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エンジェル  作者: 千百
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第1話

 ヒロミ伯母さんが亡くなった。仕事から帰り、テレビを見ながらごはんを食べていると、母から電話があった。悲しいことだったが、その反面、ついに、という思いもあった。時計を見ると、十時を過ぎていた。

「お父さんはさっき発ったわ。お義母さまはすっかり取り乱してるみたいで、葬儀の準備どころじゃないんですって。今は、近所の人が手伝いに来てくれてるらしいんだけど。でも、目を離したら何かするんじゃないかって、皆心配してるらしいの。私も明日の朝すぐに行くわ」

碧には、あんなに優しく穏やかな祖母が取り乱している様子が想像できなかった。ただ、その手伝いに来ているという近所の人たちや母が、何を恐れているのかは察しがついた。そうなんだ、と碧は言った。

「それで、ヒロミ伯母さんは、なんで亡くなったの?」

「なんでって、そりゃ…」

 母の気持ちもわかるが、いやに興奮したな口調がなんとなく鼻について、碧はつい意地悪な言い方をしてしまった。だが、そんなことは聞かなくても分かっていた。ヒロミ伯母さんは自殺したのだ。

「駅前の道路で飛び出して、トラックにぶつかったらしいの。町内で、見てた人もいたみたい。ミアちゃんを探していたらしいのよ。かわいそうで仕方なかったって」

 

 かつてヒロミ伯母さんには、ミアという娘がいた。ミアは、碧が小学三年生の時に産まれた。身内贔屓を差し引いてもミアは可愛らしく、成長するにつれてどんどん美人に育っていった。一度、碧の父が、ふざけて勝手にミアの履歴書をモデル会社に送ろうとしたことがあった。結局、発送する前にばれてしまい、伯母はかなり怒ったものの、そこにはまんざらでもない気持ちが見え隠れしていておかしかった。

 しかしミアは、高校三年生になったばかりの春、修学旅行先の京都のホテルで倒れ、病院に運ばれそのまま亡くなった。ヒロミ伯母さんと伯父さんは、学校からの連絡を受けてすぐ京都に向かったが、間に合わずにミアは死んだ。五月の初めだった。碧も両親とともに、ミアの葬式に出た。葬式には、ミアのクラスメイトや同じ部活だった女の子たちが、大勢来ていた。ミアが通っていたのは女子高だった。

 葬儀が終わり、ミアの同級生たちが連れ立って帰っていくとき、それまで参列者に頭を下げていた伯母さんが、突然、彼女たちの後を追って弾かれたように走り出した。女の子たちは、息せき切って走ってきたヒロミ伯母さんにびっくりして足を止めた。ヒロミ伯母さんは頬を紅潮させ、息を切らしながら唐突に話し出した。

「あのね、ミアは狐に憑かれて死んじゃったのよ。あななたちの中にも、分からなくても誰か憑かれたままの人がいるんじゃないかしら。せっかくここお寺なんだもの。みんな、帰る前に見てもらったほうがいいと思うのよ」

 ヒロミ伯母さんの場違いな高い声に、あたりの人が振り返った。少女たちは、困惑して顔を見合わせ、うつむいた。すぐに伯父さんが走ってきて、彼女たちに謝った。そして黙って伯母さんの腕つかむと、ぐいぐいと本堂に連れ戻した。伯父さんの顔は、真っ赤になっていた。ヒロミ伯母さんは納得せず、伯父さんに向かって叫んだ。

「どうしてよ。ねえ、ミアみたいに死んじゃう子が出てもいいわけ?」


 ヒロミ伯母さんはその年の終わりに、離婚して実家に戻った。その後、どこか働きに出たこともあったようだが、碧も詳しくは知らない。ヒロミ伯母さんは髪の毛がすっかり白くなり、身体も一回り小さくなってしまい、どうかすると祖母と姉妹のようにみえることがあった。祖母の家ではヒロミ伯母さんが帰ってきて以来、ミアの話はもちろん、似た年頃の少女が伯母さんの視界に入ることもあってはならなかった。テレビも、自然番組や将棋チャンネル、ゴルフなどのスポーツ番組ばかりがいつもかかっていた。年末年始やお盆の時期に家族そろって祖母の家に行くと、そこには不自然に時が止まったような、停滞した空間があった。そのたびに祖母は、違和感にいたたまれなくなる孫が気の毒なのか、碧を買い物に誘ったり、互助会の手伝いに連れ出したりした。ヒロミ伯母さんは相変わらず優しかったが、話していると、たまに話の前後が分からなくなるのか、混乱する時があった。だが、伯母さんはおしなべて穏やかだった。狐の話は、葬儀の日以来二度と出なかった。

