02
【surging blaze~put off】
斜陽が照らすその頃、テアトルムを出たノエンは奇異な光景を目にする。
まだ初冬を迎えたばかりの地表に不相応の焼け跡と灰がそこら中に舞っていた。
いや、これだけではまだ不思議ではないだろう、
不自然だったのは、ノエンが明らかに熱を体感したからだ。
それも、真夏のような気温だ。
局地的に寒暖が異常となった所為か蜃気楼のような歪みが生じる。
沈む太陽と逆行して二つ目の陽光を幻視し、ノエンは眩んだ。
そして異変は内部まで及んでいた。
メンテナンスフロアでの爆弾設置を完了して、ロサードが窓際に立った時のことだ。
応答しないブルーイッシュからの連絡を待つロサードは何気なく外を見下ろした。
そうすると、地面が細かく隆起して何かが迫り上ってくるようだった。
視力が多少悪いロサードにも、それが近付くに連れて
丹紅の塊が噴出してきたと判る。
見れば純粋な赤で形成された物体は揺らめく岩漿の如く猛る光、
燃焼する気体 火炎そのものだ。
火の玉よりも長く、一つの流れとなって昇る炎が
ロサードのいる階上に達すると、うねって窓を突き破り、雪崩れ込んできた。
「全員、散開しろ!」
窓に最も近かったロサードが右方へ転げて、注意を号令する。
けれど、遠くの者は反応できずに、炎熱の激流に呑まれる。
少しでも触れればその部位は焼尽され、逃げ遅れた者は
悲痛な叫びをあげてのたうちまわる。四肢は溶け、身骨が焼き付く。
夥しい熱気と湧き上る蒸気が霧散し煙のカーテンを作った。
煙に寸断され、ロサードの視界は皆無、 暗闇に比類する。
声は聞こえど姿は見えず。されど絶叫もやがて涸れ果てる。
「ちっ、一体何だってんだ!」
一見して何事か、常識外れの出来事に直面した
ロサードは教会が使うという方術を脳裏に過らせる。
「コレがそうだとして、教会の連中が
なぜ正確にこちらの位置を掴んでいる…?!」
まさか内通?― 最悪を想定したロサードが一考する余裕もなく
焔を放った"敵"が急上昇して、目の前に現れた。
法衣を着服した仮面の人物、枢機卿の称呼を持つカーディナルだ。
厳粛な祭儀で用いられるような神秘の仮面は冷血な執行に似合う
無機的な畏怖を連想させる。全身を覆う分厚い法衣と
玻璃のような正方形の薄い結晶が装飾として腰や首から下がっている。
「……汝、罪咎を背負うか」
仮面を通して伝わる声は重く、低く、無感情な印象を与える。
{面妖な奴だ…… だが、凄まじく威圧的な雰囲気がある。
どう見ても高位の使徒、それも相当なやり手だ。}
窓の外で浮遊するカーディナルは熱気球のような要領で一定の宙を漂っていた。
しかもそれを周囲の熱量を操作し、空気の疎密による膜を作って、
常に微調整することで自然に浮くのを維持しているのだ。
暑熱は相変わらず、だが煙は晴れてきた。
カーディナルがロサードの返答を待つ隙にロサードは辺りを見回した。
{残ったのはこれだけか}
焦土の芥が惨たらしい骸すら残さず
ロサード以外は六人中二人しか生存していない。
生き延びても、その内一人は重篤な火傷を負って動けない。
「撤退不能、か……」
思わず口に出してしまうほど絶望的な状況だ。
こうなれば徹底抗戦あるのみ、と体勢を立て直したロサードが
カーディナルを面前に向き直る。意気込んで手製の手榴弾を隠し持ち、
特攻も辞さない心境でカーディナルを睨んだ、
その後ろから弱弱しい声が掛かる。
「ロ、ロサードさん……俺らに構わず行ってください…」
「……お前」
確かに、ロサードだけならこの苦況を脱して生き残れるだろう。
全滅するくらいなら、まだ一人でも存命していれば再建できるかもしれない。
特に、首謀格のロサードが生き延びるかどうかは重要だ。
組織か仲間か。
決断を迫られるロサードに
カーディナルは噤んだまま、黒い手袋をした左手で装飾された結晶を取ると、
粉々に握りつぶした。厳密には熱で溶かしたといえる。
したらば、カーディナルの頭上に目で見える質量に濃縮された空気が集き、
それが球体の範囲に固定され、集積すると一気に発火した。
「…!」
ロサードは焦思した。
こいつ、建物事 消滅させる気か。と
素人目でも明らかに危険だと分かるレベルの火球だ。
大抵の人間はこれに圧され、悲観するしかないだろう。
カーディナルが片手を上げ、圧縮された火球を掴むように掌を開くと、
指先を滑らかに柔軟し、再び閉じて元の位置まで下げた。
無意味な動きに見える一連の流れだったが手を下げた直後、
火球はロサード達目掛けて飛来した。
それに合わせて、ロサードは手榴弾のピンを口で引き抜き、床に向って投げつけた。
「すまねぇな……。」
葛藤していたロサードが取った行動は、
仲間を見捨てて脱出することだった。
この場合、最良の選択だったのだ。
意識のあった仲間は最期に、微笑んだように見えた。
爆発が先に、塵煙を舞い上がらせ 続けて煙を突っ切って火球が通った。
それから火球がフロアの最奥に衝突して炎が溢れ出す。
一点に限定した構造の脆弱さを知っていたロサードはピンポイントで
自分のいた床の側面を部分的に沈下させた。
そこを下って炎が大爆発を起こす寸前に逃げ切った。
あと寸時決断していなければ、無事では済まなかっただろう。
所変わって 陌上のノエンはふらつきながらも
ゲートを目指して歩道を南下していた。
テアトルムから離れるほど異常気温は正常化していったが
強烈な幻覚の陽光が目に焼き付いていた。
蹲ってノエンが小休止していると、突然 左の方から声がした。
「お姉ちゃん、大丈夫ー?」
ノエンを心配そうに見つめる少女が街道沿いの雑木林を掻き分け現れたのだ。
「私はキーリア。キーリア・メル・ハウエル。
近しい人は末尾を取ってアルルって呼ぶよ!」
捲くし立てて自己紹介する少女は
フリルが服飾された水色ワンピースを着て、嫩緑の短髪を揺らして笑った。
「遅れて劇場にやってきたんだけど、立ち入り禁止になってるし。
誰もいないんだよ!そして、困り果てた私は
道を引き返して、お姉さんを発見したの」
市井の子供でもこんな不用意に馴れ合いはしまい。
ノエンは心中で頭を振り、目眩を吹き飛ばして立ち上がった。
「あ、お姉さん。元気になった?
見たところ門へ向かうみたいだけど、途中まで一緒についてっていいかな!」
当然、ここは断って 別れるはずだったが
何故だか拒否できない。ノエンは混乱したまま小さく頷く。
「ありがとう!
ところで、お姉さんの名前はなぁに?」
「……ノエン。」
「そっかー。呼び捨て?それとも、敬語がお好み?」
「どっちでもいい……」
「じゃあ両方、使い分けるね!」
鼻歌交じりにスキップで弾み、キーリアは
足早に歩くノエンの後ろについていった。
路地裏まで走り込んだロサードは息を切らせている。
{何故、追って来ない……}
あれほどの余裕があったのに、手榴弾の目眩ましで欺けるはずがない。
浮遊した状態で空から捜索すればすぐに見つかる。
それでもロサードを追わないカーディナルが不可解に思えた。
{それとも、俺を殺すのが目的じゃないのか…}
さらにロサードを悩ませたのが爆発の規模である。
テアトルムの1階付近まで溶岩流のようなマグマに溶けた資材の残滓が
流れてきたにも関わらず、建物全体が損壊する大事になっていないのは
外から見て瞭然だ。てっきり、そのまま大爆発を起こし、
甚大な被害を及ぼすものだと思っていたが余りにも規模が縮小している。
見掛けほど威力がなかったのかもしれないが
あの一瞬で感じた熱量は極めて凝集していた。
あれが飛散すれば強化硝子だろうとなんだろうと瞬時に溶かしてしまうだろう。
となると、ロサードが逃げ果せることが確定した段階で、
火球を消し、効果を限定した。ということになる。
教会側が関与して建設されたテアトルムの被害を少しでも減らす目的なら
一理あるが、排除の為に攻撃したロサードを見逃すとは思えない。
実際に"淡紅の灰"で生き残ったのはロサードくらいだろう。
まるで始めからロサードだけを逃がすためのように仕組まれた計画。
そして、教唆したのは仲間の内の誰か。
その内応者にロサードは心当たりがあった。
「……ヴェスパーか。」
ヴェスパーとはブルーイッシュ同様に、三つの部隊の一つを率いる
サングラスの男のことだ。参謀として今回の反乱作戦を立案し、
ロサードが最も信頼していた人物。相反して、
ロサードが最も警戒していた男でもある。
戦災孤児などが多い"淡紅の灰"では珍しくないが
彼の経歴に偽装と訝しむ不審な点があったからだ。
メンテナンスフロアに着いたとき、ロサードが真っ先に連絡した相手が
ヴェスパーだったが音信不可の電波状況で通信がなかった。
最終確認の事前に連絡を取り合うと、予め決めていたのに
連絡できない状態にあるのはロサードも気に留めていた。
勿論、ブルーイッシュからの連絡はあった。
それが最後の通信となってしまったが。
ヴェスパーが発案し、ロサードがアイディアを加えた
最初の計画では、第一段階として嘱目される為の反抗運動、
連続的なビル倒壊事件。自分達の存在を誇張し、
脅威と認識させ、警戒を強めさせるのが目的だ。
これでは注意を喚起するだけでテロを起こした意味がないが、
行動の実現にはより多くの人々が関知しなければならない。
第二段階は実働。テアトルムに爆弾を仕掛け、脅威を強調する。
並行して万一の備えにモルデンを利用した手回しをする。
第三段階であった最終起爆はビルの構造欠陥を修正し、
計算し尽くした配置によって一部分だけ残る予定だった。
そこを移動型のアジトとして使う魂胆だ。
或いはテアトルムが全壊しても、
それによって力の誇示が完遂されるのであれば問題はない。
新たなシンボルであり、大いに注目された
テアトルムは叛乱を意企するに十分な好餌だったといえる。
「淡紅の灰も終わりか……」
つい呟いて、ロサードは空しくなった。
元より、淡紅の灰は 親代わりの恩義があった先代のリーダーが
孤児院にも入れない居場所の無い者達を集めて組織し、
和気靄靄とするだけの集団だった。
ところが、ある日 教団が押し寄せ、根城を奪われた挙句
交渉に出向いた先代が暗殺される事件が起きる。
当時から、発言力を持っていたヴェスパーが代理として
一時的に淡紅の灰を統率していたが、ロサードが成長するとリーダーに任命した。
それから、淡紅の灰は知らず知らずの内に、教会への憤懣を増大させていき
今回の反逆が実行された。それに端を発したのもヴェスパーが影響していた。
つまり、ヴェスパーがすべてを操っていたといっても過言ではない。
しかし、ヴェスパーの意図ははっきりせず。
淡紅の灰を使って教会を打倒するのなら、裏切る真似はしないはずだ。
逆に当初から教会側の人間だったとしても長らく淡紅の灰の
"茶番"に付き合っているのも妙だ。
少なくとも先代が健在だった頃のヴェスパーは
頼れる存在で仲間からの信用も厚かった。
これが豹変によるものなのか、正体なのか。
ロサードは決め倦ね、答えを見出せずにいた。
ゲートの近くまで来ると、アースリーの絶東に黎元の離宮が見える。
「わー、大きいねぇ。あれがれいげんのりきゅーかぁ……。
走り回ってた教徒さんに聞いたんだけど、みんなあそこにいるらしいね!」
キーリアは離宮を指差して期待に満ちた表情で言った。
走り回っていた教徒というのは恐らくマリウスのことであろう。
「そう…。」
「ノエンはー、行かないのー?」
「………」
手筈通りに要人が離宮に居るならばノエンも向っただろう。
しかし、漣が言うように
何者かに依頼主が暗殺されたからには最早留まる理由はない。
「なるほどー、黙秘ですかー。ゲートを通るってことは、
ノエンさん"外"から来たんでしょ」
「!」
市民はアースリーが辺境にあっても、ゲートに立ち寄ったり
市外に出ることはまず、無い。それでもゲートに行く当てがあるなら
その者は門外から来た異邦人と推察されるのも道理だ。
「だいじょーぶ、誰にも言わないし。
でも、外の世界か…一度行ってみたいな」
じーっとノエンを見つめるキーリア。その瞳は物欲しげだ。
「連れていけない…」
「だよねぇ……。ノエン、何かワケありっぽいし。
でもでも、実は私も"訳有り"なんだよ!」
何故だか自信満々に話すキーリアは肩から提げていたポシェットから
小さな小瓶と旅券のようなものを取り出すと、ノエンに見せ付けた。
「ほら、これ。」
一方はポケットグラスと呼ばれる外界の工芸品で土産の御守りとして知られる。
旅券は身分証明書で、行商の認可が印章されている。
キーリアはノエンと同じように外からアースリーに来た商人の子なのだ。
「…だとしても、無理。」
「つれないなぁ、ノエンさんは。
私と一緒にいた方が堂々と出て行けるよ!」
行商が許可され、通行規制が緩和されるのは大きい。
何より明証してくれれば強引に通り抜けるよりリスクは少ない。
「……確認するから。」
そう言ってノエンは通信機を発信した。
漣に判断を仰ぐためだ。
「もしかして、相手はくらいあんと!?
