05
【intersection】
世界は統一された一つの大国によって中正の均衡関係を保つという
一国主義に基づく世界すべての第二の首府、中央都市。
央都は浩浩として、大陸で随一の領土を有する。
政府のタワーを中心にする、中央区と
そこから上側は央都北部、通称をノースリッドとし
下側を央都南部、アースリーと称した。
中央区以北は央都が誕生した時から時代の先駆で、他国との交流も続いていた。
鎖国状態にあったアースリーと違って相違した独立国家を成している。
ノースリッドとアースリーでは同じ国内でありながら、
別の世界にいるように物事の概念や文化などが異なる。
タワーを境界線に、別々の国が一国に内在しているようなものだ。
その為、自国内であっても容易に往来できず、
南側に居た住民が北側へ移住するには
厳正な審査を受けて、政府の許可を取らなくてはならない。
片や田舎のように扱われるアースリーと
近代を先駆ける中枢都市として機能する央都北部。
どうしてこのような隔たりができたかといえば、
中央都市そのものの理念が理想的過ぎたからだ。
大陸の中央にあらゆる国家を結集させた多文化の共生する都市を創り、
世界全体の首府と見立てて、世界の意思を統一するといった当初の計画は
早期に頓挫した。しかし、この計画に大掛かりで取り組んだ
幾つかの大国は計画を白紙にすることができずに強引に続行した。
無理にでも開発を推し進めた結果、央都は二分され
その中間に統制する政府を設置して最低限、都市の状態に仕上げた。
そこに、当時はまだ名も無かった委員の小集団、ベネラブルナインが集まり
各国と連関して現在のような央都の形に行き着かせる。
計画の賛成派で極めて肯定的だった西方諸国の大国が
その時点では十字教派という小さな派閥しか存在しなかった教会を派遣し、
完成した央都を活動拠点とすることで互いに不可侵であり、共同する
盟約を締結し、中央都市は瞬く間に巨大国家へと成長した。
央都が計画に否定的だった国々から今まで侵攻されなかったのも
西方諸国の後ろ盾があったことも大きい。
央都の政治に関しては、急激に勢力を増大させた教会が根付いており、
教皇とベネラブルナインが握っているといっても過言ではない。
本来の計画では、央都は統治者のいない共和制の民主国家であったが
雑多に各地の文物が混在し、統治を余儀なくされた為
建国に貢献したベネラブルナインや教会が支配する権力を持つようになった。
だが、教会は央都だけでなく世界に共通する宣教が目標であり、
教皇が央都の施政に口を挟むことはない。
故に実際の政府はベネラブルナインの独擅場である。
ベネラブルナインは一部に他国の代表が参加しているので
中央都市は複数の国による共同体といえる。
だからこそ危うい。
完全に独立した国家ではない中枢が
万人が分かり合える理想郷は、
翻れば 全方位を敵国に囲まれた不安定な国基なのだ。
テアトルムが閉鎖されたことでアースリーの市街地は
静まり返り、避難壕としての会堂が常に開放しているだけで、
地区によっては外出を禁ずる厳戒体制が敷かれた。
場所にして、グランド・カテドラル直上の第二十四会堂は、
数ある会堂の中でも大きな施設で特に理由がなければ
通常の議会もここで行われることが多い。
第二十四会堂には6つの部屋があり、その一つに
モルデン・パーリアルが避難している。
座椅子に踏ん反り返るモルデンは窮屈な室内に不満足で機嫌が悪かった。
「外の様子は一体どうなっておるのだ!」
付き添いの従者に問い質すモルデン。
教会や政府が情報を管制する央都では、揉み消された情報が民間に出回ることがない。
政府の公表にしても、真実かどうかは曖昧でその伝達も市民にとっては後報である。
「残骸の撤去が終わり、安全になったようですが…」
"淡紅の灰"による爆破の被害は、瓦礫となった無人の建物を撤去し
黎元の離宮に避難していた人々も安全な道を通って居住区に戻った。
事実上、テロリストの事件としか取り扱われていない騒動が収まって
アースリーは安穏としていた。
「それにしては物々しく出入りしているな」
モルデンが察知するほどに第二十四会堂では人の出入りが頻繁だった。
避難目的でここに立ち寄ったのならばある程度落ち着くまで留まるはずだ。
モルデンが見た限りでは、修道服を着た教会関係者も立ち入っているようで
修道士が居ること自体はおかしくはないが会堂を出入して
何らかの活動をしているのは明らかだ。そして、それは
ここがグランド・カテドラルの真上という立地にあることも関係している。
モルデンは自分の屋敷にすぐにでも帰りたかったが
アリフが付き添わせた修道士が会堂の入り口から離れなかった為に、
勝手に出て行くと 後で面倒な事になるのを嫌がって滞在した。
それも今では、こんなに不便な時間を過ごすのならば
我を通して帰宅すれば良かったと後悔していた。
「おい!屋敷に戻るぞ、支度をしろ!」
激しい出入りのゴタゴタは気にはなったが、モルデンは我欲を優先して従者に命令する。
そうして会堂を出ようとしたとき、モルデンの前に
フードの付いた黒いコートの集団が入り口を塞ぐように立った。
玄関には倒れる修道士。場面からしてこの集団の仕業だろう。
「モルデン様…!」
従者は不安そうに怯える。
ロサードとの一件もあってか、少しも狼狽えず 果敢にモルデンは威嚇した。
「何だ貴様達は!」
「我等はマグダレン様を信奉する者!」
集団の中の一人がそう声を上げる。
「マグダレン…? 確か、教団にそんな名があったか…。」
モルデンには記憶の片隅に覚えがある。
それでも、鮮明に想起することはなかった。
「パーリアル卿、こちらに来てもらおうか…人質としてな。」
集団の統率者のような男がモルデンへと近付く。
人質と聞いて、黙って言うことを聞くわけもない。
危機感を抱いたモルデンは尊大な態度は変えず、集団から一歩離れる。
「なにっ!?」
モルデンは驚いてみせたがその心内、既視感があった。
"淡紅の灰"にも同じような扱いをされたからだ。
モルデンが何故、こうも利用されるのか。
教会と関係がある貴族であろうと、それだけでは人質としての価値は薄い。
権力を加味しても、アースリーの一区で猛威を振るうだけであって
教皇に対抗できる人物ではない。となると、パーリアル家が代々持つ
所有地にある"聖殿"が交渉材料になるのかもしれない。
と考えを巡らす内に、
数十人くらいの黒いコートの集団がモルデンを囲ってじわじわ迫っていた。
数人がモルデンの腕を掴み、押さえ込む。
「何をするっ!……離せぇ!」
抵抗するモルデンであったが捩じ伏せられて集団に拘束された。
そして、黒衣の集団は取りも直さず
会堂からモルデンを連れ去っていったのだ。
「あ…あぁ……!」
突然起きた主人の拉致。
そんな出来事を前に、従者はへたり込んで呆気に取られている。
揺れ動くアースリーの情勢。
表面上は平和の街中で、多くの民衆は伏せられた真実である
マグダレン教の離反による脅威が近くに潜んでいることを知らずにいた。
中央都市の中枢、天を衝くような高い塔。
テアトルムの階層構造にも利用されている技術によって作られた高層建造物は
外装を透明な硬化素材で覆い、その内に弾性の硝子が張って
各部の支えを繋ぎ合せることで高い建造物ながらも倒壊や振動を阻遏する。
一般に、高層建築物であるものの
元々は教会が建設した宗教的な意味合いを多分に含んだモニュメントであり、
教皇の管理下にあった。だが、ベネラブルナインが中央都市の実権を握り、
その権勢を振るうようになって政府の根城として高層ビルの体裁を模した
このタワーが完成した。そんなタワーの上階に
プライベートルームが設えられたエリアがある。
これより階上は、議員や政府でも上層部の人間しか入ることを許されない。
プライベートルームは、高級ホテルを思わせる内装で
様々な設備があって、何よりも 個人的な優先回線が使用できる。
そこの一室、
朱色に彩られた部屋はベネラブルナインの最高議長アマランスの私室である。
髪は赤く、礼服とスーツを合わせたような格好をした長身の男性が
窓の外を俯瞰していると、デスクに備え付けられた受話器が鳴った。
「はい、私です。」
『背教者共が央都を襲撃するというのは本当か?』
電話の相手は、ベネラブルナインの議員であり、
西方諸国の高官 フィリックス・ファマー。
最高議長のアマランスとは私事に連絡を取り合う仲だ。
彼が、個人の携帯電話ではなく、部屋の電話機に掛けたのは
優先回線が利用できるからであろう。
「そのような動きがある、という話です。」
アマランスは温和な口調で告げる。
この時点では使徒による斥候でマグダレン教派の動きを掴み切れていなかったが
"辰の徒"が征伐したマグダレン教派とそれに関する異邦人の行動は
確実に央都を牽制し、次なる大きな行いを示唆していた。
それが央都の侵攻であるとは限らない今は、まだ可能性の段階であった。
『中央は大丈夫なんだろうな?』
「心配には及びません。教団も黙さず、力を尽くしています。」
アマランスは、教会が大いに行動を起こしているとニュアンスを含む言い方をした。
背教の原因は教会側の不始末なのだから教会が尽力するのは当たり前でもあるが
教皇が積極的に働きかけることは珍しい。だからこそ、
鬼胎を抱く必要もないのだと。
『アルテュールが其方に出向いたようだが…。
私は向かえんが、央都が滅ぼされては困るからな。』
フィリックス議員と同じ西方諸国に属する議員であるアルテュールは
連合の宰相でもあり、極めて身分の高い人物だ。
そのようにお偉いアルテュールが央都に来訪したのも
国際評議の段取りを決めたり、央都の今後の方策を提案するといった
細かい諸事だけでなく、西方諸国に波及するであろう混乱を
未然に防ぐ為に逸早く行動した結果でもあった。
フィリックス議員はベネラブルナインの同志としても、
西方諸国連合の中でも親しいアルテュールを引き合いに
自らは手助けできないことを伝え、央都を危ぶんでいる。
「議会の総意は揺るぎません。何が来ようと、中央都市は滅びませんよ。」
自信に満ちたアマランスの言詞。
それは倨傲からくる見せ掛けではない定見で、断然とする言い草だ。
カーディナルなどと同じように踏襲する称号である"アマランス"に
選出される者は気弱ではいけないし、常に毅然だ。
そして、央都は決して滅びぬと過信するほどの根拠があるのだ。
『ならいいんだがな…』
「…それに、切り札も用意してあります。」
『切り札?……まさか、あの男を使うのではあるまいな!?』
切り札と聞いて、フィリックス議員は声柄を変える。
心に思い当たる節があったのだ。
「賛成が5、否定が貴方を含めて4人…採決では承認済みです。」
最高会議である中央議会であっても多数決で裁定する場合がある。
議員の参加を問わずして行われる評決は過半数の支持を得れば可決されたものとする。
各議員が一国の政治的な権限を有するベネラブルナインであるからこそ
肯定派の人数が多ければそれだけで十分承認されるのだ。
『正気か、アマランス。あの男は破滅を引き寄せる災厄だぞ』
フィリックス議員が思い浮かべる"切り札"とは、
かつて西方諸国の領内で起きた不可解な事件に関わりがあると見做された
とある男のことだ。その男は、人とは思えぬ強大なちからを持ち、
男の周囲では良くない出来事が次々に発生したという。さらに、
どの事件現場でも唯一、そこに存在していた為に
今では凶悪な虜囚として監獄に収監されている。
事件の一部を知るフィリックス議員はアマランスがその男を
呼び寄せたことで最悪な方向へ事態が転換するのではないかと思っていた。
「この場合、それが救世主となるやもしれません。」
アマランスは 謎のまま歴史の闇へと消えた事件を思い返して、
その男を央都に招来することで
今後の予測できない事象に対する術になるかもしれないと待望した。
『……決定に異存はない。』
フィリックス議員は納得し兼ねていたが
一度断定した議会の決定は覆ることはない。
そうして、反論せずに電話は切れた。
受話器を放し、ふとアマランスは壁に掛けられた時計を見る。
「…おや、もうこんな時間ですか。」
時刻は、そろそろ朝日が昇る頃だ。
アースリーで事件が起こって、マグダレン教の反乱が知れてからまだ一日。
連続して物事が進行し、それらの対処すらも速やかだ。
ベネラブルナインにとって、枢機卿がテアトルムへ赴援するのは早すぎる命令だった。
それによって早々にテロルは鎮定したが、その後の
崩壊したビルの撤去やテアトルムの即時封鎖と央都の取り決め、
来る異国の外賓は早い来着で、すべてが想定されていたかのように進捗し、
この手際の良さはどうにも腑に落ちない。
中央議会を超越して、制御できない至大な何かが央都を動かしているのではないか。
それが齎すのは、中央都市の亡国かあるいは変革か。
アマランスはそんなことを考えた。
その数分後、
再び受話器が鳴り、声が響く。個別の通信による内線だ。
『アマランス様、西方諸国より特別大使が訪問なさっておりますが如何致しましょう』
フロントの事務員が中継して、アマランスに訪問者の報告をする。
「通して下さい。」
内線に応答してアマランスは許可を下す。
この時間に、来客の予定があった。
プライベートルームの前に待つ来客。
