うかもしれない。
私は必死に考え、なんとか誤魔化すための言葉を捻り出す。
「……そういえば、『このまま起きないと、フレイア様にキスしちゃいますよっ』と言ったかもしれません……」
「まぁっ!!」
フレイアは顔を真っ赤にして口元を押さえた。
「きっとそれです。私はソフィア様にしか心を許さないと決めているんです。ですから、エレナさんの言葉に身の危険を感じてしまったのだと思います」
彼女は恥ずかしがりながら、私を上目遣いでじっと見つめた。
「一緒に寝起きする生活で、エレナさんは私を好きになってしまったのですね……。私が綺麗で可愛くて、本当にごめんなさい」
「えっと……。はい、そうですね。とても残念です」
私は棒読みのように言葉を発しながら、懸命に残念そうな表情を作った。
◇ ◇ ◇
私はフレイアと共にテーブルに移動した後、魔法書とメモを広げて、秘術に関する説明の準備を行う。そして、秘術の説明を始める前に、フレイアに最も大事なことを確認した。
「フレイア様。この秘術は、ライゼンハルト王国建国当時のアン様・クレア様以来の発動になります。使用する魔力は特級魔法クラスです。そのため、発動時にどのような危険があるのか分かりません。本当にこのまま説明を続けてもよろしいですか?」
フレイアは私を真っ直ぐに見ると、笑みを浮かべてコクリと頷く。
「もちろん承知しています。どうか説明を続けてください」
私は「分かりました」と答えると、メモから数枚の紙をフレイアに示した。
翻訳に一週間半かかっただけあって、秘術のメモは半端ない量だ。そのため、詳細を省いて、魔法の習得単位を大きく分けたものだけを提示し、翌日以降の習得スケジュールについて説明を行った。
魔法陣の空中への描き方の練習から始まり、詠唱する長い文言の暗記、魔法詠唱時の手ぶりやポーズの練習、最後にそれらを組み合わせた総合訓練、魔法詠唱後の結果の確認……。
フレイアの習得速度に依存するが、おそらく全てを終えるには二週間程度が必要だ。
私はそれらをフレイアに説明した後、最後に懸念事項を伝えた。
「魔法書全体を翻訳して分かったことなのですが、実はこの秘術の説明文には、一つの大きな問題点……いえ、課題がありました」
「課題?」
私は魔法書をパラパラとめくっていく。
「この魔法書には、秘術に関して重要な記載がありませんでした」
「……重要な記載とは何なのでしょうか?」
私は顔を上げて、神妙な表情でフレイアを見つめる。
「魔法を発動させた後の話なのですが……」
私は一呼吸置いて、口を開いた。
「変化させた術者の男性器が、本物と同じものかどうかを確認する手法が書いていなかったのです!」
「…………はぇ?」
フレイアが珍しく変な声を出し、ポカーンとした表情を浮かべた。
私はバンっとテーブルを叩いて、椅子から立ち上がる。
「私は実物を見たことがありません! ですから、男性器の形状や大きさが、子をなすための行為に適当なものなのかどうかが、全く分からないのです!」
「はっ……はい。そうですね……」
「……念のためにお聞きいたしますが、フレイア様は実物をご覧になったことがありますか?」
フレイアはフルフルと首を左右に振った。
女性貴族の中には未婚者でも実物を知っている者もいるのだろうが、婚前交渉は貴族間で忌み嫌われているため、大部分は知らないのが普通だ。
「困りましたね……。秘術の習得を終えて、発動実験をしても、その秘術が成功しているのかどうかが分かりません」
私達二人は、腕を組んで「う~ん」と唸りながら考え込む。しかし、良いアイディアが浮かぶはずもなく、とりあえず考えるのをやめて、フレイアは二度寝、私は仮眠を取ることにした。
◇ ◇ ◇
その日、私達は珍しく、フレイアの部屋で一緒に朝食を取った。
リヒター家の時とは異なり、私が誰かと一緒に朝食を食べられることに感動していると、フレイアは急に何かを閃いたように椅子から立ち上がった。
「そうです! お兄様に男性器の実物を見せてもらうことにいたしましょう!」
「えぇっ!?」
私が食器を手から落として驚くのを余所に、フレイアはすぐに呼び鈴を鳴らす。そして、部屋に入ってきた専属侍女のマリーに、「お兄様に会いに行きます。すぐに面会の連絡を」と指示を出した。
「ちょっと待ってください! いくらなんでもそれは無茶です!」
「大丈夫です。私達は兄妹なのですから」
フレイアはそう言って、止める私の言葉を無視すると、上機嫌で部屋を出て行った。
…………。
…………。
…………。
フレイアが兄のアレンに会いに行ってから三十分後、彼女は不機嫌な表情で戻ってきた。片手で脳天を押さえながら、目に薄っすらと涙を浮かべている。
「……なにも本気でゲンコツを落とさなくても良いではないですか。私は妹ですよ」
どうやらフレイアは、アレンにこっぴどく叱られたようだ。まぁ、珍しく妹が自分を訪問してきたと思ったら、いきなり「男性器を見せて欲しい!」と言うのだから、私だってゲンコツを落とすと思う。
フレイアは口を尖らせて、不満を口にした。
「私は別に、お兄様の男性器に興味はありません。ただ単に、実際の形状や大きさを確認しておきたかっただけですのに……」
魔法書のことを口外できないため、フレイアは背景を何も説明せずに、いきなりアレンに迫ったのだろう。しかし、貴族が滅多に振るわない暴力で妹を叱ったということは、余程のことがあったのかもしれない。
「あの……、フレイア様。アレン様からゲンコツを落とされるなんて、一体何をしたのですか?」
フレイアは涙目のまま、口を開く。