すっごいなー、えーじぇんとなんだねー」
躍動するキーリアを捨て置いてノエンは漣と通話し始めた。
『―― ノエンか、どうした。』
「同伴者が増えた。」
『なにっ? ……民間人か?』
「うん」
『……まぁ、商会の依頼には民間の護衛や保護もある。
同じ条件とはいえないが、とにかく戻ってからにしよう。』
漣は経緯を省いて、敢えて問い詰めはしなかった。
前例を持ち出して形式上の許可を審判するためにも保留したのだ。
ノエンの現況を聞かないのも大まかな臆測で事情を把握した故である。
その霜夜漣の明察は鋭く、恐ろしく的を射ている。
「じゃあ?」
『ああ、ノエンの判断に任せるよ。』
ここでも現時点では、という言い回しはせず
ノエンに投げ遣りだ。正直、面倒であるのと
異端商会自体がアバウトなルールに則って多岐にわたる活動を行っているからだ。
「わかった。着いたら一報する。」
通信を切って、ノエンはそそくさと歩き出した。
時間のロスを減らすのと、キーリアを引き離そうとしたのだが
キーリアは足取り軽やかに付かず離れず、ノエンの斜め後ろに回った。
「どうだったのー」
「……来るなら、来ればいい。」
ノエンが速度を上げ、ゲートに近付く。
「ならついてくよー。」
キーリアもノエンとの距離を保ちながら楽しそうに後を追った。
奇妙な子だ― ノエンはこのとき、そう思っていた。
惹きつけられる何かと 潜在的な賦質を感じる。
ノエンと同じように気配を絶って忍び寄る、
暗殺者のポテンシャルがあるように思えた。
ゲートに着くと関守はノエンがアースリーに入った時より増員していた。
修道士らしき者も混じっており、厳重だ。これでは、強行突破できぬだろう。
「それでは、私が先んじて話してくるね。」
ノエンが何かをする前に動きを制して、キーリアが門へ先走った。
門の前には数人の群がりがあった。門の両端に位置する監視塔の片側から
警備員が出てくると、資料の束を持った老人が警備員を呼び止めた。
「……今期の通商はこのリストにあるのだけかね。」
「はっ。欄外に記載されている客人を含め、通行者はその通りであります。
自分も応援で駆けつけたばかりなので、詳しくは駐在にお聞き下さい。」
「うむ。テロの鎮圧が済み次第整理されるだろうが、
鑑定者の儂を招聘するほど人手不足らしいからの」
老人は物事を正式な手順で正当に判断する央都から出張して来ていた監査人だ。
完全独立している中央都市の煩雑な事情から、議員の資格を有する者達の中で
選抜して任命される。緊急時では、その活動は一般的な事務も範疇である。
老人が帳面に書き綴っていると、純白の修道服と
カールした黄色の髪が徴表の 痩躯の男が嫌みたらしく割り込んできた。
「わざわざすみませんねぇ……。
こんなときに一挙して査閲するって今更でしょう。」
「アンタは、服装からして教会の人かね。」
「いえいえ、これは趣味です。この地区一帯の上流役員ですよ。」
持ち場についた他の警備員に呼び戻され、警備員は退散する。
「では、自分はゲートの警備に戻りますので失礼します。」
「ご苦労。事務処理は儂がやっておこう。」
一礼して立ち去った警備員を尻目に痩躯の男が嫌みを言う。
「いやはや警護という名目でただ、断崖を眺めるだけの
仕事に遣り甲斐を感じてるんでしょうかねぇ。」
「アンタ、口が過ぎるな…」
「おや、失言でしたな。よく言われますよ。」
そこへキーリアが寄っていった。
「あのー……ちょっといい?」
「どうかしました?お嬢さん。」
真っ先に受け答えた痩躯の男は心なしか目が輝いているようだ。
「ここ、通りたいんだけれど。良いでしょうか!」
「儂の一存ではどうにもならんな。許可証を持っているのなら
貸してみなさい、話をつけて来よう。」
キーリアはポシェットから出した旅券を老人に渡した。
「ありがとうお爺さん!……ハイ、これー」
老人は旅券と手元の資料を照合して素性を確認する。
「どれ……リストにあるキャラバンのお連れさんのようじゃな。
そこで待ってなさい。」
「はーい。」
小石を蹴飛ばし、その場で立ち止まるキーリアへ痩躯の男は話し掛けた。
「…時にお嬢さん、一人なのかな?」
「うーん、一人といえば一人かなぁ…」
「よっ、よければ我が家に来ないかな!!」
「お兄さん…?、ちょっと鼻息荒いよ。大丈夫?」
「おっと、いけない……可愛いものを見るとつい。
ジェイムズ・オルブライトとしたことが。」
ジェイムズはアースリーの一区、六番街の地区長でいて、
市区統括の為の役人だった。それゆえ、モルデンに次いで
このアースリーで二番目の富豪といえよう。
偽善を振りまき、寄付を怠らず、困っている人がいれば助ける利他主義者だが
その何でも率直に物言う人格から、市民からの評判は良からぬ。
さらに風評では童子を必要以上に愛でる偏った性癖があるとか。
疑問符を浮かべて首を傾げるキーリアと対照的に
慌てふためくジェイムズの間に入って老人が戻ってきた。
「何をやっとるか、オルブライト殿」
「い、いや何も。」
「あ、お爺さん!」
「ほれ、捺印したからこれを見せて通行するんじゃぞ。」
「ありがとー御座います」
老人から旅券を返して貰いキーリアは深々とお辞儀した。
それから、くるりと転じて遠くで佇むノエンを呼んだ。
「さっ、ノエン 行こう!」
ノエンを引っ張って連れ立つキーリアは直進し、門へ歩んだ。
それを落胆して見つめるジェイムズが羨望していた。
「なんだ、子連れか……」
「アンタ、犯罪の臭いがするの……」
―――【止揚の談】
「たっ、たすけてくれぇーー!!」
その第一声を放ったモルデン・パーリアルが
グランド・カテドラルに駆け込んできたのは事態が収束する数時間前のことだ。
それはカーディナルが到着する前、
ちょうどフムル・アリフが離宮に出立する場面だった。
「貴殿は……パーリアル卿ではないですか。
どうしたのです。それにその様相は……」
「アリフ司教か!ちょうど良かった、見てわからぬかね!
"奴等"に脅迫されておるのだ 早うこれを解除してくれ!!」
血相を変えて現れたモルデンの体には訝しい機器が張り付き、
今にも爆発しそうな信管が揺れている。物騒な事この上ない。
「……爆弾ですか。」
「そうだ!あの"淡紅の灰"とかいうテロリスト共に取り付けられたのだ!