定例的な受け答えで許諾され、ようやく扉が開く。
アポイントメントがあろうともこうした細事の事務を経なければ入室できないのだ。
「お待ちしておりました、アイスト・マイター大使」
アマランスの部屋に 碧眼に藍色の結髪、
薄青の|キャソック(祭服)に似た服装でケープを外衣とする、細身の男性が訪れた。
「こんな時期に押し掛けて申し訳ないが、
議長殿とは少しお話をしたいと思っていてね。」
男性は軽く会釈をして、アマランスと真向かいの椅子に座る。
西方諸国から来た特別大使、アイスト・マイターは
堂奥修道院で方術を修めた異端の方術使いである。
その拠点を央都に移した教会にとっては他国で方術を扱える人間も少なく、
また力を使うことにも制約がある。
そんな彼は、央都に迎賓されるにはまだ尚早だった。
予定を繰り上げてまで、アマランスに会いに来たのだ。
アイストの言い表しを察して、アマランスは密談のようだと解釈する。
「というと、個人的なご相談ですか?」
対するアイストの返事は意外なものだ。
「単刀直入に言いましょう、央都を明け渡して頂きたい。」
央都の譲渡が意味するのは、中央都市の領地や全権が西方諸国の物となるということだ。
国そのものが取って代わるといっても相違ない。
ぶっ飛んだ話ではあるが央都建国に携わった数ある大国の中でも
西方諸国の関与は大きい為、最終的に央都が西方諸国へ帰属するのも無理はない。
だが、それが本心の提言ではなく、警告であるとアマランスは感じた。
「…本意ではありませんね?」
「それが本国の断案となるでしょう。このままの状況が長引けば…ですが」
西方諸国連合の判断では、
央都がマグダレン教によって被害を受けるより、
自分達の支配下に治めて渉外工作をした方が国土を荒らされずに済む
というような極論に傾いていた。
やや性急な判断ではあるが西方諸国にとって思わしくない事態が続けばそうもなろう。
「なるほど、これを機に付け込まれるというわけですか。」
アマランスが常々顧慮していた中央都市の支配権は
これまで、ベネラブルナインの辣腕で直隠ししてきた弱みが表沙汰となれば
それを悪用するものの権利となるだろう。
その筆頭に、西方諸国があった。
「議長殿のお察しの通り、中央はそれほど有意義でありますから。」
アイストは手を組みながら窓外の遠くを見つめた。
央都の全景を思い浮かべて。
中央都市の魅力は大陸の中心にあることは言うまでもなく、
世界の首府を主題とした中枢部分が高度に優れている点が特徴である。
言ってみれば、央都を支配することは全世界の支配に直結するということだ。
現実はそう安易なものではないが、少なくとも
大国の一つに数えられる国威は手に入れられるだろう。
「支配権を全うに自治できない今の央都ではそれも成り行きでしょう。
しかし、状況とは教会の件ですか?」
央都は首都に相応しい都市国家を形成したが、国としては未だ不完全である。
発展途上と言わざるを得ない央都の現状にアマランスも悩ましかった。
話を戻して、西方諸国が付け入る弱みとは
件の背教のことか アマランスは質問する。
「それもありますがさらに、…北方領土の問題もです。」
アイストの言う北方領土問題は
大陸の北部がそれ以外の地域のような国の下に統治されておらず
古い習わしに従って、北方の領主が治めていた。
そんな因習が再び問題に取り上げられるようになったのも
未開拓の大陸に結び付く北端の重要性が注目されてきたからだ。
そして、地理的に央都がその問題に取り組まなければならなかったが
今の今まで自国に注力していて、余力がなかった為に放置されていた。
それについては最高議長のアマランスも問題視していた。
「国際評議で議題に上がるであろうその諸問題は私も認識しています。
その交渉を見届ける為に大使が差遣されたと?」
北方の領主と話を付ける際に、不当な協約はないか審判する、
その役目に特別大使のアイストが派遣されたのだ。
「そうです。
ですが、今は目先の問題を解決しなければなりませんね。」
ここに来た用件は自己紹介がてらではない。
警鐘した上で、アイストは現在起きている問題を提起する。
「内外の事々で手一杯である現状、迅速に処理をしようにも儘なりません。
……予定より早い大使の来臨とあれば、理由があるようですが?」
特別大使は特命全権大使とほぼ等しく、長期間の駐在が認められているが有限である。
本来の到着予定日時より数日早くアマランスと会談しに来たのだから
特別な理由があるに違いない。
「我々も盟邦として、何の支援もしないわけにはいきません。
就きましては、及ばずながら私も央都の防衛に参加しましょう」
「こちらとしても、その申し出は有難い。
行動の自由は保障します。」
大使の単身とはいえ、方術を扱えるアイストの協力は
西方諸国の増援は見込めないと踏んでいたアマランスには願っても無いことだ。
「では早速、南側の配備の確認をしに行きますので、これにて失礼。」
話を終え、アイストは退室しようとする。
それを止めるように、アマランスが一言。
「何故南側と?」
「勘ですよ、手勢が来るならそっちだろうとね。」
入室時と同じく軽い会釈をして、アイストは部屋を出て行った。
確かにミッドウェイがある南のゲートから侵攻する可能性は高いが、
確実ではない。寧ろ、正門に当たる南側より、
他の場所から侵入したほうが急襲に適するだろう。
アマランスは普通ならば、そうだろうと考えたが
アイストの発言は、勘ではなく信憑できる情報に拠るものだ
とすれば、推量の末に一つの蓋然に辿り着く。
教会や我々でさえ知らない情報を西方諸国では得ているのだと。
央都より東部の樹海の直中にある監獄、ダストプリズン。
ここでいうダストとは受刑者を寓意する塵芥のことで、
別称、掃き溜め と呼ばれる。
樹林を越えても低い山地が続き、天然の要塞と人工の檻が脱獄を防ぐ。
ダストプリズンは大きく分けて、三層の構造だ。
第一層は看守の部屋や軽犯罪者を閉じ込める牢屋があり、
第二層は中程度の犯罪者の牢獄、受刑者たちの運動場や食堂などの複合施設。
ここまでは整然とする刑務所であるが 掃き溜めと蔑称される所以は続く第三層にある。
西端紛争以前より作られた第三層は、老朽化した長き階段を下りて
暗い底に何重もの鉄格子で遮られた獄舎が並ぶ。
西洋の古風な印象だが、その堅牢さや精神的閉塞感は最新の牢屋より実感できる。
第三層の獄舎は独居房が多いが、最奥の牢は特例として雑居であった。
そこに収監されている一人の男は、桎梏を付けれたボサボサ頭の薄汚い罪人。
もう一人は深紅の眼をした赤色の男で、
身体は厳重に鎖が繋がれ、満足に動かすこともできない。
最も警戒すべきこの牢屋が雑居であるのは、看守の危険性を減らす目的で
同室の囚人が監視者の代わりを担っているからだ。
赤い男はそんなにも危険視されていた。
監視役に抜擢された罪人は赤い男と同程度の囚人で悪質な犯罪者だったが
獄中では、いかにも模範囚のように振舞っていた。
「外が騒がしいってよォ……俺らにゃ関係ないわな。」
罪人が貧相な寝床に横たわって、仕入れた噂を口に出す。
この男は、情報通らしく囚人仲間を伝わって、
監獄の外の情報さえも真っ先に入手できる。
牢屋から出られる時間は僅かしかないのによくも知れるものだ。
男の言う"騒ぎ"というのは、央都でのテロルなどのことだろう。
しかし、ダストプリズンに居ては央都で何が起きようと自分達には無関係だ。
「………」
赤い男は、気にもせず 部屋の隅でただ俯いていた。
「まーたダンマリかぁ?…ったく、つまんねぇヤツと相部屋になっちまったなぁ」
罪人の男は、退屈そうに嘆いた。
四六時中、口を噤む赤い男に飽き飽きしていたのだ。
しばらくして、定時巡回する看守がこの獄舎の前で止まった。
「囚人番号6110、出ろ」
それは、赤い男のここでの称呼だ。
「……。」
赤い男は依然として黙ったままだったが
罪人の男は、そんな彼を嫉視した。
「おぉ?なんでぇソイツだけかぁ?」
第三層は上層と違って滅多に牢屋から出られない。
毎日の食事も運ばれてきたものを獄中で食べるのだ。
そのように、束縛される囚人の中で 特別扱いされるの赤い男を
罪人の男は妬まずにはいられなかった。
「お前は大人しくしていろ!」
看守が制して 罪人の男は渋々、胡坐を掛いた。
牢を出された赤い男は看守に連れられ、細い廊下を歩く。
通常の出入り口である階段方面の、正規の道とは反対の看守専用の通路だ。
関係者特用の通路を利用したのは時間的な節約というのもあったが
この場合、内々で済ませて、他の囚人を刺激しないように配慮したのだろう。
だからこその裏口だ。
通路の先は非常階段と繋がっていて、そこから各階の裏口に通ずる。
距離は同じだが、正規の石段を上るよりは非常階段を使った方が楽だ。
「…何処へ、連れて行く気だ?」
ここでやっと、赤い男が口を開いた。
普段とは違う看守の行動に疑念があったからだ。
「仮釈放扱いでお前は央都に移される。裏道からの直行便だ」
赤い男は表情に出さなかったが、やはり疑わしく思えた。
彼ほどの大罪人を仮釈放とは尋常ではない。
何らかの意図があると思うのが妥当だろう。
そうこうしてる間に非常階段を上り切って、第一層まで着いた。
非常口を出るとそこにはダストプリズンのホールと直通していた。
ホールは監獄の玄関であり、入り口の磨りガラスの向こうに
黒塗りの大きな門が見える。
非常口から出て、ホール裏手の側面を過って
関所のように検査を行う場所の前に来た。
そこで、看守は赤い男に所持品が無いことを承知の上で改め、門の通過を促した。
「手荷物はないな? とっとと、ゲートを潜れ。」
ここに入れられた時点で荷物なんてあるはずもないが、
看守がそう聞くことが最終確認の慣例でもある。
ゲートを越えればダストプリズンの外。
恐らく、一度収監された囚人でここまで辿り着いた者はいないだろう。
ダストプリズン上層に拘禁された軽犯罪者でさえ、
終身刑のような長い年月をこの監獄で費やす破目になる。
まさに犯罪を犯した者が最後の最後に送られる終着点、
それがダストプリズンである。
赤い男にとっては、益々如何わしい。
だが、釈放の意図よりも、
こんな自分をわざわざ解放しようとする何者かが気になった。
「…誰だ?俺を出所させようなんて狂った御仁は」
赤い男は、看守に催促されて
既に手続きが終わった書類に 拘束された腕で器用に署名しながら聞いた。
「…本来なら話すこともないが、教えてやろう。
中央の最高議長さんだ」
それは、赤い男とは縁遠い存在だ。
面識もなければ、一人の囚人を議長という役職の人物が気に掛けるとは思えない。
最高議長が釈放の手助けとは不可解だが
これで、何らかの形で赤い男の"力"を必要としているということが分かった。
しかし、当人の彼には慨嘆する事態でしかない。
彼自身は自己を嫌厭していたからだ。
未だ解かれぬ手足の自由と無抵抗を貫く赤い男の意思で
ただ連れられるままに、ゲートを通り越した。
「………。」
呆気なく、ゲートを越えてダストプリズンを出獄した赤い男は
またも口を噤むようになった。
監獄の外には重厚そうな護送車が用意されており、
黒塗りされたそれが、まるで葬車のように赤い男を誘う。
「さあ、早く乗り込め。明日までにお前を央都に運ばなければならんのだからな」
黒き"棺"に揺られて、何時ぞ 悪魔と罵られた赤色の男が
中央都市へ数年振りの帰参を果たそうとしていた。
"悪魔"の来着、そして 争乱の始まりは
奇しくも運命のように折り重なる。
―――【enfolding darkness】
叛意の決起。
その時は、テアトルムが落成し、各国から来賓する数週間前まで遡る。
ティスア・マグダレンは巡礼の名目で南端の聖地を訪れた。
交通は高速列車の定期便を経由する遠き旅路。
去来する鋼鉄の車駕を乗り継ぎ、最南端の陸地を縦断すると見えてくる
離れ小島の面積一杯に絢爛な城郭が拡がり、
架けられた橋梁を通ってティスアとその一団は城中へ招かれた。
長方形の絨毯が広々とした部屋を強調する客間で
城主、ウィリアム・グレン・ジョーカーとの談議が始まる。
「して、何を所望すると?」
如何にも公爵を気取った貴族の身拵えの
ウィリアムは権高な態度で美美しい装飾の椅子に座す。
ティスアは飾り気の無い修道服に身を包み、
薄紅の頭を垂れて請うた。
「貴方様には我が宗派のお力添えを嘆願しに来たのです。」
宗派と聞けば、ウィリアムはあからさまに不機嫌な顔をする。
「宗教の勧誘かね、戴けないなそれは。」
世俗を離れたウィリアムは
その俗世間の中心にある教会をあまり快く思っていなかった。
「これから先の、教団は革新しなければならないのです。
異邦であろうとも教えは遍く人々に届きます。」
所詮は詭弁と聞き流すウィリアムであったが、
ティスアの直向きな熱意に突き動かされて酌量した。
「……折角、ここまで足労したのだ。
見極め次第では力を貸してもいい。…誠心を見せよ。」
ティスアが持参した包物を、跪いてウィリアムへと献上する。
「では、僭越ながら……」
受け取ったウィリアムは包んでいた布を除けて、
そこには一冊の綴じ本があった。
年代物の古紙に書き込まれた文字はこの世 最初期の文体で読解はし難いが、
表紙に刷られた紋章がそれを教会の最重要機密だと判別させる。
「これは、六極正典の一部!?
