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彼女の幸福

作者: 江葉

婚約破棄、直後のプロポーズ、そしてハッピーエンド。その三十年後。



 彼女は毎週日曜日、必ず教会で祈りを捧げている。

 王太后エリシエル。隣国の公爵令嬢であった彼女が学園の卒業パーティで当時婚約者であった隣国の王太子に婚約破棄され、この国の王子にその場でプロポーズされてから、およそ三十年が経っている。国王となった王子は息子に王位を譲り、先日泉下に渡った。

 老いたとはいえ未だ容色は衰えず、上品な王太后となったエリシエルは、今日もまた教会へやってきた。


 彼女は良き王妃だった。今も良き王太后である。心やさしく賢い姫君は、国民全体に慕われていた。

 だからこそ、エリシエルが懺悔室に入っていくのを見たシスターは首をかしげた。

 質素な黒いドレスにちいさなヴェールがエリシエルの顔を申し訳程度に隠している。金髪は白髪となり、空の青さを映したような瞳はよく見えないのか眼鏡をかけていた。

 最愛の夫の喪に服している姿とは裏腹な決意を秘めた姿に、シスターはドキリと胸が高鳴るのを感じた。


「主よ、わたくしの罪をお許しください」


 シスターが懺悔室に入ると、やわらかく透き通った声で彼女が言った。作法通り、告解を聞くのは神であり、守秘義務により他言しないとシスターが告げる。

 微かにうなずいたエリシエル王太后が口を開いた。





 わたくしがエルグラント様の婚約者に選ばれたのは、まだ物心ついたばかりの六歳の頃でございました。もちろん政略的意味合いの強い婚約でありました。わたくしの生家は古い公爵家。我が父は国王陛下と学友であり、外国の姫君をお迎えになるより国内を安定させようという国の意向でございました。

 とはいえわたくしとエルグラント様は幼馴染でもあり、仲は良かったのです。婚約者、という、将来の伴侶に意識しはじめたのは、当然のなりゆきだったでしょう。


 わたくしはエルグラント様に恋をしました。エルグラント様も、わたくしを愛しているとおっしゃってくださいましたわ。


 ……ふふふ、十代の若者が愛を語るなんて、この歳になってしまうとよくもまあ知ったかぶって小賢しいと呆れるばかりですが……当時のわたくしは本気でしたわ。

 本気でエルグラント様を愛し、全身全霊をかけて尽くそうと決めておりましたの。周囲もそんなわたくしたちを微笑ましく見守ってくれていました。


 その風向きが変わったのはいつであったか、はっきり覚えております。十五歳、学園に入学する直前のことです。

 エルグラント様が高熱を出して倒れられ、命の危機に瀕したのです。

 わたくしは看病のため王宮に駆けつけましたが、感染するといけないと面会すら許されず、ひたすら神に祈ることしかできませんでした。とても歯がゆい思いをいたしました。婚約者であるのに、エルグラント様と一心同体であるのになぜわたくしが看病できないのかと……。

 ええ、きっかけは、エルグラント様の病であったのです。


 なんとか回復したのは良かったものの、エルグラント様はすっかり変わってしまわれました。

 あれほどわたくしを愛しているとおっしゃったのにわたくしを遠ざけられ……時々癇癪を起こしたように乱暴なさることがありましたわ。


 学園に入学すると、彼女がエルグラント様のお側に侍るようになりました。エルサ・プリウス男爵令嬢、聖の魔力を持つ聖女です。

 聖女が発見されたのは国にとって喜ばしいことです。ですが、わたくしには彼女の存在は脅威でございました。エルグラント様はわたくしではなく、エルサを妃にするおつもりなのでは……。考えただけで胸が潰れる思いでした。


 エルグラント様と聖女の噂は()()という間に広がりました。学園内のみならず王都、国中に。それはもう、不自然なほどでしたわ。


 二学年に進級すると、この国の王子殿下が学園に入学してきました。そう、わたくしの夫となるアルファード様です。わたくし不思議でしたのよ、王子殿下があのお二人の噂をご存知ないとは到底考えられません。留学先のことを調べないなどありえないのですから――あの不穏な時期になぜ? 疑問に思うのは当然でありましょう。


 エルグラント様と聖女は、どこへ行くにもべったりでした。授業の合間の休憩時間、昼休みはもちろん放課後、あげくご公務の視察にも。わたくしが一緒の時でさえ、エルグラント様がエスコートなさるのは聖女でした。

 それだけではありません。お二人はお忍びで王都市街に行き、そういった……いかがわしい場所へも出入りしていたというお話でした。お忍びとはいえ側近のご学友に護衛を引き連れてのこと、またお二人の噂もあり、人目を避けようがなかったのでしょう。

