スピーク・ライク・ア・チャイルド
久しぶりに、あいつの名前を見た。もう十年も会ってない男の名前だ。浜田良。たった三文字のクレジットに、あたしの目は釘付けにされる。
かび臭い、半地下の中古CD店。品揃えも、プログレなんていう偏ったジャンルしか置いてないクソみたいな店。偶然見つけちまったその店に、あたしは旦那に無理を言って車いすを降ろさせ、ずいぶんと昔の記憶がちまちまと刺激されるのを楽しみながら、CDを一枚一枚撫でていた。
そうして、その名前を見つけた。
……あいつ、まだプログレなんかやってんのかよ。あいつの才能なら、絶対世界で通用出来たってのに。カンザスとか、ドリムシとか、いや、あいつならキース・エマーソンにだってなれるって、そう思ってたのに。
「その一枚はね」
パイプの甘ったるい匂いがする。振り向くと、パイプが滑稽に見えるほど華奢なオヤジが、あたしの車いすの後ろに立っていた。
「こういう、半分アングラみたいな連中では有名な一枚だよ。大抵の人間は、手に入れたら一生手放さない。そのくせ廃盤になってるから、今じゃネットでダウンロードするのが定番、くらいにアングラでね」
くっせぇ台詞。この葉っぱと同じくらい匂う。
「しかしなんだ、そういう訳じゃなさそうだな、お客さんは」
あたしは頷く代わりに、深々とため息を吐いて見せた。
「昔昔の話さ。どぶ臭ぇくらい昔の。もう十年になる」
ちらり、と、あたしに残された方の目で、旦那の方を見てみる。あたしの出自を知っているからか、それとも知らなくてもだろうか、彼は、文字通り見たことも聞いたこともないバンドやユニットのCDを、なんだろう、観察していた。
「今どうなるか分からねぇけど、昔は、あたしもそれなりにギターやっててね。そん時の腐れ縁さ」
くるり、と、車いすを店主のオヤジの方に向き直らせて、あたしもあたしの煙草に火を点ける。彼は、じっとあたしの方を見ている。
「人に話すような面白いもんじゃねぇよ。話したくもない。その代わりこいつをもらう。幾らだ? 値札貼ってねぇからさ」
言って、そのCDを、店主のオヤジに渡す。
「こんな美人と腐れ縁、ね。彼にもそんな人間らしい過去があるとは、ちょっと信じられんが。しかしそんな話を聞いてしまったからには、簡単には譲れんな、この一枚は」
美人、ね。片足しかなくて、片目しかないあたしを、美人、か。鼻で笑う。
「しょうがねぇな。話せばいいんだろ。長くもねぇし、聞きたきゃ聞かせてやるよ。どうせ旦那もしばらくここに夢中だろうさ」
越後湯沢で、毎年、この音楽学校では「自由参加」の合宿を開催していた。あたしは気が向かないが、付き合いってのは全く泥みたいに厄介で、払いたくもねぇ金をはたいて、行きたくもねぇ場所に行く。
一応、邦楽を、それもできるだけロックなもんを、という方針の下、あたしは五人編成のバンドで、ギターを担当していた。ま、それの付き合い。しょうがないさ、生きてるんだから。
気が向かないのは、単に移動が面倒だからだ。都内の学校に毎日顔を出すだけでも、人の多い場所だと露骨に嫌な顔をあたしにしてくる間抜けだっていやがるんだ、それが越後湯沢なんて遠くになりゃ、なおさら厄介だ。
あたしは、実はもっとやりたいことがあった。名字は忘れたが、名前の方がやたらシンプルなんで覚えてる奴が、あたしにと作ってくれた曲のことだ。
けどまぁ、しょうがないさね。
あたしは煙草に火を点ける。ベッドにもたれながら。
あたしには左足がない。右目もない。交通事故でなくしちまった。ま、それはどうだっていい。世の中には車いすって便利なもんがあるし、慣れれば左目だけの視界ってのも悪くはない。駅にいきゃあ、エレベータやらなんやらで一人で電車に乗れるし、このあたりは真っ平らだから、夜中に煙草やコーヒーを切らしても特に問題はない。
けど、人付き合いってのは、うざったい。そりゃあそうさ、だって、あたしは端から見りゃ、一人じゃなんにもできねぇ奴に見えるんだしさ。そんな欠損者と、対等に話せる奴ってのは、中々少ない。
でも、音楽は、対等だ。絶対に、何があっても。喋れない奴だって楽器を弾ける。楽器を弾けねぇ奴でも歌うことはできる。あたしみたいに、肉体的に欠損があっても、上半身さえ無事なら(一部無事じゃねぇけど)ギターを弾く分にゃ問題がない。知恵遅れだって、音楽に対する感性だけは鋭い奴なんて五万といやがる。ほら、何とかってクラシックのすげぇ奴なんて、耳が聞こえなくなっても作曲を続けたって言うじゃねぇか。
それに比べて、あたしの欠損なんて、ホントどうでもいい。ギターさえ弾けりゃいい。首から提げて、左手でネックを握れて、右手でピックをどうにかできりゃ、ほら、ギタリストってのはできあがりだろ?