こんなものを持ち出せば只では済むまい。」
その書物の存在に、ウィリアムは驚倒した。
六極正典、教会が教会たる教理を記した正典であり、
方術の奇跡や秘術などを書した聖典である。
余りにも膨大なページ数の為、後年 六つに分けられ
教皇が1冊、聖堂教会と典掌教会がそれぞれ2冊、堂奥修道院が1冊ずつ保管している。
教会内であっても閲覧できるのは限られた者のみで、
当然ながら、教会外の人間の目に触れることは一切禁じられている。
そんな希書がここにある意味は、
教会に対する最大の背教、そして
ティスアの献上した正典は、宗祖や教会の成り立ちを概括した部分と
数箇条の教義、祈祷による奇跡の原理といった内容で
歴史的価値はあったがこの一部ではそれほど有益ではない。
だが、正典が"外部"にあるということ自体に大きな意味があった。
この一冊が手元にあれば、
教会との全面戦争を勃発させる誘因となるのだ。
「…すでに矢は放たれたのです。」
ティスアは敢えて矢という形容で 後戻りできない状態であることを表した。
そんなティスアの思い切った行動にウィリアムは快哉する。
「今一度、戦時が巡るか。……ククッ、面白い。
いいだろう、居城とこの私が力を与えようではないか。」
西端紛争で大変名誉な十二勲章を授与されたウィリアムは
策謀の天才であった。そのウィリアムが、ティスアが引き起こそうとしている
新たな戦乱に興味を持ったのも決して好戦的だったからではない。
終戦後、程無く隠居してからというものの
平和に背反して、自らの智謀を振るう場を欲していたのだ。
そうしてウィリアムの協力を得ることに成功したティスアは、
城中を出て、門前で待つ同志達へ歩み寄った。
ここに控えていたのは 央都の外より来たりし異邦人たちで、
テアトルム完成以前からティスアの"巡礼"によって相識している
新生マグダレン教派の幹部たちである。
灰色のパーカーに両手をポケットに突っ込んだ男がティスアに声を掛けた。
「おっ、女王さんよ、会談は上手くいったのかい。」
鍔の付いた帽子を被る軽薄そうなこの男の名は、艮巽。
西端紛争で傷付いた街を救済する巡察の際に、
数週間の飢餓に苦しんでいた巽にティスアが施しを授け、
それをきっかけに信者となった。
だが信仰心の無い彼にとって、ティスアは恩人であるが
司教と崇める対象ではなかった。だからなのか、巽だけは
ティスアのことを女王と呼んでいる。
「…ええ、これも皆様のお蔭です」
「しっかし、野垂れ死にしそうだった所を救われた俺はともかく
中神の旦那までこの教派に加わっているとは驚いた。」
巽の横には、精悍な和装の男性が立っていた。
少し老叟でありながらも丈夫で、腰に白鞘を差しているこの男は、
中神大道。過去に、当時の教会の十字教派と拮抗していた
東方の神道に属する宮司で 現役を退いた今猶、修道院の師範に類う実力者である。
「…昔の借りを返すだけだ。」
中神は深く語らなかったが、
新生マグダレン教派に参加したその意図は
ティスアに関係するものではなく、教会に対する反抗心のようなものだった。
「後はヘオフォンにいる、アリスと落ち合えば出揃いか。」
ティスアが側近とする幹部は全部で五人。
その一人に神祇教団の一員であるクレアリスが含まれている。
「彼奴は何処に」
中神が姿の見えぬもう一人の幹部を呼ぶと
側近の最後の一人、クインクエが何処からとも無く、ティスアの後ろに現れた。
枢機卿の服装に似た格好をして佇むクインクエは
覆面で素顔を隠し、表情を読み取ることはできない。
その カーディナルや"辰の徒"教会の伝統的な形姿に相似する風体は
教会との関連性が不明なクインクエを層一層、霊妙に感じさせる。
「…女王さんの傍を付かず離れずってか。」
忠実なクインクエは気配を無くし、姿も見せず
城の中まで、ティスアに同行していたのだ。
「それでは、約日にまたお会いしましょう。
我々の新たな聖座で…。」
幹部の顔合わせとウィリアムの加入に終わり、
その日は皆々離散する。
テアトルムの公開日に合わせて、再び会う時まで。
それから時は進み、約束の日がやってきた。
長い間、教会の祭事に関わらず 個人的な活動を続けていたティスア・マグダレンは
ヘオフォンから聖庁へ足を運んで、教皇との謁見を求める。
その場で堂々と 教団を脱して、教会とは別の新たな宗教を興すと宣言した。
一変する言行に教皇派はティスアの正気を疑った。
教皇は叛意を見せたティスアに対し、 そこに掲げる教義は真か
問うたがティスアはそれに答えず 微笑みを返して退散した。
無論 そんなことをすれば只では済まず、
"介在者"フォーン・ソレルの通知もあってか、
たちまち広まったティスアの背教という一報で
馳せ参じた教徒達が力ずくでも止めようと、立ち塞がるも
ティスアに賛同する手の者によって彼女とその一派は
まんまと央都から逃げ果せるのであった。
そして、現在。
西方諸国の領地、
湿原地帯より遙か北上した凍土の果てにヘオフォンの外観を模った
広大なグランディス城砦がある。
そこは 城砦の所有者、ウィリアム・グレン・ジョーカーが譲与し、
ティスア・マグダレンが打ち立てた聖座の拠点として使われることとなった。
城砦には 新たな聖教主となったティスアと教会を抜けた教派の一団、
異邦の儕輩が一堂に会している。
ここに、ティスアが一緒に連れ出せなかった央都の残留者たちを加えれば
教会の総戦力にも引けを取らない大規模な戦力となる。
外堀には石造りの城郭、内壁に豪華な城が建ち、その裏手の山脈を連ねる様は
まさに、不落の要塞 と形容するに相応しい。
背後が山に囲まれていることは山越えした敵が無防備な頭上から攻撃する
欠点になるが、グランディス城砦は上部であるほど堅い造りで、
寄せ手が滞れば上階に備わる砲塔の集中砲火を浴びることになる。
しかし、北端に目近いこの城砦の地理的に
海上を迂回して山を登らなければならない為、事実上 山越えは不可能である。
ウィリアムがここにグランディス城砦を建てたのもそういった背景があった。
そんなグランディス城砦の表構えを見て、巽が唸る。
「ほぅ、コイツは立派なもんだ。」
城砦の前に結集した彼らを
開いた門扉から登場した、小柄で猫背の男が出迎えた。
「ここが我々新生マグダレン教の基地となるのです。」
「…あんたは?」
巽は率直に訊ねる。
「申し遅れました、私めはバルレ。ウィリアム様に仕える者。」
一礼して、バルレと名乗る小男は丁寧に素性を明かした。
それにティスアは付け加える。
「私の信者ですよ。」
「女王さんの手回しかい。」
巽は納得したように、改めてティスアの偉大さに感服した。
ウィリアムの従僕であるバルレは、以前よりマグダレン教派に
傾倒する信者でもあった。ただ、主のウィリアムはそれを承知しているが
ウィリアムは教会を良く思っていなかったので
これまでは信徒であることを表立たせず秘密としていた。
「先ずは、落ち着ける場所に移動したらどうか?」
というウィリアムの提案に
ティスアは同意をして、面々は城砦の中へと入っていった。
「そうですね。行きましょう」
ヘオフォンの建造に携わった職人が造った城砦であるグランディス城砦は
インテリアデザインやディテールに、共通する部分が幾つか見られる。
その一つにヘオフォン内部にある祭儀関連の階層をモチーフとする
渡り廊下や室内には同じ建築技術でタイルなどが張られている。
内部構造だけなら教会の拠点と見てもおかしくは無いほどだ。
城を外回りに、回廊を周った所で格段に 大きな部屋があった。
金の取っ手を引くと、神聖さが漂う純白の空間が広がる。
城砦内の1階に位置するここは、大広間のようだ。
「んじゃ、この部屋で作戦会議としゃれこもうか」
真っ先に部屋に入った巽は何故だか、仕切り始める。
他の者も賛成して、その部屋を予め意企していた合議の席とした。
広間には会議場に誂え向きの細長いテーブルが数台あり、
そこから三つを並べて、用意されたチェアに各人が着いた。
前列は幹部や位の高い者、後列に教派や異国人に拘らず入り交じって
大広間はあっという間に満員となった。
そわそわして興奮する巽を、隣席となった中神は不思議がる。
「何を粋がっているのだ」
「へへっ、こういう馴れ合いは初めてでね。ワクワクしてるのさ」
今まで孤児同然の人生を歩んできた巽にとって、
これほどの大人数が集まって何かをするという事態に高揚せずにいられないのだ。
「若僧が…」
中神は少年のように嬉々とする巽に呆れていた。
そして、広間の前方にティスアが出て行き、注目を集めると
会議の始まりを促した。
「では、今後の予定を確認しておきましょうか。」
ティスアのその横にひっそりと待っていたバルレが
衆目の前に現れると、進行役を買って出る。
「私めが説明を。まず、ここに集った全戦力を四分し、
一つの部隊は央都に残留している教派を救援して
一度、ここまで引き返して戴きます。」
央都侵攻の目的の一つでもある味方の救出は重要で、
今も央都に留まるマグダレン賛成派を合しなければ教皇とは渡り合えない。
同時に教会を脱出しなかったのも、直前まで内部の情報を入手することと、
さすがに大所帯で移動すれば簡単に逃げられなかった為だ。
ここで、新勢力として勃興したばかりの新生マグダレン教派が
助け出す機会を逸するわけにはいかない。
ティスアの一派が教会から離れたことを機に、教会内で
不穏分子の尋問が始まれば、残った者達に危険が及ぶかもしれないのだ。
だからこそ、第一部隊の優先目標は救援であり、慎重に行動する必要がある。
しかし、央都に攻め込むことを意気込む巽はその作戦をもどかしく思った。
「すぐに戻るのかぁ…そのまま攻めちゃえばいいんじゃない?」
「…戯けたことを。残留者には非戦闘員もいるのだろう、
後退するのは合理だ。」
中神が言うように、残った賛成派には穏健派から流れて傘下に入った
無力な信徒もいる。それらを守りながら央都を陥落させようとは無理難題である。
「それもそうだなー、攻め手は慌てない慌てないっと。」
西端紛争を生き抜いた中神の意見に、首肯する巽は調子良く反復する。
口頭でバルレは引き続き、説明する。
「…そして、二つ目の部隊は央都の防衛戦力を引き付け、
第一部隊の退却を援護しつつ侵攻を担う主戦力となります。」
「そこが最大の戦場になるか…」
中神は激しい闘争になると先見する。
侵攻は二の次だが、央都の防衛戦力と真っ向から戦うこととなる
第二部隊の行き先は、両陣営共に最も力を注ぐであろう主戦場だ。
戦闘が激化するのも避けられぬ定めだろう。
「三つ目の部隊は遊撃部隊です。といっても、役割としては使徒の注意を逸らして
第二部隊を支援することにあります。」
バルレの言う遊撃部隊は
機動力を活かして全隊を援護する有意な部隊だ。