この儂を喧伝の名代にするなどと戯言をほざきおって」
「大丈夫です、ご安心を。
不審物の除去に優れた者がおります。」
「まさか、方術なんてちゃちな手品を使うつもりかね!?」
「方術は我々が得心する奇跡の御業です。
信じずとも効果はありましょう。」
「フンッ…まぁ良い。いいから、さっさと取ってくれたまえ!」
「ええ。……マリウスはいますか?」
アリフの囁くような口調で語り掛けると、待ってましたと言わんばかりに
マリウス・エーデルヴァイトが颯と飛び出た。
「ハッ、ここに!」
「戻ったばかりで済みませんね。
パーリアル卿の煩いを拭い去って差し上げなさい」
マリウスは今まで、以前のように各地に伝令として駆け巡っていた。
それが主な役目なのだ。今後も、走り回ることになるだろう。
「猊下の御下命とあれば。」
マリウスは腰に佩刀していたレイピアを水平に、
モルデンの方へ向けた。
「なっ、何をする!」
「しばし失礼を!」
暗黙して、マリウスは祈祷を始める。
左手で十字の印を切るように、空気の流れを断つと
右手で支えるレイピアの先端に光の粒が集ってゆく。
方術の一体系である祷祀契約において、
平癒を促進したり状態を改善することが根底となる。
本質は、攻撃に用いず他者に安らぎを与える慈悲の体現が祷祀契約なのだ。
格別に、危険物の排除は特異だが
風の性質に偏りがあるマリウスなら遣って退ける。
レイピアに十分な光子が集束されると、それを突出し、
爆弾の端から数ミリ離して風を放った。
「"剣の疾風"Sturm Schwert!」
遅れてきた突風がモルデンの体を吹き抜ける。
爆発物などからカチッとした音があちこちから聞こえ、
処理を為遂げたマリウスがレイピアを鞘に収める。
「いったいなにを……。
何も変わらぬではないか!」
「拙僧、遅効の術しか持たないもので。」
「彼の方術は遅かれど灼たかな物。
動かず よく御覧下さい、今に覿面ですよ。」
アレフの言った通り、マリウスの方術は即効性が低く幾許かラグがあった。
だがすでに、事は終わっているのだ。
モルデンが焦れて怒声を上げそうになった矢庭に
爆破装置が悉くひとりでに外れていった。
風の流れが機械の隅々まで行き渡り、内側から分解したのだ。
"風"に関する方術は自然要素を含み、流動的なので扱いが局限される。
修道士でもそれらを完璧に使える人間は少ない。
まだマリウスは未熟な為、ラグが生じるのだ。
系統的に、エニュオの使った光の風と効力は全く違うが原点は同じである。
「本当に停止したのだろうな!?」
恐る恐るモルデンが問う。
「ええ。機能は完全に無効化されています、安全ですよ。」
「まったく…賊を闊歩させるからこうなるのだ…!
司教!此度の責任はどう取るつもりかね!」
「申し訳御座いません。ですが、私は此れより離宮へ赴く用があるので
以後は"辰の徒"にお任せを。」
「何っ……神祇教団が来ておるのか。」
モルデンの顔色が変わった。"辰の徒"とは聖堂教会のカースト上位に位置する
高位の修道士及び使徒で構成された神官による特別な部隊だ。
分類上では司祭以上の教徒を神官とし、その選出と意義にも特別なものがあるが
基本的に神官と通常の教徒が混在することはない。
それらを統括するのが神祇教団であり、広義でいえば教皇が神祇教団の長となる。
緊急事態に対しては神祇教団が介入することも屡ある。
また、問題の後始末も"辰の徒"が隠密に行う。
「ここではありません。カテドラルから直通の地下道をお進み下されば……」
「儂に洞を通れと言うのか!」
"辰の徒"は滅多に表舞台に現れず、教会の本拠である央都中央の"タワー"直下、
伽藍の城"ヘオフォン"に潜んでいる。教会の要衝、ヘオフォンへは
このグランド・カテドラルから、迷路のような洞穴を進むしか
通常は辿り着けない。司祭より上の等級になれば隠し通路として
迷うことのない一本道が通れるものの距離は相当に遠い。
「また、いつ襲われるか分かりません。
我々の手も足りず、貴方をお救いすることは叶わないのです。」
何を馬鹿な事を…とモルデンが言い掛けたその時、
カテドラルの入り口から小柄な男性が登場した。
「これ以上宗教者と談じても無駄だ、とっとと会堂に失せな。」
「貴様は…央都の…」
「中央都市特殊対策機構、名瀬殿だ。
テロリストの身柄を確保するついでに立ち寄ったがどうなってるんだ?」
黒いスーツに高級そうな腕時計と靴が映え、金色の瞳が艶やかなショートヘアを彩る
少年のような男性は、苛立って灰色の髪を掻いた。
「捕縛者はゼロ。報告も無し。
何を怠慢してやがる」
「枢機卿がいらっしゃるのです」
「なにィ?そんな話聞いてねェぞ……!
あの野郎、行き違いか。」
「機構の人間ということは儂を保護しに来たのだろう!?」
「あァ!?まだいたのか、勝手に会堂でも行ってろっつっただろ」
会堂はアースリーに限らず、央都全域に至るまで点在する
一種の避難所のような場所である。普段は地区の集会などに利用されているが
防護シェルターが併設され、噂では各地の聖堂に通じているらしい。
「貴様…儂に向かって無礼な……!!」
「特権階級の上等市民だろうが、アースリーの役員にすら抜擢されねぇ奴が
偉そうにすんな」
「な、なんだとぉ……!」
食って掛かる殿の態度に大層憤怒を滾らせるモルデン。
引き下がらない殿とモルデンの両者を割って制止するアリフ。
「お二人とも、落ち着いてください。
モルデン卿は私の部下に送らせましょう。
貴方はお引取りを。」
モルデンは黙って思案した。そして、今後の自分の都合を纏める為にも
会堂に避難するのを良しとした。モルデンは了承し、大人しくなった。
殿も呆れと足を運んだのが無駄になった事実に大息し、諾了する。
「ちっ……マァ、枢機卿が来るんじゃ俺が留まる理由もねぇな。」
アリフが残っていた修道士数名に命じ、モルデンに付き添わせた。
モルデンと殿は互いに外方を向いてそれぞれ別の帰途についた。
二人を見送ったアリフを遠巻きに、長らく無言でいたマリウスが声を発する。
「では猊下、私は次の使命に参ります!」
「頼みましたよ。」
「ハッ!」
マリウスは風の如く走っていった。
「さて、私も急がなければなりませんね。」
それから、アリフが黎元の離宮へ人民を誘導し終えた後、
話は再び現在に戻る。
テアトルムの屋上、本来は立ち入ることのできない
ヘリポートがあるくらいの殺伐とした高層の頂点だ。
そこに、任を完了したカーディナルが法衣を揺らしながら地上を俯瞰していた。
そして、カーディナルの上、高空から天辺の角に降り立つ一人の人間がいる。
「これはまた、派手にやりましたなァ カーディナルさん。」
チャコールグレイの背広は剣襟で、その上からコートを二重に羽織る男は
カーディナルと対顔し、一笑した。
彼はシルクハットを深く被り、口元しか見えない。
「……そう呼ぶのは、汝だけだ フォーン・ソレル。」
「何しに来たって顔ですねぇ。仮面で見えないけど。
あっしはただの介在者。傍観が大概ですがちょいと言付けを頼まれてね」
介在者、フォーン・ソレルは中立の立場を保ち、あらゆるものに介入し
ある時は協力、ある時は敵対する謎の多い奴だ。
「マグダレン教が謀反を起こしましたとさ。」
「!?」
教会が発足され、宗徒が増えた嚆矢の折から勢力図は二分していた。
それが三つに枝分かれし、片方でさらに分裂、
現在の、教派が複数混交する形となった。
中でもティスア・マグダレンのマグダレン教派は逆意の野心を内に秘め、
教皇の座を褫奪しようと巧んでいた。それは教皇自身も、
カーディナル等侍従の者も感付いていたが
よもやこうも早期に行動に移すとは予想だにしなかった。
「幾ら他の教派から募っても、戦力でいえば教皇軍に劣る。
そんな一派が何故この時期に背教するか……枢機卿ならお分かりでしょう?」
「……"外法" か」
「そう、外からやってきた異邦人。正門以外の所で
テアトルムの公開に合わせて、多数の来賓があったそうで。」
ノエンが侵入した正門は外から来る最たる公道だが
四方の内、南が正門だとすると他の東西北は
テアトルム完成直後から賓客が大勢訪れていた。
それに紛れて造反に加担する輩が続々とマグダレン教派の傘下に入ったのだ。
「…行くんですか?」
「法王の守護が我が宿命……。」
カーディナルは法衣をはためかせ、強風と共にテアトルムから消え去った。
「……やれやれ、気早な人だ。」
溜め息混じりにフォーンは淡黄褐色の瞳を彼方へと向ける。
「お次は、あちらさんと会商して……
我ながら忙しいものです」
風に煽られるシルクハットから銀色の髪を覗かせ、フォーンは飛び立った。
次なる火種を灯すために。
黎元の離宮に集められた観客達の我慢は極限に達していた。
広場にて口々に不平を訴え、その矛先は宥めるアリフへと向かう。
「司教様、いつになったら帰れるのです!」
「そうだ!もうかれこれ数時間は経っているぞ!」
アリフは応え、広場に備えた祭壇から呼び掛けた。
「皆様のお怒りは御尤もです。此のような場所へ連れられ、
時間を取られてはさぞ、鬱憤を募らせるでしょう。
ですが、秘蹟の祭儀をご存知でしょうか?
