70。ちょっと戻って考えてみる
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ざわめきを残す廊下から、カイリはリカコのクラスを覗き込んだ。始業前の教室は、生徒たちの賑やかな話し声の中にもまだ早朝のひんやりとした空気を含んでいるように感じる。
窓際でクラスメイトと話をしをしながら楽しそうに笑うリカコの横顔を見つけたカイリは、胸の内側に広がる柔らかな安堵の感情に、リカコに声をかけるのを躊躇った。
学校では1人の女の子として、友達との時間を楽しく過ごしてる。昨日はジュニアの喫煙騒ぎに、イチが受けたカエへの嫌がらせ予告。新城の裏の顔。校内でのゴタゴタだけならまだしも、リカコ絡みの誘拐事件やカエに手を出そうとしたキャリーバッグと、何より根の深そうな「M」のこと。
何ひとつ片付いていない事態に能天気のカイリも頭が痛い。
「なんか、感慨深げに理加子を見つめてる」
背後からかかった声に、カイリは大きな身体をドキリと揺らした。振り返りつつ落とした視線の先には、リカコと仲のいい由美が大きなリュックを背負ったまま、覗き込むようにカイリを見上げている。
「呼ぶ?」
そう言ってリカコを指さす由美に取次を頼んだカイリは、ポケットに手を入れると、その指先で中にある紙の存在を確認した。
「理加子ー。旦那来てるよー」
てっきりリカコのそばまで行って、声をかけてくれるのかと思っていたカイリは、由美の上げた大声に大袈裟に驚いた。
「だだだだだ?」
「旦那。付き合ってるでしょ。理加子と」
おう……。そう言えば、そんな噂が立ったこともあったっけ。あの件は、否定できる状態じゃなかったしな。
呆然とそんなことを思い出していると、机の合間を縫って猛スピードでこちらに向かってくるリカコが目に入った。
その顔は、あからさまに作った笑顔が貼り付けられている。
おおう……。
なんだか大惨事になりそうな予感に、カイリは急いでポケットから1切れの紙を取り出した。
「これを渡しに来ただぁぁぁけぇぇぇ」
そしてそのままドップラー効果を残して、リカコに襟元をひかれ廊下を連れ去られていく。
「ええぇ……。今どき手紙なんて、やっぱり変わってるわ」
残された由美のつぶやきが、ぽつりと漏れた。
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廊下を通り抜けて、人気のない奥階段まで連行されてきたカイリは仁王立ちのリカコを前に大きな身体を縮こまらせていた。
「ジュニアから朝イチでリカコに渡すようにって言伝てられて」
呆れたため息を吐くリカコに手渡した白い紙切れは、ぴったりとのり付けされていてこの場でその中身を確認することはできそうにない。
「全く。あの子の考えていることは本当によくわからないわ」
紙の外面には癖のあるジュニアの筆跡で、大きく書かれた「果たし状」の文字。踊り場の窓から差し込む明るさに透かし見てはみたものの、中身が確認できるわけでもなくハサミなどがない限りきれいに開封することは難しそうだ。
「教室に帰ったら確認してみる。カイリに伝言頼まなくても写真に撮って送るなり手段はあったでしょうに。わざわざ紙媒体にした理由はなんなのかしら」
スカートのポケットにそれを滑り込ませてリカコはカイリへと視線を移したが、カイリも中身のことまでは聞いていないらしい。
「とにかく、伝令お疲れ様」
呼び出し方にはかなり問題があったが、全てにおいてカイリの落ち度という訳でもないし、もちろん由美に悪気があったわけもないのはリカコも渋々ながら納得はしている。
あの張り付いた笑顔の割に、リカコの怒りがそれほどでもないと感じたカイリも胸をなでおろして、予鈴を鳴らす廊下を並んで歩き出した。
「昨日の新城家の1幕が関係しているのかしら」
ぽつりと漏れたリカコの声にも、明確な答えは示せない。
「どうだろうな。なんだか回りくどいが、ジュニアらしいと言えばジュニアらしいしな。しかし、果たし状ってのはなんなんだ」
不可解な顔をしたカイリの気持ちも分からないではない。分からないではないが
「なんの意味もない可能も充分あるわね。なんにせよ、教室に戻って考えてみる」
手紙の内容すらなんの意味もない可能性が頭を過ぎり、リカコは身を震わせた。




