恥
僕が生きた理由は、恥を知るためでした。
僕はいわゆる「普通」ではなかったのです。障がいがあるわけでもなければ、五体も満足でした。しかし、私は普通ではなかったのです。
僕は普通じゃありませんでしたが、僕を取り巻く環境は普通そのものでした。ただ一つ名前が変わっている点を除いて。
前記とは裏腹に当たり前の日常に身を置いていた私は、いわゆる普通の子でした。
初めて罪を犯したのは小学3年生頃だったと記憶しています。金を盗みました。友達の妹の財布から千円札を一枚。その時はばれなかったという安心感と初めて一線を越えたという満足感が混在していました。ただ次の日は犯行が露見するのではなかろうかという恐怖感が支配していました。死刑囚の朝のように。心臓が耳の隣にあるくらいに拍動が大きくなってその友達に会ったのを記憶しています。僕は最悪の結果を頭の中心に置いて教室の扉を引きました。ただ、友達はその日風邪で休んでいました。私は子どもながらに「警察を呼んでいるから休んでいるのだろうか」と考えていました。その日、私は心から反省をしました。しかし臆病な私は金を盗んだことを誰にも言いませんでした。
そこから一年がたって、4年生になりました。その年から、いじめが始まりました。事の発端は忘れてしまいましたがきっと些細なことなのでしょう、馬鹿な小学生は痛みが最大の「害」であると思っているため、攻撃手段は暴力でした。殴る、蹴る、3人ほどに囲まれて暴力を振りまかれたこともありました。最もひどかったのは、卒業式で保護者が座るパイプ椅子を武器にして、僕の頭を殴ったらしいのです。というのも、僕はそのことは覚えていません。記憶からなくなってしまったのです。おそらくその日から、今まで、この頭痛は続いています。担任の先生は、事情聴取した結果「あなたにも悪いところがある」とつり目でこっちを見てきました。また僕も馬鹿でしたから、悪いことを考えては、真剣に反省していましたが、加害者は4人で、被害者は1人、担任の先生がどちらの意見を採用するかは目に見えていました。
中学入学を機に、いじめられない人間になろうと思いましたが、すぐに打ち砕かれました。
友達に誘われて陸上競技部に入った私は、そこでも格好の的でした。小学生よりは賢くなった中学生のいじめは、最大の「害」は、痛みではなく恥であることを理解し、賢くいじめを実行しました。しかし思い返すとそれは馬鹿の所業でした。人より劣った外見で特徴的な顔の部位があったから、そこから連想される動物や、その部位を誇張させた何かに例えて馬鹿にしたりしました。しかし小学校でいじめは経験していたのでさほど驚きはしませんでしたが、いじめられない人間になろうという目標はすぐに撤回されました。
いじめを軽くとらえていた私は、軽い気持ちで先生に相談していました。でしたが、顧問の先生は主犯格の先輩1人とその弟、そして同級生二人を呼び出し、叱ったそうです。後日部活動終わりに集められ、仲直りと称して謝られました。むしろこっちが謝りたいくらいでした。こんなことで謝らせてごめん、こんなことで死にたいと思ってごめん。
こうして僕の中学校生活が瞬く間に過ぎていきました。初めて自殺行為に及んだのはこの時です。近所のホームセンターで手ごろな縄を、お小遣いをためて買ってきて、結び方はスマホがなかったので父のパソコンで調べました。それがいけなかったのです。
明日死のうと決心して縄を自分の机の中に隠して寝ました。父が静かに、けれども荘厳に「起きなさい」といいました。そういうと私はドキッとしながら、言う通りにしました。
案の定、パソコンの前に座らされ「これはなんだ」と訊かれたのです。検索履歴にははっきりと「首吊り 結び方」「首吊り 簡単」「ハングマンズノット 簡単」など夥しい量の検索単語が映し出されていました。
父は何も言わずに私の言葉を待っているようでした。私は何も言えずに何時間も経過しました、が、実際は数分でした。父は不器用に、何か悩んでいるなら相談にのる、などと言った定型文を言って、また寝室に僕を促しました。なにも言わないと判断したのでしょう。
自殺行為をする人は全員が暗い人間といえばその通りですが、明るく振る舞うことが得意な人間はいるのです。僕もその一人でした。僕の本性を知る友人は一人しかおらず、その一人も、僕と同じ欠陥人間でした。傷を舐め合い、半人前同士一緒になって一人前になろうという利害関係の一致でした。明るく振る舞うことが得意な、死にたがりは高校に入ってもう一人知ることになります。ここまでの15年間で、存在意義や生きる理由は完全になくなっていました。自尊心は無いと思っていましたが、醜くなった自尊心が、高校生になって僕の足を引っ張ってきたのです「僕が可哀そうじゃないか」「僕だって幸せになりたい」「僕が何をした「僕だって愛されたい」「「「お前のせいだ」」」僕の自尊心の切っ先は、ほかでもない僕でした。