だが実際は、一部隊で補える範囲にも限度がある。
その目標を教会の主だった戦力である使徒の迎撃と
第二部隊の支援に設定したのは、主力を
央都の侵攻という責務の達成に専心させるためだ。
「使徒かぁ…。"辰の徒"って奴らに大勢やられてるって話だしな」
巽が見知る新報では
継続して先発する残留勢力の団体が
"辰の徒"によって殲滅させられていると仄聞している。
残留勢力の本隊はまだ、出発していないので全体の被害でいえば軽微だが
こうしている間にも各地で使徒による追討が行われている。
個々が脅威的な力を持つ"辰の徒"の存在に、巽は不謹慎にも心を躍らせていた。
それから一間置いて、バルレは最後の部隊を挙げる。
「最後に、国都アリスタを制圧する部隊です。」
南方の要衝、アリスタは堂奥修道院に程近い場所にあり、
修道院と央都や西方諸国を仲立ちする中立都市である。
その環境において、多数の修道士たちが修道院とアリスタを行き来し
互いに交流を深めている。央都とは直接的な関わりはないものの
教会にとっては意義深い都市で、小都市ながら
修道院の庇護下にあって、大国からの脅威に晒されずにいた。
「央都侵攻はともかく、アリスタを制圧するのは何故だ?」
中神の疑問は尤もで、本質的に央都の侵攻や味方の救助に関係ない
アリスタの制圧は平時であるなら、無意味なのだろう。
教会の目を欺くにしても央都と相当距離のあるアリスタでは
陽動にもならない。
その疑問にティスアが答える。
「修道院への牽制です。中立を貫く修道院が増援を送るとは思えませんが
用心に越したことはありません。それに、
アリスタを押さえておけば西方諸国に対する圧力にもなります。」
修道院と西方諸国への威圧。
どちらか一方であれば別段、アリスタでなくとも可能だが
両方に対する効果としてはアリスタの制圧は有効的だ。
そんなアリスタを要地と見て、巽が珍しく気に掛けた。
「しかし、それじゃあ あっちも戦力を割いてくるんじゃないか」
ティスアもそれは了知している。
「そうですね、恐らく教皇の一手は あの枢機卿でしょう。」
入信して以来 ティスアは教皇の下で現代の教会を支えた。
常に配意し、教祖と崇めた相手であるから、教皇の考えを推測することができる。
特に、背信によって疑念が渦巻く教会の
現状では 全幅の信頼を寄せる枢機卿を頼るのは目に見えていた。
中神は枢機卿という一言に、重々しく眉を顰める。
「枢機卿か…厄介だな。彼奴が本領を発揮すれば
アリスタを制圧してもすぐに奪還されるだろう。」
「ええ…ですから、彼を一時的にでも央都から遠ざける必要があるのです。」
ティスアは枢機卿とは教会内でも会わず、顔見知りではなかったが
枢機卿の称号が何を意味するか、その力量も十分に把握している。
アリスタ制圧の真の目的は、枢機卿への陽動だ。
教皇の最大戦力といっても過言ではない枢機卿の存在は
その者の脅威も然る事ながら、前線にいれば敵側の戦場の士気を高める恐れがある。
故に央都を離れさせる必要があるのだ。
「…アリスタの制圧部隊は捨て駒ってことか?」
巽はそうも考える。
何も無しに枢機卿を足止めするとは、むざむざ隊士を死地に送り届けるようなものだ。
されど、中神は捨て駒どころではどうしようもないと言う。
「いや生半可な戦力では相手にもならん。時間稼ぎもできぬだろう」
「旦那は見知り合いで?」
巽の問いに古傷が疼くのか、中神は額の火傷の痕に触れる。
「修道院で一度だけな…。"今"の彼奴の実力は分からんが
彼奴は必ず、すべきことをする。」
堂奥修道院で神道の教えを説いていた中神と
枢機卿となる以前のカーディナルは一度、実技演習の一環で決闘していた。
方術と神術の異種戦闘で、結果は勝負が付かずに引き分けとなったが
今でも癒えぬ額の火傷はその時に負ったものだった。
バルレは最後に纏めて、作戦の目的を発表する。
「一度で央都をどうにかできるほど甘くはありません。
今回の作戦は、残留する信者の救出と聖堂を陥落させることです。」
皆に目的を確認させたバルレの後にティスアが言い継ぐ。
「最終目標は大聖堂ですが、一つでも聖堂が落ちれば目的は果たせます。」
大聖堂への侵攻は最悪、ヘオフォンを丸ごと相手にするようなもので
一つの侵攻部隊だけでは攻略は不可能だ。小さな聖堂であっても、
聖堂教会の威信とその象徴である央都の聖堂が
反逆者によって攻め落とされれば教会の求心力は著しく低下するだろう。
それだけでも侵攻の意義は果たせるのだ。
作戦の趣旨を改めて認識して 集まった大半が、奮い立って
反骨な闘志を燃やす中、
落ち着いて着座している中神は 部隊の具体的な配属について訊ねた。
「それで、組分けはどうするのだ」
ティスアは高まった士気を下げまいと
幹部たちだけに聞こえる声で告ぐ。
「第一部隊は合流後、クレアリスさんが指揮をします。
第二部隊を中神殿と艮殿が、第三部隊をクインクエ、
ウィリアム様はこの場で私と共に。」
と、順当に幹部を割り振れば
余りの第四部隊を誰が率いるか 巽は気になる所存であった。
「アリスタの制圧部隊は誰が指揮を?」
「そうですね……」
ティスアは思い悩んだ。幹部以外にも優秀な人材は何人かいたが
部隊の指揮官となると話は別だ。自らの側近とする五人を中心に
割り当てたのは、幹部達の技量が秀抜だったこともあるが
教会と関係しない異邦人であれば他意無く、指揮を任せられるからだ。
だが、この会衆に幹部を除いて、指揮官としての適格者はいない。
そんな時、室外からやって来た
煤けたインバネスコートのような外套を着する男が幹部たちの間に入った。
「…俺が行こう」
「ルイナー殿……」
ティスアがルイナーと口にしたその男は
群集を横切って、ティスアの前へ寄り、黒い闇に満ちた目を向ける。
「だが指揮はしない。単独でやらせてもらう…。」
尖がり頭の黒髪が特徴のこの男は、クライズ・ルイナー。
教派の理念に賛同せず、
私怨を晴らす為だけに新生マグダレン教派に協力している外来者だ。
「勝手だなぁ…。」
クライズの横柄な振る舞いに巽は自然とそう思った。
割り込んできたクライズに中神が問い詰める。
「…貴殿に枢機卿を止められるのか?」
カーディナルを抑留する役目を、進んで引き受けようというのだから
余程の自信家か、よっぽどの死にたがりだろうと見做すものだ。
それに対してクライズは、怨みのこもった剣幕で中神を睨み付けた。
「奴を仕留めるために、ここへ来た……!」
クライズは言い終えると、早々に広間を立ち去る。
凄みのある容貌が物語る、深い遺恨。
ただ、それは枢機卿だけに向けられた憎しみではなかった。
彼は教会すべてを憎んでいるのだ。
ただ、反逆したとはいえ 教会の人間であるティスアに対しては、
利害の一致で敵意を持たずにいる。
クライズの険悪な雰囲気に、身震いする巽。
「お~、恐ろしい…。しかし、女王さんは何でも迎え入れるねぇ」
常に殺意を放っているようなクライズをよくも、
仲間に引き入れたと 巽は、ティスアを理解し難い。
「救いを求める者がいれば、それがたとえ
怨嗟に執心する人であろうと拒みはしません。
彼もきっと救われるでしょう。女神の験によって…」
ティスアは黙祷し、クライズの行く末に救いあれと女神に願いを込めた。
教会は崇める神を唯一とする、一神教が普遍的で
信仰対象となる神格は教派によって違う。
マグダレンの場合は、特に女神崇拝を基本としている。
神を女神と男神に称することは、唯一神の一神教では無い概念だ。
それは、多神教の信仰ではない西方の文化としても異質である。
異文化に興味を示し、異国の儀式などを教会で最初に取り入れたのはティスアである。
その時は実際に行動を起こすまでには至らなかったが、
入信当時から自らの宗教を作り上げる、反乱の腹案が出来上がっていたのだろう。
大広間に集まった者達は作戦会議が一段落つくと
幹部や数人を残して、次々と退出していく。
作戦開始まで城砦に留まる成員は、城砦内での自由行動が許されており、
城砦の居住区へ向かう者や気ままに探検する者など様々いたが
誰もがここを新天地として、大儀を為そうと一新した心持ちだった。
それから、ティスアは城を提供したウィリアムに許可を取った。
「それでは、ウィリアム様 我々も城内を逍遥しても宜しいですか?」
わざわざ確認したのは、ティスアの性格が律儀であるのと、
この後に起こる先触れでもあった。
それを感じ取ったのか、ウィリアムは寛容に許しを与える。
「構わんよ。…私は最上階の部屋で休んでいよう」
鰾膠無くそう言ったウィリアムは
ゆっくりした足取りで部屋を出て階を上がっていった。
さっきの作戦会議でもウィリアムは語らず、沈黙を保った。
宗派に力は貸すが、軍勢に協力するわけではないウィリアムにとって、
マグダレン教派の作戦は関することもない無心の事物だ。
彼にはマグダレン教派がどうなろうとどうでも良いのだ。
自分の計謀を振るう場所、刺激に満ちた戦場を求めているだけだ。
手筈通りにバルレが率先して広間に残った者達を連れ出した。
「私めが案内を致します。さ、こちらへ……」
表門とは反対に、通路を進んで屋外に出る
その先は大きな庭園。
土は均し、草木生い茂り、隅々まで手入れの行き届いた環境。
そこは庭園としての庭園ではなく、余計な物のない野原だ。
寒さの厳しい環境下で、豊かな緑を維持できるとは
ここが特殊なフィールドであると分かる。
外でありながら適温を保ち、寒地において冬枯れしない新緑の草原。
城の上側にある複数の層塔が覆って 寒風を遮り、日光を通し
日光が直射する角度を計算して設計されている。
さらに欠かさず手入れをすることで氷原には稀な
緑が繁茂する風景がここにあるのだ。
庭に着くや否や、巽は我先にと躍り出て 辺りを見渡した。
「へぇ立派ないい中庭じゃないか。
……なぁ、旦那…!」
その後ろ、庭へ一足踏み入った中神に 巽は素早く近付くと、
ポケットナイフの切っ先を中神の喉元へ押し当てる。
突然の行為だったとはいえ、中神は寸前に反応したが 抵抗しなかった。
気でも狂ったかと思う巽の唐突な行動を大疑せずにいられなかったからだ。
「…何の真似だ」
眉一つ動じずして、中神は目さずに巽に圧力を掛ける。
間近で見る中神の厳つさに若干怯みつつも、巽はナイフを当てたまま
軽やかに中神の背後を取った。
「なぁに、ちょっとした腕試しさ。お噂は兼ね兼ね……
しかしそいつは過ぎ去った栄光なんじゃないかってね。」
耳元で囁くように巽は中神を挑発した。
こんな場合に力試しをするとは馬鹿げている。
されど中神は退かぬ巽の、その思惑に乗ってやることにした。
「…死に急ぐか?」
腰の白鞘に指先が触れる。
中神には、ナイフが喉を切り裂くよりも早く抜刀する自信はあった。
「だってホラ、周りはみんな押っ始めてるぜ?
