5 猫の爪
「別に、護衛が欲しくて殺したわけじゃないわ」
ケイはアラクネの胸に口付けを――新たな命を吹き込む儀式を施すと、顔を上げてそう語った。
「護衛を頼んだのは殺したついで。普通の人だったら殺してそれでお終いでも良かったのだけれど、殺し屋さんなら腕が立つでしょ? 実際、貴方は私を守れるだけの実力を持っていたし、お肉屋さんにただ引き渡すのはもったいないと思った。それだけのことよ」
今後同じことがまた起こらないとも限らないしね、とケイは付け足す。
「結局、護衛を欲しがってたことには変わりがねぇじゃねぇか。普通に雇えよ」
今の話を聞いた限りだと、危険を冒してまで殺し屋を護衛に雇った理由の説明になっていない。ケイは今気が付いたと言わんばかりにとぼけた表情で首を傾げる。
「あら、それもそうね。……けど、お金で簡単に命を懸けようなんて人は信用が出来ないわ」
二人の間には金銭的な契約が発生している。しかし雇われている方は金銭が目的で動いている訳でも、ましてか弱い女性を守ってやろうという善意で動いている訳でもない。
「命でお金を動かすことは誰にでも出来るけど、お金で本当に命を動かすことが出来るのは、常に優位に立っているごく一部の人間だけだと思っているわ」
それは状況にもよると思うが、アラクネにはケイの言いたいことも理解できた。大抵の人間は自分の命が危険に晒されれば簡単に全てを投げ出す。「金ならいくらでもやるから命だけは助けてくれ」などという陳腐な命乞いの言葉は聞き飽きるほどに聞いてきた。自分の命と金を天秤に掛けられれば、ほぼ確実に命を選び取る。だからケイは、命でアラクネを縛った。逃げ道を失くし、裏切りを避けるために。
「てめぇは他人を信じられねぇんだな」
「そうね……けど、危険な思いをした甲斐はあったわ。貴方は私の護衛になってくれたもの。貴方のことは信頼していないけれど、信用はしているわ」
つまり人としては信じていないが、道具としては信じて使うことが出来るという意味か。さりげなく、自分は命を動かすことが出来る――優位に立つことの出来る人間なのだと主張している。
――――嫌な女だ。
「ところで……どうしたの、それ?」
ケイはアラクネの右手を指して尋ねた。手の甲が薄く裂け、血が滲んでいた。
「ああ、殺した男に少し抵抗された」
ここに来る前にケイから受けた依頼をこなしてきたのだが、本人はその際に受けた傷のことをすっかり忘れていた。乾いて固まった血を舐め取る。
その姿を見て、ケイは懐からハンカチを取り出した。
「あぁもう……ちょっと、待ってて」
自分の手元を見て何事か少し迷うような素振りを見せた後、ケイは店の奥の居住スペースに姿を消した。そしてすぐに戻ってくると、少し濡らしたハンカチをアラクネの手の甲へと押し付けた。
「ごめんなさいね、包帯なんて持っていないの」
「別に、手当てするほどの怪我でもないが……」
言いながら、大人しく応急処置を受ける。ケイは固まった血を拭き取り、そのまま包帯代わりにハンカチを巻きつけた。
「何が原因で死んでしまうか判らないもの。私の知らない所で死なれたら困るわ」
大げさだな、と思いながらアラクネは血に汚れた白いハンカチを見た。
「…………洗って返す」
どういった反応をすればいいかと迷った結果、そんな言葉が口についた。
「あら、洗濯なんてするのね。ちゃんと人間らしい生活をしているなんて、意外だわ」
「てめぇは俺が霞を食って生きてるとでも思ってたのか」
「学がないと言う割に、変なことを知っているのね……そんな高尚な想像はしていないわ。貴方が物に溢れた部屋で生活している様子が想像できないだけ」
「…………」
確かに、アラクネの住処には物が少ない。物欲に乏しいため、必要最低限の物しか置いていないのだ。本人としてはごく普通に生活しているつもりであったため、意外と思われていること自体が意外であった。
「……で、今日も俺はここで待機か?」
前払いの報酬の受け取りも完了し、アラクネは仕事に取り掛かろうとケイに予定を尋ねた。とは言っても、護衛の仕事というのは護衛対象に危険が訪れない限り特にすることがない。ケイの護衛になってから一週間、仕事中のアラクネは店の奥で待機を続けていた。
「今日は別の仕事を頼むわ」
ケイはそう言って、封筒を差し出した。
「なんだ、これは?」
「仕事仲間に渡す、うちの顧客リストよ」
封のされていない封筒から一枚の紙を取り出し検めると、確かにそこにはそれらしき名前がいくつか表記されていた。しかし――――
「名前しか書かれていないが?」
