第八話:飼い慣らされた狼(3)
「いいかげんにしろよ真琴。軽々しく”愛している”など言語道断だ」
顔厚忸怩。日本男児たるもの、そんな不埒な発言は面と向かって軽々しく口にしてはならない。
それが、かつて孤高の狼「ミブロー」として誉高かった壬生翔一郎、昭和の男前による鋼の信念だ。
妻と寝室を共にする夫にとって、通勤の車内は唯一ひとりになれる貴重な空間。言わば城である。
しかしその聖域さえも、桃色のエンジンスターターのせいで蝕まれつつある。
「あのイグニッションキーを回す瞬間が、朝のスイッチが入ってよかったんだよ。余計なことしやがって」
それは煙草を吸わない翔一郎に取って、仕事という名の戦闘モードに気持ちを切り替え、戦場の職場へと向かう漢の大切な儀式。
ご主人様に飼い慣らされた鈍ら犬には、自分で朝のエンジンを掛けることすらも許されていない。
「真琴はマイホーム実現に向けて、壬生家の再興に向けて頑張ってくれている。それは理屈では分かっている。分かってはいるんだが……」
翔一郎はハァとため息混じりで、愛しげにWRXのステアをさすった。
「こんな情けない主人を持って、お前も可哀想だよな相棒」
薄暗い車内に差し込む朝のまぶしい陽射しが、アラフォー手前のげっそりした頬に影を落とす。せっかくの男前も台無しだ。
「そろそろこいつも手放して、燃費のいいコンパクトカーかミニバンに買い替えんとならんのかな……」
何故だか最近やつれ気味。ひと回りも年の離れた元気な若妻の、徹底した栄養管理で満たされている筈なのに。
「なあ、どうなんだよ……相棒」
一体、このモンスターの底力を何処で発揮すればよいのやら。
極めつけは、あの頑張り過ぎの痛弁。
カロリー調整は完璧な筈なのに、やたらと胸や胃に重い。
恥ずかしすぎるにも程がある愛妻弁当のおかげで、昼休憩は照明の落とされた薄暗いデスクでぼっち飯。職場の仲間との大切なコミュニケーションタイムまで奪われてしまった。
そこそこ名のある大学卒の翔一郎ではあるが。いまだ役職は付かず、職場のPCも重要業務も、管理者権限も持たされてはいない。つまりは平職員だ。
公務員の世界は学歴社会。翔一郎がいくら仕事ができようと、必死に努力をしようとも。出世街道の先行は大学の偏差値順にしか回ってこない。
密かに妻の真琴は私立 尽生学園高等部の卒業生。県内でも有数のレベルを誇る進学校だ。かつて翔一郎が、ここの受験に見事玉砕したという事実は、いまでも妻には内緒の黒歴史だった。
その妻への学歴コンプレックスも、出世のプレッシャーとなって重く圧し掛かっている。そういう自分だからこそ、職場の円滑な人間関係で補う必要があるのだが。
すべては、あの愛情過剰な弁当のせいでご破算だ。
幼馴染であるふたりが入籍して約一年。それ以来、ひと回りも年の離れた妻のペースに支配されっぱなしの新米亭主。
大きな声では言えないが、夜のベッドの上でもマウントを取られっぱなし。
盛りのついた若馬のほとばしる情欲を、乗りこなしきれないリタイア寸前のアラフォー騎手。体力的にかなりしんどい。
「重い、体重は軽いのだが重い。真琴、おまえの想いが重すぎるんだよ」
それが最近、翔一郎が心身共にげっそりとやつれている理由である。
「真琴は頑張りすぎなぐらいに頑張っている。俺の事を愛しすぎる程に愛してくれている。それは地球上の誰よりも分かっている。理屈では痛いほどに分かりきった事ではあるが――」
結婚前は、あれだけクルマ好きだった走り屋夫婦ではあるが。最近はガソリン代がどうとか、節約がどうとかで遠出もご無沙汰。ましてや峠のタイムアタックなんて言語道断。
陶犬瓦鶏に夏炉冬扇。公道のモンスターマシンも、かっこいいスポーツカーも。真夜中の果てなき峠を駆け抜ける伝説の走り屋も。
昭和男の夢とロマンは、日進月歩の現代では絶滅危惧種。
最近は彼の職場の役所だって、休憩時間は室内の照明を消灯されてある。地球環境に優しい低燃費のエコカーやLED照明が全盛のこの時代。無駄に眩しいトイレの白色電球百ワットは、どう考えても彼の方だ。
大きく「はあっ」とため息。
「昔の俺たちは、あんなにも輝いていたのに。あの頃の俺たちは、真夜中の狼たちは、一体どこに行っちまったんだ」
封印していた感情が、心の底から湧き上がる。
「なあ、おまえもそう思うだろ。教えてくれ、教えてくれよ……崇」
翔一郎は、おもわず親友の名前を漏らした。
二度と帰らぬ青春の日々を共に過ごした、かけがえのない友。自分が峠のバトルで死に追いやってしまった、天国で眠る親友の名を。
フロントガラスに移り込む自分の姿が、主婦たちの世間話とオーバーラップする。
過去の栄光にすがり付く、哀れで女々しい負け犬の姿が。
白いYシャツの首元には、自分の好みに合わない派手なネクタイ。妻、直々のお見立てだ。
「もう、うんだりだ」
翔一郎は妻が結んだネクタイを徐に緩めた。
飼い犬のように餌で慣らされた中年亭主。彼の中の眠れる真夜中の狼が、魂の首輪を引きちぎる。
「俺の我慢も臨界点だ」
臨界点とは、物質の気相 - 液相間の相転移が起こりうる温度および圧力の範囲の限界を示す相図上の点である。
「いいかげんにしろよ真琴。いつまでも調子に乗ってんじゃないぞ」
Yシャツの胸ポケットに手を伸ばす。
妻に抑圧された亭主は、ポケットから徐にiPhoneを取り出した。
「そっちがその気なら、こっちにだって考えがある」
思いつめた表情で”ある女性”の横顔を思い浮かべる翔一郎。生唾を飲み込みながら住所録を性急にスクロール。
Mの欄で、ピタリ指を止める翔一郎。
「錆びれちまった鈍ら刀の俺にだって」
目的の女性の名前にたどり着く。
翔一郎は受話器のマークを見つめた。
「心の隙間を埋めてくれる密かな寄り所の」
そう――。
「当てのひとつやふたつぐらいはあるんだ」
頭文字Mの、あの女性の。