ま、数人観戦してるけど。」
巽は少しでも注意を逸らそうと、中神の気を惹いた。
それでも中神はピクリともせず身の回りの気配を探った。
周囲では、互いの力を測ろうと差し向かって闘争が始まっていた。
遠くでそれらの戦いを見守る者もいたが、全員が真剣な表情だ。
だが、そこにはクライズの姿やクインクエは見当たらない。
理由は解せないがこの私闘に意味はあるようだ。
「私に刀を抜かせる気か。」
最後の警告だと言わんばかりに、中神は白鞘を少し動かして見せた。
巽が力を込めて、ちょっとでも揺らせば鋭利なナイフが喉を裂くというのに
中神は事も無げに白鞘をちらつかせる。
しかし、巽も分かってはいた。
これでは脅しにならないし、脅迫なんて通じない。
それどころかこちらが傷つけるよりも早く、
有言実行してしまう相手だということは。
「大丈夫、こう見えて俺はしぶといから。」
へらへらと笑う巽。それは余裕でも、挑発でもない。
自信の表れと見栄によるものだ。
そして、巽がナイフを傾かせて刃を立てると 中神も遂に踏ん切りをつけた。
「…後悔はないようだな」
中神が帯刀する白鞘の柄をしっかりと握る。
瞬間、何かが弾けたようにナイフを吹き飛ばし、
巽はすぐに距離を取った。
「おっと。さすがは旦那だ、俺にも見えなかったぜ…」
中神は居合いのように抜刀したらしく、
剣術の達人から見ても、それは 抜刀して刀を納める動作を目で追えぬ速さだった。
ポケットナイフが飛んでいった方を見やると、巽は
手も無く"武器"の使用を諦める。
「ま、あんなもので旦那を倒せるとは思ってないよ。」
巽は、腹部のポケットに両手を突っ込んで、もぞもぞしだした。
立ち上がって、巽の出方を見澄ます中神はその行動を警戒する。
「…何をする気だ。」
「旦那を止めてやるよ!
これを使ってね…!」
ポケットから取り出した小粒程度の物体を空高く、巽は力一杯放り投げた。
巽が投げた物体は透明で、模様の無い物。 丸くて薄いそれはガラスの玉、
玩具である"おはじき"だ。
「旦那は知ってるかい? 作る手段は数あれど、
結界ってのは"点"で結んだ方が手早いのさ。」
一つ、二つ、三つとおはじきを空中に飛ばし
巽は交互に片手をポケットに入れて、その3つの間に4つ目のおはじきを弾き飛ばす。
右手を平手、左手を握り拳で合わせて巽は念を込める。
「儀法結界、一の弾指」
巽がそう唱えた矢先に空に浮かぶ3つのおはじきが中心のおはじきを囲い、
生き物のように並列し始め、緩りと回転する。
次第に回転は加速し、その輪が広がると 3つのおはじきは下降し、
中心のおはじきが上昇して頂点に、三角錐の形になって中神を閉じ込める。
白鞘を振るえる空間は守ったものの、自由に動けなくなった中神は
初めて顔色を変えた。
「小癪な……!」
無作法な小童だと思いきや、巽が使って見せた技は
どちらかといえば神道の領分だ。しかも、特殊な結界技法を応用した
独特なもの。生意気にも、中神の前でそれをやってのけたのだ。
中神は完全に封殺されたかに見えたが、
知っている術に易々と為て遣られるほど衰えていない。
気迫で結界の拘束力を緩めて、
下段の構えから刀を抜かず、白鞘ごと振り上げる。
白鞘の振り上げによって生じた風力が空中のおはじきを払い落とした。
けれども結界の効力は弱まらず、三角錐の外形を維持しながら
ゆったりと落ちて行く。
これだけでは結界を打ち破るには足りない。
精神を集中した中神は、腰を屈めて
白鞘を縦に持ち、構える。
そして、柄を逆手に握り、
下段から上段へ刀身を持ち上げるようにして抜刀した。
「一刀一天流 初太刀……"残鶯"」
そうすると可視できるほど質量のあるエネルギー波が放たれて
結界に衝撃を与える。
その余波で滞空していたおはじきは吹き飛び、
エネルギー波によって生じた裂け目から結界は崩れ去った。
中神が開祖である一刀一天流は
一本の刀剣に神道の"技術"を取り入れた剣術で
今は中神だけが使う唯一の流派である。
「うぉっと…!」
強風に吹き付けられるようにふらつく巽に
一気に決着をつけようと中神が急迫する。
「これで終わりだ…」
抜き身の刀を横にして斬り掛かる中神。
結界を破ってから僅かの一瞬。
中神は異常に素早く、巽が体勢を戻す間もない。
遠くで観戦する見物人も巽がやられたと思っていた。
中神がその刃を、巽の胴部を下から上に袈裟斬りする、
その時 最初に投げていた一つのおはじきが
くるくると回りながら垂直に落ち、白刃と衝突した。
しかし、脆いはずのガラス玉は粉々にならず、
なんと 中神の刃を受け止めた。
おはじき一個で刀を防ぐなんて有り得ないことだ。
だが、現実に おはじきに護られて巽は傷一つない。
やがて静かに砕け散ったおはじきが破片となり、
後から、有り余るエネルギーが放散する対象物を見失って、
衝撃を伴った風が吹き抜けるだけだった。
落下速度が狂えば致命的だった巽は息を吐いた。
「ふぅ…これでいいのか、女王さんよ。」
そう言って、後ろを振り返るとティスアが現れ
傍にはクインクエも居た。
それを見て、刀を鞘に納めた中神は理解した。
「…とんだ茶番だな」
ティスアが催したこの私闘は
互いが力を知り、且つ 拳を交えて親睦を図るという
教主のお考えとは思えぬ暑苦しい発想で始まった。
庭に集まっていた者達も幹部級の優れた腕前のある団員で
新生マグダレン教派を引っ張っていく力となるであろう有望株だ。
ティスアの目論見通りかは不明だが、
本人は大層満足した様子でにっこりと称揚している。
「大変素晴らしい方々です。
…皆さんの友好が深まったところで、お開きとしましょう。」
拠点に移って この日はこれにて解散した。
城砦では作戦に備えての準備が進められ、
武器の調達が活発に行われている。
集合して早いもので、央都までの距離を踏まえると、明日には出発する。
時機としても遅れるわけにはいかない。
各々が決起の意思を以て思いを馳せる。
央都侵攻まであと三日。
ここは央都の下部、教会の本拠地 ヘオフォン。
その第二階層、神祇教団の神官たちが寝泊りする個室が並ぶ廊下で
一人の神官と典掌教会の総領であるワシリー・フォマが立ち話をしている。
「ワシリー様、このようなところへ何の御用で?」
「なに、ちょっとした調べものだよ。」
白い髭を蓄えて、一思案するワシリーは
部屋を見回り、空いた部屋の前で立ち止まった。
「この部屋は誰が?」
ヘオフォンに付設する神官宿泊用の部屋は、
ちゃんとした住居で個室であることからも
神祇教団とその神官たちが如何に地位が高いものかが見知れよう。
ワシリーが気に掛かったのはこの階の奥まったほうにある一部屋で
つい最近に扉が開放されたようだった。
「そちらは…確か高等神官のクレアリス様が…」
神官がそう答えるとワシリーは、髭を触って聞き覚えのある名前だと応ずる。
「クレアリス……。バーンスタイン司祭の侍者に
そんな名前の修道女がいたな」
「それは姉のクルセイヴィアです、ワシリー様。」
以前に、フムル・アリフの使いとしてマリウス・エーデルヴァイトが
伝言した司祭、バーンスタイン司祭が連れていた二人の修道女の
一人、クルセイヴィア・マルシウスの双子の妹
クレアリスが使っていた部屋らしい。
高等神官である妹と修道女の姉では格差があり、その優劣は感慨深い。
どの部屋も白々として 室内には目立った変化は見られないが、
戸締まりなどの規律に厳しいヘオフォン内で、扉を開けっ放しにするなど
どうしても、何かあると思わせられる。
少しでも気になることは解消しておきたいワシリーは神官に行方を聞いた。
「…姉妹か。それで、その者は何処へ?」
「先程までいらっしゃったんですが……」
神官の言う"先程"は、数時間前だが
それが正しいとは限らない。細工もすれば、勘違いさせられる。
そう見解を持つワシリーは部屋の周辺に漂う痕跡を見逃さなかった。
方術的な気配とでも言うべきか、
自身が特殊な方術を研究しているワシリーには、それが
まるで残煙のように薄らと流れて見えた。
「マグダレン教の離反が発覚してから、行方を晦ます者が増えているようだ…」
それらの行方不明者は、マグダレン教の肯定派が多くを占める。
であれば目指すのはティスア・マグダレンへの加担だろう。
中にはそうではなく隠れた奴もいるだろうが、教会内の動きは
どうにもマグダレンの掌上に運らされているようだ。
ワシリーの一言で神官は血相を変えて動転した。
「まさか…クレアリス様も…!?」
ただの神官よりも高位の高等神官が裏切るなんて信じられないのだ。
今では、誰がいつ叛心して教皇に刃を向けるか分からない状況だ。
聖堂教会で二番目の影響力を誇っていたマグダレン教の背教が
ここまで教会を追い込む結果になろうとは予想できないことだ。
「こうして案ずることに気付けたのなら、今にでも手を打つべきだ。」
些細な異変でも感じ取ったワシリーは急ぎ足で廊下を引き返した。
ヘオフォンから地上に戻り、大聖堂へ向かおうとしている。
そこで対策を練ろうというのだ。
もしかしたらちょっとの間、留守にしているだけで
マグダレン教に付くとはわけではない 取り越し苦労なのかもしれない。
だが、杞憂にせよ 今は少しの変化も見落とさずに信疑を明らかにしなければならない。
一転して足早に去ろうとするワシリーを神官は呼び止める。
「どちらに行かれるのです?」
「探りを入れる。…手の空いている使徒はいないか?」
「…今は誰もおりません。」
元より人数の少ない使徒は法外使徒や"辰の徒"を頭数に入れても
数十人程度で マグダレン教の追撃や偵察に人手を割いてしまい
把握されている限りではヘオフォンに居る者、央都にいる者もいない。
「それも信ずるに値しなければ詮無きことか。」
令名な使徒であっても信用できなければ意味がない。
マグダレン教の信者が使徒にまで及んでいるとは考え難いが
もし、そうであるなら忌々しき事態だ。
「…やはり、訝しいと?」