父と私はけれども普通に接することができました。表面上は普通に。
父は母と離婚しても僕の自殺未遂のことは言わないでいてくれたようです。
三日から始めた勉強を糧とし臨んだ受験は無事合格することができました。
その時から羞恥を孕んだ自尊心は顔を出していました。「自分のレベルより下げた高校だけど合格してよかった」などと思っていましたが、いざ入ると自分のレベルにあっているどころかむしろレベルが高かったのです。
拗らせた自尊心と過去のいじめの体験は僕の性格を歪ませたのです。「僕は素晴らしい人間だ」「僕以外の人間は格下だ」「僕は偉い」。こうした僕の人格は、ダヴィンチが描いた駄作のようでした。
高校は別になりましたが、中学で仲が良かった異性の友達とは、高校に入って買ってもらった携帯でつながっていました。おとなしい人で、けれども仲良くなったら気さくに話す、顔立ちはよく、背は裏腹に高めでした。その友達と僕は初めて性交渉未遂をしたのです。
ですが性行為には至りませんでした。その友達とは今では疎遠になり、おそらく殺したいくらい恨まれていること思います。
高校一年生でその経験をして、僕の性体験すらもゆがみ始めました。しかしその子は初めてではなかったらしく、相手は親戚の40歳ほどの男性で、対価を得ているようでした。
私はそれに何とも言えない気持ちを抱き、日々は過ぎていきました。
彼女は事の過ちに気が付いたのか、段々性の話もしなくなり、話すこともなくなりました。
しかしその時は嫌われてはいなかったと思います。確実に嫌われたのは、その後でした。ツイッターで彼女とその妹とつながっていました。その妹に彼女は元気か、彼女が僕のことどう思っているか聞いてくれないか、と今考えるとやはり馬鹿なことをしたなと思うことを、本気で正義だと考えていたのです。妹は律義に僕の願いを聞いてくれ、従ってくれました。
しかし彼女はそれをおかしく思い、「私の妹になにかいいました」とメッセージをおくってきました。まずいと思った私は突っぱねました。「本当ですか」と帰ってきたので、私は怒りながら自分の心臓に刃物を刺しました。「言ってねえって言ってんだろ、暇じゃねえんだよ俺も」。こうして私は一人の大事な友達を、信用とともに失ったのでした。高校3年生になってインスタで男友達がその彼女のアカウントをメンションして仲良さげな写真を上げているのを目撃して、死にたくなりました。
ツイッターのアカウントも、私がツイートしたことを友達がはやし立てるのを鬱陶しく思って5つのシーンで僕の分身は消えました。
僕は2月生まれでしたので、16歳で高2になりました。ここで高校に入って初めて恋をしました。恥じはもう何重にも上塗りされていました。
私は同じクラスの人二人を同時に好きになってしまったのです。真剣に、同じ熱量で好きでした。しかしその二人は、僕の友人と付き合いました、そのうちの一人は、小学校のころ僕の頭をパイプ椅子で殴った人でした。僕は世界から色が無くなったように生きていました。
生きている。だけど、死んでいるですが僕はそんな無色の世界に灰色を見出しました。
「こんな惨めな僕も生きているんだそれだけで偉いじゃないか」しかしそれは精神的な自傷行為でした。自己嫌悪を慰めとする私は人間以下の家畜でした。醜い自尊心が核になった私の心は醜くなり、目も当てられないほど傷だらけでした。こんなことを毎日思っていても、ご飯はおいしいし、夕日は綺麗でした。
僕が好きになった一人は、僕の歯車を狂わせた人間と付き合いました。もう一人は一度一緒に映画を見に行き、親密になった後僕の友達と付き合いました。ただもう生きる理由を探すより、死ぬ理由を探すほうが容易でした。もはや僕は自責の念に苛まれて、それを慰めることを生きがいとしてきました。そのためならば自分から自己嫌悪を喜んでするほどに、狂っていましたが、これを「狂っている」とは分かっていたのです。悲しみに打ちひしがれ、痛みを糧にしている家畜でも、人間の冷静さは分裂して混在していました。それでも僕が今を生きているのは「いつかいいことがあるかもしれない」という地獄に下りてきた細い蜘蛛の糸のように細く、醜く育ちすぎた自尊心、羞恥心、利己心、劣等感を背負って引っ張るには細すぎました。
二度目の自殺行為はその時です。一緒に映画を見に行った彼女と付き合った彼氏の首に夥しいほどの愛した証を見たその日に、中学校のころ失敗した首吊りで死のうとしました。
経験者ということと練習相手が欲しいという勧誘を受けて僕を入れて二人の柔道部に入りました。死に場所は人が校舎で人が来なさそうな格技場にしました。今度は携帯で動画をみてハングマンズノットを作って鴨居につなぎました。終わらせる前にトイレに行き、椅子の上に立ち、目を閉じる
死ぬときに必要なのは完璧な絶望でも、失望でも怒りでもなく、一瞬の錯乱。それですべてが終わるのです。その錯乱を起こすまで今まで犯してきた罪すべてを思い起こしました。
