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Lady-Mの悲劇  作者: 祭人
第一章 純愛はひとつの禁忌
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第十一話:禁じられた遊戯<ロマンス>(3)

「八神街道最強決定戦」は終幕を迎えた。


 結果は倫子の惨敗だった。


 レベルがあまりにも違いすぎた。


 今宵、彼と戦った身の程知らずな対戦者である自分に対し、彼女は心の底から同情した。

 

 そして同時に気が付いてしまった。


 彼を前にした時にいつも感じる、ほとばしる血潮と高鳴る鼓動。


 尊敬なのか、敬愛なのか。それとも畏怖の念か、若さ故の対抗心なのか。


 それまでは、この感情の正体が何者なのか自分でも分からなかった。


 だけどあの瞬間、倫子には答えがはっきりと分かってしまった。


 数分以上遅れてゴールした彼女の瞳に、真っ先に飛び込んできたシーン。


 インプレッサWRXの開いたサイドガラス越しに、勝者の首筋へと抱き付く彼の恋人。


 艶やかな栗色のポニーテールが、生気あふれる若馬のように左右に揺れる。


 可愛らしい素直な性格。はじける笑顔がまぶしい。


 光り輝く太陽に向かって元気に花咲くひまわりのような娘。


 ――わたしとは正反対なタイプの――


 彼の幼い恋人は、同時に走り屋としての倫子を認め慕ってくれる、可愛い後輩でもあった。


 その光景を目の当たりにした瞬間。倫子は自分の感情のすべてを理解した。


 嫉妬。


 屈辱。


 そして敗北。


 血潮を迸らせ鼓動を高鳴らせる、この身を焼き尽くすような嫉妬ジェラシー


 惨めで浅ましい感情。走り屋としても女としても。


 ――わたしはあのふたりに完敗した。


 認めたくない。でも認めざるを得ない。


 そう、わたしは不覚にも。


 彼のことを愛してしまった――


 という真実に。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 古ぼけた昭和のラジカセから、クラシックギターの物悲しい旋律が流れて来る。


 切ない短調マイナー分散和音アルペジオ。スペインのギタリスト「ナルシソ・イエペス」による10弦ギターの独奏。古いフランス映画「禁じられた遊び」の「愛のロマンス」だ。


 FMラジオの名も知らぬ音楽番組。スピーカーが消耗しているのか音がすこし割れている。電波状況が悪いせいで耳障りな雑音も幾分か混ざっている。


「しっかり者の配偶者は、業務上必要不可欠なメンテナンス・パートナー……か」


「禁じられた遊び」の主旋律を背に、店主水山の台詞がひとりの娘の姿とシンクロする。


 彼の配偶者の、無邪気に弾ける若妻の笑顔が。


 ――なれるものならなりたいわよ、わたしだって――


 倫子の脳裏にあの敗北の記憶が鮮明に甦る。


 胸の奥底に押し込めた筈の屈辱の記憶。


 封印していた感情が、心の底から湧き上がる。


 ――あの人のメンテナンス・パートナーに――


 彼が好き。だけどそれは言えない、言ってはいけない。


「だめよ、わたしったら。倫子のりこの倫は倫理りんりの倫。永久封印。この気持ちは一生掛けても闇に葬るの。この名に変えても」


 彼、お得意の四文字熟語を真似てみる。永久封印。それが、かつては八神の絶対的 女王クィーンと呼ばれた彼女の倫理。三澤倫子、鋼鉄の信念だった。


「彼とあのの素敵な未来を応援してあげなくちゃ。他の誰よりも……」


 倫子はひとり夜の職場ガレージで自嘲した。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 午後九時半。倫子は帰り支度を始めていた。


 静まり返ったMスポーツのガレージ。ラジカセの電源も切ってある。


 汚れたネイビーブルーのツナギ。速やかに胸元のチャックを下ろす倫子。彼女の他には誰も居ない。


 汗を含んだ肌着が外気に晒され、ひんやりと冷たい。湿った白いTシャツが透け、彼女の豊かな胸を包んだ黒いブラが薄暗い室内に艶めいている。


 腰元に両手を当てる。倫子がツナギを足元に下ろそうとした、その時。


「ボボボボボ……」


 突然、静寂の空間に駐車場の方向から排気音が響き渡った。


「こんな時間に誰だろう。店長かしら。いや違う、店長のエボワゴン――三菱の音じゃない」


 独特な重低音。水平対向エンジンの音だ。


 排気音のメーカー別の聞き分け。カーショップ整備主任の倫子にとって、職業柄お手の物だ。


 一般的なエンジンの上下ピストンと異なり、左右のピストン運動により相互の振動が打ち消す。そのために向かいあうピストンが慣性力を「打ち消す」作用が生まれ、振動の少ない独特のフィーリングが得られる。


 通称ボクサーエンジン。水平動作がボクサーのフットワークに似ていることが由来だ。


「排気量は大きそう。レガシィ、それともポルシェ?」と眉をひそめる倫子。彼女の凛々しく整った目元が歪む。


 日本ではスバル、海外ではポルシェが採用している。日本においてはマツダのロータリーエンジンに次ぐ特殊な構造だ。


「飛び込みのお客さんかしら。車が何かトラブったとか」


 アイドリング音が停止した。


 それと同時に。倫子のツナギのポケットから突然、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。


「え、常連さん?」


 営業時間外の代表電話は、店主水山の携帯電話に転送される。飛び込みの客なら整備主任の倫子には繋がらない筈だ。


 彼女はスマホを掴み、おもむろに保護ケースの蓋を開いた。


「うそ」


 そこには「Mr-S」と記し刻まれていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 「Mr-エス


 それは彼の名の頭文字イニシャルSを用いた登録名称。


 倫子の愛車こいびと「MR-S」の名でカモフラージュしてある。


 誰にも解明できない、彼女しか分からない秘密の暗号。


 密かに想いを込めたあの人への。けっして届けてはならない、開封されてはならない禁断の恋文ラブレターの宛名だった。


 生唾を飲み込む倫子。彼は震える指先で受信ボタンを押した。


「はい、もしもし……」


 上ずる声。先程FMから流れていたスパニッシュギターの旋律のように小刻みに震えている。


「夜分遅くに申し訳ない」


 彼の声だ。


 低音バリトンの落ち着いた口調。


 胸元に目を配る。腰まで下ろした脱ぎかけのツナギ。襟首のよれた白いTシャツが汗と油で汚れている。


「い、いえ。仕事中でしたから」


 スマートフォンを持つ手と反対の右手で、倫子はあわてて胸元を整えた。


「お久しぶりです。こんな遅くに突然どうなされたんですか」


「久々の残業で遅くなってね。今、仕事の帰りなのだが」


 突然の営業時間外の来訪者。もちろんカーショップ「Mスポーツ」のなじみの客だ。


「駐車場に君のMR-Sが目に止まったもので」


 倫子の胸がきゅっと鳴る。まるでギターのナイロン弦のきゅきゅっとこすれる音のように。


 頭文字 エスの主である常連客。その男の名は。


 Mrミスター-Syouショウ。すなわち――。


「開けてもらっても、いいかな」


 壬生みぶ翔一郎しょういちろうだった。


<次章へ>

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