56。世界平和のため
リカコさん拉致未遂の一報を受けたのは今日の朝!
寝ぼけ眼を擦りつつ、受けたカイリからの電話に脳ミソもびっくり仰天だよ。
土曜日の朝は、出来ればゆっくり寝ていたい。
でもでも、そんなこと言っていられない事態に押し潰されそう。
取る物も取りあえず。でもでもしっかり朝ごはんは頂いて。寮に駆けつけたんだけど。
「おはよう」
朝の光が差し込むリビングのソファで、今日も優雅にコーヒーカップを傾けるリカコさんに、安心するやら気が抜けるやらー!
「リカコさん大丈夫だったの?」
怪我とかはなかったって、報告は受けてるけど。
「心配させちゃってごめんね。向こうの駅に降りちゃっていたし、カイリも居てくれたからと思ってみんなには連絡取らなかったんだけど、今回は色々読みが甘かったってちょっと反省」
むうー。カップを置いて寂しそうに微笑む顔には、あたしも許さざるを得ないよ。
ソファのいつもの位置に腰を下ろすと、キッチンから顔を覗かせたカイリが声をかけてくれる。
「カエは朝メシいるのか?」
「食べてきたー。けど、朝ごはん何?」
張り詰めていた気持ちがリカコさんの無事な姿にスーッと抜けて、リビングに漂う甘い香りに初めて気がついた。
「フレンチトースト」
「なんですとー!」
うぐぐー。朝からなんて美味しそうなものを。
思わずソファから立ち上がったあたしに、ダイニングテーブルについていたジュニアがクスリと笑った。
さすがに早い時間だけあって、いつもは結っている噴水ちょんまげも今日はまだふんわりと掻き揚げられたただ長い前髪。
これはこれでいい髪型だと思うんだけどな。
「フレンチトースト1枚追加で」
「まっ、まだ食べるなんて言ってない」
「なんだ、要らないのか」
ジュニアに返した一言に、カイリが「ちょっとびっくり」とばかりに反応しちゃっているけど。
このふんわりと甘い香りは、なんとも抗いがたい。
「うっ。ぐうう。頂き、ます」
「なんで辛そうなの」
なんでって。笑いの堪えられないジュニアのせいだもん!
いつものテンポで巡る、いつもリビング。
ぐるりと見回す室内で、いつもならぽそりとツッコミの入るイチの姿がない。
「あれ。イチは?」
「さっき声掛けたから、もう起きてくるんじゃないかな」
ふんわりと湯気の上がるお皿をテーブルに並べながら、カイリが応えてくれる。
うん。イチって朝弱いもんね。
まるでそれが合図だったかのように、イチの個室のドアが開いた。
「うー。頭痛てぇ」
いつもに増して目つきの悪い顔が、リビングのあたしとリカコさんを見つけると、
「早いよ……」
軽くため息混じりの一言に、ダイニングテーブルに着く。
「さあ、食べようか。カエもお先にどうぞ」
ダイニングテーブルに移ったあたしの目の前にも、カイリはお皿を回してくれた。
「んー。美味しそう」
黄金色のキメ細やかなパンの、所々に入る香ばしそうな焦げ目。軽く振られた粉砂糖にカイリの妙なこだわりを感じちゃう。
パチンと手を合わせて「いただきます」をしようとしたところで、キッチンに戻るカイリの背中が目に入った。
「あ。カイリの分!」
そもそもあたしの分は追加。なんだか取っちゃったみたいで先に食べるのは申し訳ない。
「カエも来るって言ってたから一応用意だけはしておいたんだ。焼きたてをどうぞ」
振り返ったカイリの顔は、純粋に作ったものを楽しんでもらいたい笑顔。に見える。決してあたしの食欲が見せる幻覚ではない。はず。
「んー。じゃあ遠慮なく」
今度こそパチンと手を合わせて。
「カイリが最後に焼く、その1枚こそが本当の焼きたてだねー。いただきます」
パクリと大きなひと口を頬張るジュニアの一言に、カイリとの視線がぶつかった。
「ん? そうか、こっちの方がより焼きたて……。いや、カエのパンも焼きたてに変わりはないわけで。ん?」
プチ混乱なカイリを横目に、いつものちょんまげを結ったジュニアは嬉しそうに食事を楽しんでる。
「ジュニアはなんだか一言多いの! 遠慮なく先にいただきます」
挨拶も済ませて黙々と食べるイチに続いてあたしもパンにフォークを刺した。口に運ぶとプルふわな食感に、バターの香りが鼻腔を抜ける。
んんっ。至福。
何となく納得いっていない顔のままキッチンに入っていったカイリをクスリと笑って、リカコさんがリビングからこっちに身体を向ける。
「ジュニア。結ぶ程前髪が邪魔なら少し切ったらどう?」
ん。そう言えば夏美もジュニアの前髪の話してたなぁ。
「えー。切ってもまたすぐ伸びるんだもん。めんどくさーい」
前髪ってそういう基準?
嫌そうな顔から、にぱっと笑ったジュニアが続ける。
「それに、僕がまともな髪型したらイケメンだってバレちゃうじゃん」
ん? んー。夏美は確かに「ジュニアって可愛い系。ちょんまげの位置ももうちょい考えればいいのに」みたいなことは言っていた。けど。
「これはなんて返答したら正解?」
ついリカコさんに投げかけちゃう。
「そうね。『なんでイケメンがバレちゃいけないの?』 かしらね」
しょうもなさそうに返答してくれるリカコさんに、さらにジュニアが続ける。
「世界平和のため」
「この話は終わりそうにねぇな。髪と言えば、カエも情報仕入れてただろ。後で報告会だな。ごちそうさま」
コーヒーを口に含んで、イチは小さく笑うと空いたお皿を持ってキッチンに入っていった。