縫った体の傷を再び自分で傷つけはじめ、境地に達して痛みが無くなるまでずたずたになったら錯乱は完成します。あと必要なのは足を浮かすだけの脚力です。足を離して宙に浮く。
家畜には似合う首輪をつけて、僕は死ぬ。視界が徐々に狭まり、あらゆる感覚もなくなっていく。ようやく死ねる。初めで心から安心できました。お風呂に入った時より布団に入って一息つくよりも数段安心したのです。
次に目が覚めると畳の上に寝ていました。全てを理解して紐を持ち上げると首ではないほうの結び目がほどけていました。やはり、私はあの時死にたいという気持ちに少しの疑問を持っていたのでした。なので、ほどけた結び目は、僕の甘さの現れでした。乾いた笑い声をあげ、酸素不足がより頭痛を加速させていく。髪の毛が抜けるほど頭を掻きむしり、血が出るほど首をひっかいた。この期に及んで、まだ縋るのか。こんなゴミみたいな人生に、まだ光を見たいのか、もはや光も届かなくなった深淵で、二足歩行もままならないまま、もはや手も足も捥がれた体で、まだ生きる理由という安い餌を食い、生きていく。
三年生になり、教師になりたいという夢ができた。自殺未遂の後に思ったことは昨日の腹痛の様なものだ。アルバイトを1年の8月から始めた。10月でバイト先を変え、母親の知り合いがオーナーをやっているコンビニで働くことした、そこで私は罪を犯すのです。
コンビニの金を盗みました。しかも一回ではなく、何回も、何千円も。それは、昔のようにはならず、犯行が露見しました。その日は夜8時という早い時間に寝たのも何かの因縁かもしれません。兄に起こされ「コンビニから電話、折り返してくれだって」私はまた死刑執行の時が来たようでした。電話をかけると、すぐに来てくれとのことだった。
全てを諦めて、明日死のうと思ってコンビニに行った。案の定店長が「白状することある?」と訊かれたから、あります。と答えて今のところ俺とオーナーしか知らないと、お金さえ返してくれたら不問にするという旨を伝えられ、頭に浮かぶのは自慰行為のための自責ではなく、自分の存在を否定するための罵詈雑言でした。
次の日、赤信号をわざと飛び出し、跳ねられようとしましたがブレーキが間に合い怒鳴られるだけでした。
お金を返そう。そう思って申告した倍の金額を一緒に買った封筒に包んで、学校の帰りにそのままバイト先に向かいました。
オーナーに昼間時間かけて考えた言葉が出なくなりつっかえつっかえで謝罪の言葉を述べた。オーナーはやさしく諭してくれ、知り合いの母親には言わない、と、働いて返してくれればいい、と僕に言ってくれました。それに救われて、死ぬのをやめました。
人生最後の体育祭も、裏方で必死に頑張りました。しかし誰からも「お疲れさま」や「ありがとう」っという言葉はかけられませんでした。結局、何かを必死に頑張ったところで誰も見てくれない。太鼓も誰もやりたがらないからたたいたのに、パネルを掲げるのも友達に頼まれてやったのに、その友達からもなにも言われませんでした。
いじめていた彼は応援団で僕の好きな人とツーショットを撮っていました。
次の日の学校終わり、一緒のバイト先の友達のことを、また同じバイト先の欠陥人間の友達と話していました。友達が僕の陰口をしていることを告げられたのです。僕は今更陰口で傷なんかつかないと思っていましたがそんなことはなく、ちゃんと傷つくのです。その日のバイト終わり、インスタを見ていると、同じ団の応援リーダーが、過去、僕と性交渉未遂をした人の誕生日を祝う親しげな内容でした。顔を隠していましたがメンションをしていました。タップしてリンク移動できない場所にメンションしてましたから、IDを入力した。気になったからで、それが彼女だと気付いたのはその後でした。彼女のインスタは鍵垢で、リクエストを送ってそれっきりでした。
僕はその時持った感情を知っていました。嫉妬心です。なんで僕が嫌われて、あいつが親しそうにあの子の写真を撮っているんだ。
その過去を土足で踏み荒らされたインスタのストーリーは、僕のすべての過去を想起させ、走馬灯のように駆け巡りました。
死のうと思いました。幾度となく繰り返した動詞は今度は現実味を帯びて聞こえました。
30分違いのシフトだったから友達が終わるのを待って一緒に帰りました。帰り道、友達の鬱情報と僕の欠陥人生を語りつつ、インスタのストーリーに「おつかれ」という文字とともに、自分の足の写真をあげました。友達をメンションして。気付いた友達がダイレクトメッセージを送ってきました。「いきてろよ」ひらがなで送られてきたその五文字は、そんな聖書よりも僕の心を救ってくれたのです。今家に帰って、いじめられてた男と付き合った女に暴言吐いて、今これを書いているのです。全ては生きるために。この先も負けすら生ぬるいくらいの惨敗さで、負け犬の人生を、これからも歩んでいくために。