今ここに我等が祝福の洗礼を御見せします。」
アリフが仰々しく両手を広げ、十字から輪を模した。
それを合図に後方で待機していた修道士たちが次々現れては
広場のテーブルに食器や蝋燭、儀式に用いる道具などを置いていく。
聖餐の準備である。秘蹟には宗派によって違いがあるが
聖堂教会、殊にアリフ教派では教徒に関わらず参列者全員に恩寵を施す。
日頃の方術による"奇跡"を感謝し、皆々が祈祷を捧げ、
改めて神を礼賛することで心身を清浄に高め合うのだ。
言うなれば特別な晩餐会であるが、肝心の供物や分け与えられる糧を
空の器に 代表者、ここではアリフが方術の霊異を以って神々の慈悲を具現する。
具体的な種類に差異あれど
主に、聖なる浄水・一切れのパン・黄金の白米・作物のスープなどが挙げられる。
何れも少量且つ質素で粗末な印象があるが
短絡的にいえば至極の美味、それどころか神々しさまで感じられ
聖餐を受けた者が洗礼と同等以上に信者となる場合も多い。
離宮の二階、露台から広場を見下ろす二人がいた。
一人は神父だが、もう一人は教会直属ではない。
教会に属さない方の人物は
毛皮のコートを着込んだロシアン風の男で離宮の管理を任されている。
「司教も大胆なことをやってのける。
離宮を貸し切りにしてくれ、と連絡を受けた時は思いもしなかったが。
流石に急遽用意した鑑賞会だけでは留まってくれないようだな。」
離宮に集まった劇場の観客には
先ず、鑑賞会と称した展覧が催された。
黎元の離宮は古来、皇宮の蔵代わりとして使われていたが
黎元、つまり庶民 とあるように、民間が立ち入ることを許された稀有な宮殿だ。
昔の領主が蒐集した絵画や珍しい芸術品が揃えられていた為、
中央都市の領内に統治された以降、一般公開され観光名所ともなっていた。
国のシステムが根本的に変革しても依然、何処からとも無く送付される
寄贈によって常に新しい発見があると一部のマニアに言われている。
「しかし、"外"の騒ぎも収まってきたようですね。
これなら、人民も家路につけるでしょう。」
若い神父が安堵したように発言する。
それから、儀式が始まった。
修道女が広場を囲うように散らばり、アンクを胸元に掲げた。
修道士はアリフの近く、後ろ側に展開し瞑想している。
「皆様方。祈りを共に…捧げましょう」
アリフは静かに諭すように言った。
不満を垂れた人々も 誘われて、黙祷をする。
フムル・アリフが聖典片手に呪文を唱え、
見えざるちからを まだ輝かぬ燭台に引き寄せた。
〈~tripudium, incensio, exercitatio, lex sanctus.~〉
―舞う火は、錐となり、聖なる法によって大いなる慶福が齎される。
一つ、また一つと 無為に、蝋が光を灯す。
そして、空だった皿に、杯に、
清浄なる水や食物が現出し、光明が迸った。
鑽り火を方術のちからで行い、火を点けて信仰の依り代とし、
数多の祈りを天へと捧げることで神から"奇跡"を賜る。
神変なる御馳走は神々からの報酬なのだ。
「これは……」
人々は驚嘆する。この瞬間に紛う事無き神秘が顕れたのだ。
祭儀を止め、アリフは一礼して民衆に声を発した。
「遍く感謝を。至福の晩餐、お楽しみ下さい。」
それを受けて
合掌する者もいれば、呆然と空を見上げる者、
各々が蟠りなど忘れて、安らいでいた。
「見事なお手並みだ。次期大司教と目されるだけはある。
それにしても、"辰の徒"の一人であるお前さんがこんなとこにいていいのか?」
ロシアン風の男が投げかけ、若い神父は答える。
「僕は末席、欠番のようなものですから。」
"辰の徒"は六名の少数精鋭部隊だ。なろうとしてもなれるものではない。
最下位だとしてもかなりの実力を持ち合わせ、尚且つ多大な功績があるのだろう。
続けて若い神父は冷たく言い放った。
「それに……嫌いなんですよ。
"後処理"で生じる腥風っていうのが。」
交通が管理された中央都市と違い、その外側
辺境に位置するアースリーは"未開拓"の地下区画が多く存在している。
正式にはアースリーや門に及ぶまで全域が央都の市中であるが
査察の目が行き届かない貧民窟や 通信整備などに伴って大規模開通した
地下の迷宮には、先例の無人輸送車のように
人為が手付かずで忘却された場所がある。
ロサードはその一画、俗に言う下水道に逃げ込んでいた。
長らく水が通った形跡はない。恐らく、下水管を埋設しただけで
ここには誰も居着かず、何も排水しなかったのだ。
ロサードは地図を取り出すと、現在地点に印を付けて物思いに耽った。
{脱出経路は全て封鎖されているはずだ。
残った道は……}
作戦は成功する前提で進められたが不測の事態に備え、
退路は複数目星を付けていた。けれども、
逃走中に見た様子で、警戒が強化されているのは明らかとなり、
時間が経つほど逃げ出すチャンスを失うだろう。
{ヴェスパーが用意した廃坑のルートか。}
それが計謀なら、自ら罠に飛び込むようなものだ。
いや或いは、カーディナルの不審がある。
ロサードを逃がす目的ならその道筋こそ正しいのかもしれない。
どちらにせよ、残された進路はそれしかない。
「とにかく、まずは外へ脱出だ。」
ヴェスパーが何者であろうと、ロサードは
教団への報復と"淡紅の灰"の再構を決断した。
独りでも、存念があれば滅びることはない。そう信じて。
ノエンとキーリアはゲートを越え、中央行路"ミッドウェイ"を進んでいた。
見渡せば何もない無辺の荒野が続く。
ミッドウェイは外界と央都を繋ぐ唯一といっていい主要な道路で
その名称は、外から央都への中間の道、中央の道 二つを意味する。
アースリー正門側は現在輸出入を制限している為、
人が往来するのは珍しいが以前は活気が溢れ、門前に露店が開かれるほどだった。
ノエンが地下鉄からアースリーへ着いたことは予定通り
警備の薄い時間を狙ったからだ。
正門であるのも、わざわざ迂回する手間を省き迅速に事を運ぶ為だ。
ノエンは淡白に歩行する。平坦な地上では駆け足で動くと目立ってしょうがない。
隠密を基礎とするノエンにはそれが我慢ならなかった。習性のように忍ぶのだ。
「………」
「どこまで着いてくる気って顔してるね、ノエン。
ホントはね、私自身分からないんだけど。」
キーリアは背伸びをしながらテクテクついてくる。
ミッドウェイを数時間くらいの体感で歩き続けて、
互いに口数は減っていたがそれは所労によるものではない。
ノエンにしてみれば
これまでのキーリアの度重なる質問にげんなりしていたのもある。
体良く口車に乗って情報を漏洩させているだけではないのか、
エージェント同士なら如何なる瑣末な情報でも露呈すれば危うい。
キーリアの質問は年齢や出身などの個人的なモノから
組織に関して、鋭い問い掛けもあった。
電話相手がクライアントと推定するキーリアは時折、
子供らしからぬ言動をして、冷酷な面持ちを見せた。
それにノエンは何故だか親しみを覚えた。
雰囲気や容姿、人格 全て相違しているが 自分と何処か似ていると思ったのだ。
それからしばらく歩いて、ノエンが立ち止まった。
見れば、大きな岩があるだけで木々も無く、荒涼としている。
「あれ、どうしたのノエンさん」
キーリアが尋ねると、ノエンは石巌を指差して呟く。
「この下。」
どうやらここが中継地点に行くための、通路の入り口のようだ。
場所は廃墟の街とアースリーのゲート・地下手前、
地下輸送列車の走行距離 半分にして、漸く到達した。
「岩なんて持ち上がらないよー」
「これは偽者。本当は軽い……」
そう言ってノエンは易々と
見た目はとても硬質過重な巌をずらし、入り口を出現させた。
「わぁ、ホントに秘密の入り口があった!」
一驚するキーリアを先導して、ノエンは索梯を伝って下へと降りた。
基本構造は一般の地下道と変わらないが
教会の洞穴、街の下水道との中性 人為と自然が混在する機械的な仕掛けがあった。
これは、かつて霜夜漣が"中央"に向けての通路を秘密裏に作った際に備えた物だ。
その一つが、入り口を開閉する電子ロックと降下用のザイルだ。
岩をどかせば薄い隔壁が地面と同色にカムフラージュされているが、
階段と思いきや、降りるのは吊り縄で鉄製の梯子ですらない。
解除方法は岩の側面に隠されたパネルから
数桁のパスワードを入力するシンプルなものだが
地形的に、悪用され難いし、利用価値も乏しい。
何故ならここから行ける直路は途中で廃棄物処理施設を中継するだけの
私的な隠し通路だからだ。
今から数十年かほんの数年前、
当時の、まだ教会がそれほど知名せず 中央都市も単なる中心街に過ぎなかった頃、
国境を隔てて中央を領有する領主が鎖国主義で、交易を良しとしなかった為に
内外で大きな差が生まれた。そして、停滞し、衰退する一国を建て直したのは
中央に住んでいた人民でも国主でもなく辺境より集った名も無き者共。
現在における中央議会"ベネラブルナイン"の尊者である。
その自今、国王は失墜し、彼等が実権を掌中に収めた。
教会の急速な勢力拡大はベネラブルナインの手配があったといわれている。
門とは反対側のアースリーの片端から伸びる高架の道路は、
中央都市とを繋ぐ交通の幹線だ。所謂高速道路であるが
都市部が入り組んでいる央都は一般道が制限されている為、
自動車が高速度でなくても使われることがある。
そこを、白銀の乗用車が走行していた。
執事の男性が運転席で操縦し、後部座席には名瀬殿がいた。
「しっかし……解せねぇな。俺に連絡が無いのはともかく、
テロの鎮圧如きで枢機卿を呼びつけるとはな。」
退屈そうに遠くの景観を見やって殿は物憂げに独言する。
行き交う車に見飽きて数分。
央都へ直走る車中の、殿のポケットから携帯が鳴った。
「……俺だ。
あ?今何処だって? 高速だよ!
それで、何の用だ」
特殊対策機構の通信のようだ。
通信網はベネラブルナインが最上に優先され、
次に教会の上層、主要な機関に回り、機構を経て一般回線へ帰趨する。
公安の組織である特殊対策機構でさえ、後手になるのは
教会が社会の信頼と実績が高く、御株を奪われている事に他ならない。
事務的な定時連絡と帰還の催促に嫌気が差して苛立たしくなってきた殿は
最後に通達された一報で表情を急変させる。
「マグダレンが動いた?!
