9 兎の瞳
(少し、性急過ぎたな)
男は一人、人気のない港近くの公園の遊歩道を歩いていた。
用事を終えて店から出ると迎えの車が待っていたのだが、断って先に帰らせた。少し、一人で歩きたい気分だった。
男は父に付き添って訪れた店の美しい店主に恋をし、想いを打ち明け、そして見事に玉砕した。一度断られたくらいで諦めるつもりは毛頭なかったが、思わずため息が洩れる。そして年甲斐もなく恋愛に本気になっている自分に気付き、苦笑と、もう一つため息を洩らした。
陽が傾き、外灯が石畳を照らし始める。
緩やかなスロープを下り、海沿いを歩く。
水面に反射する陽の光を眺めながら歩いていると、数歩先に何かが落ちていることに気付いた。近付いて見てみると、それは片手に収まるほどの小さなウサギのヌイグルミであった。
ヌイグルミを拾い上げ、辺りを見渡す。男が居る位置から一段高い場所にある遊歩道に、少女の姿があった。縁の太い眼鏡、そのレンズの奥の丸い瞳と目が合う。
「やあ」
少女はまるで十年来の付き合いの友人にでも会ったかのように、軽い挨拶をした。
「……こんばん、は……?」
知り合いだっただろうか、とハイティーンの少女を見上げる。記憶を探ってみたが、やはり見覚えはなかった。
「おじさん、なんだか元気がなさそうだ」
少女は手すりにしなだれるようにして身を乗り出し、男を見下ろした。
「イナバはねぇ、寂しいんだ。とてもとても寂しいんだ」
少女は脈絡もなく、そんなことを口にした。イナバというのは彼女の名前だろうか。イナバは男を見つめて話し掛けているが、その語り口調は舞台上の役者が観客に向かって演技をしているような、そんな錯覚を引き起こす。
「おじさんは、元気がないね。おじさんも、寂しいのかい?」
「―――あ、ああ……そう、だね」
観客だった男は突然舞台に引き上げられ、思わず素直に答えてしまっていた。答えてから、しまった、と思った。
――――これではまるで、彼女を誘っているようだ。
女は同情を誘い、男はその同情を『買う』――売春の常套手段ではないか。失恋の傷をそこらにいる手頃な女で塞ごうなどという気は、男にはさらさらなかった。
しかし、イナバはとても商売女のようには見えない。幼さの残る顔に掛けられた眼鏡は男を誘うにしては野暮ったく、自らを着飾るようなこともしていない。
「そう、そうなんだ? おじさんも寂しいんだね?」
「い、いや、その……」
「あはははッ! そうか、そうか、そうなんだね!」
男が発言を撤回しようとした時には既に遅く、イナバは大きな眼を更に見開き、嬉しそうに笑っていた。
「ウサギはね、寂しいと死んでしまうんだよ」
「ウサギ……?」
右手に握ったままであったウサギのヌイグルミの存在を思い出し、イナバに向かってそれを差し出した。
「もしかして、これは君の物かい?」
「ああ、そうだよぉ」
そう言いながらイナバは差し出されたヌイグルミを受け取ることなく、すい、と一歩下がった。
「あっ……?」
男は手を伸ばしヌイグルミを掲げるが、手すりから離れてしまったイナバのつま先に触れることさえ叶わなかった。
そしてイナバは、再び演劇を始める。
「イナバはね、寂しいんだ。寂しくて寂しくて死んでしまいそうなんだ」
男は右手を掲げたまま下げるタイミングを失い、そのまま観客と成り果てる。
「寂しくて、寂しくて、死にたい……だから―――」
イナバはもう一歩、後ろへ下がる。
ぐるり、と丸い瞳が男を見下ろす。
「イナバと、一緒に死のう」
掲げられたヌイグルミが、熱を発し――弾けた。
「が……ッあああああああああああ!!」
指が千切れ飛び、炎が腕を、顔を、首を焼く。炎は一瞬で消え失せ、一拍遅れて鮮血が降り注いだ。
「あ……ああぁ、ぁ……ッ」
爆発の衝撃で尻餅をついた男は、焦点の合わない目で己の右腕を見た。皮膚は赤く爛れ、先端に向かうほどその色は黒に近くなっている。五本全ての指を失ってしまった手を目にして気が遠くなりかけるが、断続的に襲ってくる痛みが意識を手放すことを許さない。指先にはほとんど感覚がないが、焼けた皮膚は尚も火に炙られているかのように痛みを発する。触れるまでもなく、潮風に傷を撫でられるだけで激痛が走る。
