第8話「悲劇R」
いつものエピソードとは少し毛色が異なるお話です!
――――カコンッ
何かが長机からこぼれ落ちた。
その瞬間、張り詰めた空間の均衡は崩れ、辺りの時間は止まる。しかし、数秒を経ずして、再び時は動き出し、辺りは静寂にゆくりと呑まれていく。このまま刻々と時が刻まれてゆくはずだった。あの男が"ソレ"を拾うまでは。
そう、思えばそれこそが、我々の心の奥底にしまわれた悲劇の物語の始まりであった……。
第8話「悲劇R」
「あっれ~、ないないない! どこにいったのかしら~!」
教室に入るや否やその悲痛な叫び声は、ゆうまの耳に入って来た。と同時にリュックをガサゴソガサゴソと漁る声の主、保奈美の姿も目に入る。どうやら彼女、相当慌てているらしく、絹のように美しいロングの黒髪すらも乱している。
「ど、どうしたっての、保奈美? そんなに慌てて」
そんな彼女の慌てぶりに、見かねて思わず尋ねる。
ま、どうせまた筆記具か教科書でも忘れたんだろう。
そうあらかた予想していたゆうまだったが、しかし、保奈美からは予想だにしなかった返答が返ってくる。
「あのね、実はさっきの授業の後から私の老眼鏡が見あたらなくなっちゃったの」
「な、何だって!?」
くわっとゆうまの目が見開かれる。と共に顔色がどんどん青ざめていく。
無理もない、老眼鏡を無くしたということは、とどのつまり、他の人に発見された場合、勘づかれるなどして保奈美の正体、すなわち年齢がバレてしまうリスクが生じるということであるからだ。
もしバレるようなことになれば真実を知っていたゆうまが咎められるのはもちろんのこと、ニュースで全国区にまで広まれば、この学校に傷がつく可能性だってあるのである。また保奈美は保奈美でその体質を巡り、組織から研究対象として狙われる可能性も出てくるのである。
ゆうまは焦る。
「何で無くしちゃったんだよ! だいたい、いつもは学校じゃコンタクトレンズをしてくるじゃないか」
「それが今日は遅刻しそうで急いで来たからコンタクトレンズをして来れなかったの。どうせ後でトイレに行って老眼鏡からコンタクトに変えられるからと思ってたし。でもまさか無くなっちゃうなんて」
そう言ってテヘペロと舌を出す保奈美。
まったく反省しているのか、していないのか……。そもそも保奈美は見た目こそ若いが身体や機能などは既に年相応であり、激しい運動も出来なければ細かい文字も裸眼では読めなくなっているのである。それなのにどうして高校生のフリなんかをして通っているのだろうか……。しかし、考えている暇など無い。今は一刻も早く老眼鏡を見つけるのが先決である。
そう考えたゆうまは「どこに置いてきたか覚えているかい?」と聞く。
「うーん。確か前の時間の授業でタピった時にはめてたから……」
「ん? タピった?」
「ほら、情報の授業でタイピングしたじゃない。あれのことをタピったって言うんでしょ」
「いや、それ使い方違うんだけど……」
ゆうまはツッコむ。そんなこんなで話込んでいると「それじゃあ、パソコン室で外したまま置いてきたんじゃないの?」と、元気いっぱいの明るい声が割り込んでくる。
その声の主は風間 甘美。どうやら今までの会話を聞いていたらしい。
「まったく、保奈美姐さんてば物の管理くらいきちんとしてよ。もし姐さんのことがバレて一番被害を被るの、姪であるあたしなんだからね!」
そう言ってビシッと保奈美を指差す。その表情は呆れていた。
「わ、分かった。それじゃ、そろそろ次の授業開始時間だからそれが終わってからパソコン室に行ってくるわ」
姪の指摘にタジタジの保奈美は、そう約束して席につく。
これにて事件は一応の決着がついたかに見えた……、が、しかし、事件はまだ終わっていなかった。
ガラガラと教室のドアを開けて次の授業の先生が入ってくる。彼はとても温厚そうな30代くらいのフレッシュな男性教師だ。