 わたくしの耳に入るほどですもの、ついにお父様が堪忍袋の緒を切らし、婚約の解消を口に出すようになりました。


 神に誓って申し上げますが、わたくしは婚約破棄の理由にされたような、聖女への陰湿な虐めなど断じていたしておりません。後の調査で冤罪と認められ、名誉は回復されましたが……わたくしがあのような非道な行いに及ぶ女だと一時でもあの国の皆様に思われてしまったのは、わたくしへの酷い侮辱ですわ。


 ……わたくしも、女です。嫉妬にかられたことが一度もない、などとは申しません。あのお二人が見つめあい、微笑みあうのを見るたびに、どうしようもない黒々とした感情が心臓を貫き、いっそ消えてなくなりたいと絶望いたしました。

 エルグラント様に見つめられ、あの瞳で微笑まれて愛を囁かれるのはわたくしであったはずですのに。心変わりに聖女を憎んだことは一度や二度ではございません。せめてエルグラント様が正直に、わたくしに真実をお話ししてくだされば、恨むこともなかったのに。


 婚約破棄は卒業パーティでしたわ。わたくし、どうしてもエルグラント様と結婚したいと父に我儘を申しましたの。エルグラント様は、後に引けなくなったのでしょうね。

 側近たちと共にわたくしの冤罪を作り上げ、断罪する形をとられたのです。

 ()()()()()()、わたくしはその場で泣き崩れてしまいましたわ。皆様の目にはまるで悪事を暴かれたからだと見えたのかもしれません。


 そうではないのです。エルグラント様にそうさせてしまった――そうまでさせてしまった痛みが、わたくしを泣かせたのです。


 結局、エルグラント様との婚約は破棄。エルグラント様はその責を負い廃嫡、幽玄の塔に幽閉となりました。側近たちは廃嫡こそされなかったものの、家を出たと聞いております。

 幽玄の塔はわかりやすく言うなら懲罰のための塔です。王族が罪を犯し、反省が見られなかった時に開けられ、そうして生きている間は外に出ることはできません。

 ですが、わたくしは知っていました。エルグラント様の婚約者として、王家に連なる公爵令嬢として教育を受けてきたのです。死を待つ塔に入れられる、その意味を……。


 ――エルグラント様の病は完治していなかったのです。高熱でお倒れになったことで発覚したその病は、微熱が続き体力が落ち、しだいに動けなくなりついには死に至る、死亡してはじめて病であったとわかるような、自覚症状の少ないものだったそうです。

 微熱に目眩、体の怠さでは、庶民では怠けていると思われて医者に診察していただくことも稀であるとか。当人の辛さを誰も理解してくれないのはどれほど孤独で苦しいことでしょう。

 わたくしが王妃として慈善活動、ことに医療に力を入れたのは、エルグラント様のことがあったからですわ。


 ええ、わたくしは気づいておりました。化粧でごまかしてはいましたが、エルグラント様の顔色の悪さ、立ってはいられないほどの悪寒にその身を苛まれていたことを。

 どうして気づかないでいられましょう? 何年あの方だけを見つめていたと思っていて!? 愛する人の不調に無関心でいられるほどわたくしは楽天家ではありませんわ。


 ……失礼いたしました。声を荒げるなど、わたくしったら……。


 大丈夫です。ただやはり、あの頃のやるせなさを思い出すと、未だに心穏やかではいられないのです。このような歳になっても……初恋というのは強いものですわね。


 聖女がエルグラント様のお側にいたのは彼を回復させるためでした。聖の魔力は怪我や病を回復させますが、死病に対しては緩和措置しかできないのが現状なのです。せめて学園生活を送らせてやりたいという、陛下の御心、親心だったのでしょう。

 その証拠に、聖女が罰せられた事実はありません。エルグラント様の死後は教会で神に仕えることを選んだというお話でしたが、聖女であれば当然でしょうね。聖の魔力は希少ですから、権力争いに巻き込ませるわけにはまいりませんもの。結婚して囲うという方法もありますが、聖女を待つ人は多く、人の性としてやはりお金儲けの道具にされてしまったり……過去には不幸に見舞われた聖女もいたそうです。結婚を禁止されているわけではないのです、中には恋仲の男性と結婚して子を設けた聖女もおりますわ。ただ、どうしても奉仕活動を強要されますから……ええ、夫や子供を人質に取られるような方法で奉仕を乞われるのは強要と言えましょう。教会に入っていたほうが安全ですわね。