それにしたって、難解な曲を寄越しやがって。なんとか良さんよ。
11/16を三小節、その後1/4を一小節だけ挟んで、3/8を四小節、んで一拍を一拍半解釈で9/4、ね。ったく。あたしはざっと眺めただけの楽譜を思い出す。
ドリームシアターじゃねぇんだから、こんなの受けねぇよ、なんて毒づきながら、このフレーズに合うエフェクトを考えてみたりもする。
『ねぇ、明、聞いてんの?』
ハンズフリーにした携帯から、巴という(数少ない)友人の声がする。バンドの面子じゃない。学友ではあるけど、ただ、それだけだ。正直話はほとんど聞いてない。頭ん中で、楽譜と音符が踊ってるんだ、しょうがねぇよ。
「聞いてねぇって答えたらどうするんだ?」
『別に。明を話し相手にした私が馬鹿なんだって思うだけ。んで、合宿だけど、あんた行くの?』
ああ、こいつもかよ。でも、まぁ、悪くはない。巴は受容の天才だ。ありのままの何かってのが大好きで、飾ることを知らない。初めてあたしを目にしたときだって、どっちかってーと七弦ギターぶら下げてた事に目を奪われてたくらい、受容の天才なんだ。
「巴が下着を洗ってくれねんだったら、あたしゃカビちまう。一応行くさ」
で、この通りの体だから、当然介護者ってのは必要なんだけど、彼女は、何の対価も要求せずにそれをやってくれる。今時エレベーターもない古くさい校舎でも、あたしを軽々抱き上げながら、階段を登ってくれる。事務員(こいつは車いす用)はめんどくさそうな顔してんのに、あたしが、「登るのを手伝ってくれ」って言ったら、二つ返事で了解してくれた。
『あんたさぁ、一応十代の女の子なんだから、下着とかカビるとか、そういうのはおおっぴらに話さない方が良いんじゃない?』
「いいだろ、電話だし、部屋にいんだし。で、合宿? 一応行くよ。しょうがねぇだろ、金は勿体ねぇけど」
9/4を八小節続けて、また11/16に戻る。ホントねじくれてる。
『あんたのヘヴィスモーカーっぷりを、上田巴は心配してるの。バスで行くらしいんだけど、休憩時間とか、一々車いす取り出してたら、バスの方が出ちゃうでしょ?』
「それで、なんか解決策あんのかよ、巴は」
よくよく見てみたら、ベースラインは4/4で一定、か。こいつは、ねじくれてるなんてレベルじゃねぇな、何か憑依してやがる。
『差額はお互いの負担って事で、新幹線で行ける事になりそうなんだけど、ってさっきも言ったよ? 私。新幹線なら煙草吸えるし、駅ならエレベーターとかで移動楽だし』
「人の手を患わせんのは嫌いなんだよ。人の多いところも嫌い。どっちがマシだと思う?」
煙草が、いつの間にか燃え尽きている。もう一本。
『いつも私が明を負ぶってんだけど、それはどーでもいいの?』
「お前はほら、なんだ、別枠だろ」
あーあ、やめだ、やめ。とりあえず合宿に専念する。この曲のことはその後だ。
「ウェイトトレーニングなんだろ? あたしなんて」
『そりゃ、そうなんだけどさ。まぁいいや。合宿は新幹線で行くって事でいいのね? 付き添いは私がやるから、人の手がどうとかそういう心配はする必要なし。今からそっち行くけど、なんか買っとくもんある?』
「ナプキン買っといて。最近不安定なんだ。合宿中に来たら困るからさ。あと冷たいもん、何でも良いから」
『はーい。後十分ね』
電話が切られる。ぷー、ぷー、ぷー。そこで、あ、ディレイを中心に使おう、そう思った。
二、三週間経っても、まだあの曲は頭ん中にこべりついてやがった。あんなねじくれた拍子してやがんのに、メロディーもハーモニーも完璧だ、あたしが思う限り。良とかいう奴は、大馬鹿野郎か奇才かの二つに一つだ。天才じゃないね。奇才、いや、鬼才って言うべきかも。
