36 蛇の瑕
父親が恐ろしかった。
父親のことは肉親としては確かに愛していた。そのことについては否定しない。
それなりに裕福な家庭であったため、金銭面で不自由のない生活を送らせてもらっていたことにも感謝している。
父を恐ろしいと感じるようになったのは、見知らぬ少年が家に連れて来られた日からだった。
栗色の髪の、とても綺麗な顔をした少年。少年とは言っても当時の自分は幼く、その自分よりはいくつか年上だったはずだ。
少年と言葉を交わした記憶はない。少年は鍵の掛かった部屋の中で一日を過ごしていたため、顔を合わせたことも数える程しかなかったように思う。
少年は父の欲求を満たすための玩具として買われた。
父親は、嗜虐的な趣味の持ち主だった。
しかしそれが理由で父を恐ろしいと思ったのではない。
父は自分の子供に手を出すようなことはしなかったし、自分がその趣味に対して嫌悪感を抱くこともなかった。家庭内での常識やルールが世間では通用しないという話はよくある。我が家では父親の行為が世間での『そういうもの』だったのだ。
父を恐ろしいと思ったのは、少年が家に連れて来られたその日の夜。
ちょっとした好奇心だった。
父が少年にどんなことをするのか気になって、庭から窓を覗き込んだ。
そして、カーテンの隙間からその光景を見てしまった。
父は少年の衣服を脱がせると、真っ先にその男の部分を切り取ったのだ。
今思うと、それは大切な一人娘を守るための行為だったのだろう。
もしもの時、娘に狼藉を働くことのないようにと事前にその手段を奪った。
けれど、その行為が恐ろしかった。
少年は男の身体をしていたからそれを切り取られたのだ。
ならば――――
男の身体を持たない『おれ』は何を切り取られてしまうのだろうか。
自分の身体が嫌いだった。
自分だけがこんなにも違う。
心にそぐわない醜い身体。
こんな身体いらない。
膨らんでいく胸が嫌で堪らなくて、何度も自分で切り取ろうとした。
だけど痛くて怖くて、結局はできなかった。
切り取るのは怖い。切り取られてしまうのはもっと怖い。
父親に知られてしまうことが恐ろしくて、誰にもこの内面を打ち明けることができないまま、ただ時だけが過ぎていった。
少年の部屋からは毎夜叫び声が洩れ聴こえていたが、ある時期からぱったりと聴こえなくなった。
静かな夜がしばらく続いて、事件は起きた。
あの少年が、父を殺したのだ。
父が死んだ夜、おれは父を殺した直後の少年の姿を目にしていた。
暗い廊下に白い影が浮かんでいて、一瞬、幽霊が現れたのかと思った。
幽霊の正体は、あの少年だった。足、腕、顔、あらゆる箇所に包帯が巻かれ、茶色かったはずの髪は巻かれた包帯と同じ真っ白な色に変わっていた。
暗くて表情なんて判るはずはなかったのだが、その時少年は声を上げずに笑っていたような気がした。笑って、そのままふらりとどこかへ去って行った。
その後、少年がいた部屋で父親の死体を見付けた。
自身が愛用していたメスを一本、喉から生やしてベッドの上に倒れていた。
その時に感じたのは恐怖や怒りではなく、安堵と憧れだった。
最も恐れていた存在がこの世から姿を消したことへの安堵。
あんなにも恐ろしい父親を殺し、笑ってみせた少年の強さへの憧れ。
恐れるものはなくなった。これでおれは『おれ』として生きることができると思った。
だけど、遅かった。
おれの身体はもう、女の身体として完成していた。
こんな身体ではもう、女として生きるしかない。
『おれ』は『あたし』として生きるしかなくなった。
女なんて、男に寄り添って生きるしかできない弱い生き物だ。そんなモノに自分はならなければならなかった。