 婚約破棄後、わたくしは留学していたアルファード殿下と婚約いたしました。思えばアルファード殿下はわたくしを気づかい、なにかと親切にしてくださっていたのです。わたくしは接待役の一人として親しくさせていただいておりましたが、おそらく二国間ではとっくに決まっていたのでしょうね。もちろん、父も……。

 わたくしがアルファード殿下に心を移していれば、あのようなことにはならなかったのでしょう。それを望まれていることも薄々察しておりました。ですが、エルグラント様……、わたくしは、エルグラント様に、殉じたかったのです。

 幽玄の塔に幽閉された一年後、エルグラント様の病死が発表されました。幽玄の塔の住人は『病死』となるのが慣例ですが、エルグラント様は偽りなく病死でした。そのために幽玄の塔に入られたのです。


 アルファード殿下と婚約さえしていなければ、わたくしは後を追っていました。ただの戯言でも、今だからこそ言えることでもないのですよ。わたくし、気づいていたと申しましたわね、ちゃんと毒薬を用意していたのです。

 使えませんでしたわ……。公爵令嬢に生まれ、王妃として育てられたわたくしは、自分の背負うものの重さをわかっておりました。アルファード殿下と婚約していながらエルグラント様を想って自害などすれば、どれほど国が混乱するか……。それがわかっていて、エルグラント様に殉じるわけにはいかなかったのです。

 それに、エルグラント様も。あのお方はわたくしが後を追うことを望んでいませんでした。

 自惚れではありませんよ。あの時、エルグラント様がご自分の病を打ち明け、その上で婚約を解消していたら、わたくしは何もかも捨ててエルグラント様についていったでしょう。それほど強く想いあっていたとわたくしは信じております。

 そしてだからこそ……だからこそ、エルグラント様はわたくしを遠ざけられたのですわ。

 あの癇癪は、心に逆らいわたくしに酷く当たらねばならない、その苦しみの発露であったのでしょう。あるいはいつまでも自分に固執するわたくしへの苛立ちだったのかもしれません。

 わたくしは、エルグラント様を愛しておりましたから。その愛を裏切らねばならない懊悩はいかほどであったのか、想像もできませんわ。


 わたくしを想い、わたくしの幸福のために、エルグラント様はわたくしから離れてゆきました。ですが死を間近にして欲をお出しになったのですわ。あの方は、わたくしの心に残ろうとなさったのです。


 ……そう、婚約破棄ですわ。卒業パーティでの断罪劇なんて、一生の傷になります。皆様の心にも残ることでしょう、語り草ですわね。あれを決行なさったことが、わたくしに確信を与えたのです。

 誰がどう考えてもおかしい冤罪を理由に婚約破棄だなんて、調べればすぐにわかることですし実際にすぐ明らかとなりました。


 そうまでさせてしまったことが、わたくしにアルファード殿下のプロポーズを受けるにいたらせたのです。わたくしの幸福を祈ってくださった、エルグラント様のために。


 アルファード殿下がわたくしを愛してくださったのは本当に幸運でしたわ。わかっていても婚約破棄されたことは傷つきましたもの。六歳から十九歳までの十三年間をエルグラント様に捧げました。その日々はあの瞬間、無に成り果ててしまったのです。


 夫となったアルファードとゆっくり愛を育み、妻として王妃として隣で支えているうちに、しだいにエルグラント様とのことは過去の初恋となってゆきました。若かったのだと笑うことさえできるほどですわ。


 ……今になってこのような告白をしましたのは、先の見えたわたくしの、心残りをなくしておきたかったからです。


 アルファードはわたくしがエルグラント様の冥福を祈ることを許してくれました。エルグラント様が願った通り、あの方のことを忘れることはできませんでした。







「主よ、わたくしをお許しくださいませ」


 エリシエルは胸の前で指を組み合わせた。


「アルファードはわたくしを迎えに来てくださるでしょう。エルグラント様も、きっと待っていたと言ってくださるでしょう」


 言葉を切ったエリシエルに、何を言うのかとシスターは息を詰めた。そして、どうか、と祈るような気持ちで願った。


「その時、わたくしはアルファードの手を取ります。命がけでわたくしの幸福を祈り、愛してくださったエルグラント様ではなく、共に悩み、共に笑い、共に生きた、愛する夫の隣で眠りたいのです」


 ああ。顔を覆ったシスターにエリシエルは続ける。


「エルグラント様にとっては裏切りに他なりません。ですが、わたくしは生きたのです。あの方の願いを叶えて生きたのです。死した後は、晴れてアルファードだけのエリシエルになりたいのですわ」


