7 猫の耳
「わーッ! はーなーせー!!」
アラクネからハンカチを奪って逃げた犯人は、現在アラクネに襟首を掴まれじたばたともがいていた。
その子供はアラクネの姿を見るなり回れ右をして逃げ出そうとしたのだが、駆け出すよりも速く、アラクネがその首根っこを掴んだ。一度目の遭遇では軽快なステップワークでアラクネを翻弄したが、充分な広さのない店の中では本領を発揮出来ず、あっさりと捕まってしまっていた。もっともアラクネが先程出し抜かれたのは、気を抜き過ぎてスイッチオフの状態であったことが原因でもあるのだが。
「これはあんたの子供か?」
「コレゆーな! ボクにはマオってゆー名前がぉわあッ!?」
アラクネはマナに向かって子供――マオを放り投げた。マナが滑るような動きで一歩後ずさりすると、マオは器用に身体を捻って一瞬前までマナが立っていた位置に着地した。
「投げんなバカぁ!」
「……私の子ではありません」
相変わらず視線の向きは不審だが、特に動じた様子もなく、マナはアラクネの問いに冷静に否定で返した。
「じゃあこれの保護者か?」
「そ――……」
「ちがう! ボクがマナの保護者!」
マオがマナの発言を遮り、得意げに言い切った。
「…………」
マナは呆れて何も言えない様子であるが「それも違う」と言いたげなのがひしひしと伝わってきた。
「だってマナ、ほっとくと全然ゴハン食べないし、あやしータバコ吸うし、ヒキコモリなんだもん。だからボクがかまってあげてるの!」
目を合わせようとしないのは元からだが、今明らかに目を逸らした。結局関係性がよく判らないままだが、この子供に面倒を見られているというのはあながち間違いというわけでもなさそうだ。
「そんなことよりも、マオ……」
誤魔化そうとしているのか、目を逸らしつつ会話も逸らすマナ。
「また、よく確かめもせずに人から物を盗ったのですか?」
アラクネからハンカチを奪ったことを言っている。やはりマナは、二人の間にあった出来事を察していたらしい。
「『また』ということは、あの奇行はよくあることなのか」
金目の物を奪うというのならまだ解るが、わざわざ汚れたハンカチを奪うというのは意味が解らない。
「この子の悪い癖です……思い込みだけで行動して、騒動を起こす……」
それに対して反論するマオ。
「確かめたもん! あれはケイのだったもん!」
「問答無用と言っていたが」
「うっ」
アラクネの言葉に気まずげに視線を泳がせる。
「……マオ……」
心底呆れたという様子で、マオを見下ろすマナ――この男が自分から他人の方へと視線をやる姿を初めて見た、とアラクネは心の隅で思った。
マオはなおも反論を続ける。
「だ、だってだって! コイツ、ドロボーなんだもん! 『アレ』はケイのところに帰りたがってたんだ……そんなの持ってるのは悪いヤツに決まってる! 顔コワイし!」
「泥棒はてめぇだろ」
「うっさいオッサン!!」
所謂逆ギレというものを、アラクネは目の前で見た。
二人のやりとりを見続けていたマナはというと、すっかり頭を抱えてしまっていた。
「……マオ……アラクネさんは、ケイのボディガードですよ……」
「え?」
マナの言葉にマオは目を丸くする。
「あのハンカチは借り物だ。あの女から直接渡された」
「え? えぇっ?」
アラクネの説明に、おろおろと慌てふためく。
「だからいつも、よく確認してから動きなさいと……」
「え……あ……あうぅ……」
止めを刺され、意気消沈した。
「それで、盗った物はどうした?」
先程までの威勢はどこへ行ったのやら、マオはぼそぼそとした喋りでアラクネの質問に答える。
「……ケイに……返してきた」
血で汚れたハンカチをそのまま返してきたと言う。そんなものを返された命屋も反応に困ったのではないだろうか。
「何故、あれがあの女の物だと判った?」
マオが命屋と交流のある名前屋の知り合いだと判った今、マオが命屋のことを知っていても不思議ではないということは理解出来た。だが、ハンカチの本来の持ち主を断定してみせた理由については未だ理解出来ない。
「だって……ケイのところに帰りたがってたんだもん」
「? ……さっきもそんなことを言っていたが、どういう意味だ?」
「声が、聴こえるそうです」
アラクネの問いに答えたのはマオではなく、マナであった。
「残留思念、というのでしょうか……持ち主の強い想いが篭った品からは、それに篭められた想いが声として聴こえるのだそうです」
「つまりこのガキは、俺が無理矢理奪い取った物をあの女が返して欲しがっていると勘違いしたわけか」
「それだけケイにとっては大切な物であった、ということは間違いではなさそうですが……」
ただのハンカチに見えたが、命屋にとっては何かしらの価値があるものなのだろうか。
マオは気まずさから小さな身体を更に小さくしてしまっているが、納得し切れていないようでアラクネを睨みつけている。
「……マオ?」
「うぅぅ……ごめんなさい……」
マナに促され、渋々といった様子でようやく謝罪の言葉を口にした。
「すみませんアラクネさん……許してやっては貰えませんか……?」
マナが重ねて謝罪するが、元々アラクネはマオの行為に対して腹を立ててはいなかった。ただ訳が解らず、困惑していただけである。
「別に。あの女に返したんなら、それでいいんじゃねぇか」
「なんだソレ? 自分のコトなのになにヒトゴトみたいに言ってんだよ。ヘンなヤツ――ぁいてッ」
マナに小突かれ、小さく悲鳴を上げた。
「……とりあえず……傷の手当だけはさせて頂けませんか? この子の所為で、傷を広げてしまったことですし……」
そう言って、マナは道具を取りに店の奥へと消えていった。大した怪我ではないのだが、なんとなくアラクネは申し出を断りそびれてしまった。
アラクネと二人きりになったマオは、上目遣いで睨むように命屋のボディガードだという男を見上げていた。
「……なんだ?」
視線に気付き、声を掛ける。
「ボク、ケイにボディガードがいるなんて知らなかった。ケイもハンカチ渡しに行ったとき、なんにも言わなかったし……いつからやってんの?」
「一週間前」
説明するのが面倒であったため、アラクネは護衛になった経緯については触れず簡潔に答えた。おそらく命屋も、子供に説明して理解出来る内容ではないと判断したためにそのことについて触れなかったのであろう。マオ自身もその辺りの事情には興味がないのか、それ以上追究してくることはなかった。
「ふーん……だったらボク、知らなくてトーゼンだ。こんな悪そうなヘンなヤツ、前からいたら気付くもん。ゴカイされるよーな悪い顔してるアンタが悪い!」
理不尽な理屈で責任転嫁された。一応謝罪の言葉は口にしたが、全く反省はしていない。
「変な奴と言うなら、お前らの方が変だと思うがな……」
命を与える命屋。
名前から人生を読み取る名前屋。
物の声を聴く子供。
類は友を呼ぶと言うべきか、命屋を含め彼女を通じて知り合った人物は皆、妙な能力を持った者ばかりであった。
「ヘンってなんだ! ヘンって言うヤツがヘンなんだ!」
またも理不尽な理屈でアラクネに食って掛かるマオ。
薬箱を手に戻ってきたマナはその光景を見て、静かに目を逸らした。