クソ暑い新松戸の学生寮(一応女子寮)から解放されて、あたしは新潟行きの新幹線に揺られている。冷房ってのは有り難いね、ほんと、文明の利器だ。あたしの部屋、あたしの住んでる寮は、クソみたいにボロっちくて、しかも冷房すらありゃしない。だから、巴が下着を替えてくれなけりゃ、あたしはカビるってのも、あながち嘘じゃなかったりする。
隣の席に座ってる巴が、あたしが何とはなしに車いすのポケットから取り出した煙草に、火を点けてくれる。別に吸うつもりはなかったけど、まぁ、火を点けられたからには吸うことにする。
「あんたのギターってさ、メーカーどこよ」
車内販売で買った冷たくて甘ったるいコーヒーを飲みながら、巴が出し抜けにそう訊ねてくる。
「他の連中は、大抵ストラトかリッケンバッカーだけど。七弦でしょ?」
「五弦ベース使いがなんで七弦ギター使いのギターに興味持つかな」
窓の方を見る。トンネルだった。大げさに煙を吐き出す。あーあ、セッタってこんなクソ甘かったっけ?
「そんなヘヴィなのが好きなのかよ、巴は。この前はツェップにドハマリして、あたしの部屋からCDかっさらったり、その前は筋少だぜ? 見境なさすぎだっつーの」
しかし、久しぶりに乗った新幹線で、しかも喫煙車両ってのは、どうしてこうも居心地が良いんだろう? あたしは大声で話すのも嫌いだし、大げさなリアクションも嫌いだ。周りの人間は大抵黙ってコーヒー飲んで日経読んでるスーツばっか。あたしらみたいなのは多分あたしらだけ。なのに妙に落ち着く。コーヒーは泥水みてぇだけど、インスタントよりは10倍くらいマシだ。
「私のさー、奥の方がね、こう、囁くのよ、私に。もっともっと、って」
けらけら笑い出しそうなくらい軽く、巴は言う。けれど声色は落ち着いている。きっとこの場所から浮かないように、そしてあたしが目立たないように気を遣ってくれてるんだろう。
「見境ない私のリクエストに悉く応えられる、明のCDコレクションも大抵ばかばかしいと思うけどね。着れもしないのにファッション雑誌も妙に充実してるし」
「悪かったな、片足で、しかも貧乳でよ」
あたしは、ああ、こいつのおかげだ、と思う。巴がいるから、流石に自室並みとはいわねぇけど、落ち着けるんだって。
と、自分の胸の話をしたところで、口が勝手に動いていた。
「あ」
「どうしたん、明」
「ブラ付けてねぇ、今。てか多分荷物にも入ってねぇ」
「またかよー」
巴は、ゆっくりと煙を吐き出しながら苦笑した。
「確か去年も忘れてたよ? あんた。また部屋で裸になんないでよ?」
「んだよ、パンツは穿いてただろ」
もう一口、あたしもセッタを吸う。ああ、やっぱり妙に甘い。そろそろこいつともおさらばかな。町中で簡単に手に入る煙草の方が良いんだけど。
「あとハーパンも履いてただろ、一応」
「それが逆にエロいっつーの。分かれ、明」
「お前ロリコンかよ、怖ぇな」
言い忘れてたけど、あたしの欠損は、他にもある。小学生並みに背が低くて、胸も殆どない。だから本当にしょっちゅうブラを忘れる。巴はといえば、どこのキャバ嬢だってくらい、育つところ育ってんだけど。
「ロリコンは治せるらしいぜ、今からでも遅くねぇからさっさと治せよ」
けど、言い忘れるくらい、それはどうでもいい。右側の視界がないことも、立つって事をもう何年もしてないことも、あたしにとっては、犬が吠えるくらい普通のことだから。
「また新しいエロ本買ったのかよ、明。思春期男子か」
「こんな体じゃ娶ってくれる男もいねぇしな、それくらいいいじゃねぇか」
んで、巴も巴。あたしがエロ本を買おうがブラを忘れようが、要するに単なるずぼらでエロいだけの女だってのに、まるで関係ないかのように、こいつは笑うだけだ。言ったろ、受容の天才だって。そんで、あたしの笑えないはずの冗談にも、笑ってくれる、数少ない人間。