「教えを説く者が猜疑に陥るとは滑稽ではある。
だが、それよりも 疑ることが我等教団の異心を清める手段だ。」
教会の尊ぶ神意を貶めようとするならば
疑り合う今の教会こそ"敵"の思う壺だろう。
それでも、だからこそ 疑ってでもすべての教徒を清浄に正さねばならない。
「しかし、どうやって逆心を知るのです?」
神官が言うように、たとえ裏切る意思があったとしても、
知りようがない。
「……カヴォッド司祭のような例もある。
簡単には判別できんだろう」
マグダレン教派に関する人物という一因だけで決め付けては
穏健派の中心人物で教皇側に味方するカヴォッド司祭といった正当な者に
無実の疑いが掛けられることになる。
一人一人詮議する時間もない。
ワシリーも、まだ具体的な方策を思い付けずにいた。
「せめて、動きを知れる観測者がおればな…」
ほとほと困窮するワシリーは気に掛ける神官と連れ立って、
ヘオフォン上層の第一階層まで来た。
そこから突き出た層塔は地上へ繋がる連絡通路であり
グランド・カテドラルを経由する以外ではここを通ってヘオフォンに降りる。
層塔の中、地上へ上がる階段の手前で
突如、窓辺からゆらゆら 煙霧が流れ込む。
「こんな所に霧が……!」
その奇妙さに驚く神官だったが
ワシリーはそれを知っていた。
「…そうか、お主がおったか。」
霧に包まれて、姿を現したのは 央都の守護者、法外使徒のヘイズである。
仄暗く灰色に塗れるヘイズは窓際で静止しワシリーへ目を向けたようだ。
法外使徒は、教皇が認めた使徒から選り抜かれた特権を行使できる使徒だ。
法外使徒に選定される使徒は方術の扱いに長けているか、
並外れた技量のある取り分け、優秀な使徒だけだ。
その特殊性から執行機関である"辰の徒"よりも重要視され、
教皇からすれば枢機卿の次に信頼の置ける人物なのだろう。
人格はともかく 少なくとも、技能には大きな信頼があった。
法外使徒のヘイズは、中央都市に不法侵入する者を見定め
その者が適正でなければ、良くて追い返し 悪くて抹殺する。
他に、央都近傍の監視、教会や特殊対策機構では手に負えない事件の
緊急的な処理を担い、場合によっては"辰の徒"に代わって罪人の執行を受け持つ。
ヘイズの存在は教会でも異端であり、時には特別な暗殺などを嘱託されることもある。
そんな彼は密使としての意義を持つ使徒には珍しく、央都を滅多に離れずにいた。
この時は、それが功を奏するか 央都に現存する最後の使徒であった。
「主よ、追ってくれぬか。」
ワシリーは、クレアリスの行方を突き止めることをヘイズに持ちかけた。
独断が容認される法外使徒であるヘイズに対して、ワシリーでさえ
命令の強制力がないが 彼の返事は意外にも協力的だった。
「いいだろう……」
伝染病のように棄教が波及することを恐れて、ワシリーは慎重になっていた。
「言わずも、密に。」
今後のことも考慮して、なるべく隠密にしたいのだ。
「反意が明らかであれば…?」
ヘイズも人目を嫌い憚るが、仮に相見えた時に
対処するべきかワシリーに判断を仰いだ。
「…処断も許そう。」
慎重にはなったが、手遅れになってしまっては元も子もない。
ワシリーはヘイズのやり方に任せて、許可を与えた。
だが、その場で 離反が明確だったとしても断罪するわけではない。
咎を罰するよりも帰順を促すほうが先決だ。
ワシリーは、ヘイズならば 真意を見識して
事良く運んでくれると信じたのだ。
そのすぐ後、霧は時間が巻き戻ったように外へ消散し
ヘイズの姿も見えなくなった。
霧と共に現れ、霧と共に去る "亡霊"が使命を帯びて央都を発ったのだ。
しばらく沈黙していた神官は、ワシリーの裁量を不安に思った。
「これで、よろしいのでしょうか?」
いくら実力のある法外使徒とはいえ、本当に任せられるのか。
何か、手違いが起こるかもしれない と神官は危ぶんでいる。
「今の教団では、信じられる。できる事はしておかなければな。」
ワシリーはそうであっても、他に手段がない以上
力のある使徒に頼らなければ事態は良化しないと思索した。
それが今できる、最善策なのだ。
そして、層塔を進んだワシリーが大聖堂に到着した頃には
空の明るみが増して、燦々と照り付けていた。
中央都市西部の泥濘の途上。
舗装された歩道を歩き、央都を西から回り込んで北上する一団がいた。
央都北部は常に分断されている為、西か東か そのどちらかの門外から
回り込むように北を目指すしかない。
この一団が西からのルートを選んだのも
外交的な問題で都合がいいのと東道よりも見慣れた道だからだ。
一団を引き連れる統率者の女は
白くて薄い布地のウィンプルをリボン代わりに紫色の長髪を束ねて
薄色の現代風ダルマティカに袖を通している。
神官の一般的な服装を少しコーディネートした感じだ。
教会には大則として教派や理念ごとにルールや服装を決めているものの
全体的に見るとそこまで厳守を強要しているわけではなく、
元々の内向的な教会の文化も外界の様式に合わせて変転している。
さらに言えば、彼女こそ新生マグダレン教派に参ずる
失踪した高等神官、クレアリスであり
教皇が定める教えに倣うことも最早必要ないのだ。
「さ、皆さんもう少しですわよ。」
クレアリスが先頭を行き、激励するように一団を手招く。
一団の一人で、最年少の修道女が奄奄として弱音を吐きながら歩いていた。
「アリス様ぁ、こんな急に出発するなんて聞いてませんよぉ~」
「このエリアの先へ行けば央都の外。
急がなければ追っ手が来るかもしれまんのよ。」
クレアリスはそっと修道女の手を引いて、足を急かす。
ここは西側の湿地帯ではあるが、西方諸国の領地と中間で
依然、中央都市の領内だ。一団が現在いる区分を越せば西方諸国の領内となり、
北方領土の問題でぎくしゃくする両国の関係で、央都も易々と手が出しづらくなる。
急ぐ必要性は十分承知しているものの
クレアリスの横を歩く、眼鏡の似合う知的な修道士はこの強行軍に納得がいかなかった。
「アリス様、聖教主様の援兵は何時来るのです?
二度も先遣隊は全滅したようですが。」
これより前に央都を脱した先行部隊は
"辰の徒"によって一掃され、中央都市の域外へ出ることも叶わなかった。
予定では、まだ央都を出ずに援軍と頃合いに合流するはずだったが
教会内部で思ったよりも早く監視の目が厳しくなってきた為に
多少、早めに出発することとなった。
クレアリスはそんな修道士を宥めるように自信を込めて受け答えた
「ご心配なさらずに。私達のこの本隊は必ず聖座に辿り着けますわ。
何故なら……」
クレアリスが言いかけた時、
若い修道女は朗々と後に続く。
「アリス様がいらっしゃいますから!!」
「その通りです! それに、本軍が動けば私達も安全に行けますわ。」
高等神官のクレアリス一人で何かが変わるわけではないが、
この一団にとっては精神的な支柱であり、多くに慕われていた。
強引にでも鼓舞しようと、溌剌な気勢を上げ
猛り立って先頭へ戻ったクレアリスは、その歩調をさらに速める。
けれど、すぐに
眼鏡の修道士が歩みを止めて、何かを感じ取った。
「お待ちを、アリス様。何者かが近付いているようです。」
だが、周囲に人の気配もなければ、尾行者がいるとは思えないほど
静まり返った路上の風景しか視認することはできない。
修道士の呼び掛けで停止した一団は 数秒経って、
さっきまでの恒温が低下し、
歩道の端々から流れ込む冷気のようなものを体感する。
「これは……霧…?」
若い修道女が 微かに水気を感じるそれは、霧。
俄然生じる霧が暗示するもの。
高等神官のクレアリスならば、それを即座に理解した。
「…ヘイズ……あなたなのね。」
クレアリスがそう口に出した瞬間、
霧が瞬く間に一点に集き、天へと昇る勢いで渦を形成しつつ
人形となれば、次に霧が飛び散った時
そこには灰色のクロークを纏った黒黒とする人物が立っていた。
霧と共に現れる者、法外使徒の ヘイズである。
数分前にワシリーの頼みでクレアリスを追ってきた彼は
こんなにも早く、追いついた。
だが、そんなヘイズにも予想外だったのは
隠密行動に秀でた法外使徒を感知するほど
眼鏡の修道士の察知能力が長けていたことだ。
「こんな所で法外使徒に出くわすとは…」
修道士はヘイズの名を知っていた。それが法外使徒であり、
よもや追っ手が使徒であるとは、逃れられまいと悲観的になっていた。
ヘイズの殺気とも取れる鋭いプレッシャーを察して、
クレアリスは一団に指示をする。
「先を行きなさい。くれぐれも、心配りを怠らずに。」
他の修道士なども一応、戦えるとはいえ
非力な非戦闘員が大勢いる本隊を逃がすには、
クレアリス自らが殿を務めるしかない。
「アリス様っ……!」
クレアリスのその決意に、修道女は思わず涙ぐむ。
「…ここは汲むのだ。アリス様ならば、問題はない。
みんな、行くぞ!」
眼鏡の修道士は、クレアリスに従って一団を率いると、
歩道を急行してその場を離れていった。
「…抗うか…。」
じっとしていたヘイズが動き出すと、
クレアリスは行く手を塞いでヘイズの注意を惹き付けた。
「追わせませんわよ。」
「標は付いた…。残りの任は…罰するべきか。」
ヘイズは残留していたほんの微量の霧を操作して、遠くへ飛ばすと
クレアリスの逆心を判断し始める。
「何だか気になりますわね…。と、余計なことを考えている余裕はありませんわ。」
"標"という言葉に引っ掛るクレアリスだったが
ヘイズの発する無言の圧力に、抗戦の意思を見せた。
「…敵意は明らか。なれば、処すのみ…」
クレアリスを敵対視して、ヘイズは裁する。
そして、クロークの内から湾刀を取り出すと、ヘイズは
見るも素早く 接近し、クレアリスに斬りつけた。
それをひらりと踊るように避けるクレアリスは慌てて臨戦する。
「危ないですわね…! 私、近接戦闘は苦手なの。
魔術でお相手しますわ!」
魔術。旧時代の教会が行っていた儀式の一端に
そのような加護を具現する異端の術があるという。
