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第8話 階下での食事

 ロランに噂の話を聞いてから数日が過ぎた。未だヴィルジールは例の件に沙汰を下しておらず、セルジュは一介の騎士と同じく訓練に明け暮れる毎日を送っていた。


 西の空が茜色に染まる夕暮れどき、一日の訓練を終えた騎士達が宿舎へと戻っていく。赤い地面に伸びる長い影を眺めながら、セルジュは列の最後尾を歩いていた。

 このあと夕食を取り、いつもどおりコレットとの訓練をこなせば一日が終わる。先程まで剣の柄を握っていた己の手のひらをみつめ、セルジュは小さく息をついた。

 騎士のそれらしく節くれだった太い指。分厚い皮に覆われた手のひらは硬く、がさついている。この触れたものを端から傷付けそうな厳つい手で、セルジュは毎晩コレットの手を握っているのだ。

 柔らかな手のひらと、すらりと伸びた細指を思い浮かべ、セルジュは薄らと瞼を閉じた。


 夕陽に世界が紅く染まるこの時間は、セルジュにとって非常に厄介なものだった。小さな手のひらと、ほっそりとした指先の記憶が、少年の頃から続く悪夢の記憶を呼び醒すからだ。

 毎晩の訓練でコレットに対して邪な考えを抱くことはない。だが、こうして夕陽を浴びていると、あの日の記憶に否応無く劣情を煽られてしまう。こんなことがコレットに知れてしまえば、毎晩の訓練など、たちまち取り止めになってしまうに違いない。


「セルジュさん」


 媚びるようにセルジュを見上げる潤んだ榛色の瞳が今でも脳裏に焼き付いていた。細い指がセルジュに触れて、ぬめりを帯びて絡みつく。

 いくらでも拒むことはできたはずだ。けれど、あのときセルジュはあろうことか、果実のように潤った柔らかな唇に更なる期待を寄せて……。


 唐突に服の端を引っ張られて、セルジュは目を見開いた。心臓が口から飛び出そうなほど跳ね上がり、おかしな声が喉から出掛かった。

 慌てて振り返ったセルジュの眼に、上衣の裾を握る白い指先が映る。心臓が、また大きく跳ね上がった。


「セルジュさんてば」


 少しばかり不機嫌な顔で、コレットがセルジュを見上げていた。慌てて周囲を見回すと、辺りは既に薄闇がかり、目の前の宿舎の窓から明かりが洩れて青味がかった地面を照らしていた。


「もう、何回も呼んでるのに。何か考え事でもしてたんですか?」

「す……すまん。ちょっとな」


 ぷうっと頬を膨らませて拗ねた顔をするコレットに、セルジュは慌てて頭を下げた。

 直前まで如何わしい想像をしていたこともあり、今日のセルジュは弱腰だった。いつもの尊大さが見る影もないその態度に、コレットが怪訝そうに首を傾げる。


「本当にどうしちゃったんですか?」

「いや、特に……と言うか、何故お前がここに居る?」


 セルジュが切り返すと、コレットはたちまち表情を翳らせて。滅多にない深刻な様子で重々しく口を開いた。


「あのですね……さっき食堂で女中さんに聞いたんですけど……なんか、セルジュさんが毎晩女性を部屋に連れ込んでるって、城中で噂になってるみたいで……」


 もじもじとしながらコレットが視線を彷徨わせる。例の噂がようやくコレットの耳にも届いたようだ。

 意外に遅かったな、などと思いながら、セルジュは顔を綻ばせた。


「その件なら問題ない。女性恐怖症についてはロランに話しておいた。じきに皆にも伝わる。噂もすぐに忘れられるだろう」


 穏やかに告げたものの、宥めるつもりで口にしたはずが、セルジュの言葉は更にコレットの不安を煽ったようだった。


「話した……って、良いんですか? 女性恐怖症のせいで任務に支障が出る可能性があると知れたら、セルジュさんのことを良く思ってない人が、それを理由に殿下に護衛騎士の解任を進言するかもしれないんですよ?」

「それを殿下が受け入れたなら従うしかないだろう。護衛騎士の任は解かれるかもしれんが、騎士を辞めるわけではない。それに、お前の純潔を散らしたと誤解されて責任を取れと迫られるよりは幾分マシだ」


 ニッと笑ってそう言うと、コレットは浮かない顔で「……笑いごとじゃないですよ」と俯いた。


 普段は能天気なくせに。らしくない、しおらしい態度に思わず笑みが零れる。

 しょげかえった亜麻色の頭をぽんぽんと撫でてやると、コレットは顔をあげて、ほっと表情を和らげた。


「それよりも、そろそろ晩餐の時間だろう。食堂に向かわなくて良いのか?」

「そうですね、急がないと。……て言うか、セルジュさんも行きますよね?」

「着替えたらな」


 警護のために食堂の隅に立つだけの仕事とはいえ、訓練で汗をかいたままで行けるはずもない。

 セルジュが指先で襟元をつまんで肩を竦めてみせると、コレットはこくりとうなずいてセルジュに背を向けて、居館へと続く小道を小走りに駆けていった。

 白いエプロンとヘッドドレスが、蝶のように薄闇をひらひらと舞う。コレットが無事に居館に入るのを見届けて、セルジュは足早に宿舎に戻った。



***



 王族の晩餐が終わると、側仕えを含めた使用人は列を成して階下へ向かう。王族の使う煌びやかな食堂とは程遠い、薄暗い地下の食堂で皆で集まって食事を取るからだ。

 護衛を務める騎士達も例外ではなく、使用人と同様に階下で晩の食事を取る。だが、騎士達の場合、居館から離れた騎士団宿舎でも夕食を取ることができた。

 階下へ降りる王と王妃の近衛騎士を見送って、セルジュはくるりと踵を返す。一歩足を踏み出そうとしたところで、上着の裾がツンと引っ張られた。


「セルジュさん」


 振り返れば、怪訝な様子でセルジュを見上げるコレットと目が合った。


「前々から思っていたんですけど、セルジュさんていつもどこで食事してるんですか? 陛下や王妃様付きの護衛騎士の方々はわたしたちと一緒に階下で食べてるのに、セルジュさんは一度も同席したことありませんよね」