「まーたそんな事言って。あんたは私より美人だっつーの。化粧も知らないのに、なんて言うんだ、その、片目しかないってのが余計そそる」
「このド変態が」
こいつといると、あたしも笑える。それから、こいつの気遣いに感謝できる。さりげなさ過ぎて、多分本人も気付いてねぇ気遣い。
と、そこで、例のねじくれた曲が、また勝手に再生され始めた。BPMまできっちり指定してあって、そのおかげであたしは何にも考えずにそいつを弾くことだけを考えられる。で、弾いてみて分かった。あの曲にだって元になるリズムくらいはあるって。それだって、11/8とかいう、おおよそ凡人が考えつくとは思えないもんだったけど。あの、異様なまでの変拍子の羅列は、その曲のスパイス、みたいなもんだった。
「その変態に下着替えてもらう人生のくせに」
「うるせぇ、ちょっと黙ってろ、今電波受信した」
適当な言葉で巴をあしらい、頭の中で流れているその曲を、オーバードライブではなくディストーションにしてみる。ちょっと違う、と思う。
「電波ねぇ。じゃあしょうがないか」
巴が、あたしの言葉に素直に従って、喋るのをやめる。
十分ちょっとの曲の中、最後の方四十八小節、比較的素直なリズムが続くところがあった。そこではディレイとピエゾを使うように指定してあって、それがまた妙に綺麗な旋律で、んで楽譜には、きったねぇ字で『これ以上のソロを考えられるならそっちにしろ』みたいな事が書いてあった。
考えられるかよ、この大馬鹿野郎以上のソロがよ。
いや、一個だけ。マグネットも追加しなきゃだ。あたしのギターじゃ、ピエゾだけだと薄っぺらい音になっちまう。
けど、そんなのは演奏者のわがまま、みてぇなもんだ。こいつの、この大馬鹿野郎に対するケチだとか、意見だとか、そいつの言う『これ以上』なんてんじゃ、全くない。
「あ、電波ついでに、巴、質問」
ふと思いついたことを、そのまま巴にぶつける。
「何よ、藪から棒に」
巴はそっぽを向いて、煙草を灰皿に押しつけていた。言葉は乱暴だけど、別に声色はさっきと変わるって訳じゃない。落ち着いてて、だけど楽しそうな声。
「良って名前の奴、知ってる? 作曲が専攻だと思うんだけど」
「名字はなんなのよ、名字は」
巴は少し呆れた様子で、鼻から大げさに息を吐いた。
「忘れた。とにかく良は良だ。良いって書いてリョウ」
あたしはそんなことには全く気を止めず、言葉を続ける。
「この前あたしに楽譜を押しつけて来やがってさ、あたししか弾けそうな奴はこの学校にゃいねぇんだ、なんて言って。んで、その曲の作曲者がナントカ良」
「そんな大事な人の名前くらい、ちゃんと覚えてやるのが女の礼儀ってもんでしょが。もしかしたらあんたに個人的な感情を抱いてるのかもしれないし」
巴の言葉に、ぎくりとする。個人的な感情? このあたしに? 片足で片目でつるぺたのあたしに? 馬鹿馬鹿しい、と思いつつ、何故かどきどきする。
「いや、わりぃ」
ぎこちなく謝って、煙草を灰皿に押しつけてから、もう一本火を点ける。
けどそこで、また例のねじくれ曲がったリフが脳裏をよぎる。あの、なんかが憑依してるみたいな変拍子が連続する、例のリフ。
「あー、けどそれはねぇわ」
また窓の方を見る。どこにでもありそうな田舎っぽい景色が、物凄い早さで過ぎていく。
「どうしてさ」
何故か不満そうな巴。けどそれは気にしない。
「そいつの楽譜がそう言ってんのさ。見るか? すげぇぜ?」
言いながら、あたしは座席上の荷物だなを指さす。そこに入ってるんだ、と身振りで示す。このずぼらにずぼらをかけたような女でも、その楽譜をどこに入れたかくらいは覚えている。それくらい強烈な代物だ、あれは。
ああ、惚れたとしても、そりゃあたしのギターにだよ。巴にそう言いたかったけど、なんか自意識過剰みてぇだし、なんか惚気くせぇし、やめにした。