そうか……これを狙ってやがったのか!」
マグダレン教派反逆の報告だ。殿は個人的に教会関係者を信用していない。
だからこそ、始めからこうなることを予期していた。
さっきまで思慮していた、カーディナルが出向いた理由、
その他の気掛かり。全てが結び付く。
「…とんだ道化だぜ俺達は。
"連中"の手の平の上ってか。」
殿がアースリーに派遣されたのも上からの圧力だろう。
それほど、各機関の上層に教会を信奉する者や
マグダレン教派の信徒が多く、根強くあるのだ。
内々に、早急に、対策を練らねばならない。
ただでさえ情報の優位が劣っているのだから。
「荒れるな……央都。」
殿は予測した、最悪の結末。
教会の影響力は弥漫し、浸透しきっている。
下手すれば央都全体、国家の存亡に関わるかもしれない。
打てるだけ手は打っておきたい。
そう考え、殿が思索していると 車体が揺らぎ、速度が増す。
「オイッ!急にどうした!」
「殿様、申し訳御座いませんが少し加速します。」
「今トノサマって言わなかったか?」
この変事にさして問題ではないが、殿はその名を読んで字の如く、
"との" と発音されるのがコンプレックスだ。
「滅相もありません。それより、窓を。」
殿は注意を窓の外へ向ける、と
自分の額目掛けて直線的に細長い光が放射されていた。
「ん?……
なっ、レーザーポインター!?」
運転手がハンドルを急回転させ、カーブに面した路上の縁をスレスレに曲がり、
レーシング顔負けの荒業を見せる。
数秒差で着弾した銃弾は、車両後部を掠めて道路に突き刺さった。
「くそっ、俺が標的にされるとは。油断してたぜ、
ここは無法の中間地点。
狙撃に持って来いの高層ビルがわんさかあるってことを!」
公道の支線には中程の一定区間に大きな遮蔽となる雑居ビルなどが立ち並ぶ。
治安が非常に悪い一帯だ。市中の管理下を離れ、廃墟と化した
建造物には低級貧民が隠棲している事も多い。
中でも悪質な未登録の住民、破落戸が誰かに雇われて抹殺を実行するのに
ここは、適したエリアなのだ。
「どれくらいで着く?!」
「高速ですと三十分ほどで。隧道方面なら安全ですが…」
先の分岐点の傾斜を下って、地下の路面に合流すれば
迂路となるが トンネルへと続き、危険性は減るだろう。
だが殿は時間を惜しんだ。
「このままだ!場所は一番近い南方支部でいい。」
特殊対策機構は四つの支部が四方に存在する。
アースリーに近いのは南方支部で高速を北上すれば到着する。
「承知しました。」
殿はバックシートを動かし、荷室を弄った。
「"VSSE"は積んでるんだろうな!」
運転手は前方に注意を向けながら殿に簡素に言った。
「いえ、それしか。」
ちょうど、荷物の中からアタッシュケースを掴んだ殿は
それを開いて鉄製の小銃を手に取った。
「AK-81C、アサルトか。西端紛争のお古を改造したってやつだな。
仕方ねェ…これでやる、窓を全開しろ!速度は維持してな」
西端紛争、とは中央都市として完成される以前の大戦であるが
その時活躍したAK系列のフルカスタムモデルであるAK-81、
それを停戦間近になって改造を加えたAK-81Cが殿が持つアサルトライフルだ。
各部が合金でコーティングされているが炭素繊維を配合しており、
錆びや金属の変形を防止する特殊構造になっている。
教会の統制下では銃火器は完全廃止が表面化しているが
裏ではまだ密造や所持が横行していた。
最新鋭でいえば殿が愛用しているVSSEも然り、電子的な兵装機能が付与された
武器が主流で、古臭い自動小銃は時代遅れといわざるを得ない。
「応戦を?」
「当たり前だろうが!
軌道は見えた、逆算して特定なんざ朝飯前だ。」
AK-81は射程と精度に難があるが、複数の施条とアタッチメントにより
多様な経口の銃弾が扱え、用途別の汎用が特徴だ。
改良されたAK-81Cは基本構造が見直され更に使いやすくなっているが
相手がスナイパーだと距離に不安が残る。
殿はアタッシュケースに揃えられた銃弾から、特殊フラット弾を選択した。
それは、抵抗を考慮した設計で軽量化され、
他の弾丸に比べて高速な射出が可能なのと
撃針の衝撃が雷管に伝達した際に生じる余波で最高速を維持するため
射程がある程度延長するという特注品だ。
装填を完了し、全開した窓を土台にAK-81Cを乗っけた。
狙撃を狙撃で迎え撃とうというのだ。
射撃された地点からはすでに遠ざかって、絶対的な記憶力を以ってしても
正確に相手の位置を判断するのは難しい。
殿は射手と相対する直進空間と大まかな射撃角度を推測し、
目ぼしいビルを注意深く観察した。
大抵は屋上で狙撃するのが相場だが何処かの一室から狙ったかもしれない。
高層ビルともなれば外枠の数は甚だしく、優れた観察眼でも特定は不可能に近い。
しかし、殿が記憶したのは軌道。
向ってくる動体を僅かの内に目にして、射手と自身を直線で結んだ。
あとは正確な位置を確認するだけだった。
路上に車体が消え、殿の乗った車だけが走行する。
このままの速度なら10分あれば支部に着く。
さっきの射撃以降攻撃が無い。
威嚇か警告か、 単なる脅しだったのかと思ったが
機を待っていたに過ぎなかった。
再びレーザーポインターが殿の右頬に照準される。
「二発目か!」
だがこれはチャンスでもある。この射撃で射手の位置が断定するのだ。
そして、弾丸は放たれた。
加速する鉛は斜線に下降しながら殿の顔を穿つように尖鋭に迫る。
同時に、殿も同一線上に向けて発砲した。
銃弾は互いへ交差する。
殿は動じない。眼前に銃弾が映ろうとも。
傾注して見えない敵に 不利な狙撃勝負を挑んだ。
若干の差で射手が早く、殿に命中する直前、
運転手の機転で車は旋回し、車内が動いて射線を逸れる。
それから遅れて、殿の弾丸が着弾した。
が、手応えがない。
外れたのだ。
「ちっ、だが誤差の範囲内だぜ。」
殿はマガジンを着脱し、込められた一発で終止符を打とうとした。
それも ただ、余分な重量を減らしただけではない。
着弾のズレを修正すべく先程同様の射角で構えた小銃を横から
弾倉でぶつけて、故意に銃身を左へ寄らす。
粗暴な手段だが、まるで計算され尽くしたかのように数ミリの誤差を補正した。
そこですかさず発射すると、数秒後には射手が斃れる。
「流石ですな殿様。」
「…いいや、まだだ。」
殿は弾倉を着け直し、銃を構えた。
銃口はまったくの反対、後ろ側の遠地を狙い定める。
―電波塔だ。
「オマケだ。」
銃撃が轟く。
何かの装置に当たって、破裂したようだ。
それを遠目に確認すると、殿は銃をケースに仕舞って元の場所に戻す。
「伏兵でも?」
「異常な周波数だ、微弱だがジャミングされていた。
どうやら通信を傍受されたらしい」
およそ一方的な報告だったが通話の最後に不審な電波をキャッチしていた。
殿はそれが、通信の盗窃だけでなく探知にも利用されていると考えた。
それならば精度の高い狙撃も容易い。
何より、こちらからの発見が困難なら相手からの発見も困難だったはずだ。
特殊対策機構の幹部には専用の小型端末が携帯に付属しており、
周波数を調べる機能を内蔵しているものもある。
名瀬殿も組織内の地位は高いほうなので、支給されている。
「何時から、というのは聞きますまい。」
執事の運転手は速度を落とし、緩行した。
「……到着したか?」
車が完全に停車したのを見て、殿は下車する。
運転手は助手席にあった鞄を抱えて、殿の前に立つ。
「左様に。ですが、貴方様はここで終点です」
そう言った後、運転手は鞄から銀色の拳銃を取り出した。
豪華な装飾とは裏腹にマグナムに匹敵する高い殺傷能力を誇る、
この世界の兵器関連技術の大手事業、バーテックス社の回転式拳銃
"DE66"のオーダーメイドタイプだ。本来はアンティークな鑑賞品だが
これは人を即死させる為に強化された事が大口径且つバレルの長さから見て取れる。
DE66は、60口径に0.6mm炸裂弾頭が内包された小型の徹甲弾を扱う。
至近距離で撃てば装甲車をも貫くといわれ、用途が拳銃に分類される実包では
最大級の弾丸に対応している数少ない銃だ。細かく言えばそれそのものが
マグナム、以上の物だがマグナムは火薬の増量や強化をして、比較した場合に
与えられる呼称であって、小型であるDE66は飽く迄通常規格である。
「そんな"オモチャ"…どこで手に入れたんだ?」
殿はこのご時勢に希少価値の高いDE66を所持している執事が気になった。
問いに答えず、執事は銃口を殿に向ける。
「死人に口はありませぬ。」
「まったく……最悪な一日だぜ。」
殿は銃を車に残してきたので、手ぶらだ。
まさに絶体絶命の窮境に諦めのような嘆きが漏れる。
「最後に、ちょっと一服していいか」
執事は銃を下ろさなかったが殿を黙って見やるだけだった。
殿はポケットからシガーケースを取り出し、一本 口に銜えた。
「"火"、持ってねェか?」
挑発するかのように、殿が葉巻の先端を人差し指で叩いた。
それをサインに、執事が一歩 前へ出る。
「終わりだ、名瀬殿。」
執事はゆっくり、引き金を引いた。
―――――【watery blue】
水は滴り、冷風が大気を攪拌する。
氷上であれば水中は暖かく、凍土こそ感覚を失わせる。
水は生命を司る、天地普く諸法の理。
火よりも猛り、土をも喰らい、光すら捻じ曲げる。
この世すべてが大海であるなら人もまた、魚のように生きただろうか。
ノエンとキーリアが地下通路に入って数十分。
照明は緊急用の電灯だけで、基本 それは動作しないために暗いままだ。
明かりは懐中電灯で、前方の狭いスペースしか照らせない。
「暗いねぇ…ノエン。」
「もう少しで広い空間に出る……」
ノエンは地勢を知っている。土地勘などまったくないが
地図によってアースリー南側とテアトルム、アースリー周辺の荒野、
地下の一部、そして脱出用の通路を暗記したからだ。
知識も経験も、記憶力も秀でているわけではないが
極限の集中力が"記憶"を覚えているのだ。
ノエンの云う通り、少し歩けば開けた空間に出た。
そこは四辺形の、だだっ広いだけの場所で
扉が二つ、通り道にある。
石造りにして機械動作が組み込まれた扉が開いている。
これも漣の趣向なのだろう。
基本的に、扉は緊急時に遠隔操作するなどでしか開閉しない。
「わっ!」
先に足を踏み入れたノエンを、キーリアが追い縋るように続こうとした時、
左右に開閉する扉が勝手に閉まり、ノエンは閉じ込められる。
その空間の灯りはシャンデリアのような照明があって
光明は隅々まで行き渡らないが、視界を照らした。
しかし、扉が閉まると同時に点いた電灯よりもノエンは足下が気になった。
「………水?」
広間の端には溝があり、水が浸っていたのだ。
漣が侵入者を発覚させる為に通行者の是非は無関係に
