33 蜉蝣の夢
「なんかもう、ここのところ散々だよ、俺」
「日頃の行いが悪いからじゃない?」
「なかなかキツイこと言うなー……」
困ったように頭を掻くヤタの姿を見て、アキツはくすくすと笑った。
アキツはいつもと変わらずパジャマ姿でベッドの上に座り、ヤタはその隣で椅子に腰掛けていた。ヤタが着ているのはいつもの黒いツナギではなく淡い水色の入院着であり、傍らには松葉杖が立て掛けられている。
「でも、ヤタさんがケガしてくれてちょっと嬉しい。知ってる人が近くにいるって判ってるだけでも気分が違うもん」
変化の少ない入院生活を送り続けているアキツは、ヤタが入院したことによって訪れた変化を少し喜んでいるらしい。
ここ二日程、ケイは妹であるアキツが入院している病院に姿を見せていない。アキツには仕事が立て込んでいるのだと説明していたが、事実は先日の誘拐未遂を受けて、用心のために外出を控えているのが理由である。
「アキちゃんの気分転換になったなら、少しは怪我した甲斐があったかな?」
「ムリしなくていいよ。ヤタさんだってケガ、辛いのに……嬉しいなんて言ってゴメン」
「あ……いや……」
アキツの声と表情が暗く沈み、ヤタは言葉に詰まった。性根は明るく優しい子であるはずだが、時折こうして暗い陰を落とす。
声を掛ける代わりに頭を撫でてやろうと思ったが、身を乗り出さないと手が届きそうになかったのでやめた。ほんの少しの体重移動でも脚に痛みが走る。強がる必要はないと言われたばかりであるが、だからと言ってこれくらいのことで痛がる姿を見せたくはなかった。
痛みに耐えて平気な振りをする自信もなかったので、やはり言葉を掛けることにする。
「アキちゃんの方こそ、俺に気ぃ使う必要はないよ。あんまり病院に長居するつもりはないけど、入院してる間はマメに顔出すようにするからさ。俺も退屈だしね」
「ヤタさん……」
極力締まらない笑顔をアキツに向けてやると、ヤタの背後でドアを叩く音が鳴った。
「どうぞ」
部屋の主であるアキツがそう応えると、ドアが開いた。
「失礼しま――……やっぱり、ここにいたんですねヤタさん! 勝手に出歩かないでくださいって言ったじゃないですか、探しましたよ。安静にしていないとダメじゃないですかっ」
部屋の中にヤタの姿を見付けるなり、看護師の女性は矢継ぎ早にそう言った。
ヤタは一瞬しまった、というような顔をして、誤魔化すように先程の笑顔を今度は看護師の方へと向けた。
「いや~……早く良くならなくちゃと思って、リハビリがてら散歩を……」
「怪我してすぐに無理して動いたら逆効果ですっ! 移動するならせめて車椅子を使ってください、ほらっ」
捜索中ずっと押して回っていたらしい車椅子を部屋に押し入れ、それに座らせようとヤタを引っ張る。
「ちょっ、痛い痛い!」
「勝手に動き回るからですっ」
強引な看護師とたじろぐヤタの姿を見て、アキツが口を開いた。
「大人しく戻った方がいいよ、ヤタさん。私は平気だから、ね?」
それこそ強がりのように聞こえたが、アキツの表情が和らいでいることに気付いてヤタは少し安心した。
「……うん、そうするよ。また顔出すからね」
そう言ってから看護師の睨むような視線に気付き、言葉を付け足した。
「……次からは、ちゃんと車椅子に乗って」
看護師は満足げに頷き、アキツは楽しそうに笑った。
ヤタはそのまま車椅子に乗せられ、看護師に運ばれて自分の病室へと戻されて行った。
アキツはベッドの上から部屋を出て行くヤタを見送り、ドアが閉められてからひとつため息を吐いた。枕の上に倒れこむように寝転がって、いつも頭の中にある言葉を呟いてみる。
「死にたい」
自分の口から零れ落ちた言葉は、現実味のない薄っぺらなものに感じられた。所詮は自分では叶えられない夢のようなものだからなのだろう。
(お姉ちゃん、どうしたんだろう?)
