浮かぶ色と一輪の花【短縮ver.】改編中
彼女の名前とその単語との合わさりが耳に届いてしまった時、一瞬呼吸を忘れるほどに思い知らされたんだ。
自分が想像以上に、山吹色の記憶にすがっていたことに。
「川崎さん、転勤かー……」
「けっこう長かったものね」
俺の後方では、事務を担当するパートさんが思うがままに発言している。そして俺の目に写るのは、自分の席で背筋を伸ばして書類を確認している彼女だ。
行ってしまうのか、どこかに。
あの雨の日、鮮やかな赤みを帯びた黄色いスカートをひらめかせながら、心配そうに走り寄ってきた君に、俺は。
何を求めているのだろうか。
昼食後、俺は様々な商品の書類が入った棚の前で、我が社一推しのパンフレットを広げていた。
いい加減、慣れないとな。
説明は丁寧にするものの、こちら側にとってもメリットのある商品を勧めるのは当たり前のこと。
『なんだかなぁ』
いちいち立ち止まるなよ。疑問を持つなよ。一体、何年目なんだよ。
働いてる間くらい、人間の心を捨てろ。ロボットになれよ。
赤みを帯びた黄色が、捨てられない心に浮かぶ。
「野田さん」
はっ
気づけば、その山吹色を俺の心に植え付けた張本人の彼女が隣に立っていた。
「……川崎さん、あ、どうしたんですか」
そう言えば、彼女の転勤が決まったというのにまだ何もそれに関する言葉を交わしていない。もっとも、交わしたところで盛り上がる想像も出来ないのだが。
「お客様にとっては、こちらの方がいい場合もあります」
綺麗に手入れされた素爪が光る親指に挟まれるように、そのパンフレットは差し出された。
「野田さんが持っている方はリスクが高い商品なので、いくらこちら側にとってはいい商品でも無理強いしない方がいいです。このローリスクなものも選択肢のひとつとして提示してくださいね」
瞬間的に、彼女の真っ直ぐな黒い瞳に吸い込まれた。
「……ありがとう」
くるりと踵を返す姿に、あの土砂降りの雨の日の彼女を強く思い返す。
あの日、定時を越えて人もまばらな支店に向かい、傘を置いていなかった営業車から裏口にダッシュした俺はどうしようもなく濡れてしまった。
途方に暮れながら裏口から中に進んで行こうとすると、視界に入ったのはひらめく山吹色の長いスカート。
顔を上げると、黒い髪を首筋あたりで揺らし心配そうに駆け寄って来る、制服から着替えた川崎さんの姿がそこにあった。
そして、今までたいした言葉を交わしたこともなかった彼女が、自分のハンカチで俺の雨粒のついた頭をそっと拭いた。
黒い瞳は必要以上に語らずに、ただ、真っ直ぐに。
俺は意味もなく、この日の記憶にすがり続けている。
もうすぐいなくなる、のか。
ひらめく山吹色、形を持つかのように零れ落ちる雨粒、黒い瞳。
俺は、どうしたい。
そういえば、こんなこともあった。
あれは確か社内の人間で、半ば強制的にテニスをやろうという企画の初開催の日であった。一度は参加して欲しいという上司からの強い要望に、川崎さんが珍しくそういう場に存在していたんだ。
「でも川崎さんも芸術家とか好きそう!ねえ、今までどんな人好きになった?」
え?
ぼんやりしていたところで、同期のキャピキャピ娘新井さんの屈託のない究極の質問が、いきなり殴りかかってきた。
え?なんだって?
「私……?」
「うん、うん!」
「好きって、どういう……?」
「えー?!どういう?!えー、彼氏にしたいタイプよー!あ、結婚相手でもいいよーん」
彼女は左手を下唇に添えて、少し間を置いた後。
「たぶん、好きになったことないです」
たんぽぽが、風に揺れた。
「え、えー!そうなのー?」
「じゃ、じゃあ、今まで彼氏とかも……!」
騒がしい二人が何の躊躇もなく踏み込む様子に、俺はまるで溶けるように一緒になって。
「彼氏……は、いたことありますけど」
彼女はきっと本気なのだろう。
「特に好きじゃありませんでした」
一輪だけのたんぽぽは、まるで季節を外れて咲いていることがなんだと主張するかのように凛として。
黒い瞳を揺るがせない彼女と、一瞬重なった。
俺は彼女に何を求めていたのだろうか。
「かんぱーい」
闇夜に染まった窓に囲まれた食堂に響く、乾杯の音頭。小野山支店では転勤していく行員の送迎会を、居酒屋などではなく支店の二階にある食堂で行うことがある。若手の行員が手配したお酒や寿司、揚げ物パーティーセットが並べられたテーブルを囲み、人々は自分の持っているプラスチックグラスに一口目をつけていた。
で。
『特に好きじゃありませんでした』って、どういうことだ?