「私が何度お願いしても、お兄様が渋って見せてくださらないので、ズボンを下げようとしただけです。そうしたら、もの凄い威力で、上からガツンと叩かれました。お兄様から叩かれたのは初めてです……」
ゲンコツを落とされて当然だ。フレイアはこの国を代表する公爵家の令嬢だが、変なところで常識が無い。
私はフレイアをジト目で見つめる。
「それはフレイア様が悪いと思います」
「どうしてですか? 私達は兄妹です。恋愛感情など無いのですから、男性器を見たからと言って、変な感情は起きようがありません。そもそも私は、ソフィア様と婚約していたお兄様が大嫌いです」
フレイアの表現はストレートだ。私は苦笑した後、「コホン」と軽く咳払いをする。
「では、フレイア様は、アレン様がフレイア様に陰部を見せるように言ったら、その場でスカンツを下ろして見せるのですか?」
「えっ!? そ、それは……」
フレイアは頬を赤くして言葉に詰まる。さすがの彼女も羞恥心はあるようだ。要は「自分が兄の男性器を見るのは構わないが、自分の女性器を兄に見せたくはない」ということだ。
「確かに私の行動は批判されるべきものだったと思います……。でも、どうすれば良いのですか? 形状や大きさが分からなければ、秘術が成功したかどうか分からないではないですか? エレナさんだって、見たことないのでしょう?」
フレイアは再び不満げな表情で、責めるように私に言った。
私は少し考え込んだ後、人差し指をピッと立てた。
「実物を見るのを諦めて、人体図鑑で確認するのはいかがでしょうか? どの程度の精密な絵が描かれているかは分かりませんが、縮尺なども考慮すれば、参考にはなると思います」
フレイアは驚いたような表情で、「あぁ、なるほど」と頷く。
「では、侍女に人体図鑑を準備させましょう。絵の精密度合いが分かりませんから、何冊か持ってくるように言います」
フレイアは呼び鈴を鳴らすと、マリーに数人の侍女を連れてくるように伝える。そして、侍女達がやってくると、著者が異なる人体図鑑を「二十冊」すぐに持ってくるように命じた。
侍女達はその命令に驚くと共に、あからさまに嫌な顔を浮かべたが、図鑑を集めるために渋々部屋を出て行く。私はその様子を苦笑して見守るしかなかった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、侍女がカートに図鑑を乗せて戻ってきた。
二十冊は集められなかったようで、カートに乗っているのは、多く見積もって十冊程度だ。しかも、人体図鑑ではなく、動植物図鑑が多い。
フレイアが「人体図鑑を二十冊と言ったでしょう!」と侍女を叱っているのを見て、私は口を挟む。
「フレイア様。まずはその十冊ほどの図鑑を確認してみましょう。もしかしたら、私達が求める情報が、そこに載っているかもしれません。侍女達には、情報が見つからなかった時に、改めて他の図鑑を探してもらってはいかがでしょうか?」
私がそう言うと、侍女達は天使を見るかのようなキラキラした表情を私に向けた。私が彼女達にニコッと笑顔を返すと、頬を赤くして、何度もお辞儀を返された。
フレイアはやや不満げにしながらも、私の提案を受け入れる。
「……分かりました。まずは確認してみましょう」
フレイアは侍女達を部屋の外に追い出すと、テーブルの上に図鑑を並べた。
私は数冊の図鑑のページをパラパラとめくって、動物や植物の挿絵を確認する。
「この図鑑の挿絵が、最も写実的に描かれていて、着色もされており、まるで目の前にあるかのような絵です。加えて、詳細な説明もありますので、秘術の結果確認時の参考になりそうです」
私は、表紙にいくつかの動物の絵が書かれた図鑑を手に取る。すると、フレイアが私の隣に移動してきた。
図鑑の目次を確認すると、人間の生殖器の章はすぐに見つかった。私はページをパラパラとめくって該当の章に移動した。
…………。
…………。
男性器の写実的な絵を前に、私とフレイアから言葉が消えた。
しばらくして、フレイアが顔を青くして声を絞り出す。
「……なっ、なんですか。この蛇の頭のような怪物は……」
開いたページには男性器が大きく描かれていた。図鑑だから当然なのだが、精細な絵に対して、各所に説明文が付加されている。断面想像図も描かれており、ライゼンハルトの学者が考える子種の場所や、その機能なども説明されていた。
「秘術を使うと、私の性器がこんな気持ち悪いものになってしまうのですか!? イヤです!! こんなの!!」
フレイアは叫ぶように訴えるが、私は無言で次のページをめくった。すると、今度は大きな女性器の絵が現れた。こちらも怪物の口ようだ。
「フレイア様。私はこのページの女性器も、十分に気持ち悪いものだと思います。フレイア様はこれらを拒絶されますが、人間の身体は基本的に醜いものなのではないでしょうか? この気持ち悪い女性器は、フレイア様にも私にもあるものですよ?」
私はそう言って、図鑑をパタンと閉じた。
「フレイア様、どういたしますか? 見た目を優先して、秘術を諦めますか?」
フレイアは申し訳なさそうにして俯いた。しばらくして、ゆっくりと口を開く。
「取り乱してしまい、申し訳ありません……。エレナさんがおっしゃる通りです。私は表面的なことを気にして、物事の本質を見誤っていたようです」
彼女はそう言って顔を上げた。
「私は秘術を習得します。私はどうしても、ソフィア様との子が欲しいのです。たとえ見た目が怪物になろうとも、私はこの苦難を乗り越え、ソフィア様と結ばれる日のために、秘術を完璧にマスターします!」
「……まぁ、そこまで覚悟するような話ではないと思いますが……」
私は興奮した様子のフレイアを見て、思わず苦笑した──。