連絡を受けたらしい病院のスタッフから仕事が忙しいのだと聞かされてはいたが、妹よりも仕事を優先させるような姉ではないことは誰よりもアキツ自身が解っていた。
(もしかして、アラクネさんが……?)
自分がした『お願い』を叶えてくれたのだろうか――と考えて、それ以上の事を想像するのをやめた。そうだとしたら、それこそ夢の話だと思っていなければならない。現実を知らず、夢を見たまま自分の世界を終わらせるために――……
「退屈」
夢から気を逸らすために、目下一番現実的だと思える言葉を口にしてみた。
「それなら、あたしと出掛けてみる?」
独り言のつもりで呟いた言葉に返事が返ってきた。
気付けば閉じられていたはずのドアが開いていて、そこに見知らぬ女性が立っていた。
アキツは身体を起こして来訪者の姿を見る。あまり病院に似つかわしいとは言えない格好。アキツの語彙にその言葉はないが、所謂ボンデージファッションと呼ばれるものだ。
「……誰?」
アキツが尋ねると、女はにこりと微笑んだ。
「あれ、アラクネ?」
ヤタが病室に戻ると、見慣れた強面が椅子に座って待っていた。
同伴の看護師に断って退室させると、車椅子を降りてベッドの上へと乗り移った。その間に、チェストの上に見覚えのない花が飾ってあることに気が付いた。
「これってアラクネが……なワケないか。ケイさんも来てるの?」
見舞いに花を持参するような甲斐性がアラクネにあるとは思えなかったので、もしかしなくともケイが用意して生けたものなのだろう。
「てめぇがいねぇから、妹の所に行った」
「ありゃ、入れ違いになったか」
わざわざ足を運んでもらったのに悪いことをしてしまったと、少し申し訳ない気持ちで花瓶の花を見た。
「……というか、大丈夫なの? ケイさん」
「生きているが?」
「いや、それは解ってるけど……男に乱暴された、って……」
誘拐未遂のあらましは事件の後にアラクネから聞いていたが、ケイ本人に確認を取った訳ではないので程度は不明だ。まさか本人に尋ねる訳にもいかず、ヤタの声は語尾に近付くほどに小さくなっていった。
「それも未遂だと思うが」
「だとしても、女の人はそういうの引きずるだろ。下手したらトラウマとか……」
ほぼ毎日欠かさず病院に来ていたケイが二日も顔を見せなかったこと、加えてこの場にアラクネがいることを思う。病院への同行を頑なに拒んでいたケイが、アラクネを護衛として連れてきたのだ。それなりに堪えてはいるのだろう。
「このくらいで折れるような女なら、俺がとっくに殺している」
「…………」
アラクネの言葉に、ヤタは閉口した。そもそもアラクネはいつかその命を奪うためにケイの傍にいるのだということを失念していた。
ケイがアラクネの前で隙を見せることは自身の命に係わる。奇しくも命を狙うアラクネの存在がケイを強くしているのではないかとヤタは思ったが、それを知れば何をしでかすか判ったものではないのでアラクネにはそのことを伝えずに置いた。
「まぁ、自分よりもアキちゃんを優先できるくらいには落ち着いてるみたいで少し安心したよ。アキちゃんも心配してたしね」
「……てめぇは、いつからあのアキとかいう奴のことを知っている?」
「んー? いつだったかな……命屋さんと取引始めて、病院側のツテでアキちゃんのこと知ってからだから……って、何訊こうとしてんの? 余計なことは言わないよ、俺。下手なこと言ったらまたケイさんに怒られる!」
前科のあるヤタは口を滑らせる前に自ら予防線を張った。
「いや……別に」
「そこで引かれると逆に気になるんだけど……」
「大したことじゃねぇ。干渉するのが嫌いだなんだと言っている割に、よく他人に世話を焼いていると思っただけだ」
「『よく』って、そんな頻繁に世話焼いてるつもりは……」
他人に干渉されることもすることも、嫌いなのは相変わらずだった。人付き合いは世の中を上手く渡っていくためのただの処世術に過ぎない。しかし善良な市民を自称してはいるものの、お人よし扱いを受けるのは何やら癪である。
反論しようとしたが脳裏にあの孤児の姿がちらついて、否定も肯定も出来なくなった。
「あー、うん……いや、まぁ……」
