優しい国
旧い感じの街並みに、優しい風が吹いている。白をベースとした色の建物は、どれも控え目な高さで軒を揃え、薄い茶色の土の道にはどこか温かい気も漂う。そんな街の装いに青い空がとてもよく似合い、のんびり気分でお茶を飲めたら、生きる辛さもしばし忘れる。もちろん、雨の日や曇天模様だって捨てたものじゃない。落ち着いた雰囲気に包まれて、昼寝をするのもいいじゃないか。
とてもゆったりとした時間の流れる、そんな田舎の街に住んでいたのは、澄んだ茶色の瞳を持った、潤んだ心のナレフ・ビービ。
子供の頃を過ごしたその街を、彼は一生忘れないだろう。優しい母親と、幼い自分。全てが輝いて見えたんだ。ウソじゃない。そりゃ、貧乏だったけど。そりゃ、辛くもあったけど。悲しそうに、でも嬉しそうに、そう呟く。
彼は生まれた時から、後天性免疫不全症候群、つまりはAIDSにかかっていた。出産時に彼の母親から感染し、生まれた瞬間から健康体でいる事を知らない。もちろん、物心ついてからのしばらく、何の症状も出なかった彼は、自分を健康体だと思っていたから、その表現にはいささかの語弊があるかもしれないが。
彼は今、WHOが手配してくれた、とある先進国の医療施設で暮らしている。
彼がその施設に入れたのには理由がある。幸運であるとも不運であるとも言える経緯が。いや、幸運であると言ってしまうのは、やはりいけないかもしれない。しかし、恐らく、彼にその事を尋ねたなら、屈託なく笑いつつこう言うだろう。「ラッキーに決まってるじゃないか」と。その後で少しトーンを落とし、「そうじゃなきゃ、いけないんだ」と、呟くかもしれないが。
彼の母親が、どんな経緯で自分がAIDSにかかっている事を知ったのかは分からない。彼女は発病をしていなかった。AIDSという病気には潜伏期間があり、菌を保有したまま発病せず、長い期間を過ごす者もいる。いわゆる、無症候性キャリアである。このキャリアには、自覚症状がなく、従ってなにかしら検査でも行わない限り、本人も罹病している事を知らないのが普通だ。しかし、どうも、彼女はそれを知っていたらしい節がある。そう考えた方が自然なのだ。少なくとも、一人目の子供を産んだ後は自覚していたはずだった。そして、それを知った上で彼女は子供を産み続けていた。彼女が産んだ子供は、ナレフ以外、皆死んだ。殺されたのだ。子供を殺したのは他でもない、彼女自身である。
「母さんは、優しかったぜ」
ナレフ・ビービはそう語る。恐らく、それは事実なのだろう。しかし、そんな母親が自分の子達を殺し続けたのも、また事実だ。
ナレフがどうして、殺されなかったのか、その理由は分かっていない。ごく一般的な見解を言うのであれば、それは、彼にAIDS発病の兆候が見られなかったからだ、という事になっている。彼女の殺人の動機が、子供達にAIDSが発病したのを見て、と言われている理由もここにある。
彼女は、自分の子達に、AIDSの症状が出たと判断すると、苦しみから救う為か、または病に対応するのに必要な金を持たない為か、その子達を殺していった。そう考えられているのである。
しかし、ここで断っておくならば、実は子供達の全てがHIVウィルスの保菌者であったとは考え難い。HIVウィルスの母子感染率は、それほど高くないからである。むしろ低いほどだ。医療施設が整っていない地域とはいえ、全ての子供に感染していたという事はないだろう。彼女は、普通の病気をAIDSと勘違いしてしまっていたのかもしれない。更に、断っておくと、HIVウィルスに感染している子供は殺すまでもなく、ほとんどの場合、早い段階で病死する(ナレフは、そういう意味でも、極めて幸運な事例なのだ)。
こう考えてみると、彼女が極めてAIDSという病気を怖れていた事がよく分かる。そして、だからこそ、自分がHIVウィルスの保菌者である事を彼女が知っていたと考えられるのだ。彼女は自分が保菌者だからこそ、子供の発病をAIDSと判断したと考えるのが普通だからだ。ただ、そう想定すると、疑問点も上がる。もし、彼女が自分の子供をAIDSだと判断して殺していたならば、何故、彼女は子供を産み続けていたのだろうか?