それらの概念も大陸の外から齎されたとされ
異端を知得することは禁忌とされてきた。
現在の教会では、一部が古い文献でのみ見受けられ
歴史的資料として解禁されたが、それを"概念"として知る者は少ない。
現に魔術と謳うクレアリスの術も、方術を原型とする自己流のアレンジであり、
完全な"魔術"ではない。魔術は未知の部分が多いのだ。
クレアリスが専門とする方術は力の増幅。
用途が支援に徹せられ、それ自体は攻撃的な作用を持たない
微弱な方術であるが クレアリスが得た魔術の知識と
増幅の方術を併用することで 方術を魔術に近づけさせる。
そして、それが魔術的であるのは、構成要素を省略できるからだ。
クレアリスは初級程度の方術なら一通り扱える。
それを増幅して発動するだけでも十分戦えるが 魔術を信奉する彼女は
飽く迄 魔術的に拘る。
クレアリスが高らかに手を上げると
上空に小さい火の玉を四つほど出現させ、
急旋回しながら、ヘイズに飛来する。
祷祀契約や媒体を要さずして撃ち出された火の玉をヘイズは怪しむ。
「面妖な…」
結界にしても方術にしても構成要素が必要となる。
結界の場合は、結界の形成を具現する媒体。
方術の場合は、祷祀契約であり、
祈りを捧げて奇跡を呼び起こす 敬虔な祈願の念が力となる。
普通なら方術使いと契約、力の依り代となるものが要るが、
最小限でも術者と祷祀契約が揃っていなければ方術は発動できない。
方術における祷祀契約の省略は
本来、修験を経て身に付ける法力のようなものを縮約して
扱いやすくした低度の方術を指すが、クレアリスの魔術に似せた方術は
省略したことで失われる力を保持して 手順だけを省ける。
それは、代償を必要としない魔法ならではの特異さだ。
あのカーディナルも、霊験な装飾品を介しているからこそ
瞬時に方術を発動できるのであって、初級の方術とはいえ
何の下準備もなしに発現させることは奇怪だった。
ヘイズが最初に飛んできた火の玉を湾刀の曲面で受けて 軌道を逸らすと、
湾刀を回転させて次々に迫る火の玉を撃ち落とした。
「あなたに言われたくありませんわね!」
亡霊と称されるヘイズの姿に、クレアリスはヘイズこそ面妖だと返した。
直後に、今度は
水の弾を五つ放ち、続けて地面を揺るがして、
隆起した大地が 後ろへ飛び退こうとするヘイズの足場を断った。
これでは着地ができず、足を地面の亀裂に取られてしまう。
すると、ヘイズは飛び退いた姿勢のまま、上体を捻って
軽業的な動きで隆起した地面を大きく飛び越える。
水の弾は捻った勢いを利用して、タイミング良く
体を一回転させると刀身を弾道の向きに合わせた湾刀で払い除けた。
そのまま着地したヘイズは すべての攻撃を往なしていたが
こうまで連続して方術を駆使してくると、簡単に攻めることができない。
「すべてノーコスト。どうです?素晴らしいでしょう、魔術は!」
力を見せ付けるかのようにクレアリスは得意満面な笑みを浮かべる。
方術のような手順がなく、制限もない"魔術"とやらは
大変便利な術として扱えるようだ。
だが、魔術も決して万能ではない。
無から有が生じない理の上では 支払うべき代償は 不可視なだけでちゃんとあるのだ。
俚言、"魔力"とも言うべき力の要素が関わらなければ魔術は使えないはず。
それは、魔術の概念すらあまり認知されていないこの世界で
知識を得たクレアリスも例外ではない。
厳密に、クレアリスの魔術は
手間の少ない初級方術の"奇跡"を薄めるように、
魔術の知識を活用して再構成し、コストを最小限にする。
それによって弱くなった効果を増幅の方術で増して発動しているのだ。
力の還元による模倣魔術といったところだろうか。
元々、増幅の方術は 自分以外の方術使いの方術効果を高めるだけであって
自己への増幅は正しい使い方ではない。魔術の知識によって
力の制御を会得しなければできない芸当だ。
一部の得意な方術の属性に限れば中程度のものや
上位方術を増幅させることもできるクレアリスは
初級方術による連繋攻撃でヘイズの足を止めているように力を温存している。
それもそのはず、クレアリスは時間さえ稼げればいいのだ。
ヘイズと戦う気など毛頭ない。
湾刀を下げたヘイズは殺意を抑えてクレアリスを再度、裁定する。
「今一度、問う…。……抗うか否か」
「そちらから仕掛けてきて随分な物言いですわね。
ですが、こうして敵対してしまった以上 あなたにはお分かりではなくて?」
クレアリスもできるなら、戦いは避けたかったが
こうなってしまったからには、せめて本隊が遠くへ逃れるまで
ヘイズを抑止しなければならない。その思いに変わりはなかった。
「……警告はした」
ヘイズがクロークをはためかせるとヘイズから発せられる霧が
頓に立ち込めて、見る見るうちにクレアリスの視界を奪っていく。
この霧はただの自然発生する霧ではない。
ヘイズの霧は方術によって生み出されたものだが
これがどの系統に属するかは分からない。
類似するといえば、水に働き掛ける方術だろう。
だからといってこれを水の方術とするのは些か違う。
恐らく、使う者もヘイズ唯一人という異端の方術なのだ。
視野を真っ白に閉ざされたクレアリスは 軽視したわけではなかったが、
その霧を小手先の目眩ましのようなものだと思い込んだ。
「こんな霧…私の魔術には敵いませんわ!」
指揮棒みたく優雅に手を振るうクレアリスを中心に、
風が吹き上げ 霧を散らす。
だが数秒後には霧が再び集まり始め、濃霧となってクレアリスに纏わり付いた。
「なんですの!?この霧…っ」
「無駄だ…霧は晴れぬ。」
何処からか、霧中に木霊するヘイズの声。
言い知れぬ恐怖に駆られるクレアリスは何とか気持ちを持ち直して
初級方術のすべてを詰め込んだ"魔術"を発動した。
「それなら、これでどうです!」
火や水は弾丸として、
風は見えざる刃として、
大地は地盤を鋭く尖らせて
全方位を補うように一斉に方術が発現する。
これならば霧で見えなくとも問題はない。
クレアリスは防護の為にも、敢えて攻撃として放射せず
死角を作らず、円状に留まらせ、
次第に範囲を広げてヘイズの隠れる位置を割り出そうとしていた。
火と水の球体は増え、風はさらに強烈に竜巻を起こし、
大地が捲れたように大きく突き出て その度に分厚い地盤の壁が成されていく。
追加で光の電撃を直線上に走らせ、基本的な方術の属性がここに集結した。
たとえ法外使徒でも、一遍に直撃すれば一溜まりもないだろう。
それでも、ヘイズは声色一つ変えなかった。
「無駄だと言ったはずだ。」
声のする方へ集中して、クレアリスが"魔術"を操る。
すると、すべての方術が組み合わさった
一所にヘイズが現れ、大きな衝撃と共に強烈な光が閃く。
その眩しさで目を覆うクレアリスは閃光の中で
一つとなった"魔術"によってヘイズを倒したと確信した。
完膚無きまでとは言うまいが、これでかなりのダメージを与えたはずだ。
しかし、次の刹那に
完璧に捉えられたはずのヘイズがクレアリスの背後を取って、
湾刀を目先に突付けていた。
「そんな…どうして、ここまで…」
クレアリスが魔術を命中させたヘイズは言わば、霧で作られた残像であり
本体のヘイズはクレアリスにゆっくりと忍び寄っていたのだ。
ヘイズの半身は霧と同化しており、幽霊に見間違えるくらい棚引く霧が朧だ。
「霧があれば、攻撃は通じない…」
ヘイズは霧と一体となることであらゆる干渉を無効にする
無敵の状態になれる。それこそが"亡霊"と畏怖される理由である。
「失態ですわ…。」
何処か納得したようにクレアリスは、潔く負けを認めた。
元より戦う気もないため、徹底して抵抗することもない。
それに、法外使徒相手に十分 時は作ったのだ。
ヘイズが、クレアリスを手に掛けようとした
その時、獣道を掻き分けて 豪華な祭服を着た男性がヘイズを制止した。
「待て、そこまでだ。」
「…あなたはラバルム大司教!?」
クレアリスもよく知る、その男は 円卓協議にも参加していた
ラバルム・アリクス大司教だ。
「法外使徒よ、ご苦労だったな。
後は我々が引き継ぐ。…下がって良いぞ」
ラバルムがそう言うと、ヘイズは少し考えてから湾刀を仕舞い、
クレアリスから距離を置いた。
「……任は果たした…」
ヘイズは囁き、霧を自分の足下に集めると 現れたときと同様に
音も無く消え去った。ヘイズが消えると霧は晴れ、冷気も失せた。
大司教の突然の登場に、クレアリスは動揺する。
「…ラバルム大司教、どうしてここに?」
「嫌疑のある神官の尋問だ」
淡々とラバルムは告げる。
「それは私のことですわね…」
クレアリスは、こうなることも予想はしていた。
だが、それが大司教直々のお出ましとは思いも寄らなかった。
覚悟を固めたクレアリスに対し、
ラバルムは奇抜なことを言った。
「…というのは建前だ。こちらとしても手土産は欲しいのでな」
「仰ってる意味が分かりかねますが…?」
「私は味方だ、君達マグダレン教のね…。」
ラバルムの言葉をクレアリスは心底、信用ならなかったが
状況的にそう考えた方が自然である。
何より、こうして何もせずに対話しているのだから
とにかく敵意は持ち合わせていないのだろう。
「…なるほど、そういうことですか。
でしたら、すぐに本隊と合流しましょう」
クレアリスが先導して、本隊の後を追おうと歩み始めると
急に ラバルムが後ろを振り返った。
「そうだな…。しかし、その前に厄介な連中が来たようだ。」
ラバルム大司教は察知能力に優れていないが
自分に付いて回るような気配は感じ取れた。
「……!」
クレアリスが後ろを向く そこには
司祭のイメージを体現する正統な衣装で
こちらを目するバーンスタイン司祭がいた。
「やはり…貴方にも背教のお考えがありましたか」
バーンスタイン司祭はラバルム大司教を尾行していたようだ。
「これはバーンスタイン司祭。こんな所で奇遇ですな…」
「誤魔化さないでいただきたい!