それ以外の住所や連絡先などといった個人情報は全く書かれていない。名前のみが書かれた顧客リストを渡されても、その仕事仲間とやらも首を傾げるだけではないだろうか。
「マナにはそれで通じるわ」
「? ――……で、これを俺にどうしろと?」
紙を封筒に戻し、ひらひらと振る。
「おつかいに行ってきて欲しいの」
おつかい、と聞いてアラクネの眉が微かに動いた。
「てめぇ……さっき出掛けてきたんなら、その時についでに行けなかったのかよ」
「マナの所って治安が悪いから、あまり行きたくないのよ。依頼人を危険から守るのが護衛の役目でしょ?」
悪びれもせず、しれっと言ってのける。
「……つまり、てめぇは都合のいい使いっぱしりが欲しくて俺を護衛にしたわけか……」
にこり、魔女は聖女のような顔で微笑む。
「それじゃ、よろしくね。ボディガードさん」
結局、アラクネは命屋に頼まれた『おつかい』のために、マナなる人物が営む店があるという地区を訪れていた。
しかしアラクネ自身に使われているという意識はない。あの店で店主と二人きり、何もせずに居続けていると胸が悪くなってくる。それならば外に出て別の仕事をする方がましだ、というのが彼の見解だ。
店主自身が行きたがらないのは面倒臭がってのことかと思っていたが、治安が悪いのでという理由は嘘ではなかったらしい。まだ陽も高いと言うのに客引きをする化粧の濃い女や、明らかに非合法だと判る煙をふかす柄の悪い男が路地の裏にたむろしている。時折、どこからか喧騒の音も響いてくる。
アラクネはそれらに気を留めることなく目的地に向かって歩き続ける。数度娼婦らしき女に声を掛けられはしたが、男たちがアラクネに絡んでくることはなかった。たむろしている柄の悪い男たちよりも、アラクネの方が更に柄が悪く見えるからだ。
「おい」
客引きの甘ったるい女の声とは違う高い声が、アラクネの背中に呼びかけた。
アラクネはその声を気にも留めず、速度を変えずに歩き続ける。
「おいコラぁ! ムシすんな!!」
声の主はアラクネの脇を猛然と駆け抜けると、くるりと振り返ってその正面に立ち塞がった。
それは、サイズの合わない服を着た子供であった。ぶかぶかのセーターの裾から獣のような尾が生えているように見えたが、よく見るとそれは服の中を通された長い髪であることが判る。
「物乞いか?」
このような治安の悪い街で一人出歩いているような子供は大半が物乞いか盗みを生業としている孤児だ。わざわざ後ろから声を掛けてきたことを思うと、盗みが目的で近付いてきたという可能性は考えにくかった。しかしもう一つの可能性も、その子供自身によって即座に否定された。
「ちがう、そんな用事じゃない! アンタのソレ、ケイのだろ?!」
そう言ってアラクネの腰の辺りを指差す。思い当たり、右手を軽く持ち上げる。
「これか」
応急処置として包帯代わりに巻かれた、白いハンカチ。確かに命屋店主の私物であるが、どこにでもあるようなありふれたデザインのハンカチだ。見ただけで誰の物か判別がつくような物ではないように思える。しかしそれ以前に、もっと根本的な疑問があった。
「あの女の知り合いか?」
命屋と知り合ってからまだ一週間しか経過していないため、アラクネはその交友関係を全くと言っていいほど把握していない。逆に、命屋とアラクネに関わりがあると知っている者もほとんどいないと言っていい。そのような状態で見ず知らずのこの子供は、どのようにして二人に関わりがあることを見抜いたというのか。
「なんでアンタが、ケイのを持ってんだ?!」
子供はアラクネの疑問には答えず、上目遣いに睨みつける。
「これは……」
「うっさい! モンドームヨー!!」
質問をしておきながら回答は聞くことなく、子供はアラクネに向かって突進した。
アラクネは動じることなく身体を捻り、突進を避ける。
だが子供はしなやかな動きで即座に体勢を立て直すと、アラクネの右手に跳び付きハンカチを毟り取った。
「――っ!」
ハンカチの下の傷に爪が掛かり、わずかに顔を歪める。乾きかけた傷口に、再び血が滲む。
「よっしゃ、とったーぁ!」
誇らしげに戦利品を掲げ、子供は一目散にその場を走り去って行った。
状況を把握する間もなく、その場に取り残されるアラクネ。
「……何だったんだ……?」
呆気に取られ、追うこともなくただその背中を見送る。
アラクネは傷の具合を確かめると、ポケットに手を入れた。紙片を取り出し、目的地の住所を確認する。
盗られてしまった借り物のハンカチをどうするべきかと少し考えつつも、とりあえず当初の目的を果たすべく、アラクネは歩を進めるのだった。