「あーはいはい、見ますよ。明、足どけて」
「あいよ」
あたしは残ってる方の右足を折りたたむ。短い(てぇか小さい)のがこういう時は役に立つってのが、ちっと皮肉だな、と思う。
「手前のポケットな。クリアファイルに挟まってる」
「どれどれ……って分厚いよ、分厚すぎるよ、これ全部?」
あたしはなんか、その言葉に物凄い、なんだろう、満足ってーか、誇らしいってーか、そういう感じの感情を覚えた。
「ああ、全部。それ全部で一曲だ」
「一曲? マジで?」
けど、言ってる巴もまた、その楽譜に釘付けになってる。あたしの隣で棒みたいに突っ立って、微動だにしやがらねぇ。
「すごい。これはすごいわ。何かよく分からないけど、とにかくすごい」
「音の滝、って感じだね、弾いてみた限り」
ちっぽけな喩え。だけどあたしにはそれしか浮かばない。音ってのは水みたいなもんで、激しく打つことも、ゆったりと流れることも出来る、それくらいしか知らないから。
「弾いた限り、って、あんたこんな難しいの弾けるの?」
「弾いたさ。二十ページ目くらいだったかな、そこらはすっげ苦労したけど」
例の、怒濤の変拍子があるあたりを、あたしは半ば笑いながら指定する。
11/16を三小節、その後1/4を一小節だけ挟んで、3/8を四小節、んで一拍を一拍半解釈で9/4。
「あんた、弾けるの? これを?」
ようやく棒みたいに突っ立ってる状態から、楽譜とクリアファイルを手に、巴が座席に戻ってくる。あたしはまた足をたたむ。
「なんとかかんとか、って感じだけどな。流石に自分の物にするにゃ、こいつはいろんな意味ででかすぎる」
「よし、決めた、巴は決めた」
まだ楽譜の上に視線をさまよわせながら、ちょっと上の空みたいな感じで、巴は言う。
「あんたとそのナントカ良さん、ジャムらせる算段を取ってやるからさ、感謝したまえ、明」
「感謝じゃなくて覚悟だっつの、そんな奴とジャムるなんて」
とはいえ、それは確かに嬉しい事だ。この曲を理解するにも、なぜあたしを選んだかを知るためにも。
「ダンケ、巴」
答えはなかった。ま、しゃーないか、これだもん。
合宿自体は、何とか滞りなく進みそうな気配だった。少なくとも一日目は。付き人みてぇに、巴(と事務員)に階段の上り下りを頼む必要はあったけど、ま、それを今更気にしてもしょうがない。
くそったれなのが、去年と同じホテルだったって事だ。地上二階、地下一階、エレベータなし。地下にスタジオがいくつかあって、地上は客室とロビー。事務員の奴も気を利かせろよ、あたしじゃなくて巴に。あたしはあいつのことが大好きだからどうでもいいんだけど、小さいとはいえ、片足がないとはいえ、人一人担ぐんだぜ、それなりに重いっての。あいつとべたべた遠慮会釈なく触るのだって、別に女同士だから、どうでもいい。けど、ベース弾きまくって疲れた後、あたしを担いで客室まで。それは流石に気の毒ってもんだ。
けどまぁ、音楽づくしの一日中を過ごすにゃ、越後湯沢の涼しさは最適かもしれない。冷房なしでも、なんてぇんだ、自然の涼しさとでも言えばいいのかな、そういうのが勝手に部屋に入ってくる。
しかし、いろいろ理由があってギターは七弦を愛用してるけど、J-ROCKのカバーじゃあんまり意味がない。一番に意味を持つのは、そうだな、例えばアルフィーあたりのカバーをして、んでそれぞれのパートのソロを挟むとき。一弦から七弦までフルに使って、何も考えねぇでとにかく音を紡ぐ。そういうとき、出せる音の幅が広いのは、すげぇ役に立つんだ。