AIDSに関する教育が行き届いておらず、AIDSの正体も、また母子感染する事も知らなかった、という見方もあるが、この地区にはHIVウィルスが蔓延しており、子供に感染する場合がある事もよく知られていた。そう考えるのには難がある。だから、こんな指摘もある。或いは、殺害の動機は、AIDSとは全く無関係の、他の何かなのかもしれない。結局、その答えは分からないまま、彼女は刑務所の中で死んでしまった。死因は、AIDS発病による病死である。
子供殺害が明るみになると、彼女はただちに逮捕された。幼いナレフ・ビービはそれを理解できなかった。どうして、自分の母親が捕まらなければいけないのか。いや、どうして、自分と自分の母親が引き離されなければいけないのか。
ナレフは、母親に会いたがったが、その願いは最後まで適わなかった。母親が、面会を拒絶していたからである。その時、既にAIDSが発病していた自分の姿を、見せたくはなかったからだ、とも言われているが、やはりその理由もよく分かっていない。母親の死後、直ぐに、ナレフは先進国の医療施設へと送られた。AIDSの各国への蔓延は深刻なもので、貧困地帯では特に酷い。ナレフの様に、生まれた時から既にHIVキャリアという子供や、AIDSによる親の病死によって生まれた孤児も、たくさんいる。そして、その多くに救いの手は差し伸べられていない。ナレフ・ビービが、医療施設へと入る事ができたのは、母親の子供殺害事件がセンセーショナルに報道されたからだった。それがなければ、彼は今頃、発病するAIDSをどうする事もできずに、とっくに死んでいただろう。
そんな数奇な運命を歩んできた彼が、その内面で多くの苦しみや葛藤を乗り越えてきただろう事は想像に難しくない。彼から受ける印象は、静かで透き通っていている。諦観とも違う、虚無主義とも違う。恐らく彼は、人生に対して、否、生というものに対して、何かしらの境地のようなものに辿り着いている。
彼は言う。
「人の命が大事なのじゃない。生きて、生活している人間が大事なんだ。その人間達が苦しまない事の方が、命それ自体よりも、ずっと大切なんだ」
この発言からは、母親の影響が強く感じ取れる。彼はこう考えたのではないだろうか。だから、苦しみから救うために、母さんは病気になった子供を殺したのだ、と。彼が、本質的に自分の母親の事をどう思っているのかは分からない。しかし、彼にとってその存在は特別なのだ。そして彼は、必死に母親を肯定付けようとしている。そうなってしまう事を、一体誰が責められるというのだろう?
ナレフ・ビービは、先進国の歴史を知り、かつてはどこの社会でも、平均年齢が驚くほど低い事を学んで、納得をしたような顔を見せた事がある。子供の病死率が高かった時代では、子供の死はその必然から軽んじられていた。つまりは、子供の死を人の死とは扱ってこなかったのだ。子供の命を重く受け止めるようになったのは、実は近年になってからの事であるらしい。
自分の母親の暮らしていた街だって、状況はそんなには違わない。母さんが、子供を殺したって、仕方がないじゃないか。
もしかしたら、彼はそんな事を思ったのかもしれない。
ナレフ・ビービは、自分の身体を新薬の実験に使って欲しいと申し出た。自分がこうして生きていることは本来、なかったはずだ。多くの人間達が苦しんでいるのに、こうして生きている自分が許せない。生きている事自体にある罪を、どうか払拭したいのだ。
その主張は、彼の生き方を、象徴しているようにも思える。そうして彼は、どんな副作用があるのか分からず、本当に効果があるのかどうかすら分からない薬を、毎日飲み続けているのだ。この自分の生で、誰かが苦しまなくていい事になるのなら、それが僕の役割であるとしてもいいかもしれない。
あるとしてもいいかもしれない。
含みのある言い方だ。
彼は、それに関して、こんな発言もしている。
人生に、人間に、本当は意味や役割などない。生きてるという現象は、ただただそこで起こっているだけのものでしかない。だから自分の役割も、自分の人生の意味も、自分でそう決めるしかない。だから、僕はそれをそう決める。
別にいいだろう?
