6 魚の名
マナという人物を訪ねて訪れたその店は、殺風景な命屋の店とはまた違った意味で奇妙な空間だった。
命屋と比べると随分物に溢れている。そのほとんどが本棚であり、そこには厚みのあるファイルが隙間なく並べられている。それだけであれば別段『奇妙』と感じることもないが、この空間を異質な物に変えているのは大量の付箋紙だった。壁や棚の側面、机の端などにびっしりと付箋が貼られている。その一つ一つを見ると、全てに人の名前らしき文字が書かれていた。
付箋に書かれた名前を目でなぞりながら店の中へと入っていくと、奥の方から鈴の転がる音が聞こえた。
音のした方へと足を向けると、店の奥から出てきた一人の男と鉢合わせした。男はアラクネと目が合うと少し驚いたような反応を見せ、それから軽く目を伏せた。
男は床に視線を落としたまま、
「……いらっしゃいませ」
一言そう言った。どうやら店の人間であるらしい。
「命屋の店主に頼まれて来た。マナという奴はいるか?」
アラクネが用件を伝えると、男の視線が少しだけ動いた。しかし、やはり目を合わせようとはしない。
「マナは……私です」
「?」
アラクネはマナと名乗った人物の姿を見る。歳はおそらく三十路半ば。視線の運びは不自然だが姿勢は良く、落ち着いた雰囲気の男に見える。
「女の名前だと思っていた」
「…………」
改めてマナの姿を見る。袖が広く、裾の長い装束。顔に掛かる長い黒髪。とにかく動きにくそうな格好だ、とアラクネは思う。先程聞こえた鈴の音は、後頭部の髪留めに仕込まれた物の音であったらしい。動くたびに鈴と、衣擦れの音がする。
「あの、私に用事というのは……?」
「ああ、これを預かってきた」
そう言って、命屋から預かった封筒をマナに手渡す。
マナは封筒の中の紙を広げると、指で文字を撫でるようにしながらそれに目を通した。
「――――確かに。……ありがとうございました」
名前以外の個人情報は一切書かれていない顧客リストを確認し終えたマナは礼を言い、リストを封筒の中へと戻した。命屋はマナにはそれで充分に情報が伝わるのだと言っていたが、実際にその通りであったようだ。
「俺も中身を確認させてもらったが、そのリストで何が判る? 名前しか書かれていなかったが……」
「ケイから、聞いていないのですか?」
「聞いていない」
マナは少し困ったような顔をして、説明をする。
「……名は、銘です。銘を知ることで、私はその人物の命を知ることが出来るのですが……」
「よく解からん」
「…………」
ばっさりと言い切られてしまい、マナは更に困った顔をする。
少し考えて、マナは机へと向かうと紙と筆を手に取り、それをアラクネに渡した。
「これに、貴方の名前を書いて頂けますか?」
「?」
訝しく思いながらも、アラクネは使い慣れない筆記用具で自分の名前を紙に書いた。
名を書き終えた紙をマナに渡す。マナは紙を軽く振って墨を乾かした後、先程したのと同じように指で文字を撫でるようにしながら、そこに書かれた文字を見つめた。
しばらくして、マナは表情を曇らせ、呟きを洩らした。
「……ケイに……命を与えられたのですね」
「!」
この店に足を踏み入れてから数分、命屋の使いであることは明かしたが、命を与えられたことについては一言も口に出していない。
「歳は二十七……伴侶はなし……護衛……本来は、命を奪う仕事……初めに殺したのは――……」
マナは次々と言葉を吐き出す。その全てが、アラクネの身に覚えがある情報ばかりであり、他人に話した覚えのない情報までもがその中に含まれていた。
「何故それを知っている?」
「知っていた訳ではありません。今、この場で初めて、貴方のことを知ったのです」
「占いのようなものか?」
詳しくは知らないが、東の国には名前の字数や字画で運命を占う方法があるのだと聞いたことがあった。
しかしマナは、占いのように未来に起こる出来事を知ることは出来ないのだと言った。
「私が知ることが出来るのは、その人が歩んできた人生そのもの。私は真名を知ることでそれを知り、望む者があれば名前――人生そのものを買い取り、売り渡す……『名前屋』です」
「名前の――売買?」
マナはアラクネの名前が書かれた紙を机の上に置くと、隅に貼られていた付箋を一枚剥がして手に取った。
「例えば――貴方は職業柄、素性を偽って人に近付くことはありませんか?」
「まぁ……あるな」
殺しの『下見』を行う際、適当に身分を偽ってターゲットに接触することはよくあることだった。
「その際に他人の名前を騙ったのだとして……結局それは、偽りの人生ですね? ですが、私が貴方に他人の名――その人の人生を与えたとすると……」
マナはアラクネの胸に、名前の書かれた付箋を貼る。
「他人に疑われることもなく、その人生は貴方のもの――真実となります。貴方は『アラクネ』であることを失い、そこに書かれた名前の人物になるのです」
アラクネは胸に張られた付箋を剥がしてそこに書かれている名前を見た。比較的、ありふれた男の名前だった。
「人生――つまりそいつの情報か? それが俺のものになるというのは解かった。だが、俺が俺であることを失うと言うのはどういう意味だ?」
「一人の人間が二つの真名を持つことは出来ません。感情を伴う記憶と情報は別物ですが、いくら自分が自分であることを覚えていたとしても、名を替えた時点で元の名前の情報は貴方のものとしては扱われなくなります……自分からも、他人からも。ちなみに新たに名前を与える場合、古い名前は私が預かることになります」
そうして預かった名前が、この店に貼られた付箋の名前の正体。しかしそれにしても数が多い。そもそも『新しい名前』というものの出所が謎だ。実在の人物の人生を売ると言うからには、マナが適当に考えた名前を考えて与えているわけではあるまい。
疑問を投げかけると、マナは再び表情を曇らせた。
「いくらお金を出してでも名が欲しいと言う人もいれば、自分の名を棄ててでもお金が必要だと言う人もいるのですよ……」
つまりはそういった人物の名前――人生を担保に金貸しを行っているということだ。
「自分の名を失った奴はどうなる?」
「……何者でも……なくなります。廃人――……いえ……何者でもなくなったモノは周りからも、自分さえもがその存在を認識出来ず、やがては消えていきます」
「……そうか」
いまいちピンとこないが、死ぬのと同じようなものかとアラクネは認識した。
アラクネは黙って付箋を近くの棚に貼る。
「…………」
「…………」
会話が途切れた。
アラクネもマナもあまり会話というものが得意ではない。暫しの沈黙。
「……あの……」
沈黙を破ったのは、マナであった。
「失礼かもしれませんが、もしかして、その傷は……」
躊躇いがちに、アラクネの右手を指す。薄く裂けた傷口に、乾いた血が少量こびりついている。
「ああ、これか――……」
「やっほー、マナーっ!」
アラクネが口を開いたのと同時に、明るい声が店の中に飛び込んできた。
その声は、アラクネの傷を引っ掻いて逃げたハンカチ泥棒の子供のものであった。
どうやらその子供とマナは顔見知りであるらしい。
そしておそらくマナはアラクネの名を見た際に、二人の間に何があったのかを情報として読み取ったのであろう。
その証拠にマナは子供の姿を見るなりこめかみを押さえ、呆れているような申し訳ないような、そんな微妙な表情をしていた。