35 蛍の涙
「さてと、そろそろあたしらも行こうか」
女はそう言うと、アキツの手首を縛り付けていたロープを切り、無理矢理に立ち上がらせた。
アキツの足元はおぼつかない。大量の血を失ったばかりで、いつにも増してその肌は青白く表情にも生気がない。立ち上がる際にスリッパが脱げ落ちたが、女は構わずアキツを裸足で歩かせた。
「何処に連れて行く気?!」
ベッドの脚に縛り付けられたままのケイは、自分を置いて部屋を出ようとする女に慌てて呼び掛けた。
「屋上。アラクネにそこに来るように言ったから、あたしが行かないワケにはいかないでしょー?」
「だからって、どうしてその子だけ……!」
「人質二人もいらないし」
「だったら私を連れて行きなさい! あの人にとって、その子は人質の価値がないわ!」
必死なケイの様子を見て、女はわざとらしく考えるような素振りを見せた。
「それはなんとなく解ってるんだけどねー。こっちの方が大人しくて軽いから扱いやすそうだし、それに――……」
女は腰を屈め、額同士が触れそうな程顔を近付ける。
「こっちの方が、アンタへの嫌がらせになるだろ?」
にやりと笑って、つま先で腹を蹴り上げた。
「ッく! ぁ……かはッ!」
涙目で咳き込むケイを見下ろし、女が嘲笑う。
「あはははは! 心配しなくても、最終的には同じ所に連れてってあげるって! こっちのガキの方が先に逝っちまうかもしれないけどな!」
女は笑いながら、アキツを半ば引きずるようにして部屋を出た。ドアが閉まる一瞬、アキツの虚ろな瞳と目が合った。
最愛の姉を心配させまいとしたのか、アキツは目を細めて笑ったように見えた。
「ゃ……いや……ダメ! アキ、アキツ! アキツぅ!!」
悲痛な叫びは二人を引き止めるだけの効力を持たず、無情にもドアに遮られた。
クチナワが顔を覗かせていた窓を見上げていたアラクネは、更に上の屋上のフェンスを見つめ、端末をコートのポケットに入れた。門に張り巡らされた『立入禁止』と書かれたテープを構わず潜り抜け、敷地内に進入する。
この場を訪れるのは初めてではなかった。
その病院は以前アキツが入院していた場所であり、アラクネが関わることになった爆弾魔の事件があった場所でもあった。事件以降病院は閉鎖されたまま、建物には修理の手も入らず事件の爪痕が残されていた。アラクネが見上げていた屋上のフェンスも、大穴が開いた金網にシートが張られているだけなのが見て取れた。
病院の内部は当然ながら人気がない。電力が停止しているため、エレベーターには向かわず階段を上る。
(クチナワがいたのはこの階か)
窓から顔を覗かせていた姿を思い出すが、既に屋上に移動した後だろう。構わず通り抜けようとしたが、何か物音がしたような気がして一旦足を止めた。
静まり返った廊下に耳を澄ませる。やはり、無人であるはずの場所から物音が聴こえた。極力足音を立てないようにして、音の発生源へと近付く。
「こ、のォ……ッ!」
悪態を吐く声と、何か重たいものが落下する音。アラクネは病室のドアを薄く開け、注意深く中の様子を探った。そして――――
(いた)
実にあっさりと、捜していた人物を見付けるに至った。
部屋の中ではケイが呼吸を乱して床に座り込んでいた。
「……ふッ……く……ッ!」
息を整え終えると、気合と共に膝を立てた。どうやら後ろ手に縛られた体勢から抜け出そうと、ロープが巻き付いたベッドを持ち上げようとしているらしかった。
部屋の中にクチナワの姿はない。加えてアキツの姿も見当たらない。代わりに、ケイの足元の床には何者かの血が広がっていた。
どん、と音を立てて浮き上がっていたベッドの脚が床に落ちる。脱出に失敗したケイは再び床にへたり込み、荒い息を吐いた。
アラクネは部屋に入ると、ケイの姿を見下ろした。
「アキは殺されたのか?」
そう問いかけると、顔に掛かった長い金髪の隙間から鋭い眼が睨み付けてきた。
「生きてるわよ、まだ……だから、私が行かないと……」
切れ切れの息でそう応えて、ケイはもう一度膝を立てた。
「お前が行ってどうにかできるのか?」
「出来ないわよ、何も……出来ないけど、行かないと……私が、行ってあげないと……!」
立てた膝に体重を乗せるが、血で濡れた床に足を滑らせその場に崩れ落ちた。今まで何度も同じ行動を繰り返していたのだろう。髪はすっかり乱れ、スカートの裾は血を吸って赤く染まっている。