広間の扉が開閉すると付近の水道と連動し、一部の水がここまで流れ込んでくる
構造にしていると聞いていたノエンは警戒態勢を取った。
通常、扉は片側だけ閉じていたがノエン達が来たとき開いていた。
それは、明らかに何者かがこの通路を使用した形跡。
しかも何者かが、今 ここにいる事を示唆していた。
「ノエンー!大丈夫?」
扉の向こうでキーリアが喚く。
ノエンは一瞬、キーリアが罠に嵌めたと一考していたが払拭された。
隠し通路の存在に気付き、それを利用し
更には自分達を妨害する。組織だった行動が最たる教会ではないだろう、
ノエンと似た"同類"かそれ以外の第三者。
確かなのは敵意を持っているということと、
ノエンも知らぬ相手だということだ。
ノエンは一度刃を交えた対象を感覚的に知っている。
だからこそ、この場に漂う覚えの無い雰囲気が未知を自認させる。
何処からか 小さく水音がする、
空間で照らされぬ陰の側 天井から雫が垂れた。
空間全体が水に包まれているかのように水声が"鳴く"
神経を研ぎ澄ます度、微細な音が耳に入る。
キーリアの憂慮の声は雑念と共に薄れ、必要な情報だけが洗練されていく。
「……」
集中し、静かに 探していた。
見えざる敵を、突破する手立てを。
ノエンが一点を注視して、短剣に触れた。
そのまま、短剣を迷い無く投擲する。
狙った先は、壁か否か。
投げて当たらずとも、空間を推し量る材料となる。
命中したのは対面の壁。
進めど其処に何も無く、それに動じて現る者なし。
だが、ノエンは走った。短剣の進行方向へ走り、
素早く短剣を回収すると、壁を背に臨戦した。
四方八方が闇に塞がれれば死角は当然、増える。
最も死角に成り得る背後を如何にカバーするかが問題だ。
幾ら夜戦に手慣れたノエンでも勝手知らぬ地ならば後手に回ってしまう。
即座であるがノエンは短剣の軌道上に安全を確保して、一応の弱点を減らした。
「フゥ……」
ノエンは少々気疲れしていた。
キーリアの事もあったが、これほど集中しても感知できない相手は始めてだからだ。
何かはいるはずなのに、何もいない。
不気味な暗がりが端々に広がりそこに潜む何かを隠す。
微少な灯りさえ消し去るような暗色が不安を増長させ、精神を蝕んでいく。
扉の外、キーリアは頭を抱えていた。
「むぅ……ノエンさん、閉じ込められちゃった。」
ほんの数歩の差で内外に隔たれた事をキーリアは懸念していた。
もしかすれば向こう側の扉は開いて、
既にノエンが先に行ってしまっているのではないか
置き去りにされるのではないか、と。
漣が設計した通路で最も広い空間であったこのポイントは
仕掛けが多い区画だ。先の排水溝も単なる流水径路ではなく
貯水の有無で開閉が大まかに判断できる仕組みであった。
片側が開けば水は流れ込み、片側が閉まれば排水される。
扉は連動しているように見えて実は単体ずつ操作できるのだ。
仮にノエンが進んできた方向から扉が開いていて出口側は閉まっていたとする。
その場合に水が溝に溜まっていれば、両方とも閉じていたが
来訪者によって開いて水が流れたか、出口側を開いて閉じたか、と想定される。
前者であれば過ぎ去った通行者だが後者であれば"罠"
少なくとも広間に留まっているのは事実だろう。
「ビクともしないよこの鉄扉は。」
キーリアは閉じきった扉を指先で小突きつつ呟いた。
分厚さはそれほどないが頑丈な作りであるそれは
訪れる者を阻む外壁として十分すぎるほど密閉する。
通路の前提があるならば、開いたままで通過するだけだったが
予期せぬ先客によって操作された現時、障害と化した。
これを力で打破するのはキーリアには無理だ。
開閉に使用するコンソールが見つかれば或いは操作できるかもしれない。
扉の開放は入り口にあったパネル方式と違って人力を要するレバースイッチと
何処かにある端末にコードを認証して作動する。
逆に壅閉するにはスイッチを切り替えるだけで済む。
その難易さは、意図的に封鎖する必要性がある時
隔壁として機能させる為であり、広間の内側から扉を開くことはできない。
給排水機構を活用して脱出できる裏技もあるが設計者の漣しか知らないだろう。
つまり、この状況でノエンが脱却するには外部の協力が要る。
それはキーリアを於て他にいない。
「待ってて、ノエン!」
意気込んでキーリアは立ち上がる。
直感に、打開する術が扉を開放する絡繰りの発見だと気付いたのだ。
来た道を引き返して、注意深く調べ回りながらキーリアが離れていった。
ノエン・フェオが壁を背に硬直してから数分。
張り詰めて、集中が途切れれば 死を誘因する。
見えざる何かがそうしたプレッシャーを与えてくる。
いつでも寝首は掻けるのだと嘯く。
多少、困憊しているノエンが 己の限界を薄々自覚してきた。
如何に極限の境地に至ってもコンセントレーションは続かない。
同一に継続することは人間が人間である限り、
若しくは超越していたとしても不変であり続けることはできない。
不易の概念が信じられるのは信憑したいと希求し、その真意である答えを
誰もが知れないからだ。本当の所、何も分からないのだ。
悲観して、信ずることが変わらぬまま存続しないよりも
頑なに保たれる方が真理の証憑として確かなのだ。
これまでは、相手の動向を探る為に態と動かないでいたが
これでは埒が明かない。行動を起こしたいがこの広間、広やかなだけで何も無い。
石ころ一つでもあれば、誘き出すように使えるかもしれないが
この場にそんなものはない。敢えて言うなれば水だけがある。
されど、水なんてどのように扱うものか、掬い取って辺りに散水するのか?
いいや、できまい。汲む水筒でもあれば少しは現実的だが
そう思い至って実行する者はいないだろう。
ともあれ、ノエンは今 その様に考える余裕はなかった。
息が詰まるような閉塞感が恐怖とは無縁のはずのノエンに不安を覚えさせる。
閉所は苦手だ。
動ずる間は気にならず、無意識の範疇にあったが
実感すれば、 意識し始めると、 情動が揺らぐ。
だがこれは恐怖心ではない。急事による畏れも当て嵌まるとするならば
恐怖に類するがノエンからすれば恐怖とは程遠い。
寧ろ、未知に対する好奇に近いかもしれない。
それが初めての感情だったから、コントロールする術を知らないのだ。
ノエンはこの場面ではなく、制御し得ない自分の事象に、不安を抱いていた。
ノエンが走ったのは広間に入って真向かいの壁際まで。
つまりは、背部に一方の扉があるはずだ。
しかし、後ろにそれらしき手触りも無く、扉があるとは思えない。
真っ直ぐ走ったが、実は方向を誤ったか。
今一度確かめようと、ノエンは背中越しに後ろに手を伸ばし調べた、
突如、その手の甲にひやりとした顆粒が触れた。
雨粒、いや一滴が壁を伝って降ってきた。
反射的に手を引っ込めたノエンだったが正面に微量な気配を感ずると
次に見えた仄かな水煙が天井から流れ出て、
霧のカーテンの向こうから溜息混じりの人声を聞いた。
「はぁ…止め止め。やっぱり待つタイプじゃないわ」
帷帳を捲って女が現れた。藍色の外衣、内に水色の服。
瞳は紫に近く鮮やかな浅黄の髪は横に流し、
透き通った澄明さを身に纏って、ノエンに姿を見せる。
ノエンは一拍おいて率直な疑問をぶつけた。
「誰…。」
「そっちこそダレよ。」
女はノエンを知らなかったがノエンも女を知らなかった。
女は憂えるように続けて呟く。
「良い隠れ蓑だと思ったんだけど…
そりゃ通路だから人は通るわよね」
ノエンは突然目前に現れた女を注目して用心すると、
会話が途切れる。
沈黙した場の空気を嫌って女は名乗り出した。
「………一応名乗っておこうかしら。
ベアリッド・ドレーン、 水沫の魔女なんて呼ばれてるわ」
ノエンも釣られて自らの名を口にする。
「……ノエン…フェオ。」
別段、自己紹介する必要はないのだが
ベアリッドの恣意的な雰囲気に乗せられたのだ。
手元に冊子を見開き、ベアリッドは確認しながら頷いた。
「うーん、やっぱり情報と合致するわ。
ホントは道を譲って終わりだけど、そうもいかないのよ。」
霧が薄れて、水気が蒸発する。湿った空気が残留し
水が床に滴る。ちょっと溝の水嵩が増したようだった。
「ここにある"水"だけじゃ不十分ね。
純水のコレじゃないと」
周囲を見渡したベアリッドは紺色のウェストバッグから
ラベルのないペットボトルを取り出した。
{ペットボトル……?}
500mlのハンディペットボトル。恐らく最も一般的な飲料容器だが
一体、それで何をするというのだ。 ノエンは不思議に思う。
そこには綺麗な水が全体の8割程度入り、
彼女の言う"純水"であることが見分けられる。
ベアリッドがペットボトルの蓋を片手で押さえ、
回してキャップを取ると、飲み口に親指を添えてノエンの方へと向けた。
「"水"を背にする事がどういうことか、教えてあげるわ」
そして、ボトルを右から左へ流れるように振るえば
中身の水は零れ出し、飛散する。
質量にして、150gに等しい液体が空気中へ放たれた。
本来ならば楕円に弧を描きつつ落下して、床を湿らせるだけだったが
ボトルから繁吹いた水はその場に留まって滞空した。
それが、先刻から滴っていた雫と呼応するかのように融け合い、流動する。
しかし、一箇所に集まるかと思われた"水"は案の定、勢いを失って落下した。
それでも水の流動は止まらず、大きく四点に拡がった。
その変化は微々たるもので、四散した水は床上の水気と混じり、
ノエンへと近付いているようだった。
「……水の背?」
水の動きを追っていたノエンはベアリッドが先程発言した言葉に執心した。
「因みにコレは方術なんかじゃないわ。ま、幾分か要素は取り入れてるけど
オリジナルの応用術…名前はまだない!」
ベアリッドが説明を前提にしてしまっているのも
ノエンが醸し出す不言の性向に因るのだろう。
そんな情報さえ、聞き流してノエンは気取る。
自らの背に"術策"があると。
そうして、壁際を離れるべく飛び退いた。
直後、天井と床の双方向から激しき水流が波を立てて押し迫る。
波は衝突すると、爆発したかのように弾け飛んだ。
ノエンが未だ、壁に近かったら無傷で済まなかったかもしれない。
「圧縮すれば鉄鋼をも切断する、水は"命"であって凶器なのよ。」
この広間は剣呑だ。
水に囲まれ、相手はその水を制御している。
退路は断たれ、ベアリッドの発言そのもの、"背水"である。
「安心なさい、操法は自分の水だけ。
体内の水を操って内部から破壊、なんてちんけな真似しないわ。」
言わば水源があり、水があればそこは敵の射程圏内で
ここでは全方位が脅威だ。
ベアリッドは蓋をしたペットボトルを仕舞うと、
今度は小筒を取り出した。簡素な竹筒だ。
その中身を左から右へと小円描く様に振り撒いて
小筒は空となる。
水の危険さを知ったノエンはベアリッドの一挙手一投足に着目して反応する。
