80。2つのマグカップ
廊下から階段を見上げると、踊り場のはめ込み窓から校庭を覗くイチの後ろ姿が目に入った。
南向きの窓からは太陽の光が差し込み、そのままイチを光の中に連れ去ってしまうんじゃないかってくらいに包み込む。
「イチ」
階段を上りながら声を掛けたあたしに、振り返るイチの顔が逆光にホワイトアウトした。
差し伸べられる手。
眩しさに目を細めながら、あたしはその手を重ねる。
ギュッと、痛いくらいに握り締めて来た手があたしを強く引き寄せた。
え。
なんだかイチらしくない行動に、顔を上げたあたしの視界に映ったのは。
「キ……バっ?」
不敵に笑うその腕の中からは抜けられない。
「やだっ!」
もがき暴れるあたしの足が、階段を踏み外した。
身体が感じた一瞬の無重力。
落ちる。
そう思った時には、あたしの身体は重い音と共に硬いフローリングの上に転がっていた。
「痛い」
どうやら学校の床じゃない。
打ち付けた腰も痛いけど、腹部周辺の切り傷の響くような痛さにのたうちまわりたくなる。
「何してんだ。大丈夫か?」
呆れ半分。のイチの声に、あたしは当たりを見回した。
あ……。寮のリビングだ。
向かいのソファから立ち上がる影を視界の隅に感じて、見上げる天井はいつもの景色。
上半身を起こすと、足元に絡みついてきた薄い掛け布団を引き寄せた。
「布団掛けてくれたんだ。ありがとう」
あのまま寝ちゃったんだ。あたし。
「ん。うん」
(まさか生足に負けそうだったから布団で隠した、とは言えないよな)
「グーグーいびきかいて寝てた」
「えっ。うそ」
恥ずかしいぃ。
握った布団で口元を覆うあたしに、イチの顔が楽しそうに薄く笑った。
「うそ」
「むぅっ」
座り込んだまま頬を膨らませるあたしの正面に立ったイチが、手を差し伸べてくれる。
いつもなら凄く嬉しい、イチのちょっとした優しさの見える行動。
なのに、見上げるあたしに向かって手を差し伸べてくれたあの『イチ』は、キバだった。
もちろんあれは夢だったし、手を握っていたはずのイチがキバにすり替わるはずなんてない。
それは分かってる。
分かってるんだけど。
「どうした?」
手を見つめたまま動けなくなっちゃってた。
イチの声に、そのことにやっと気が付いたあたしはゆっくりと手を伸ばす。
大丈夫。
こんな風に思い出すなんて。
心の中で、自分に言い聞かせている自分がすごく、イヤだ。
イチが悪いわけじゃないのに。
「ちょっと怖い夢。見たの」
大きくて力強いイチの手が、一気にあたしの身体を引き上げてくれた。
立ち上がった後もあたしの手を包んで離さない、暖かい手。
「イチ?」
なんとなく。イチのことが見れていなかったんだ。
顔をあげたあたしを見るのは、心配そうにしてくれる優しい瞳。
普段は無愛想なくせに、こういう時はしっかり掴んでくる。
なんか、ずるいよ。
「イチは、怖い夢見ることある?」
会話が途切れるのが怖くて、なんとなく聞いたあたしの一言に、イチの瞳が暗い影を落としたように見えた。
「あるよ。今でも、銃を向けられる夢に起こされることがある」
「ああ。ちょっとわかるかも」
あたしの顔を見て、イチは薄く笑う。
「普通、あんまりわかっちゃいけないやつだよな」
「だね」
気のせいかな。
怖い夢。なんだかすごく、悲しい夢の話をしているみたいだった。
「あ。お茶」
居所なくさまよった視界に、テーブルの上の2つのマグカップが映った。
「ミルクティー入れてくれるって言ってたのに、ごめんね。ちゃんと飲むよ」
床に落ちた布団をソファに掛けて、イチの横をすり抜けマグカップに手を伸ばそうとしたあたしを、大きな手が遮った。
視線を上げるよりも早く。
あたしの身体を引き寄せた力強いハグに、息が止まりそうになった。