俯いて肩で息をするケイの姿を見下ろして、アラクネは考える。最も優先すべき目的を果たした今、わざわざクチナワを追いかけて屋上まで向かう必要はなくなった。ヤタにアキツも連れ帰るよう頼まれてはいたが、それを叶えてやる理由はアラクネ個人にはない。いつか利用出来るかもしれないという理由で生かしていただけで、危険を冒してまで救い出してやる程のこだわりはなかった。
ともかくケイを連れ帰ることは決定事項である為、ひとまず縄を解こうと傍に屈んだ。
「……アラクネ……」
一瞬、誰に名を呼ばれたのかと考えてしまった。
自分の他にこの場に居る人物は一人しかいないことを確認して、アラクネは金色の髪に目をやった。
「……助けて……」
それは、蚊の鳴くようなか細い声だった。
俯いたまま肩を小さく震わせて、声を絞り出す。
「あの子を……アキツを、助けて……お願い……っ」
垂れ下がった金髪の奥で、光るものが滑り落ちるのが見えた。
「――――ああ」
名を呼ばれた事と懇願するような物言いに驚いた所為なのか、アラクネは悩む間もなくそう返事をしていた。
ケイを束縛するロープを解くことなく、立ち上がる。
「何もできないならそこで待っていろ」
返答は聞かず、部屋を出た。
来た道を引き返し、階段へと戻る。
(あれは、泣いていたのか?)
表情を伺うことは出来なかったが、それは初めて目にする態度だった。
(あんな反応もできるのか)
以前から解ってはいたことだ。ケイの感情を最も揺さぶることが出来るのは彼女の妹の存在であると。
(それならば――――)
それならば、充分な理由になり得る。
「アキは、生かしておく必要がある」
決意が自分の耳に届くように呟き、階段に足を掛けた。
人工の灯りがない病院の階段は昼間でも暗い。手すりを掴み、段を踏み外さないよう一歩ずつ確実に上っていく。
上階から洩れる光で徐々に視界が明るくなり、歩を速めた。光に向かって進んでいるはずなのに、闇が深くなっていくような錯覚。周囲の壁が焼け焦げて黒く煤けていた。
少し見上げた先に、闇の中にぽっかりと浮かぶように四角く切り取られた白。終点だ。
階段と屋上を遮っていた鉄の扉は先の事件で爆弾魔が吹き飛ばしていたため存在せず、そこから光が差し込んでいた。元々鉄扉が存在していた部分にはシートと立入禁止のテープが張られていたようだが、引き剥がされ床上に放ってあった。
シートを跨ぎ、屋上に出る。
屋上に足を踏み込んですぐ、アキツの姿を見付けた。屋上の外周を取り囲むフェンスの一部分、シートが張られたその傍に横たわっていた。
アラクネは真っ直ぐそちらに向かおうとしたが、扉のあった場所をくぐった直後に横合いから伸びてきた腕に抱き竦められた。
「アラクネ」
女の声。確認するまでもなく、抱きついてきたのはクチナワであると判った。
「アラクネ。あたしを追いかけて来てくれたのね、アラクネ。やっとあたしを見てくれる気になったのね、アラクネ」
クチナワは陶酔したように何度もアラクネの名前を呼んだ。
しかしアラクネは、腰にしがみ付いたクチナワの姿を見ようとはしなかった。
「俺が用のあるのはあいつだ。てめぇに用はない」
前を向いたまま、絡みついた腕を引き剥がす。抵抗する気配はなく、束縛はあっさりと解けた。
「……そう」
クチナワの声には明らかな落胆が感じ取れた。
「やっぱり、あたしはあなたのモノにはなれないんだ……そう……それならあたしは――――」
アラクネはクチナワの横を通り過ぎ、前へと進む。クチナワはその背中に語り掛けた。
「あたしはもう、アンタを越えるしかなくなった」
地面を蹴る音が聴こえ、アラクネは即座に振り返った。
突き出されたクチナワの腕に向かい、アラクネは同じように腕を突き出した。自分の腕に相手の腕を滑らせるようにしていなし、袖を掴んで投げ飛ばす。
クチナワは受身を取ると同時に転がって間合いを取り、体勢を立て直した。
「乱暴だなぁアラクネ! だけどそうだ、それでこそだ!」
「なんのつもりだ?」
乱暴なのはどちらだ、とクチナワの手元のナイフを見た。いきなり後ろから刺される程の恨みを買った覚えはない。
クチナワはナイフを構え、唇の端を凶暴に吊り上げた。