ベアリッドの術は自らの"水"をベースに、基本は散水して
異なる水と結び付き、力を与える。
起点は如雨露のようなもので、種である そこに元々ある水へ"水"を遣るのだ。
普通は水に水を足しても容積が増すだけで変化が生じる事はないが
ベアリッドの"水"が及ぼす影響は、予め付与されたちからを媒介して具現する
祷祀契約の神秘に通ずる所がある。方術の要素とはそういうことなのだろう。
祷祀契約の場合は術者の祈りや心象が基礎とされているが
これは違う。水が媒体であり、媒介する為の 付加の力は最小限の"準備"でいい。
但し、普遍の水であっては効果が極めて薄い。
具体に準備が何なのかは分からないが祈祷によるものではない。
「しっかし暗いわね、ココ。
……此の水、 特異でね 単体ではただの水だけど
違った種類の水と混ざると粒子が一定以下に保たれ、
吸収が作用しなくなるから色覚変化も起きない。」
「………」
「つまりはこの場に光明があってもこっちの"武器"は見えないってことよ。
因みに、これより更に純度が高ければ霊水とも言われるわ。」
絶対的な透明の水。個々は不透明で透過もすれば反射や散乱も生じる。
だが集えば不可視の霊威。
さらには常に流動し、形象も変化する 三態変質を併せ持つ。
大いなる"水"に対してできることは、流れを堰塞するくらいだ。
それには堤防が必要だが、それ無くして抗う事は無謀といえよう。
対するものが火であれば火元を鎮火すれば済むが
水源はそうもいかない。渇水させるにしてもどれほど大変なことか。
広間に流れた溝の水は大した水量ではなかったが
ベアリッドによって撒かれた純水の所為か、空気中の水分などからも
掻き集められて 入室時に比べ、明らかに増していた。
それもただ増水しただけでなく消費も最低限、
余水は再利用して循環し、恰も減っていないように見えた。
対峙した者は無限に創造される武器を相手にするのだ。
ノエンは警戒を厳に、動けないでいた。
何処から攻撃してくるか分からないので
こちらから仕掛けるタイミングを逸していたのだ。
今も、ノエンの周囲に水は溜まり続け、
ベアリッドの行動次第ではいつ襲われてもおかしくない。
「…随分語ったけど、あまり遊んでもいられないのよね。
今、使える最大の…アレでいくわ!」
少しずつ変動した水はベアリッドの足下に結集しており、
ウェストバッグの横に付いていたガラスの小瓶を傾かせ、
一滴を垂らすと 下に集まった水が巨大な渦を巻いて膨れ上がった。
それは竜巻を起こすように急速に上昇すると天井まで届くほど大きく、
まるで龍の姿を模してノエンの遥か頭上を覆い尽くした。
「今は、持ち合わせがないからコレが限界ね。
命名すると……蛟試作型ってとこかしら。」
ベアリッドのこの術はたった今思いついたばかりの即席の技だった。
広間に湿気が漂っていたとはいえ十分ではない水の量と
携行していた 素材となる"水"が不足していた為、完全な形にならなかったが
これでもかなりの脅威だ。
対策の分からぬノエンにとっても焦眉であることは間違いない。
ノエンは自若として緊張を解いた。
脱力し、精神を次なる段階へ高めるのだ。
それは極限の限界を突破することを意味している。
「スゥー……」
呼吸が和らぐ、 緩やかな刹那を体感しながら
ノエンは瞼を閉じて、再び開けた。瞬きの仕種で一瞬の後、
水の竜を目視する。心は清澄、
短剣を握る手に余計な力はなく 最小で最大に活かす究極の交戦体勢、
不動泰然の如き沈着。
{まだ、死なない…!}
確固たる信念は揺るがぬ。
危地こそ、ノエンを成長させてゆく局面だった。
為す術が無いのなら生み出せばいい。
この瞬間に進化を遂げて、ノエンはまた、一歩を踏み出す。
短剣を斜め上方に突き出すように掲げ、片手の甲で剣の柄を抑える。
捨て身であり、防御も体現するその構えは、
打ち出せば鋭い一閃が繰り出されるだろう。
だが、ノエンは技巧する。
これだけでは衝撃によって水の竜に水紋を浮かべるだけかもしれない。
眼前の"蛟"の打倒は無論の事、それに止まらずベアリッドを討つ。
それが千載一遇のこの機に、ノエンが勝利する可能性だ。
「泡沫の雪崩に呑まれなさい」
ベアリッドは静かにそう言った。
仄かな照明でノエンの姿がはっきりしないのと、
自分の術に自信があったから確認もせず、これで終結だと思ったのだ。
ちょっとした慢心ともいえない、 場の偶然が勝敗を分ける。
ベアリッドの合図で水の竜が動き出した。
頭部を象る部分が真っ先に下降し、ノエンを狙って奔流しながら迫る。
吼える蛟が口を開く、獲物を一呑みしようと水が割けた。
{……ここだ!}
上半身を捻り、腕を引いて、力いっぱい短剣を押し出して
突撃するように間合いを詰め、勢いを加速させる。
呑み込まれれば絶大な被害を受ける水が体に纏わり付くその手前で
支えの役目を終えた片手は後ろのポケットに忍ばせ、
鞘を投げた。それは高速に空気を斬って水の竜を裂開させる。
鞘の先端は刀身と同じ銀製で ノエンが隠していた第二の刃だったのだ。
蛟が泡沫の様、消え失せると最早ベアリッドにも事態が判然する。
慌てて手段を講じるベアリッドだったが
ノエンの速さは凌駕した。
疾風迅雷、ノエンが走り抜ける。
閃電の突きはその衝撃を波状し、
空気を裂いた突風を伴って、広間の端から端まで通った。
蛟の膨大な質量が邪魔をして、威力を維持する為に身動ぎ、
聊か逸れてしまったのでベアリッドに短剣を直撃させることは叶わなかったが
密閉された広間に、水気が素の冷却した気流の衝突が巻き起こした
特殊なマイクロバーストによってベアリッドは吹き飛ばされた。
ベアリッドは咄嗟に水で作ったシートを床下に張って衝撃を吸収し、
ほぼ無傷であったが よもや自分の術が破られるとは意想外だった。
吹き飛ばされた時にウェストバッグから飛び出した書類は散じて、
それらを回収しようと手を伸ばしたそのとき、
扉が開き入り口からの光が地平線状に広間まで届いた。
そこへ、駆け寄ってくる少女の姿があった。
「ノエン、大丈夫!?」
キーリアである。
開閉する装置を探しに、入り口付近まで戻っていたキーリアは
通路に入ったときに使用したパネルを調査していた。
これまでに、他に目立った機械の類が存在しなかったのと
半分は勘で キーリアは大岩に偽装した
障害物の底に小窓が付いているのを発見する。
表面にギミックが仕込まれた小窓はパズルの要領で開き、
中には岩に似せて作られた箱をマトリョーシカ方式で順々に開けていき、
最後に携帯端末と小型のレバー装置があった。
認証コードは事前に設定されているセキュリティレベルに応じて変化し
高度であるほどより複雑なものとなるが、低ランクだったので
ノエンが使ったパスコードをそのまま入力してレバーを上げると扉は遠隔操作で
少しのタイムラグを経て、開放される。
ノエンは土砂降りの雨を浴びたかのように全身を濡らしていた。
水の化け物の中を割って進んだのだから水に浸かるのと同義だ。
「キーリア……。」
ノエンは少々憔悴したようだったがキーリアを見て安堵した。
戦闘状態を解いて本当に安らぐ。
一方で、散らばった書類を掻き集めていたベアリッドは
光に照らされた一枚の文書に目を奪われていた。
「ん……?」
そして、目にする光によって判じたノエンの素顔が
添付された写真と違っている事に気付く。
「って、これ 違うじゃない。
おかしいわね……別の書類が紛れたか。」
文章上ではノエン・フェオに関する報告が為されていたが
添付写真は異なるし、よく目を通せば、内容も排除に関係していなかった。
勘違い、といえばそうなのだが
些細な手違いで無用な争いを起こしてしまっていたのだ。
そこで立ち上がるベアリッドに、
キーリアは身構えた。
「何よっ!まだやる気?!」
「やらないわよ。手持ちも無いし。
お互い因果だったと割り切りましょ」
ベアリッドはあっさりしていた。
持ち合わせていた道具は殆ど使い切ったのは事実。
弱ったノエンを始末するのに十二分な秘策が残っていたとしても
退く。待ち伏せていた此方に悪気があったと解釈したのだ。
前もって確認を怠らないベアリッドは ノエンに関する資料なんて
あるはずもない情報に、意図的な工作か否か。
自らの過失ではなく雇用側の送付した情報に紛れ込んだ
管理体制の杜撰を仄めかす一件だと考えた。
{帰ったら、雇い主に文句言わないと。}
立ち去ろうと、キーリアの横を過って、すたすたと入り口へ向かうベアリッド。
無駄に時間を浪費したとぼやきながらベアリッドは無関心に横行したが
敵愾心を燃やすキーリアは堪らず、声を上げた。
「ちょっと…!」
しかし、それを制止するのは傍らにいたノエンだった。
「……いい。」
「ノエン……。」
ノエンとしても無闇に戦闘したいわけではないし
疲弊しているのも事実だ。戦闘が継続していれば負けていたかもしれない。
キーリアはそう察して、それ以上は何も言わなかった。
ノエンはその場にへたり込んだ。凭れた壁に水滴はもうない。
キーリアが両側の扉を同時に開いたことで
給水されるはずだった水は蓄積できる許容量を超えて排水溝へ流れた。
結果、排水されて蒸気も発散し、ちょっぴり黴臭さが残留した。
心配そうに見てくるキーリアを一目に、ノエンは言った。
「…少し休んだら、行くよ」
それに対しキーリアは元気良く返事をする。
「……うん!」
思い掛けない遭遇の一幕だった。
―
硝煙が立ち込める、階の下。
長く連なるその階上には特殊対策機構南方支部のビルがある。
大胆にもそんな真ん前で発砲した。
けれども撃った執事は驚いた。
撃たれた方も動揺しているようだった。
「殿、ご無事で?!」
名瀬殿を庇うように現れたのはレディーススーツの女性。
背高でスリムでいて力強い印象の眼鏡の彼女は鋼製の盾を構えていた。
「お前…なんでここに!」
彼女、数藤巻子は中央本局所属のエージェントだが
南方支部の理事でもあった。適度にこうして来社するのだ。
殿とは任務で一緒になることが多く、顔見知りだった。
「半日早く帰社して正解でしたね。」
巻子は栗色の巻髪を掻き上げ、よろけた殿に手を貸した。
執事が撃ち出した銃弾は鋼の盾に弾かれ貴重な一発を無駄にした。
単なる金属なら貫く威力だったが巻子は殿に駆け寄ると
盾を斜めにして、軌道を外したのだ。
受け流され、有らぬ方へ飛んだ弾丸を
遠くに見据えてから、執事は悔しがって不満がる。
「くっ、邪魔が入ったか……」
「どうやら、狩人気取りもこれまでだな。」
殿は執事と睨み合うように立つと、得意げな笑みを浮かべた。
「ここは支部の目と鼻の先だぜ。
テメェは追い込まれたのさ」
そんな殿の台詞に思わず口を出す巻子。
「満足げに誇ってますけど結構ピンチでしたよね?」
「…うっ、うるさい!