 唇が震えるのを感じ、シスターがぎゅっと噛みしめる。よくもそのような――恨み言を言ってしまいそうになり、慌てて飲みこんだ。


「……あなたの罪は、許されました」


 それだけを言えた。怒りなのか、悲しみなのかわからない感情に支配されて立ち上がれないシスターの耳に、「ありがとう」とエリシエルが言ったのが聞こえた。


「あなたに聞いていただけて良かったわ。……あの三人にも、今までありがとうと伝えていただけるかしら」


 目を見開いた。

 去っていく気配に我に返ったシスターがエリシエルを追いかけようとしたが、すでに侍女や王太后を慕う者たちに囲まれていた。


 あの婚約破棄後、エルグラントを看取ったのはエルサ・プリウスだった。

 彼の死後は正式に教会に入り、シスター・カローラと名乗っている。そしてこの国に来た。

 エルグラントの側近であった貴族令息三人も、家を捨て名前を変えてアルファードの妃となったエリシエルを密かに見守っていた。


 エルグラントのためというより自分の満足のためだった。だからこそ、王妃となったエリシエルが善政をき、医療に特に力を入れているのを喜んでいた。彼女もエルグラントを忘れていないのだ、と思えたのだ。


 だが彼女は死後エルグラントではなくアルファードだけのものになると言う。あれは懺悔というより今まで四人が見守っていたことへの礼であったのだろう。そしてもう自由になってよいと言ってくれたのだ。


 勝手だ、と思う。裏切られたという思いもある。だが自分たちがこの国で彼女の味方をしていたことを知っていてくれたのだ。かつて聖女と呼ばれていたシスター・カローラはそのことに痛快さを覚えた。


 エルサが聖女の座を捨てるにはエリシエルの父親、ブルーバート公爵の尽力があった。王はエルグラントを助けた礼にとエルサに聖女の座と教会での権威を用意していてくれた。俗世を捨てずとも人に敬われ、贅沢をして生きる道もあったのだ。

 それを断ったのはあまりにもうつくしい恋を間近で見てしまったからかもしれない。羨ましい、自分もあんな恋をしてみたいと思うより、あの恋を完璧なものにしたかった。


 ブルーバート公爵はエルサの意を汲んで、聖女ではなく一人のシスターにしてくれた。もちろん教会上層部はエルサが聖女であることを知っている。聖女となり人々に祭り上げられるより、人々の近くで貢献したいと言うエルサを歓迎してくれた。権威を望まなければ対立も派閥も生まれない。なんて使い勝手の良い聖女だと思われたことだろう。王妃エリシエルが教会に来る際の案内役をしたいというたった一つの我儘を聞いてくれた。


 エルグラントの側近三人はエルサと事情が違う。彼らの実家はいずれも力のある高位貴族だった。

 エルグラントの死病が発覚してから、三人の実家は当然エルグラントから弟王子に乗り換えようとした。エルグラントが王太子に、ゆくゆくは王になると思ったからこそ側近として出仕させたのである。死にゆく王子のためではなかった。

 だが三人はそれを拒否した。弟王子に派閥を変えても、すでにある弟王子派では新参者だ。しかもエルグラントが王になれないとわかってからの乗り換えである。中枢に入れず忠誠を疑われるだろう。

 そんな思いをするくらいなら最後までエルグラントに仕えたい。少年らしい潔癖さと正義感もあった。なにより友として、エルグラントの側にいたいと思うのを反対できるほど、彼らの親も非情にはなれなかった。

 三人は廃嫡こそされなかったが自分が家に迷惑をかけた自覚もあったので家を出た。その三人に手を差し伸べたのはブルーバート公爵である。


 大人たちの思いこそ複雑であった。


 公爵は貴族として父として、娘に幸福な結婚をして欲しいと望んでいたし、国王もいずれ義娘となるはずだったエリシエルに幸福になってほしかった。公爵令嬢である、貴族同士の縁を繋ぐ、あるいは他国との懸け橋にふさわしい淑女であった。

 愛し合う二人の仲を引き裂くようなまねをしたのも、彼女がエルグラントを引き摺りすぎないようにとの配慮である。エルグラントに彼女を遠ざけさせ、聖女に心変わりしたように見せる――その裏でアルファードとの婚約を打診していた。卒業パーティでの婚約破棄と直後のプロポーズは、冤罪を含めてすべて仕込み、大掛かりな芝居であったのだ。


 エリシエルの将来と幸福を考えてのことだったが、はたしてそれを彼女が喜んだのだろうか。


 エルグラントの病も病の進行具合も彼女には一切教えられなかった。誰も彼女に言わなかった。それが最善だとあの頃は思っていたが、あの告解と懺悔を聞いてしまったシスターは疑問になった。