「アンタを殺すつもりだよ! アラクネが女の所有物になるような軟弱な男なワケがない。けど、あたしがアンタのモノになることが叶わないのなら、あたしに殺されろ! 強い男のまま、あたしに殺されろアラクネェ!!」
先程までのしおらしい態度から掌を返したように、荒々しい口調でクチナワは叫んだ。
アラクネは袖口からワイヤーの先端を引き出す。
「てめぇが何を言いたいのか理解できん。だが、邪魔をするなら――――」
言い切る前に、クチナワは再び向かって来た。
腕を軽く振るい、ワイヤーを引き伸ばす。錘の付いた先端がコンクリートの地面にぶつかって小さく跳ねた。クチナワの姿は既に目の前にあった。
「はァッ!!」
下から斜めに振り上げようとされたナイフの柄を、拳ごと掴んで止める。ナイフを封じたと同時に今度は脇腹を狙って膝が迫って来たが、もう一本の手でこれも止める。
アラクネは地面に垂れたワイヤーを足で踏みつけると、止めていた膝を弾いてクチナワの首元を掠めるように腕を伸ばした。足元から、突き出した腕の間に掛けてワイヤーが張る。張られたワイヤーはクチナワの身体を撫で、袈裟斬りにした。
(浅い)
ボンデージのレザーを切り裂く手ごたえは感じたが、肝心の本体には触れたか触れていないかというところであった。
致命傷には至っていないと判断するや否や、アラクネは掴んでいたナイフの柄を捻り、クチナワの手から強引に毟り取った。
「!!」
クチナワは身を引こうとしたが、それよりもアラクネの動きは速かった。
「……ぁ…………」
ナイフは、心臓を正確に貫いた。
クチナワは胸にナイフを突き立てたまま仰向けに倒れ、絶命した。
障害を排除したアラクネは無感情にワイヤーを収納し、屋上の端に向かって歩を進めた。
「アキ」
倒れたアキツを抱き起こすと、その衣服が血で染まっていることに気付いた。手遅れかと思ったが、アキツは薄目を開け浅い呼吸を繰り返していた。念のため上着を捲って確認してみたが外傷は見当たらない。白く細い手首に縄が食い込んだ痕が残っているのだけが痛々しかった。
(弱っているな)
大きな怪我はないようだが、支えた首元からは体温が伝わってこなかった。元々身体が弱いという事は承知していたが随分と衰弱している。素人判断でも、このまま放置しておくのは好ましくないことくらいは理解出来た。
ひとまず病院に連れ帰ることが先決と判断し、抱え上げるために膝の裏に手を差し込んだ。
「……だめ……」
抱き抱えられるのを拒むかのように、アキツの手が弱々しくアラクネの胸を押した。唇が僅かに開き、吐息のような声を発する。
「アラクネさん、まだ………あの人……お姉ちゃんに……」
微かに洩れ聴こえる声に耳を傾けていると、不意に視界に影が落ちた。アラクネは咄嗟にアキツの身体を抱き寄せ地面を蹴った。
「ぐ……ッ!」
背中に鋭い痛みを感じた。
着地と同時に、アキツを半ば転がすように地面に降ろす。膝をついたまま、アキツを背後に庇うようにして振り返った。
そしてアラクネは、あり得ないものを目にした。
「今のは惜しかったなぁ。確実に殺せると思ったのに、さすがいい反応だよ、アラクネ」
「クチナワ……?」
アラクネを見下ろしていたのは、血に濡れたナイフを手にしたクチナワだった。
「どういうことだ……?」
クチナワの衣服は斜めに裂け、胸の辺りには血に濡れた跡があった。しかしクチナワは何事もなかったかのように立ち、驚くアラクネの姿を見下ろしていた。
「驚いてるなぁ、アラクネ。こっちも驚いたよ、本当に生き返るんだもんなぁ。なかなか使えるじゃないか、あの命屋っての。気に食わない女だったけど、飼ってやるのも悪くないかもしれない」
クチナワはジャケットの下の千切れかかったベルトと布地を邪魔くさそうに剥ぎ取り、胸を撫でて血を拭った。羽織ったジャケットに隠れた部分以外は上半身が露出した格好になるが、クチナワは気にする様子もなかった。
「だけどその前に、アラクネを殺さないとなぁ。何をするにも、まずはそこからだ」
露出したクチナワの肌に、真新しい傷は見当たらなかった。しかし左胸の下に、古い傷痕があるのが見えた。
「さあ、こっちを見ろアラクネ。目の前の『おれ』だけを見ろ、アラクネ!」
左胸の、三日月のような形の大きな傷痕。
その傷はまるで、丸く膨らんだ胸を切り取ろうとしたかのような傷痕だった。