思ったより砲口初速が速くて迂闊だっただけだ。」
基本的に構造上の問題で弾丸の速度が劣るリボルバーが
機関銃の速射性能に近似なほど射出が速やかで殿は反応が出遅れた。
殿は避けるつもりだったが巻子が来なければ危うかったかもしれない。
「それはそうと こういうの、特別手当出るんですか」
腕利きで諜報員としても優秀な彼女は現実的な女性だ。
殿は直属の上司ではないが中央本局の統括権限を有する
幹部の中でも発言力のある名家の出身で
厳めしさが全く感じられないが俗に言う金持ちである。
だが、殿本人はそれを快く思っておらず
当代を継いでからも財産に関心がなかった。
「……ボーナスはやる。」
「では、一働きしますか。」
右腕に帯鋼|(長くて薄い金属の板)で巻き付いた
鋼の盾を構え直し、巻子は執事と対峙する。
エージェントが各々任務で使う"道具"は個性があるが
巻子のコレは、まさしく奇異だった。
盾は伸縮して拡張可能で最大に展開すれば大人二人は覆えるほどの大きさがある。
通常は手っ甲のようにコンパクトで、耐久性と軽量を両立している。
殿は丸腰だったが二対一となれば、DE66を持っていようが執事が不利なのは明らか。
しかし、執事は嘲笑した。
「フンッ……わたしが一人でここまで来ると思ったか?」
当然、何かしらの策があるのだろう。
巻子は不穏な気配に感付いて殿を下がらせる。
「殿、後ろへ。」
渋々巻子の後方へ退いた殿は自分の武器を欲していた。
「…それより、なんかねェのか」
「社内は出払ってますし、私も戻ったばかりですから。
殿こそ護身刀くらい持ってないんですか?」
「あるわけねーだろ、どこの時代だ。
ちっ、しゃーねぇな コレで我慢するか。」
そう言って殿が拾い上げたのは転がっていた鉄管、
要するに鉄パイプだ。先端は折れ曲がっているが殴打する程度の耐久はある。
そうこうしてると執事の脇、ビルの陰から数人の男が登場した。
黒い服にサングラスをした厳つい三人の男は
殿達を囲うように広がり、じわじわ近付いてくる。
「時間がない。女に構わず、奴を殺れ」
執事は中心で指示をしていた。
狙いは完全に殿の抹殺だ。
「怨恨にしちゃあきな臭いな……。」
央都での警察組織である特殊対策機構の人員は
犯罪者からすれば恨む対象にはなるだろう。
が、殿への私怨にしても計画性が目に付く。
バックにシンジケートでも絡んでいるか、そんな思いが殿の脳裏に過った。
「左右の二人は潰しますから、後は其方で」
向かって左手に小銃を持った屈強な黒服の男が、
右手には拳銃を携えた長身の男がいた。
巻子は左へ歩みながら全員の動きを観察している。
「おいおい、こんな得物で中央突破しろってか」
殿の前方にはサバイバルナイフを手にした俊敏そうな男が立ち、
その奥に執事がいた。
飛び道具の危険性は執事のDE66くらいで、再装填から発射までの時間を考えても
電撃的に行動すれば鉄管一本で立ち向かえるかもしれない。
「死んでも責任、取りませんよ。」
「南方支部はいい上司に恵まれてるねェ…」
「お世辞ですか?」
「嫌みだっつーの!」
そんな掛け合いの後、巻子は小銃を持った男の懐まで一気に迫った。
照準を合わせながら発射体勢を整えようとするが
巻子は手早く盾を引き伸ばし、側面で男の顔を叩いた。
ビンタよりも早く、強烈な打撃が男の頬を揺らし、足をふらつかせる。
反対側にいた拳銃を持った男はその様子を見て、
すぐに巻子へ発砲したが 巻子は盾を畳んで小回りを利かせ
ターンするように盾を銃弾の方向へ向けた。
そして、着弾した瞬間に滑らかな動きで斜めへ上げ、弾道を逸らす。
盾に叩かれた男が失いかけた意識を取り戻し、
激昂して巻子に襲い掛かったが 巻子が屈んで掴み掛かった男は空振りする。
そのまま足払いをして、男が倒れ込む所へまたも盾を打ち付けた。
これで小銃の男はノックアウトし、残った拳銃の男は後退りながらも
銃を構え、第二射を撃った。
巻子はそれを円形に拡張した盾で防御して進み、
あっという間に距離を詰め、拳銃の男に盾が届く範囲に着いた。
そこで盾はU字形に変形し、男を押さえ込むように倒す。
地面との衝突で背中から伝わる衝撃にのたうつ男に
止めを刺すように厚みを増した盾を振り下ろした。
早くも巻子が二人を無力化すると、殿は真っ直ぐ突っ込んだ。
既に執事は装填に掛かっている。迅速に手前の敵を倒し、先手を打ちたい所だ。
DE66は威力や射出速度、射程にも秀でたオールマイティな"兵器"。
欠点があるとすれば装填の煩わしさである。
本来、リボルバーはレンコン型のシリンダーに数発装填して、
連射が可能だがDE66は回転式拳銃でありながら回転しない。
シリンダーは飾りみたいなもので大経口の弾丸に適応する
複雑な造りである為、シングルショットのように一発ずつ弾を込める必要があった。
ただでさえ自動式拳銃と比較して装填時間が劣っているリボルバーでは
致命的な欠陥だったがそれを踏まえても一撃必殺の魅力は大きい。
先に、ナイフを小刻みに動かしながら前衛の男が殿の前に立ち塞がる。
リーチは鉄パイプの方が勝っていたが、その硬度と切れ味でいえば
やはりナイフに軍配が上がる。まともに遣り合えば容易く切断されてしまうだろう。
殿は右へ左へ迂曲しながらナイフの男に突進していった。
始めは鉄パイプを振り回して、それに視線が誘導されていたが
互いの攻撃範囲直前まで来れば 冷静に戻った男に軽くあしらわれる。
殿は射撃技能などは優秀だが
格闘能力に関しては平々たるものでどちらかといえば不得手だ。
そんな彼が鉄パイプ片手に突っ込んでいっても忽ち、返り討ちだろう。
どっちみち単純な腕力勝負では話にならない。
殿は無策で突入したのではない、
執事を含めて、二人の男を鉄管一つで倒す最短の作戦。
その前段階として、一度躱された鉄パイプをナイフの側面を平行にして
先端を当てた。すると、折れ曲がっていたパイプは矯められ、
無骨だが真っ直ぐになった。男は逸って、ナイフを高速に突き始めたが
即座に殿は翻して、執事の方へと駆けた。
そこに、ちょうど弾を込め終えた執事が小さく笑みを浮かべながら
DE66を殿に向ける。背後からはナイフの男が追いかけ、
前には威力絶大の銃でこちらを狙う執事。―挟撃された。
執事らから見れば、狩り場に迷い込んだ子羊の様で、
殿へと向けた銃の引き金は疾うに軽い。
今に危うし、という場面で
殿は直線の鉄管を筒のように、銃口の角度に合わせた。
執事は殿の意味有り気な行動に気付くも
放たれた弾丸は止まらず、ただ標的へ向かうだけ。
寸秒の間、触れれば死へと繋がる
弾の軌道を先読みしてパイプを微調整をしつつ
鉄管を通って弾は過ぎ、
殿の後方 ナイフの男へ凄絶な銃撃が直撃する。
男は見るも無惨な骸となり、横たわった。
近寄って、殿はサバイバルナイフを奪取すると
大慌てで装填する執事にナイフの切っ先を向けた。
「さァ、これで終いだ。」
少しずつ距離を詰め、殿が目前へとやってくると
執事は観念したように見せて、服の袖に隠していた小さな剃刀で自害を試みた。
透かさず、それを制する殿。
「おっと、勝手に死なれちゃ困るな。…吐いてもらおうかお前の雇い主を」
大きな組織が関与しているのなら、実行者に命令した人物がいる。
そう考えるのが妥当だ。
特殊対策機構の人間である殿を抹殺するには相応に刺客が必要だろう。
この程度の人員だけで終わるとは思えない。
執事を尋問することで芋蔓式に関係者が焙り出されれば万々歳、
でなくとも 情報の足しになれば今後の役に立つ。
その為にも生かしておかなければならない。
殿が睨みを利かせ、執事を大人しくさせていると
巻子が盾を折り畳みながら歩いて来た。
「どうやら終わったみたいですね。
拷問は禁則ですけど、暫くウチで預かりましょう。」
その時、会社の入り口が開き、無愛想な社員が数名参ずると
手際良く執事を気絶させ、運び出した。
二人の男を倒した直後、巻子が電話で呼びつけていたのだ。
「そうだな…頼んだ。」
その見事な手回しに呆気に取られつつ殿は頷いた。
「……にしても、ギリギリ経口以上の直径で助かったぜ」
手元の鉄パイプを眺めた後、殿はそれを辺りに放って呟いた。
「もっとスマートにできないんですか。」
「うるせェ!素手じゃどうしようもないだろ。」
巻子は社員を見送って、背伸びをすると転身した。
「さっ、帰って支度しましょうか。」
「ハ?何のだ」
「知らないんですか、幹部含む上級公務員に招集が掛かってるんですよ」
「また俺だけ連絡寄越さなかったなあの野郎ォ……」
車中で受けた連絡に招集云々の話はなかった。
殿は 連絡を担当する通信士もそうだが、
情報を伝達した張本人、総監する本部局長に対して憤っていた。
上下関係を物ともしない殿は以前から厄介者として
様々な部署を盥回しにされていたが
才覚に目をつけた局長の推薦で仕事を任され、ここまでの地位に上り詰めた。
そういう意味で局長とは深い間柄なのだが殿は腐れ縁と思っている。
「そういうわけで失礼しますね。」
巻子はそんな殿に目もくれずさっさと支部へ向かった。
「あっ、オイ!」
一人ポツンと残された殿は寂しげに独言する。
「……俺も顔を出すか。」