「宿舎で食べているからな」


 問われるままに答えて、セルジュはハッとした。返答を誤ったと後悔するも既に遅く、小首を傾げたコレットに詰め寄られる。


「どうして?」

「……心が休まるからだ」

「女性がいないから?」


 ずばりと言い当てられてしまっては誤魔化せるはずもない。セルジュは渋々うなずいた。

 女性恐怖症を克服してみせるなどと意気込んで大見栄を張り、訓練と称してコレットを毎晩付き合わせておきながら、その実セルジュは自分では何ひとつ努力していなかった。日常生活でも女性に慣れる機会などいくらでもあったにも関わらず、相変わらず女性と接することを避け続けていたのだ。

 セルジュの訓練のためにあらぬ噂で名誉を傷付けられるところだったコレットからすれば、当然納得いかないだろう。文句を言われるか、今後の夜の訓練を断られるか。どちらにせよコレットの主張を全面的に受け入れるしかない。

 セルジュが覚悟を決めたとき、コレットが口を開いた。


「良いこと考えました。セルジュさん、今後夕食は階下でわたしたちと食べることにしましょう」

「は……はぁっ!?」

「日常生活で女性から逃げながら女性恐怖症を克服なんてできるわけないじゃないですか。男らしく覚悟を決めてください!」


 にっこり笑ってそう言うと、コレットはセルジュの腕をぐいぐい引っ張って階段を降り始めた。

 覚悟はしたつもりだった。充分にあり得る展開だと思ってもいたはずだった。けれど、今まで避け続けてきたことを急にやれと言われて怖気付かずにいられるはずもない。

 逃げ出したい思いを必死に堪えながら、セルジュはコレットの後を追うように階下へ降りた。


 食堂の椅子はひとつを残して既に使用人で埋められており、セルジュは部屋の隅に置かれた予備の椅子で執事と向かい合って座る羽目になった。

 厨房の女中(キッチンメイド)が皿に料理を取り分けて各々の前に並べていくあいだ、使用人達は慣れ親しんだ様子で思い思いに言葉を交わしていた。

 普段はこの場に同席しないセルジュのことを珍しがって、王妃の侍女や部屋女中が度々セルジュに話を振る。そのたびに内心どぎまぎしながら、セルジュは当たり障りのない答えを返した。

 視線の先でコレットとロランがなにやら楽しそうに笑い合っているのが妙につまらなく感じられもしたが、それを除けば特にこれといった問題もないまま、セルジュは初めての階下での食事を終えた。



「全ッ……然、大丈夫でしたね」

「ああ、自分でも意外だ」


 わざわざ身を屈めるようにしてセルジュの顔を覗き込み、コレットがにっこりと笑う。釣られるように顔を綻ばせて、セルジュはほっと肩の力を抜いた。

 食事を終えた使用人は各々の仕事に戻り、薄暗い廊下に居るのはセルジュとコレットのふたりきりだった。キッチンメイドが食器を洗う小気味の良い音が細く長い廊下に響いている。


「正直に言うと、あの訓練、特に効果ないんじゃないかと思っていたんですけど……無駄じゃなかったんですね」


 コレットがぽつりと呟く声が聞こえたものの、セルジュは聞こえないふりをした。

 セルジュに無視されたからか、コレットはセルジュの上着の裾をくいと引っ張って、更に話を続ける。


「セルジュさん、女性恐怖症を克服できたって、どうやって判断するつもりですか?」

「……取り敢えずは、無駄に嫌な汗をかかないようになることだな」

「へえ……それから?」

「それから……?」

「だってセルジュさん、わたしに限らずちゃんと女性の目を見て話せるし、傍目にはそんなに支障があるように見えませんよ」


 小首を傾げて訊ねられ、セルジュは返答に詰まってしまった。

 女性恐怖症を克服できたとして、どうやってそれを証明するのか。肝心の方法をセルジュは考えていなかった。

 既にセルジュはコレットに触れることができ、他の女性と当たり障りのない会話をすることもできる。だが、リュシエンヌ相手に平静を保つことができなければ、護衛騎士の任務を支障なくこなすことができなければ、何の意味もないのだ。


「お前は兎も角、他の女性と接触したらどうなるか、まだわからないだろう。平静を装うだけで精一杯では任務に支障がでる。一瞬の判断遅れが命取りになることもあるんだ」

「そっか。そうですよね……」


 苦し紛れに捻り出した答えだったが、コレットはどうにか納得したようだ。口元に手を寄せて俯くと、彼女はしばらく考え込んで、それから名案を閃いたようにぱっと顔を輝かせた。


「よーし、こうしてはいられません! 必ずセルジュさんの女性恐怖症を克服させてみせますから! 期待して待っててください!」


 意気込んでそう言い残すと、コレットは勢い良く階段を駆け上がっていった。

 人気のなくなった廊下にひとり、セルジュは茫然と立ち尽くした。



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