8 蛍の珠
「あら、おかえりなさい」
アラクネが命屋の店に戻ると、そこにはケイの他にもう一人、見知らぬ男がソファーに座っていた。上品な仕立てのスーツを着こなした、三十から四十歳手前に見える紳士風の男――もしかしなくとも、命屋の客だろう。
ケイは命を売る際、客によってその商売の仕方を変えている。明らかに金っ気のない相手には、平気で詐欺まがいの手口を使って命を売りつけるが、金払いの良さそうな相手には詳細を説明して、納得した上で商品を買ってもらう。前者には七日で寿命が尽きることを伏せておき、死体を担保に入れさせて一度の取引で終了。後者には七日置きに新しい命を買わせ続け、搾れるだけ搾り取る――どちらにしても、あくどい商売であると言える。
そのため命屋の常連客は、見るからに裕福であると判る者が多い。ソファーに座った紳士も、命屋の客層としては少し若いようだが、その中の一人なのだろう。
アラクネは男の姿を一瞥し、そのまま何も言わず奥の部屋の中へと消えていった。
「……彼は?」
男は扉を見つめ、少し声を潜めて向かいのソファーに座るケイに尋ねた。
「私のボディガードですわ。最近、何かと物騒ですから」
二人の事情を露とも知らぬ客に、ぬけぬけと言ってのける。
「そうか、僕はてっきり……――いや、それならいいんだ。それよりも、さっきの話の続きなんだが、君の答えを聞かせて欲しい」
男は視線を正面の女性に戻し、少し身を乗り出す。
ケイは、少し困ったような表情を作った。
「お気持ちは嬉しいのですけれど……――ごめんなさい。私は、貴方のものにはなれませんわ」
男はその言葉を聞いて、落胆した。
アラクネが店に戻ってくる直前に男がケイに投げかけたのは、愛の告白の言葉だった。
「こんな仕事は辞めて、ずっと僕の傍にいて欲しい」
その言葉の返事となるのが、先程のケイの発言であった。
「それは……他の客に義理立てして、この仕事を辞められないからかい?」
男は、自分の父以外にもケイに命を与えられることで延命し続けている者がいることは重々承知していた。承知の上で、それでも彼女を独占したいと思った。それだけの覚悟はしていた。
「君がこの仕事を辞めてしまえば、君に命を与えられた者は生きていけなくなる……それは解っている。だが、それでも僕は君が欲しいんだ。トラブルは全て僕が請け負う。君を危険な目に合わせたりはしない。お金にも苦労させない。だから―――」
ケイは、ゆるゆると首を横に振る。
「そうではありませんわ。他のお客様や、お金の問題ではないのです……」
「……なら、一体……?」
男は、ケイの言葉を待つ。
「―――私の命は、ただ一人のためだけのもの。他の誰かのものになってしまうことは、出来ません」
はっきりとした、信念を感じられる言葉だった。
「……それは、さっきの男のことかい?」
「まさか」
はっきりとした否定。男は軽く息を吐き、弱々しい笑顔を浮かべた。
「そうか……君が傍にいてくれれば、父も安心できると思ったのだが……無理強いは本意ではない。今回は、諦めることにするよ」
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ。けれど僕は完全に諦めたわけではないよ。いつまでも君の心替わりを待っている……――また、父に付き添ってここに来ても構わないかな?」
ケイの表情が、一人の女性のものから命屋の店主のものへと変わった。判りやすい営業スマイル。
「ええ、それはもちろんですわ。どうですか? いっそ、貴方もお父様と同じように、命を買われてみては?」
「ははは……それはもう少し、考えさせてくれ」
今度は男の方が、困った表情を作ることになった。
「あら?」
客を見送ったケイが奥の部屋に戻ると、扉を開けたすぐ横の壁にアラクネが背中を預けて佇んでいた。
「ずっと聴いていたの? 盗み聴きなんて悪趣味ね」
「様子伺ってねぇと守りようがねぇだろが」
「それもそうね」
別段怒った様子もなく、ケイは冷蔵庫から水の入ったボトルを取り出すと、中身をグラスに注いだ。
アラクネは腕を組んで壁にもたれかかったまま、テーブルの上を見やった。
「それ……」
手振りもなく目線だけでテーブルの上を指す。ケイは一言だけ発して微動だにしないアラクネに一瞬不思議そうな顔をしたが、目線の先を追ってすぐに思い当たったようだ。
「ああ、それね。マオが届けてくれたわ」
そこには、血に汚れくしゃくしゃになったハンカチが畳んで置いてあった。
ケイがアラクネに包帯代わりにと貸し与え、奪われ、再びケイへと返されたもの――それにはさほど興味がないといったように、ケイはグラスの水を飲み干した。
「大事な物だと聞いたが?」
ケイはグラスをハンカチの横へ置くと、少し不機嫌そうにアラクネを見た。
「あの子……貴方に余計なことを言ったのね」
あの子とはハンカチを奪い取った孤児のことだろう。ハンカチがケイにとって特別な物であると示唆したのはその孤児ではなく名前屋だったが、些細な事だと思い訂正はしなかった。
「何故そんな物を俺に?」
「別に。大事な人から貰ったってだけで、それ自体が大事なわけじゃないわ。言ったでしょう、包帯がなかっただけよ」
少し早口にそう言い切った。
ハンカチを汚れたまま返されたことに苛立っているのかと思っていたが、不機嫌の理由はそこではなさそうだ。どうやら、ハンカチに篭められた意味を知られたことに苛立っているらしい。
「さっきの男に話していた相手か?」
「…………」
「……男か?」
「下世話。どうして男の人ってそんな風にしか考えられないのかしら……詮索しないで」
質問には答えることなく、ケイは店の方へと戻って行った。
アラクネはケイの姿を目で追いかけながら、微かな違和感を覚えていた。
ケイがここで見せた不機嫌な表情は、普段見せる笑顔のように作られたものではなかった。
アラクネは初めて、その女の生きた反応を見た。