第2話
朝起きると空はからりと晴れていて、とても気持ちが良かった。こんな日にすることと言えば決まっている。ぴかぴかのキッチンで、ドーナツを作るのだ。娘はまだ寝ている。今のうちだ。
棚を確かめると、ホットケーキの粉がまだ残っていた。卵もミルクも、バターもそろっている。生地なんてあっという間に出来る。混ぜ合わせればいいだけだし、油の温度とタイミングさえ気をつければ、ドーナツなんて簡単なものだ。後片付けがちょっと面倒なだけだ。
ドーナツは、これまで何度も作ってきた。娘の大好物だから。ふだんの日も作ったし、誕生日にもクリスマスにも作った。特別な日は、チョコレートをかけたりココアを混ぜ込んだり、手作りのジャムやホイップクリームと一緒に出した。
今日はなんでもない日なので、一番シンプルなやつにする。それだって、あの子は喜んで食べてくれる。私は食べなくたっていい。娘が食べているところを見ているだけで、おなかいっぱいしあわせになれるのだ。ぼちぼち揚がり始めたところで、揚げ物の音に目を覚ましたらしいミアが、二階から下りてきた。
「お母さん。今日、ドーナツ作ってるの?」
わかっているくせにわざとらしく訊ねてくるのが、おかしくて仕方ない。ミアは台所の戸口に立って、いたずらっぽい目でこちらを見つめている。ドーナツを揚げているときは危ないから、台所に入ってこないよう日頃から言ってある。その言いつけを守っているのだ。
「そうよ。出来上がったら一緒に食べようね」
ミアは嬉しそうに笑顔でうなずき、走っていく。クマのぬいぐるみを取りにいったのだろう。おやつを食べるときはそうする。お気に入りのぬいぐるみを連れてきて、一緒に食べるのだ。私は、とりわけうまく仕上がったドーナツを、ミアのお気に入りのキティちゃんのお皿にとる。
「…ヒロミ?なにしてるの?」
母が買い物から帰ってきた。両手に買い物袋を提げて、青い顔をしてこちらを見ている。見てわかるでしょう。ドーナツを揚げているの。
「今日は、何かの日なの?」
べつになにもないわよ。なんでもない日だって、ドーナツくらい作るわよ。
「そうなの…それは、ミアちゃんの分なの?」
母は、細い皺だらけの指でキティちゃんのお皿を指さした。私は苛立った。だったら何よ。私が娘にお菓子をつくるのが、そんなに変なことなの。そう言うと母は慌てて、わざとらしい明るい調子で打ち消した。
「いいえ、変じゃないわ。じゃあ、さっそく、お仏壇にあげましょうね。ミアちゃんも喜ぶわ」
母はミアの分の皿を持って出ていった。
ミアは一体、ぬいぐるみを取りにどこまで行ったのだろう。早く戻ってこないと、おばあちゃんにドーナツを食べられちゃうのに。
エプロンを見てみると、すっかり粉まみれになっていた。こんなにきれいに晴れた日なのに、なんだか急になにもかもがどうでもよくなってしまった。一体どうしたのだろう。重しでも首にかけられたように、一気に頭が重くなったみたいだ。立っているのも、億劫になった。
私は椅子に腰を下ろして息をついた。どうして私は今、こんなところにいるのだろう。何をしているのだろう?なんだかすべてが分からなくなった。遠くから、ミアの走る足音が聞こえてくる。ミアは一体、どこまで行くんだろう。私はどうして、いつまでたってもここから一歩も動けないでいるのだろう。
台所を片付けるのは後にして、ずきずきする頭を抱えながらリビングのソファに横になった。このまま、ミアが来るのを待っていればいい。そのうち、頭痛もおさまるはずだ。見上げた空は、相変わらず晴れている。とても良い日だった。