 今年の正月も、碧は両親と一緒に祖母の家で過ごした。祖母の家に泊まる時、碧は父と仏間に布団を引いて寝た。母は、ヒロミ伯母さんの部屋で一緒に寝ていた。

 三が日も過ぎて明日は帰るという晩、碧は物音がして目を覚ました。奇妙に思いながら布団をめくって起き上がろうとすると、ヒロミ伯母さんが暗がりの中、部屋の隅に置いた碧のスーツケースをのぞきこんでいるのが目に飛び込んできた。碧はびっくりして、布団の上に身体を起こしかけたまま固まってしまった。ヒロミ伯母さんは碧が起きているのに気づかないまま、スーツケースの中をかき回していた。

(何してるんだろ…)

 最初は、まさか財布でも探しているのかと思ったが、どうも様子おかしい。じっと目をこらしてうかがっていると、ヒロミ伯母さんはどうやら碧の服を見ているらしかった。シャツやカーディガンやスカートを一枚ずつ丁寧に手にとっては、月の光にすかして眺めているのだ。それを、何度も何度も繰り返している。伯母さんの表情は、とても楽しそうだった。碧は気づかれないように、そっと横になった。父が寝返りをうった。もしかしたら、父も起きているのかもしれなかった。だが伯母さんは碧にも父にもかまわず、夢中で碧の洋服を手に取っていた。その時初めて碧は、伯母さんは病気なのだと思った。


 ヒロミ伯母さんの葬儀に来たのは、碧と父と母、祖母を含めても、十人もいなかった。碧は読経の間、ミアの葬儀の時とはまた別の種類のむなしさをかみしめていた。それは、葬儀をしようが何をしようが、ヒロミ伯母さんはどうせもうとっくにここにはいなくなっているというむなしさだった。ミアの時は、到底逝くはずのない人間がなぜだか死にさらわれたという、何かの間違いのような、信じられないという感覚しかなかった。もし棺の中のミアが起き上がったとしても、そこまで驚く人はいなかったと思う。ミアは、死んでいる方がおかしかったのだ。だが今日は違った。おそらくこの場にいる誰もが、心のどこかで、いつかこうなる気がしていた。そしてそれが現実のものとなった。その違いだった。

 きっとヒロミ伯母さんは病気なんかじゃなかった、と碧は考え直した。ただ、ミアの影を追い続けていただけだ。死んだ人間の影を追っていたら、生きている人間の中で生活してみたところで、まともに過ごせるはずがない。そう考えると、ヒロミ伯母さんはどこもおかしいことなんてなかったように思えてきた。ただ、ミアが死んで以来、ヒロミ伯母さんの生活と自分たちの生活とが、最後まで交わらなかっただけだ。

 碧は、ヒロミ伯母さんが出産したばかりの頃、家に遊びに行った時のことを思い返していた。伯母さんは産まれたばかりのミアを腕に抱き、遊びに来た碧をにこにこと迎えた。かわいいでしょう、と伯母さんは、一生懸命ミアをのぞきこんでいる碧に言った。

「かわいくてたまらないの。この子は私の太陽なのよ」


 太陽の消えた世界など、碧には想像もできなかった。ヒロミ伯母さんは長いことミアを抱いて、いつまでも幸せそうに笑っていた。小さなミアも伯母さんの腕に抱かれ、まぶしそうな顔で眠っていた。ミアは、これからすくすくと成長するだろう。そしてきっと世界で一番かわいい子どもになり、世界で一番かわいい少女になり、やがてヒロミ伯母さんの世界で一番の自慢の娘として、素敵な大人に成長していくのだろう。ヒロミ伯母さんは優しい顔で、眠り続けるミアをいつまでも見つめていた。

 葬儀が終わり、皆外に出た。晴れてはいたが寒い日で、風が痛いほど強かった。乾いた枯葉のかけらが、頬に当たった。祖母はこれまで絶対に使うことのなかった杖をつきながら、誰の手も借りずに一人で歩いていた。


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