「だ、誰か……たす――……」
悲鳴を飲み込んでなんとか口を動かし、助けを求める。顔を上げると、丸い瞳と目が合った。
「わ、ああァッ!!」
段上に居たはずのイナバが、同じ高さに立ち、男の顔を覗き込んでいた。尻餅をついたまま後ろに下がろうともがくが、踏ん張りが利かずその場でじたばたと足を動かすだけに留まった。
イナバはそんな男の姿を見てにこにこと嬉しそうな顔をしている。
「どうだい? イナバと死にたくなってくれたかい?」
「は……?」
男は目を見開くが、焼け爛れた皮膚のせいで右目はほとんど開かなかった。
そういえばイナバは爆発の直前にもそんなことを口にしていたと、男は思い至る。
この少女は男を殺し、そして自身も死のうとしている。
これは、自分に相応しい心中相手を探すためのテストなのだ。
死の恐怖を目の前にして、それでも自分と心中するだけの覚悟があるのかどうかを試すテスト。
(冗談じゃない……!)
男は命屋で命を買っておかなかったことを激しく後悔した。
病気で一度命を落とした父とは違い健康体であり、他人に後ろから刺されるような生き方もしてこなかった。
今日、明日に自分の死に直面することなどありはしないと、高をくくっていた。
死の可能性は、いつどこから転がり込んでくるか判ったものではないというのに――……
「い、嫌だ! 死にたくない!!」
死の可能性とその恐怖を思い知った男は、力の限り叫んだ。
その叫びを聴いて、イナバは残念そうな顔をする。
「そっか」
男への興味を急速に失ったように、イナバは屈めていた上体を起こし回れ右をした。そして男に背を向けて、そのまま歩き出す。
(助かったのか……?)
拍子抜けするほどにあっさりした態度に安堵感を覚えるが、それは一瞬の事であった。痛みが、男を現実へと引き戻す。
(違う、何も助かってなどいない……)
男は命屋で命を買っておかなかったことを激しく後悔した――しかし、たとえ命を買っていたとしても、この場においては意味がないということに気が付いた。
――――この程度では、死ぬことも出来ない。
爆音と、あれだけの叫び声を上げたというのに、一向に人が来る気配は感じられない。自分で病院へと向かうだけの体力も気力も残ってはいない。
死による安息を得ることも出来ず、ここで痛みに身悶えながら助けが来るのを待ち続けなければならない。
(いっそ、彼女と心中してしまった方が……)
破滅的な考えが頭をよぎり、身震いした。
死ぬのは恐ろしい。しかし、ここで痛みに耐え続けることと比べれば、どちらが恐ろしいことなのだろうか。
「た……助けて……! 助けてくれぇ……!」
遠ざかる背中に呼びかけるが、イナバが振り返ることはなかった。
「あの人も、イナバと一緒に死んではくれなかった」
男の叫び声を背に、イナバは歩き続ける。一度興味を失った存在とは世界が別たれてしまったかのように、叫び声はイナバの耳には届いていなかった。
「なかなかイナバと死んでもいいという人に巡り合えない。だからと言って、死にたくない人を無理に殺してしまうのは可哀想だ」
だから、イナバは人を試す。それは彼女なりの気遣いだった。
「皆、イナバと死んではくれない……皆、死を怖がる――……」
一人そう呟いて、重要な事にに気付いたというようにポンと手を叩いた。
「そうか、そうだ! 死にたがっている人を探そうとするから見付からないんだ! イナバは、死を恐れない人を探さなければいけなかったんだ!」
長年の疑問が解けたというように、晴れやかな顔でイナバは笑う。とぼとぼとした歩調は、くるくると踊るようなステップへと変わる。
「そうだ、そうだったんだ! 冴えている、今日のイナバは冴えている!」
くるくる。くるくる。踊りながら、謡いながら、少女は夜の闇の中へと消えていった。