課題曲、ってのも変だけど、とにかくそういうことになった、というかあたしからそうしたのは、筋少の『サーチライト』。レベル別に、多分ランダムだけど、五人か六人編成の臨時バンドが作られて、それで演奏する曲だ。ヘヴィなの、ってのあたしの好みにも合致するし、あの途中の静かな朗読の後ろで、ギターがさりげなく暴れてるってのも、楽しそうだったから。アルフィーのプログレにしても良かったんだけど、自分で言うのもなんだけどさ、あれを弾きこなせるあたしくらいの技量をもった奴は、あいにくバンドにはいなかった。
ファーストギターがあたしで、セカンドギター兼任のヴォーカルが奥手っぽい男(名前は知らないし興味もない)。ドラムはみるからに下半身が軽そうな、これまた名前に興味も沸かない男。ベースは至ってまともな四弦の、これもやっぱり印象の薄い男。キーボードは、巴並みの美人の小泉って奴で、こいつだけは名前を知っていた。
で、あたしみたいに我が強くて、音楽ってのは平等だ、なんて思いこんでる音楽バカはあたしだけだったから、なし崩し的にあたしの意見が通って、筋少。最近リリースされたばかりの曲をやってもよかったけれど、長い曲の方が割と好きなあたしにとっては、『サーチライト』がちょうど良い。何より、暴れられそうだ。
しかしヘヴィメタルってのは良い。何も考えずに奏でられる。ギターを弾くことだけに集中できる。けどそれもバンド全員がそれなりの技量を持ってたら、の話であって、下半身軽男のドラミングが下手でさ、ちょいちょい面白くもないオカズを入れて来やがる。たった三日間の合宿で、こいつらと険悪な仲になったりしたら最悪だ、我慢してあたしはギターを弾く。
そういや去年もこんな感じだった。小泉がキーボードとヴォーカルの兼任だったんだけど、ソロパートになると途端に駄目でさ。理論が先行しがちなのかな、奇をてらったところもないし、ペンタトニックに頼りすぎてる感じもないんだけど、ちょっと物足りないソロで、腕が付いてきてなかった。やっぱりあたしはいらついちまって、んで夜になってもアルコールも入れられない缶詰だから、巴へ全部はき出すのも無理で、不満だけがどんどんあたしのなかに溜まっていって、結構キツかった。
臨時編成バンドの練習が終わったら、自分の時間が取れる。ロビーでアイスクリームでも食べようか。巴に担いでもらわなきゃ。どこだ? いやしねぇ。じゃあギターでも弾くか。迷う。そこへ。
「楽譜、どうだった?」
聞き覚えのある声が、車いすの斜め後ろ左上からかけられた。
「あー、えーっと」
あたしは言葉を探す。思い出せるのはあの怒濤のようなリフと、音の滝みたいな全体像だけ。こいつのことは、どうも思い出せない。えーっと、名前は良だよな、とだけ何とか思い至ることが出来たけれど、それ以外は全く、全然無理だった。
「浜田。浜田良。あんなねじくれた曲渡してごめんね。えーっと……西村さんだっけ? とにかく君なら弾けそうだったから」
なんだ、こいつもかよ。しかも『君』とか。ふざけやがって。ようやく名前を思い出せた浜田は、あたしが車いすをこぐのをやめると、隣に人なつっこそうな笑みを浮かべながら(そういや、例の楽譜渡してくるときもこんな感じだった)中腰になって、あたしに視線を合わせる。まっすぐに。あたしは目を背けてしまう。
「そう、西村。西村明。弾いたよ、なんとか弾けた。ねじくれたのは好きだ」
なぜか顔が熱い。赤くなってんのか? そうだとしたら最悪だ。あたしは視線を受け止められない。
「良かった」
言って、浜田はあたしが膝の上に載せているギターに、ぽんと手を置いた。もちろん弦とかピックアップがある場所じゃなくて、触ってもどうって事のない場所。
「イエスとかドリームシアターとか参考にして作ってたら、暴走しちゃったんだ。それで、西村の噂を聞いてさ。七弦の凄腕だって」
その台詞にぴんとくる。巴、なんてことしやがんだよ。ちらっと見える彼の顔は整っているし、柔和そうな笑みも似合っている。ふざけんなよ、巴。
