第3話
「もしもし。ねえ、ママ?私だけど」
午後の一時だった。その日は、ちょうど梅雨明けが発表されたばかりだった。夏はまだ始まったばかりで、気が遠くなるほどの空の青みがかなしかった。いつまでも、永遠に夏が続く気がした。私一人が取り残され、他のみんなだけが普通の時間を生きている感覚が、長いこと続いていた。おかしなことだった。
だが、電話をとってミアの声が耳に飛び込んできた瞬間、すべてが元通りに回りだした。
「ミア、ミアなの?」
一瞬の沈黙があった。
「…うん、ママ。ミアよ。元気?」
どれくらい久しぶりに聞く声だろう。受話器を持つ手が震えるのを、もう片方の手で必死に抑えつけた。
「あなた、どうしてるの。もっと早く電話をくれればよかったのに。いまどこにいるの?」
それが、とミアは言いにくそうに続けた。
「あのね、今、ちょっと困ったことになっちゃってるの」
「どうしたの。なにがあったの」
ミアに何があったというのだろう。心臓の音がうるさかった。嫌な想像ばかりがぐるぐるする。恐怖でどうにかなりそうだった。
「実は、お友達から借りたお金が盗まれちゃったの。ちょっとまとまったお金なんだけど…」
私はほっとした。なんだ、そんなことか。ミアったら、相変わらずちょっと間の抜けたところがある。昔からそうだった。真剣なミアには悪いが、私は笑い出しそうになった。
「すぐに用意するわ。あなた、どこにいるの?」
「えっと、駅前の噴水広場にいるの。でもね、ママ…」
「すぐにいくわ。大丈夫よ、待っててね。それで、いくらいるの?」
「ママ…ごめんね」
ミアはそれだけ言うと、電話を切ってしまった。こうしてはいられない。私は急いで仏間の押し入れの金庫を開けて、お金を出した。十万円で足りるだろうか。そんなの、足りなければどこかで下ろせばいいだけのことだ。とにかく今は、ミアのそばにいてやらないと。私は母親なんだから。あの子は今、不安で仕方ないに決まっているのだから。
母が急にあたりをひっかきまわし始めた私に驚き、どうしたのと聞いてくるが、答えている暇はない。それに、わけを話せば心配するだろう。玄関まで不安そうについてくる母を無視して急いで靴を履き、駅に向かって走り出した。
噴水前の広場は混んでいて、ミアの姿は見当たらない。相変わらず、待ち合わせの若い人でごったがえしている。ちょっと動くだけで、しょっちゅう誰かにぶつかる。どれだけ名前を呼んで探してみても、これでは埒があかない。私はすぐそばの歩道橋にのぼって、ミアを探すことにした。
「ミア、ミア!」
通りすがりの人たちが振り向くが、なりふりかまってはいられない。ミアを見つけるのだ。
「ミア、ミア!」
その時、駅の地下通路から、女子高生が列をなして上がってくるのが見えた。ミアと同じ学校の制服だった。駅の裏手に、スクールバスの停留所がある。そこでバスを降りた子たちなのだろう。
その時、ミアの後姿が視界に飛び込んできた。学生の中に混じって、誰と話すでもなく歩いていた。あの朝と同じ、三泊四日分の荷物を詰めた大きなカバンを肩にかけていた。ついに見つけた。よかった、私のミア。
「ミア!」
周囲を歩いていた人たちが目を丸くしてこちらを見た。ミアは気がつかない。このままだと、人込みの中にまぎれてしまう。私は大急ぎで歩道橋を駆け下り、広場に向かった。あの人込みのどこかにミアがいて、私を待っている。一秒でも早く、あの子のもとへ行く。私はただそれだけの思いになって、誰よりも早く、ミアを探して走った。