 エルサたちは公爵の支援を受けてこの国にやってきた。あの三人は名前を変えて王妃派の貴族として密かに活動していた。そしてこの国の貴族令嬢と結婚している。エリシエルは王太子妃から王妃となり王太后になった。


 アルファードの母は王妃だが彼自身は第三王子で、王太子になる確率は低かった。王が溺愛している側室が産んだ第一王子が権勢を揮い、アルファードは命の危険さえあったのだ。

 エリシエルが嫁ぎ国と公爵家が全面支持を表明してようやく王太子になれたのである。王妃の子でありながら婚約者が決まらないほど当時のアルファードは不遇であった。

 アルファードが王になり、エリシエルとの間に生まれた子が王となったことでエルサたちは報われた。実家だけではなく婚家にも充分報いたといえるだろう。


 だが彼女の気持ちはどうだったのだろう――若かったとはいえ愛するエルグラントに殉じることを許されず、責任を負わされて他国に嫁ぐしかなかったエリシエルの気持ちは。アルファードを愛していると言った。エルグラントを愛していたと言ったその口で、エリシエルはアルファードだけのものになりたいと言ったのだ。

 あの懺悔は、告解は、何も教えられなかったことに対する復讐だったのではないだろうか。


 エルサなら言えた。エルグラントの症状を軽くするため、そしてエリシエルから心変わりしたと思わせる相手役に選ばれたエルサは、彼女には最後まで教えないと説明された時反対したのだ。それではエリシエルがあまりにも可哀想だ。後から真実を知ったらどれほど傷つくか、と。

 思い返せばエリシエルは何か問いたげにエルサを見つめることがあった。しかし結局エルサは言えなかった。自分が教えて後追いでもされようものなら咎められるのは自分である。エルサも自分が可愛い、王に逆らうなどできなかった。

 教えられないエリシエルに対する優越感があったことも否めない。すべてにおいてエルサより恵まれた公爵令嬢が、最愛の男に嘘をつかれているのだ。嫉妬と羨望と優越感。ざまあみろ、と思ったことだってあった。


 だが、エリシエルは知っていた。考えて考えて考えて、悩んで悩んで悩んで、そうして真実に辿り着いたのだろう。周囲の変化もある。エルサが学園に入学したのはエルグラントのためだった。聖の魔力を持つエルサがエルグラントに――公爵令嬢に目を付けられるとわかっていながら隠すことなく侍っているのは何のためなのか、気づいてしまったのだ。


 わたくしは生きたのです、とエリシエルは言った。死にゆく者の願いを優先して彼女の心を無視した結果、亡霊に囚われて彼女は夫を素直に愛することができなかった。エリシエルの幸福がエルグラントの願いであったはずなのに。


 もう、いいだろう。シスター・カローラはため息を吐いた。自分たちだって充分に生きた。厭な思いだってたくさんした。若い頃に想像していたような、甘くやさしいものではなかったのだ。人生とは。

 結婚こそできなかったシスター・カローラだが、恋と呼べるものなら何度かしたことがある。その度にこの恋こそ至上だと思った。神に仕える女との禁断の恋に酔っていた相手は恋が冷めると去っていった。

人の心は永遠ではない。生きている限り移りゆく。それでも幸福だと思えたし、恋したことに悔いはない。綺麗で完璧な人生など本当はどこにもないのだ。


 彼女の言葉をあの三人に伝えよう。彼らがどう思うかはシスターの知ったことではない。悩みがあれば相談に乗り、懺悔なら聞く。それが神に仕えるものの役目だ。


 その後、三人は交代で日曜日に教会へやってきた。王太后と言葉を交わすことはなく、微笑む彼女をいつまでも眺めていた。


 王太后エリシエルは最愛の夫であるアルファード王の隣で永遠の眠りについている。彼女が幸福であったかどうかは、彼女だけが知っていた。




アルファードが王になるまでの紆余曲折で二人は愛を育んだわけですが、そこはご想像にお任せします。あくまでこの話は三十年後の彼女の告解です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵な話ですね。 せめて愛する人のキズになりたかった、死に逝く王子とその王子の想いに答えた四人の忠義 王后の気持ちが良く解る。 その時は殉死する程の強い想いと、言ってくれなかった恨みがあっ…
[良い点] 車の名前…?と気づいた時、話の本筋からは逸れますがとても面白かったです。愛に生きた二人の女の邂逅、素敵なお話でした。
[気になる点] 物語が頭の中で車になってしまうところ。婚約破棄などの背景が新鮮だったのですが。。。
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