過去の思い出を振り返ったところで、彼女は明日からもうここにはいない。ここからいなくなること、正直まだ実感がないんだよな。でもそこに存在する気持ちは、感傷的というよりも、むしろ。
俺にとって川崎さんって、どういう存在だったんだろう、ということ。
仕事中、何度あの山吹色が頭をかすめたのだろう。
ねえ、川崎さん、俺はね。
あの色を思い出すと、余計なことを考えなくても済んでいたんだよ。
心が埋められて、もうそれ以上何も考えなくていいって。
君に救われていたんだ。
そう。
君のことを何も知らないのに。
「特に好きじゃないやつと付き合う、うん、まぁ長い人生そういうこともあるかもしれない、でも、なんかあの言い方だと」
「何ぶつぶつ言ってるんすか?あ、ビール取って来まっす~」
空いた缶を抱えた池垣は、新たなビールを求めて冷蔵庫の方へ。
「なんかあの言い方だとさ……」
誰も好きになりません、みたいな。
川崎さんの世界は、きっと彼女だけで完結してるんだ。
他人はいらない。
俺は、いらない。
「野田ちゃ~ん。飲んでる~?」
「お!一番他人を必要とするタイプの子が来た」
「え?なになに?なんか酔ってな~い?」
池垣がいなくなった途端に俺の隣に滑り込んできた新井さん。
「俺は君が嫌いじゃないよ」
「ひゃあっ。こぼしちゃった~。ちょっとお、池垣、池垣~。野田ちゃんがなんかすごいこと言ってきた~」
またいつもの調子で二人が騒ぎ始めたところで、俺は頬杖をついた片腕の延長線上にいる川崎さんを見遣る。彼女はちょうど次長と話し始めたところだった。
君がいなくなる。
君が遠くに行く。
毎日そこにいたのに。
俺は君に何も言うことができない。
『付き合ってください』
もし奇跡が起こるとして。
唯一繋ぎ止められるかもしれないその言葉は、あまりにも自分の本意とのズレを感じる。
「野田ちゃ~ん、池垣がうざ~い」
本来の俺は、新井さんみたいなタイプと付き合うのが楽なんだ。勝手にわーきゃーやってくれて、良いも悪いも、俺はそれに付き合う。分かりやすいデートをして、分かりやすいケンカをして、分かりやすくホテルに行く。
今までもそうやってきて、そしてたぶん、これからも。
「分かりましたよ~、野田さんは結局酔ってるだけ!それでいいっすね?んじゃ、俺そろそろ酒ついできま~す」
川崎さん、俺は、君にとても救われていたはずなのに。
「じゃあ、俺もそろそろ動こうかな……」
結局、これ以上もこれ以下も。
「えー、じゃあ私もー」
どうすることもできないんだ。
黄色とオレンジに彩られた花束を、口元が隠れるような受け取り方をした彼女。
食堂に鳴り響くのは、今までの労いとこれからの活躍を祈るための拍手。
さようなら、川崎さん。
何も言えなかった。
何をどう言えばいいのか、分からなかった。
送別会も無事に終わり、皆は徐々に片づけモードに入っていく。
俺はすでにもう入りきらなくなった缶入りのゴミ袋を運ぶためと見せかけて、会場を離れる。
なんとなく一人になりたかった。
廊下は非常灯のみが煌々と輝き、角を曲がると自動販売機の異様な明るさに少し目がくらんで佇たたずんだ。
まるで永遠に終わらないゲームをしているかのように規則的な点滅を繰り返す部分を目で追いながら、俺はこれからどうしようと思った。
川崎さん、川崎さん、川崎さん。
「野田さん」
弾くように振り返ると、そこには俺が、今も含めてこの支店にいる間、ずっとずっと名前を呼び続けていた川崎さんがいた。
「は、はい」
うつむき加減の彼女は、両手に一輪の花を持っていた。
赤みを帯びた黄色い花。それは、ほとんどあの山吹色。まるで、あの日のスカートのような。
「これを」
自動販売機の光を真正面から浴びた彼女が少し上げた顔の表情、それは今まで見たこともないような赤さを滲ませ、息を止めてしまいそうなほどの緊張感。
「あ、ありがとうございます」
「私」
「は、はい」
「私、野田さんに救われていました」
俺の指の動きに花が揺れ、心ではあの日のスカートが舞う。
「野田さんだけ、他の人と違うって、ずっと思っていたんです」
こんなに自分から話す彼女を見たことがない。必死に言葉を発している。
「繊細で、ちゃんと違和感を感じることができる人、ここにそういう人がいて、良かったなって、思って」
いちいち気にしていたら、仕事を効率よく回すことなんかできない。ずっと俺のダメなところだと思っていた部分。どうしても、心を殺すことができなかった。
「今まで本当に、ありがとうございました」
すべてを出し切ったかのような、吹っ切れた笑み。純粋な感謝に思えた。それ以上の他意がないくらい。
俺がずっと心に浮かべていた色が、彼女の気持ちと共に手元に一輪の花として降り立つ。
「俺も……」
人、一人の存在が、知らないところで誰かを救っているんだ。
そこに絶対、型通りの『男女の展開』をあてはめなければいけないのだろうか?
『あなたがいてくれたから』
そんな想いを伝えあうだけ、それだけの告白があったことを、俺はきっと。
一輪の山吹色の花を、もしまたどこかで目にすることがあるのなら。
心の片隅に思い出すのだろう。