第九話:禁じられた遊戯<ロマンス>(1)
午後八時半。
カーショップ「Mスポーツ」の作業場。古ぼけた室内照明が、倫子の足元に暗い影を落とす。
店主の水山からは合鍵を渡されてある。他の従業員は店主を含め、とっくに家族の待つ家路へと向かって行った。
寂しいひとり身のワンルーム暮らし。「ただいま」と口にしても、暖かく「おかえり」と出迎えてくれる人は誰もいない。
そんな従業員は入店五年目の中堅スタッフ、三澤倫子だけである。
役職手当も残業手当ても付かないのに。こうやって最後まで職場に残り、ひとり黙々と業務をこなす。それが彼女の慢性的な日課になっていた。
約一年前に整備主任の肩書きと共に、水山から託された職場の合鍵。自分の築いた仕事に対する雇用主からの信頼の証だ。
そんなささやかな勲章が、彼女のプライドであり支えだった。
夜になると肌寒い十月初旬。だけど倫子のスリムな身体は、ほのかに熱く火照っていた。
薄暗いガレージ。彼女の他には誰も居ない。チカチカと点滅する蛍光灯が、背の高い彼女の長い影を揺らしている。
コンクリートの土間床が、油と煤とタイヤの跡で汚れている。無彩色で描かれた幼児のクレヨン画のようだ。
工具やパーツや古いタイヤなども、所かまわず無造作に置かれてある。
残業時間は付けっぱなしのFMラジオ。工具棚の隅には、埃を被った年代物のカセット式のラジカセがぽつねんと佇んでいる。選局にも選曲にも、さしてこだわりはない。
そこからクラシックギターの音色が静かに流れて来る。
切ない主旋律。細かく震える声のような物悲しい音。きゅきゅっと弦のこすれる音がする。たまに耳にする曲ではあるが、クラシックはあまり詳しくない。
「はぁ、ぼんやりしてないで仕事しなきゃあ」
くすんだホワイトの古いステーションワゴン。黒いバンパーに四ナンバーの商用車だ。
襟元のくたびれたワイシャツを着た、加齢臭の漂う中年男のようにみすぼらしい躯体。それが今宵の倫子の業務上の恋人だった。
辛い仕事が終われば、蒼いスーツをまとった素敵な彼氏が、店の駐車場で待ってくれている。
暑い夏でも寒い冬でも、雨の日も雪の日も。文句も言わず、じっと倫子の帰りを待つブルーマイカのトヨタ「MR-S」。それが彼女が長年乗り続けている大切な彼氏だ。
家路にたどり着くまでの十五分。束の間のドライブデート。それが今日という一日を頑張った、自分へのささやかなご褒美だった。
くたびれたステーションワゴンのボンネットを開く倫子。煤けた埃とオイルと昭和の匂いが鼻にまとわり付く。
エンジンルームを神妙な面持ちでじっと見つめる。右手に握り直したスレンレス製のソケットレンチが、ひんやりと冷たい。
「はぁ」
何度目のため息だろうか。さっきからまったく仕事に手が付かない。
先日。店主水山に例のおせっかいなアドバイスを受けて以来、残業時間はずっとこんな調子だ。
『お前さんも年頃の娘なんだし。いいかげん、いい人見つけたらどうなんだ』
薄明かりの中、ソケットレンチを片手にバッテリ交換を始める倫子。うわの空。手袋はしていない。素人でも出来る簡単な作業だ。
マイナス端子を外す倫子の眼前で、突然バチッという音と共に閃光が煌く。
「痛っ」
薄暗いガレージに火花が飛び散った。レンチがうっかりプラスに触れてしまったせいだ。
おもわず手放したソケットレンチが、乾いた金属音と共に床に転がる。顔をしかめる倫子。細く長い指先に痛みが奔る。
「わたしとした事が、こんな初歩的なミスを犯すなんて」
頬もすこし沁みる。顔にも飛び散ったみたいだ。
「バッテリ交換なんて素人でも出来る軽作業なのに。情けない、プロ失格だわ」
油にまみれたむき出しの頬を、傷だらけの左手でさする。
「跡、残るかな……」
最近はファンデーションや化粧水でガードすらしていない。辛うじて口元に薄く紅を注すだけだ。
「まあ、別に残ったって構いはしないけど。わたしの顔なんて別に見せる人がいるわけじゃないし」
それが彼女の仮面。女の自分を打ち消す為の。
「わたしの顔が傷ついたって、別に悲しむ人がいるわけじゃないし……」
倫子のつぶやき声と同時に、ラジオのギター演奏が幕を閉じた。
『聴いて頂いた曲は十九世紀スペインの作曲家フランシスコ・タレガの『アルハンブラの思い出』。演奏は村治佳織さんでお贈りしました。高度なトレモロ奏法を展開しながらも、ピアノソロように一本で主旋律も根音も同時に鳴らす――』
ラジオの女性DJが丁寧な口調でクラシック曲の説明をする。
『他の誰にも頼らない孤独で孤高の旋律。そんな独奏ギターの素敵な演奏でした――』
年季を感じる落ち着いた声。印象からすると倫子よりひと回り以上とおぼしい年代だ。紹介する曲調に合わせて、声色もトークも自在に操っている。
堂に入った安定感のある仕事ぶり。酸いも甘いも知り尽くした大人の女のなせる業であろう。同じ働く女性として、倫子も負けてはいられない。
古ぼけた黒いフロントバンパーに両手を突き、「はあぁ」と深々うなだれる。
「しっかりしなさいよ倫子。残業までしてなにやってんのよ。職場に遊びに来ているわけじゃないのよ。ちゃんと仕事しなくちゃ」
誰も居ないガレージで自分に激を飛ばす倫子。厳しく渇を入れる。
チャックを下ろしたネイビーブルーのツナギ。首もとの拠れた白いTシャツの隙間から、黒いブラに包まれた自分の胸の谷間が見える。
せっかく形の整った豊かな胸なのに。ここしばらく誰の手にも触れられていない。
ここ何年も、人のぬくもりを感じていない。
なぜなら。
あの時の記憶が、ずっと脳裏に焼きついて離れないから。
「わたし何やってんだろう」
誰にも依存しないで生きて行く為に。他に生き甲斐を見い出す為に。
キャリアウーマンの道を選んだ自分。
だけど、そっと胸の奥にしまい込んだはずの女としての情念が。
彼女の隠しきれない秘めたる胸の内が。
封印していた感情が心の底から湧き上がる。
店主水山との会話を、ひとり反芻する倫子。
『好きかどうかもよく分からない男性とお付き合いするなんて、そんな不誠実なことわたしには死んでも出来ません』
小兵の倫子の感覚では、ちょっとどころか絶対にありえない。
『それに、亡くなられた奥様をそんなに早く忘れられるものなんですかね』
そんなに早く忘れられない。
なぜなら彼を。
『他に誰がいるんだよ、誰が』
本気で愛していたのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『続きまして次の曲は、同じくタレガ作曲――』
ベテランの女性DJが速やかに仕事を続ける。
『演奏はナルシソ・イエペス。1952年に公開されたフランス映画「禁じられた遊び」のサウンドトラックより――』
倫子の脳裏に焼きついて離れない屈辱の光景。
それは、彼の恋人の勝利の笑顔。
走り屋としての、そして女としての。
敗北の瞬間。
思い出す。”伝説の走り屋”との最後の遊戯を。
『曲は「愛のロマンス」――』
あの男性との最後の遊戯を。