そう決めると、生きていくのが少しは楽になるんだよ。
或いは、彼は、自分の生に対して、ほとんど価値を見出していないのかもしれない。どうなってもいい。彼はそうは言わない。しかし。
彼はよく勉強をした。HIVウィルスを蔓延させる社会的な要因。ウィルス自体。感染の仕組み。それに関する抽象概念。遺伝的アルゴリズムや、ネットワーク科学。
ナレフ・ビービは、マスコミの取材を受ける事もしばしあった。HIVウィルスに関する悲劇性の象徴として、彼は今でも一部の人間達から扱われており、時折、思い出したかのように取材の依頼があるのだ。そんな時に、彼は自分が勉強し集めた知識と、それを応用した自分の考えとを、記者に向かって熱心に語った。
注目を集める事を好まない性質の彼が、少ないチャンスを逃すまいとするかのように、熱心に語るのだ。その姿には、彼の背負ってきた生の重みがそのまま重なるかのような印象を受ける。もっとも、マスコミ側が常に必ずしも、そんなものを彼に求めているとは限らない。そんな場合には、やや辟易される事もある。しかし、彼のその必死な姿勢は変わらなかった。
彼が語るのは、主にこんな内容だ。
「普通、有毒性のある病原体。特に、猛毒のものは、駆逐されるのが普通なんです。生物が自然界で生き残るのを考えてみてください。自分達の生きる環境を破壊すれば、その生物は滅びてしまうでしょう? 病原体の場合も同様なんです。猛毒で、人体を直ぐに殺してしまうようなものは、先に滅びていき、比較的弱毒性のものが生き残っていく。結果的に何百万人かを殺した時点で、その病気はそれほど有害なものではなくなる。しかし、HIVウィルスに関しては違うのです。HIVウィルスは、発病をしない潜伏期間がかなり長くあり、自覚症状もありません。結果的に、社会の中に広まり易く、長期間に渡って、その毒性を保持してしまうのです。もし、将来、毒性が弱くなるといった事が起こったとしても、一体、どれだけの人間が犠牲になった後かは分かりません。単位は、恐らく、何億までいくと考えられます。だから、早く、できるだけ早く手を打たなければいけないんだ」
これは、恐らく、遺伝的アルゴリズムを応用して考えた事を言っている。一見、ごく一般的な社会論のようにも聞える。しかし、普段は他人を避ける傾向のある彼が、熱心に饒舌に語るその弁には、多少なりとも、憎悪のようなものの気配が感じられるような気もするのだ。
「社会は、交通技術の発達によって、急速に狭くなりました。多くの人が、広い範囲を高速で行き交うようになった。つまり、ネットワークの発展です。人間社会の発展の為には好ましい事実かもしれません。しかし、それは同時に病原体を、広い範囲に急速に広め易くするといった悪要因を強くしてしまいました」
彼は、語れば語るほど、社会に向けての敵意のようなものを、剥き出しにし始める。抑え難い憎悪。行き場のない感情。僕らが不幸にならなくてはいけない理由なんて、本当は何処にもなかったはずなんだ。どうして、この世界は、こんなに悲しい? 人が、幸福に生きる為に都合よくできていない? どうして?
「恵まれた社会に生まれ育った人達は言うでしょう。そんなの自分達には、関係がない事だって。しかし、関係はあるんです。このネットワークによって、繋がった社会の状況を考えるのなら、いずれは自分達にも強烈な災禍が及びます。野放しにしてしまっていいような現象じゃないんだ。どうか、真剣に考えて欲しい」
恐らく、彼は憎んでいるのだ。この社会の事を。否、この世界の全ての事を。この発言は、生なんてものは、そこにただある現象に過ぎない、と語った彼の人生観を考えるとあまりにそぐわないように思える。その、底に渦巻く感情を、彼は滅多に見せないが。
「ウィルスが感染していくパターンには、多き分けて二つあります。一つは、人から人へと、多くの人が平等に感染源となっていくケースです。この場合、対応は、一人ずつに感染予防を呼びかけていくしかない。検査を徹底し、予防方法を学習させ、そして一人が他人に伝染させる平均人数を、1よりも下にすれば、やがて、病気にかかる人は減っていきます。しかし、もう一つ別のパターンがある。それは、誰か、ごく少数の人間が、菌をたくさん広めてしまうケース。この場合、その誰かを見つけなければ、幾ら感染予防を呼びかけたとしても、効果のない可能性があります。恐らく、一般の人は現実問題で、後者のケースは少ないと考えるでしょう。しかし、AIDSという病気に関しては、この二つのケースが両方考えられるのです。セックスを頻繁に行う人間と、そうでない人間。そういったタイプの人間がいるのです。或いは、タイプじゃなくても、売春婦、と言えば分かってもらえるかもしれません。AIDSの感染を予防するのなら、そういったタイプの人間を探す方法から、まずは考えなければいけないのかもしれない」
彼の憎悪は、ある場合には顕著に現れる。
しかし、その憎悪は極めて優しい。貧困な社会に暮らす人々が、戦争や環境破壊や病気で更に苦しんでいる。そんな現状に対して、何もしないでいる人間が… 否、何もしないでいられる人間が、人間のその性質が、悲しい。この世界は、悲しくできている。人間にとって。いや、僕にとって。
だから、彼は呼びかけるのだ。
「これは、他人事じゃないんです。あなたの、あなた自身の問題なんです」
と。
その憎悪は、もちろん、社会的な不平等を代弁するようなカタチで現れる。しかし、恐らく、その根本の部分には、彼の生い立ちが強く関係してある。彼自身と、そして、もちろん、彼を愛した、また、彼が愛した、母親の存在が。
彼の中に住んでいる優しい子供は、今も、母親に依存する為に、必死に自分の母親を護ろうとしているのかもしれない。
そして、その為に、世界を憎んでいるのだ。
↓は、この短編を、イメージして作って、あまり上手くいかなかった曲です。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20293923