そんな彼が差し出した物と言葉に授業の開始で席についていたゆうま達は息を飲んだ。
「よし、お前達、授業を始める前に聞きたいんだが先程先生、パソコン室に用があって行った時に落とし物を拾ったんだ。確認したら前の時間に使用してたのは、お前達のクラスだったから一応聞くがこれ、違うか?」
そう言って高々と皆の前に1つの眼鏡が掲げられる。それはまさかの保奈美の老眼鏡であった。
「な、な、なにぃーーっ!?」
驚きのあまり、ゆうまに激震が走る。それは想定されうる中で最悪の事態であった。
まさかパソコン室に置き忘れられていた老眼鏡が床に落ち、それを気づかれ、先生が拾って持ってきて事実を知らぬクラスメートの面前に晒されるとは……。まさに悲劇である。
そんな状況に保奈美は、離れた席からゆうまに助けを求める目で見つめてくる。
ゆうまは思わず、隣の席である甘美に小声で話しかける。
「ど、どうする……。先生が聞いている以上取りに行かないと。多分まだ皆、眼鏡だと思ってあれが老眼鏡だとは気づいていないだろうし……」
「あ、あたし、知ーらない」
「こらぁ! 叔母のピンチじゃないか。この事実を知っているのはこの場じゃ俺と甘美だけなんだしさー」
そう言って他人のフリをして目を逸らしている甘美を見るが、中々気が進まない様子である。
「先生! それは私のかもしれません」
と突然、保奈美が席を立ち、そう言葉を発する。どうやら賭けに出たらしい。
確かにあれが老眼鏡だと気づかれていないのなら、今のうちにただの忘れ物として本人が回収するのが1番のベストである。これで正体も気づかれず仕舞いでいつものように隠し通せる。そう安心したのも束の間であった。
「え! ほ、ホントにこれ、保奈美のか!? でもこれ老眼鏡だぞ」
その言葉を先生が発した瞬間、カチコチと保奈美は固まる。しかしそれに気づかず先生は続ける。
「うちのもうすぐ60になるおふくろが掛けてるから分かるんだ。これは40代以降から掛け始めるような老眼鏡だってこと。誰か中年の教員の物だろうと思っていたけど、まさか保奈美のな訳がなぁ~」
「あ、やっぱり違いました。私のじゃないです。すいません」
即行で保奈美は席にガタッと座る。どうやら完全に諦めたらしく、戦意喪失である。
まさか先生が普通の眼鏡でなく、老眼鏡だと見破っていたなんて……。しかもその言葉によってクラスメートにもあれが老眼鏡だとバレた今、打つ手なしか……。
そうゆうまは、考えていると「はぁー、まったく、ここはあたしが一肌脱ぐしかなさそうね」と、隣でその場を見ていた甘美が叔母のため、動き出す。
「先生、それ、もしかしたらあたしが忘れた物かもしれないです。今朝、母さんの掛けてる老眼鏡を間違えて持って来て無くしてたんで」
「そ、そうか、その手があったか!」
ゆうまは小声で感嘆の声をあげる。
親の物を間違えて持ってきたと言えば、確かに名乗り出ても怪しまれず、辻褄も合う。
「あれ? でも甘美、お前のとこの母親は確か長期出張中で、もう1年以上家に帰ってきてないんじゃ……」
「あ、やっぱりそれ、あたしのじゃないです。勘違いでした、すいません」
そう言って即行でガタッと席につく。その動きはまるで軍隊の訓練かのような素早さであった。
にしても盲点を突かれた。そういえば今、甘美のお母さんは家に居ないんだった。そのことを教員が知らないはずがない。ということは俺も、今は上京で1人暮らし中だからその手は使えない……。これでこちらのカードは無し、ゲームオーバーか……。
ゆうまは、諦めにも似た感情を覚える。
「あたし、母さんが長期出張中だったってことすっかり忘れてたわ……」
一方の甘美は、そうゆうまに言って隣で己の失敗を反省している。
「うーん。でもまだ手はあるはず、考えるんだ」
そう言って諦めずにゆうまは、甘美と再びコソコソ話し始めると、周りの席の事情を知らない西村や武田といったクラスメート達が「さっきからコソコソ話してるけど、お前らどうしたんだよ」