「ロビーで休んでたら、上田さんから、西村さんならまだ地下で練習してるだろうって言われてさ。それで良かったら……」
「あー、もう!」
我慢できやしねぇ、巴。叫ぶ。あたしのことほっぽり出したと思ってたら、てめぇの差し金かよ。もういいよ、あんたの手のひらの上で踊ってやるさ、とことん。
「ジャムだろ? いいよ、付き合うさ。どうせ巴の入れ知恵だろ、とことんやろうじゃねぇかよ」
音の滝の創作者とのジャムセッション。音での会話。違う種類だけど、あたしも浜田も口べたみたいで、口を開けば大抵コードのこと。ひょっこり巴が顔を出してくれないかな、なんて思ったりもする。あいつのベースラインは完璧だ。ルートしか書いてない楽譜から、完璧なベースラインを生み出してみせるんだ、あの五弦ベースで。
けどそんなアホみたいなことはなくて、あたしと浜田は、黙々と音を紡ぐ。あたしに理論はない、全部直感だ。なんも考えねぇで、ただ音を紡ぐ。
浜田のパートはキーボードで、しょっちゅう音を切り替える。それも直感なんだと分かる。あたしもエフェクターを切り替えまくる。何も考えない。ただ音を生み出す一個の機械になる。
素人のジャムだ、そりゃあ妙な旋律が生まれることもある。けど気にしないし、気にできない。浜田がEm9からCへの旋律を奏でる。あたしが応じて、D7からF#7の旋律を返す。
そのうち我慢できなくなって、二人ともこの四つのコード全部を使うようになる。旋律がぶつかり合って、新しいハーモニーを生み出す。
それも我慢がいかなくなる。そのうちほとんどコードを無視して音を出すようになる。あたしはディレイをかけたり、最初はディストーションをメインに使っていたのを、マグネットに変えたり、けどやっぱり気が変わってオーバードライブに変えたりする。浜田は浜田で、キーボードでしか出せない音を出す。十本の指でほんとに足りてんのかって思うような複雑な旋律。あたしも四分音符だったり十六分音符だったり、もう何が何だか分からなくなる。
いつしか、あたしも浜田も、最初の旋律に戻っている。主題って奴かな、クラシックやプログレで言うところの。
音での会話が最高潮に達する。そこで、終わり、だ。永遠に続く訳じゃない。何故か分からないけど、とにかくそれで終わりって気がした。
冷房が効いているスタジオであることを、ようやくそこで思い出した。
煙草が吸いたい。けどスタジオ内は禁煙だ。あたしは急激に、二言くらいなんか感想を言ってから、さっさと浜田と一緒って事から離れたくなる。
浜田も、それは同じだった。
浜田が、床に降りたらそれで終わり、のあたしに変わって、シールドやエフェクターをあたしの車いすのポケットにしまってくれる。何も言わない。目が少し笑っている。
「ダンケ、浜田良」
「ありがとう、西村さん」
後片付けが終わると、お互い、ほとんど同時に口を開いていた。たまらず、あたしは笑い出す。浜田も笑う。大きな声で、とても。
笑い声も、永遠じゃない。
ひとしきり笑いあうと、どちらから、と言うわけでもなく、スタジオを出た。あたしは巴を連れてきてくれ、とだけ言い伝えて、階段の傍らにある喫煙所で煙草を吸い始める。浜田はおおきく頷いて、そして去っていった。
「それで?」
レコード屋の店主が、身を乗り出してくる。
「だんだん面白くなってきた」
あたしは笑う。
「それだけさ。その後夏休みになって、夏休み明けに、巴とあたしと浜田良とで、一個アルバムが出来るくらいの分量、レコーディングした。ドラムだけは打ち込みでね。んで、そのアルバムのタイトルが、まんまこれ。それだけさ」
あたしは新しい煙草に火を付ける。あのときは甘すぎると感じたセブンスターだが、未だにこいつのままだ。