けれど、自分よりも弱い男に寄り添うなんて我慢ならない。簡単に殺されてしまうような男なんて論外だ。
強い男が相手でなければ納得はできない。
そしてあたしは見付けた。この男のモノになれるのなら納得できるという強い男を。
その男には、過去に自身の父親を殺したという噂があった。情報屋を使って、その噂が真実であるという確信を得た。
恐怖の象徴である『父』という存在を殺し、越えるべき壁を乗り越えた男。
アラクネ。
あたしが強く憧れた、父親殺しの男。
彼のモノになれるのであれば、あたしは『あたし』として生きることに納得しよう。
けれどそれが叶わないのであれば、
その時は――――
「おれに殺されろアラクネ! おれがアンタを越えてやる! そして、おれがアンタに成り代わる!」
アラクネは膝をつき、自分を見下ろすクチナワを睨めつけた。
薄く開いた口から荒い息が洩れる。斬り裂かれた背中が熱い。
省みたところで自らの背中の傷の具合を確認することは出来ない。意識だけを背後に向けると、アキツが呻いて微かに身をよじらせる気配がした。咄嗟のことで弱った身体に障ることも考えず雑に扱ってしまったが、とりあえずまだ息があることは確認した。
「せァッ!!」
正面から意識が逸れた瞬間に、踵が降ってきた。即座に避けることは不可能と判断したアラクネは顔の前に腕を翳し、靴底を受け止めた。靴底に鉄板でも仕込んでいるのか、想像よりも重たい蹴りに顔を顰める。衝撃に痺れる腕を押し出し、蹴りを押し返した。
「よそ見してんじゃねぇぞアラクネ。今は、殺される瞬間までおれを見ていろ!」
クチナワの口調は荒々しさを増し、既にアラクネの知るクチナワの姿は面影を残してはいなかった。突然の豹変に疑問を持ったが、頭の隅に追いやり他に考えるべき事柄を優先させた。
今優先させるべきは、アキツの命を守ることだ。
クチナワが自分と同じように命屋に命を与えられていたのは予想外だったが、一つ命を消費したということは、もう一度殺せばそれで片が付くということである――と言うのは簡単だが、今のアラクネには難しい仕事だった。
背中の傷は深手ではあるが、致命傷ではない。それ故に都合が悪かった。もし一思いに殺されていれば再び蘇り、今しがたクチナワがしたのと同じように不意を付くことも出来ただろう。しかし下手に避けてしまったが為に、背中の傷は動きを鈍らせる要因となってしまった。
(いっそ自分で命を絶つか……?)
命を落とせば次の生に移行する際、ある程度の傷は修復される。傷を癒すだけであれば有効な手であるが、その間は何が起こっても手が出せないというのが問題だった。死体をばらばらに切り刻まれてしまえば修復は不可能であるし、その間にアキツに手を出されてしまっては元も子もない。
考えを却下し別の手を考えるが、熟考させてくれる程クチナワは優しくはなかった。再び踵が降ってくる。
硬い靴底を避け足首辺りを受け止めた上で、アラクネは軸足に足払いを仕掛けた。バランスを崩したクチナワ目掛けてすかさずワイヤーを放つが、クチナワはそれよりも早く体勢を立て直しワイヤーの射程外に跳んだ。
距離が開いた隙にアラクネはアキツを抱え上げ、更に間合いを取った。小柄なアキツを抱え上げるのはアラクネの腕ならばさほど苦にならないはずだが、妙に重く感じた。持ち上げたと同時に背中の傷が一際鋭い痛みを発したが、歯を食いしばってそれに耐える。
「荷物が重そうだなぁ、アラクネ。どうせなら互角な状態でアンタを殺したいんだ、ハンデになるから降ろしなよ。そいつも後でちゃんと殺してやるからさぁ」
「うるせぇ」
「アラクネさん……私は、いいから……」
「てめぇも黙ってろ」