「あの老眼鏡がどうかしたの?」
「なんでそんなに手に入れようと躍起になってるんだ」と聞いてくる。
どうやら周りも2人の必死さに何かただならぬことを感じ始めているようである。
「え? あ、べ、別に何でもないよ」
ゆうまは、誤魔化そうとするが、なおも「嘘つくなよ、何かあるんでしょ」
「さぁ、吐きなよ!」と、しつこく周りが聞いてくる。
そんな彼らに思わず、ゆうまは「じ、実はあの老眼鏡、俺が見た所によると時価数百万円の価値がありそうなブランド老眼鏡なんだよ。だからちょっと欲しくてね。アハ、アハハハ……」と、苦し紛れに適当な嘘をつく。
しかし、その誤魔化しが間違いであった。ゆうまの言葉にクラスメート達の間には衝撃が走り、次々とその話は、人づてに先生を除く教室中へと広まっていく。
「おーい、やっぱりこのクラスの物じゃないんだなー」
そんなこともつゆ知らず、先生が最後の確認とばかりに問う。そこでゆうまは覚悟を決める。
「こうなりゃ、当たって砕けろだ。保奈美のため、先生と刺し違えてでも力ずくで奪うしかない!」
「ゆ、ゆーま!?」
甘美はそんな彼の覚悟にゴクリと息を飲む。そしてゆうまは、席から立ち上がる。
「先生……、あっ! UFO!」
そう言って窓の外を指差す。
「何!? ど、どこだ!? どこ!?」
「今だ! もらったぁーーーっ!」
先生が窓の外を見て、油断したスキを狙い、一気にゆうまは、踏み込み、老眼鏡めがけて飛び掛かる。
そのまま残り数cmという所で「させるかぁーーっ!」
みしっ!
と、西村が飛び掛かっていたゆうまを蹴り飛ばす。
そして武田が先生の手から強引に老眼鏡を取り上げる。
「な、何すんだよ!? お前ら」
いきなりのことに取り乱すゆうま。すると老眼鏡を手にした武田がこちらを睨みながら口を開く。
「ゆうま、お前ばっかり数百万円を手に入れようとしてズルいぞ! これは俺のもんだ!」
どうやら先程のゆうまの誤魔化しを、本気にしてしまっているらしい。人づてに嘘が大きくなってしまい、皆、虎視眈々と狙っていたようである。
「は、はぁ!? バカ、何言って……」
ゆうまが訂正しようとしたその瞬間、「いいや、それは僕の物だ!」
「違うわ、私の物よ!」
「コラーッ! 俺のだって言ってるだろ」
「あたしのよ! あたしのもんなのよーっ!」
「うちのやーっ!」
「金、金、金ぇ!」と、次々にトオルや優希といった他のクラスメート達が老眼鏡、めがけて飛びつき、取り合い争奪戦が始まる。
「こ、こら! やめなさい! どうしたんだ皆!?」
そんな彼らに状況の理解できない先生も巻き込まれたようで一緒に取り合っている。そんな中、さらにクラスメート達が乱闘に加わっていき、事はますます激しくなっていく。
そのうちに、ほぼ全員のクラスメート達がポコスカと殴り合い、怒号も飛び出す。
そんな醜き争いを、真実を知るゆうま、保奈美、甘美の3人はただただ傍らで見続けるしかないのであった。
以上、このように人は、何の根拠もない不確かな情報やウソ、噂をいとも簡単に信じ、騙されることを永久に繰り返しつつ、しかしそこから真の教訓を引き出すことは決してないであろう。
俺、愛野 ゆうまは、隠し事を守り通すためとは言え、嘘をつき、結果的に取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったことに、深い悔恨と自戒の念を込め、自らのノートにこの悲劇の出来事、そう、言うなれば「悲劇R(老眼鏡、ROUGANNKYOU)」という名の物語を記している。
ところでその後の争いがどうなったかというと………………
「このやろっ! 俺のだって言ってるだろ!」
「いいや、私のよ!」
「いい加減にしろっ!」
「絶対にアタシのだかんね!」
「金、金、金ぇ!」
実はまだ、終わっていないのである……。
TO BE CONTINUED