大司教ともあろうお方が 何故、このような真似を…」
「司祭には分からんだろう…。より聖者に適する者を信教する、
…当然の成り行きだ。」
「教皇様よりもマグダレン司教のほうが正しいと?」
「もはや臧否を判ずるべきもない。
教皇は老いた…ただ、それだけだ」
「…本当に、戻るつもりはないようですね。」
バーンスタイン司祭は失意した。
ラバルム大司教のことを私淑していた彼にとって
その裏切りは、赦しがたいことだ。
「何なら、司祭もご一緒にどうか?」
「丁重にお断りします。我が主は教皇様だけです。」
「それは残念だ…。それで、どうする気かな」
余裕を見せるラバルムに
バーンスタイン司祭は自らの決心を明かす。
「無論、止めさせてもらいます。」
争いが勃発する緊迫の中、
司祭の後方より声が通った。
「司祭様!」
バーンスタイン司祭を取り巻く修道女の、
クルセイヴィアとアルマリーの二人が心配そうに駆け付ける。
「二人共、下がってなさい。」
前に出ようとするクルセイヴィアとアルマリーを止めて、
バーンスタイン司祭は二人を後ろへ下がらせる。
そこで、クレアリスは姉であるクルセイヴィアの存在に気付いた。
「…お姉様、いらしたんですのね。」
「アリス…一体、どうしたというの!」
「お姉様、私の居場所はもう そこにはないの…。
ティスア様ならば私の求める理想も実現させてくれますわ!」
クレアリスの追い求める理想は、魔道の先にある。
異邦を受け入れ、革新を目指し続けるティスア・マグダレンの下なら
その境地に辿り着けるというのだ。
「背信なんて間違ってます、今すぐ戻りなさい!」
模範的な教徒であるクルセイヴィアには、
魔の力を至上とする妹の考え方を理解できずにいた。
「邪魔をするなら、いくらお姉様でも……!」
遂に"魔術"を使おうとするクレアリスをラバルムは押し止めた。
「まあ、待ちなさい。君は先の戦いで消耗しているだろう。
ここは私に任せなさい」
「大司教…」
確かに、ヘイズとの一戦でクレアリスは消耗していたが、
余力はまだあった。が、ここはラバルムを見極める為にも退いた。
「バーンスタイン司祭、君は実に運がいい。
何せ、私が雇い入れた傭兵と一戦交えられるのだから。
…クラッド、出番だ。」
ラバルムが合図すると、司祭達の前に 一人の男が飛び出してきた。
身にフロックコートのような礼装を、濃紺の頭髪を目立たせ、
眼帯をした屈強そうな男は よく見れば、隻腕で
背中にはハルバードに似た斧を装備している。
「これは仕事か?」
この男 クラッド・フォールは、ラバルム大司教が私的に雇った傭兵で
雇い主であるラバルム自身もわからないことが多い謎の深い男だ。
「ああ、早速の任務だ。適当にあしらって差し上げなさい」
ラバルムは言い置いて、司祭に背を向けて立ち去ろうとしていた。
「大司教…!」
バーンスタイン司祭が阻止しようとするも、
少しでも動けばクラッドが睨みを利かせ むざむざと見逃すしかない。
「では、行こうか。彼に任せておけば心配はいらない」
ラバルムはクレアリスに声を掛けて、同伴を誘うと先を急ぐ
ラバルム本人の見極めには至らなかったが、
今は本隊と合流することを優先し、この場をクラッドに預けた。
「そうですわね…本隊が気になりますし。
では、お姉様 御機嫌よう。」
「待って、アリス!」
クルセイヴィアはクレアリスを追うようにして手を伸ばすも
そこへ、斧を掴んだクラッドが立ち塞がった。
すぐにも、バーンスタイン司祭はクルセイヴィアの手を引いて下がらせる。
「危ないですよ、ここは辛抱なさい。」
「…司祭様。」
クルセイヴィアは物悲しかった。
止められない自分の無力さを、妹の心根に気付けなかったことを悲観した。
そして、向き直ってクルセイヴィアが見つめる先に
もうクレアリス達の姿はなかった。
「何者かはわかりませんが、かなり腕の立つ男のようですね…」
見て、実際に対面して、 その態度や物腰から
クラッドという男が腕利きの傭兵だとわかる。
バーンスタイン司祭は愈々警戒していた。
「最初に言っておく。…悪く思うな、これも仕事なんでな。」
斧を手に、クラッドは司祭へ近づいてくる。
「なるべく争いは避けたかったですが、そうも言ってられません。」
戦いも致し方ないと
バーンスタイン司祭は隠し持っていた権杖を取り出した。
この権杖は、十字架を頂く儀礼用の杖であるが修練では仕合で用いることもある。
十字架の反対側の末端に丸みを帯びた部分があり
柄の部分は平たく、突きと薙ぐことを重視した作りになっている。
「では…行きますよ!」
バーンスタイン司祭が先手を取って、動いた。
権杖の持ち手を十字架の部分とし、水平に構えて
球状の先端を接近したクラッドの腹部へ突き当てる。
クラッドはそれに堪え、斧を力任せに振り上げた。
権杖の平らな面で斧の表面を擦るように受け流し、司祭は後退する。
クラッドがただ振り上げるだけで凄まじい威力があった。
権杖の強度が足りなければ 今の接触で損壊していたかもしれない。
距離を測るように、互いが動かずに、
戦いは始まって間も無く膠着した。
直接刃を交えて、お互いが力を把握できた故に
両者が慎重になって、拮抗した状況ができてしまったのだ。
だが、本調子ではないクラッドと司祭の力の差は大きく
このままでは、敗れるのは時間の問題だろう。
その様子を司祭の後方から見守っていたクルセイヴィアは
司祭が劣勢だと勘付けば、隣のアルマリーに提案をする。
「アルマリーさん、支援詠唱を!」
「クルセイヴィアさん……わかりました、やりましょう!」
アルマリーは聖歌を、クルセイヴィアはそれに合わせて頌栄を唱える。
祈りの行き先は司祭の持つ権杖。
見えない神聖な力が込められていく。
「お二人共、感謝します…!」
バーンスタイン司祭は謝意を表しながら、クラッドへ突っ込んだ。
先程と同じ構えから繰り出される突きはさっきよりも鋭く、力強い。
今度は、突きを斧で防御するクラッドだったが、
斧で受け止めた力に押されて、数歩 後ろへ動かされる。
「力が上がった…? あの二人の所為か…」
遠くで詠唱する二人の修道女を一目し、力が跳ね上がった理由をクラッドは理解した。
クラッドの視線が外れて、生じた隙を司祭は畳み掛けるように突いた。
「余所見は禁物ですよ!」
ガードされた丸みの先端を一回りさせ、司祭は十字架の装飾を打ち付ける。
咄嗟に反応したクラッドは、斧の刃先を上げてギリギリの所でそれを止めた。
「…司祭は白兵戦が苦手だと聞いていたが…?」
方術使いならまだしも、
武器を用いた近接戦闘を得意とする司祭なんて殆どいないだろう。
戦闘用ではない権杖を使いこなすバーンスタイン司祭の動きは洗練されており、
異様に戦い慣れていた。
「これでも紛争の生き残りですからね」
西端紛争の経験者、十字教派時代に一介の修道士だった
バーンスタイン司祭はその時から棒術に秀でていた。
「通りで戦い辛い相手だ…!」
クラッドは、権杖を受け止めたまま斧を一旦引いて、
力を溜めると 大きく撥ね除けた。
それによって両者の距離は再び開く。
「…ここからは方術も使いましょう。」
詠唱の負担も考えると、あまり時間は掛けられない。
一気に勝負を付ける為に司祭は得意とする強化系方術を使おうとしている。
強化系といっても、外術と違って肉体的な強化を行うのではない。
祷祀契約の際に、ちからの依り代となっている物体に
一時的な加護を与えるのだ。この強化は人間には使用できず、
発動される力の強弱によっては制約が付く。
同類の増幅の方術と異なる点は同時に発現不可能であり、
依り代の影響を受け、その物次第で効果が変わってくることだ。
「一点結集、最大硬化…!」
司祭が唱えて、方術が発現すると 権杖は一瞬光ったように見えた。
強化方術の一種である一点結集は
その物体の一部分にある最大の硬度を物体の"芯"に集中させ、
物質の強度を最大限に引き出す。芯が強まれば全体も強まる。
これで、権杖のどの部分に斧が接触しても破損することはない。
バーンスタイン司祭が駆け、クラッドに詰め寄る。
そして、権杖を横に薙ぎ払い、斧と衝突する。
激しい衝突音を鳴らしながら鋼鉄の斧と互角に渡り合う権杖。
まるで研ぎ澄まされた刀で打ち合っているかのように剣戟は続いた。
数回の衝突の後、バーンスタイン司祭は更なる方術を発動する。
「さらに、重量増加!」
物的質量を増加させ、単純な重量が増す。
重くなるということは、当然 扱い辛くもなるが
瞬間的に加重すればその攻撃の威力も上昇する。
実際、クラッドは権杖の加重によって、
斧で受け止めきれなくなってきていた。
完全に流れは司祭が掴み、優勢と思われたが
クラッドはまだ本気すら出していなかった。
「やはり、ただの司祭ではないな…。白兵戦にも慣れている。
だが、あの頃の教会に比べれば大したことはない」
クラッドは少し力を入れて、権杖を押し戻すと
手元で軽々と回転させた斧を小脇に抱えるようにして、
体を捻って斧を真横に振った。
「…!」
それを、何とか権杖を縦にして防いだ司祭だが、
衝撃が強すぎて歩道の外の泥濘まで飛ばされてしまった。
「司祭様!」
直ちに走り寄るクルセイヴィアとアルマリーは
泥土に塗れた司祭を引き起こし、寄り添った。
「…少し、無茶をし過ぎましたね…。」
脇腹を押さえるバーンスタイン司祭は 傷こそ浅いが、
強化した権杖がなければ即死していたかもしれない。
起き上がった司祭を見て、
クラッドは追い撃ちをかけると思いきや
斧を背中に戻した。
「そろそろいいだろう…」
クラッドは、これ以上戦う気がないようだ。
辛うじて生き延びることとなったバーンスタイン司祭は疑問を持った。
「…私を、始末しなくてよろしいのですか?」
今なら、いや たとえ司祭が全力を出していても
クラッドがその気になれば殺せただろう。
それをしないで、捨て置くのは強者の驕りか、
興が乗らないだけか。 司祭には気掛かりだった。
「目的は終えた……あしらえ、と言われただけだしな。」
「情け…ではなさそうですね。」
「無益な殺生はしない…それだけだ。」
始めから、殺意の籠もっていなかったクラッドは
それからラバルムに追いつくべく 即刻、去って行った。
その数分後に、
聖堂教会でティスアと肩を並べていた司教、フムル・アリフがやって来た。
「少し、遅かったようですね…。ご無事ですか?」
アリフは覗き込むように凭れるバーンスタイン司祭を気遣った。
「アリフ司教…。」
か細く応えるバーンスタイン司祭はひどく疲弊していた。
後になって、あの時の 斧の一撃が効いてきたのだ。
「アリフ司教も、大司教を追ってこちらに?」
この状況で現れたアリフに対し、アルマリーは
司祭と同じような動機でここまで来たのだと思った。
「いえ、私は市民の皆さんを避難誘導していたのですが
聖堂が蛻の殻だったようなので、様子を見に来たのです。」
黎元の離宮に集まった民衆を責任をもって最後まで導き、
帰りを見届けたアリフはその後、各所の聖堂を訪れたが
中でもバーンスタイン司祭が管轄していた聖堂には
礼拝の時間にも関わらず無人で、胸騒ぎしたアリフが
西の開門に不自然に思い、方術の発現を察知してここまで来れたらしい。
一定の距離の内なら、ある程度の方術使い同士は
方術が使われた形跡や発動を感じ取ることができる。
誰にでも当て嵌まるわけではないが
フムル・アリフは特にそういった能力が高かった。
「司教…私のことは良いのです…。彼らを追って下さい。」
バーンスタイン司祭は懇願した。
そう遠くへ行かない今に、大司教を止めなければ
マグダレン教派は益々厄介になるだろうし
大司教やクレアリスの真意も問い質していなかったからだ。
しかし、アリフはそれを拒否する。
「それはなりません、すぐに治癒します。
そこのお二人、手伝ってくれませんか」
アリフは、司祭に添うように立っていた
クルセイヴィアとアルマリーに助力を頼んだ。
「は、はい…!」
「そこに寝かせてください、布はありますか?」
アリフが歩道と泥濘の狭間に司祭を仰向けに寝かせるよう指示し、
布を所望する。
「これなら…」
アルマリーが差し出した麻布に
常備携帯しているオリーブ油を数滴垂らし、
司祭の傷口に宛がうと儀式の準備を始めた。
「…アリフ司教、貴方なら大司教のことを…」
バーンスタイン司祭が心残りなのは大司教のことだろう。
アリフ司教ならば慕っていた大司教を自分の代わりに諭すこともできると。
だから頼むのだ。
それでもアリフは動かなかった。
「……私が追ったところで何もできないでしょう。
今は司祭の回復が優先です。」
何もできないというのは半分は謙遜であり、
半分はもし、実力行使せざるを得なくなったら弱者だからだ。
フムル・アリフは博識でいて、正規の教会関係者の中でも
有数の聖者だ。祭儀では遺憾無く実力を発揮し、右に出る者もいないが
実戦となると並みの修道士にも劣る。争い事とは縁遠い人物なのだ。
儀式とはいえ大層なものではなく、準備は簡易なものだ。
二本の蝋燭に火を灯し、対象者に聖水を掛ける。
この場合は司祭の顔に塗すように聖水で濡らし、
麻布を押さえながら、祈りを捧げる。
しっかりと祈りを終えた
すぐ後に、聖水で火を消して 麻布を取る。
すると、傷は塞がっていき、綺麗に元通りとなった。
「すごい…見る見るうちに傷が…!」
アルマリーは自然の治癒を促進させる方術に驚きを隠せない。
「…これで、安静にしていれば大丈夫です。
司祭を第八聖堂に連れて行って下さい。あの場なら落ち着けるでしょう。」
治癒では傷は治っても、体力まで回復できない。
精神的疲労もある司祭には休息が必要だ。
西の門からも程近い第八聖堂は大聖堂の管轄下にあり、
どんな状況下でも正常に機能している場所である。
「わかりました。行きますよ、アルマリーさん。」
クルセイヴィアとアルマリーは司祭を支えながら央都へと戻っていった。
一人、空の遥か彼方を見上げるアリフは呟く。
「法王猊下…どうやら事態は、我々が思うよりも深刻なようですよ…」
ティスア・マグダレンの背教は教皇や 誰しもが思うより根深く、
教会を、そして央都を混沌の深潭へ陥れようとしていた。