二人の提案には耳を貸さず、アキツの身体を片手でも支えられるように抱え直した。
「アラクネがそれでいいってんならまぁいいさ。精々落とさないように気を付けなァ!」
クチナワは一気に距離を詰め、ナイフを突き出した。片手が塞がっている為ワイヤーは使えない。そもそも正面切ってのやり合いにはあまり向いていない得物だ。アラクネは自由な方の手でクチナワの手を受け止め、弾いた。クチナワは時折蹴りを交えながら、間を空けず突きを繰り出す。
攻撃をかわしながら逃げることも視野に置いたが、考えを読まれているらしくクチナワは常に唯一の退路である階段を背にして立ち回っていた。
防戦一方ではいずれ押し負ける――そう考えた途端に、アキツの身体が手から滑り落ちた。
「っ!」
滑り落ちる身体を抱え直そうとしたが間に合わず、アキツの足がコンクリートの地面に触れる。重みに引かれたアラクネは体勢を崩し、膝をついた。
「はははは! やっぱりお荷物だったなぁ! さっさと捨てちまわないから足を引っ張られんだよアラクネェ!」
ナイフが振るわれる。その軌道はアラクネではなく、アキツを狙っていた。
「ぐ……ぅッ!」
「アラクネさん!?」
アラクネはアキツの前に手を翳し、軌道を遮った。ナイフは手の甲を翳め、袖口を引き裂きながら手首から肘に掛けて抉るように切り裂いた。
ナイフを引いたクチナワは、ナイフに付いた血とアラクネの腕から滴る血を不思議そうに見比べた。
「なんで、そこまでしてそのガキを庇うんだ?」
コンクリートに投げ出されたアキツの脚に視線を滑らせ、その視線の動きに気付いたアラクネはアキツの身体を抱き込んだ。
「俺の勝手だ」
切り裂かれた腕は力が入らず持ち上げられなかった。片手で不器用に引き寄せ、視線から隠すように半分背を向ける。クチナワはその背を乱暴に蹴りつけた。
「なんでだよ……あの女だけじゃなくて、そいつも必要なのかよ……なんでそんなモノ必要なんだよ……弱いだけじゃないか、女なんて……!」
「……だったら、てめぇは何なんだ」
少女を庇い、痛みを堪えながら発せられた男の言葉にクチナワは激昂した。踵を使って、アラクネの背中の傷を踏みつける。
「おれも同じだって言いたいのか?! 違う! おれは違う! おれはアンタを殺すんだ! 違うと証明するために殺さなければならないんだ! アンタがおれを選んでくれなかったから――――!」
支離滅裂に叫びながら、何度も何度も傷を踏みつける。
「アラクネさ……っ、やめて、アラクネさん……!」
アラクネの身体越しに衝撃を受けながら、アキツは掠れた声で名前を叫んだ。盾になった身体から抜け出そうと身じろぎするが、アラクネはアキツがもがくほどに腕に力を込めた。
(やはり、持たないか……)
意識が朦朧とし、傷の痛みすら朧気に感じる。
死が手招きをしている。
今更死を恐れたりはしない。ただ、腕の中の生を失うことになるのが不愉快だった。
「もう終わりなのかよ。もうおれに殺されるのかよ、アラクネ。簡単に殺されてくれるなよ、アラクネ――――」
衝撃は止んだが、アキツを抱えて前屈みになったまま、身体を起こすことは出来そうになかった。
首を回すだけの気力はなく確認は出来ないが、おそらくクチナワは背後でナイフを構え直していることだろう。目の前の男の背を貫くそのために。
(……そういえば……)
アキツが自分と『おそろい』であったことを今際の際になって思い出した。
それならばまだ可能性は残っている。
あとはクチナワが死体を弄ぶことがないようにと祈るだけだな、と運を天に任せた。
ぐらりと身体が前に倒れる。
寸前まで身体を引き剥がそうともがいていた白く細い手が、自分を引き寄せた気がした。




