第三話:淑女【Lady】の名は倫理(1)
「ごめんなさい、お断りします」
倫子は常連客である男性の告白を一刀両断した。
通勤ラッシュで忙しない平日夕暮れ時。カーショップ「Mスポーツ」での出来事だった。
主要国道の沿線に店舗を構えるそのショップ。小規模ながらも店主の人脈が豊富なこともあり客の入りは上々だ。
肩を落として店内を後にする眼鏡姿の男性。
彼も例外ではなく、店主である水山と古くから親交のある上得意様だった。三十代半ばに見えるが、そう考えるともうすこし上なのかもしれない。
二十代後半とおぼしきネイビーブルーのツナギ姿の女性が、シルバーメタリックのメルセデスベンツE-Classに乗り込む男性の背中を見送る。痩せてはいるが広い肩幅。高い上背に上質なスーツをまとっている。
「本当に残念です倫子さん。でも僕は諦めませんから。欲しいものは必ず手に入れる。その為には常に粘り強く全力を尽くす。生き馬の目を抜くビジネスの世界で、今までそうやって生きて来ましたから」
本革のシートから言い残す男性。表情は沈んでいるが、理知的で精悍な顔立ちだ。
上背のあるスマートな彼女を見上げた彼は、そのまま名残り惜しそうにベンツのドアを静かに閉めた。
凜とした佇まいで深々「ありがとうございました」と礼をする彼女。業務口調の挨拶だ。
初秋の風が、彼女のさっぱりと短くまとめた軽い茶色の髪をなびかせる。オイルまみれの顔には、まったくと言っていいほど化粧っけがない。
にもかかわらず、彼女の元へは異性からの交際の申し込みが後を絶たなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なあ三澤。お前さん、これで何人目だよ」
水山が少々メタボ気味の腰に手を当て、呆れ顔で言い放つ。
ショップに隣接するガレージ。すっかり日も暮れた作業場には、古くなった室内照明が幾つかチカチカと点滅している。
「俺が知ってる限りでも、今年は四人目だぜ」
年齢は、おおよそ四十代前半。肩幅の広いがっしりした体躯を、くたびれたダークグレーのツナギに押し込んでいる。
アラフォー経営者の問いに「はあ」と無愛想な返事をするアラサーの女性従業員。古いセダンのボンネットを開け、ファンベルトの交換作業に没頭中だ。
それがMスポーツに勤務する、二級ガソリン自動車整備士の三澤倫子である。
「さっきの花里さんとは古くからの付き合いでな。ウチの大事な上得意さまなんだ」
どことなく人好きのする愛嬌を備える店主水山ではあるが。雇用する女性スタッフによる常客への「ごめんなさい」の連打には、流石に苦言を呈したくなったのであろう。
「花里さんは県北の温泉街で『花湯グランドホテル』を営む実業家なんだぜ。頭脳明晰、T大を主席で卒業した超エリートだ。おまけに眼鏡を外せば、人気俳優も舌を巻く程の男前ときたもんだ」
「一応、知ってますけど」と倫子。作業の手を止めず、気のない素振りで言い放つ。
「愛妻家だったんだが、数年前に若くして美人の奥さんを亡くしてしまってな。現在は婚活中。元来、ウチみたいな小さな店に出入りするような身分のお方じゃないんだが」
腰の手を腕組みに返る水山。
「弟のタツヤくんがハチロク乗りの走り屋でな。元々は彼が俺の知り合いで、その紹介なんだ」
「へぇ」と素っ気ない返事をしながらも、”ハチロク乗りの走り屋”というフレーズに触手がピクリと動く。
――確か、彼の”あの事故”の対戦相手もハチロクだった筈――。
「まったく、あれだけ上玉の騎士、いや帝王を袖にするなんざ。微Shop店長の俺の感覚ではちょっとありえんな」
「そういうの興味ないんで」と仕事の手を止めない倫子。中年オヤジ店主の駄洒落を左に受け流す。
「弟くんも結構なイケメンだぜ。年はたしか三澤よりすこし下の筈。タツヤくんは走り屋だがら、お前さんとは趣味も話しも合うだろう。年上に興味がないんだったら、なんならそっちを紹介しようか」
おせっかいな中年店主が、嫌らしい笑みを浮かべてしつこく絡む。
倫子は作業の手を止めて、水山の方を振り返った。
「いい加減にして下さい」