返答に困って唸っていると、病室の外の異変に気が付いた。
「……ん? なんか騒がしくない?」
ドアの向こうから、病院の中で話すにしては大き過ぎる声が聴こえる。加えて廊下を走り回るような足音。足音は次第に近付き、病室の前で停まるのと同時にドアが開かれた。
「あの、失礼します! こちらにアキツさんかケイさんは来ていませんか?!」
先程ヤタの車椅子を押していた看護師が、血相を変えて飛び込んできた。
「え? いや、アキちゃんは来てないけど……ケイさんは―――」
「一度ここに来て、妹の所に行ったはずだが?」
ヤタがアラクネに視線を送ると、そう看護師に説明をした。
「それは解っているんですっ! だけど、アキツさん、アキツさんが―――!」
「お、落ち着いて! 何かあったの?」
パニックを起こして今にも泣き出してしまいそうな看護師をヤタが宥めて、事情を訊いた。
「アキツさんが、いなくなったんです……」
「えッ!?」
ヤタがアキツに会っていたのはつい数分前の話だ。アキツ自身は一人で黙って出歩くようなことはしない。この短時間で姿をくらますなど考えられない話だった。
「ヤタさんの松葉杖を取りに戻ったら病室にはケイさんしかいなくて、何か手紙みたいなものを読んでいたと思ったら、そのまま飛び出して行ってしまって……」
「飛び出すって、どこに?」
「判りません……とにかく、こうして病院の中を捜して回っているんですが、場合によっては警察にも……」
看護師は事情を説明し終えると、他の部屋も探すと言って足早に病室を出て行った。
「なんだか嫌な予感がするよ」
事情を聞いてからしばらく、ヤタとアラクネは二人の発見報告が入るのを待ち続けていた。捜しに行こうにもヤタは怪我の所為で歩き回ることが叶わず、そもそも何処とどう捜せばいいのか皆目見当が付かないという有様だった。
アラクネは言葉を発しない。心配しているという様子ではないが、いつもよりも険しい顔をしているように思えた。
「やっぱり、もしかしなくてもこれってクチナワが――うぉっ!?」
突如病室に端末の呼び出し音が鳴り響き、ヤタは驚きの声を上げた。
アラクネはコートのポケットから端末を取り出し、通話のためにボタンを押した。呼び出し音が止む。
「――――あっはははははは!!」
端末を耳に当てた途端けたたましい笑い声が耳を劈き、端末を耳から遠ざけた。
「……誰だ?」
笑い声が静まるのを待って、アラクネは端末の向こうの相手に尋ねた。
「――――あ、もしもーし。アラクネ? あたし、クチナワ」
「クチナワ……」
アラクネが件の人物の名を呟いたのを聞いて、ヤタは身を乗り出した。
「何の用だ?」
「――――何の用って……女は預かった! なんてね」
洩れ聴こえる声に耳を澄ませていたヤタが息を飲むのを横目に見て、アラクネは質問を重ねる。
「何のつもりだ?」
「――――言ったでしょ? 必ずあたしのこと見てもらえるようにするって。金髪の女とガキ、今あたしが捕まえてるから、返して欲しかったらあたしの所に来て。あたしのことを追いかけて来て」
「どこにいる?」
居場所を確認すると、アラクネは一言「判った」と言って通信を切った。
「アラクネ……やっぱり、クチナワが二人を……?」
「そのようだ。居場所は判った、行ってくる」
端末をポケットに収め、席を立った。
ヤタは自分も同行したいと思ったが、それを口に出すことは出来なかった。これから何が起こるのかは予想が付かなかったが、今の自分がついて行っても足手纏いにしかならないことは確実だった。
「アラクネ、ケイさんのことはもちろんだけど……アキちゃんのことも、無事に連れて帰ってよ」
ケイはともかく、アキツを助けるだけの理由も義理もアラクネにはない。それは理解していたが、ヤタにはアラクネに事を任せるしか手段がなかった。
「俺はもう、子供の死体を片付けるようなことは嫌だよ」
商売相手であるケイの身を案じるのはまだ解るが、何故そこまでアキツのことを気遣うのか――アラクネは理由を尋ねようとして、やめた。
「どの道、その脚では無理だろ」
代わりに了承したかしていないのかよく判らない返事をして、クチナワに指定された場所へと向かった。




