32 蛇の毒
路地に派手な色の粗大ゴミが落ちていると思いきや、それは派手な髪の色をした知り合いだった。
「……大丈夫か?」
「見りゃ判るだろ……大丈夫じゃないよ……」
ヤタは地面に横倒しになったまま、自分を見下ろすアラクネに視線を送った。
意識を取り戻して最初に視界に入ったのが強面の仏頂面というのはなかなかに目覚めが悪い。しかし今は、そんなことを冗談めかして口に出来るような気分ではなかった。
「あのさ……俺の右足、どうなってる? なんか感覚ない気がするんだけど……ちょっと、自分で見るのが怖くてさ……」
「これか?」
アラクネはしゃがみ込むと、ヤタの右足を無遠慮に持ち上げた。
「いッッ痛い痛い痛い!! 感覚ある! めちゃくちゃあるから! 判ったからもう離してっ!」
解放されたヤタは、地面に張り付いて荒い呼吸を繰り返した。自分で確認するよりも気力と体力を無駄に使う羽目になったと後悔した。
「何があった?」
手を貸して、ヤタを壁際に座らせる。乱暴に扱うとまたうるさくなりそうなので慎重に身体を抱えたが、少しの振動でもかなりの負担が掛かるらしくヤタは呻き続けていた。
壁を背もたれにして腰を落とし、ようやく一息吐いた。
「クチナワにやられたんだよ……」
「クチナワに?」
「そう……って、そうだった! ――つ、ァ……!!」
ヤタは立ち上がろうとしたが怪我をしているということを忘れていたらしく、痛みに襲われてうずくまった。
「何をしている」
急に思い出したように慌て始めたヤタの姿を見て、アラクネは首を傾げる。ヤタは痛みを堪えてなんとか顔を上げた。
「こんな所で喋ってる場合じゃないんだよ! ケイさんが危ないかもしれないんだ!」
「クチナワの話じゃなかったのか?」
「あ~~、だから、クチナワがキミとケイさんのことを嗅ぎ回ってたんだよ! 情報よこせってボコられたんだ。何するつもりかは判らないけど、とにかくキミはケイさんの傍にいた方がいい!」
一気にそう説明したが、アラクネはまだ不思議そうな顔をしている。
「何故そうなる」
「だーかーらッ! キミはケイさんの護衛だろ!? ケイさんが危ないかもしれないんだって!」
「ああ……そうか」
話の内容が一周してようやくアラクネは己の職務を思い出したようだ。
痛みに加えて大声を出したことで体力を消耗したのか、ヤタは息を切らした。
「解ったら、早く行って……!」
「てめぇは?」
ヤタが『大丈夫』ではないことは先程確認している。自力で歩くことも叶わない状態で放置していいものかとアラクネは尋ねた。
「俺のことは後でいいし、最悪自分で助け呼ぶから。いいから早く!」
「解った」
本人が構わないと言うので、了解して命屋の店に向かって走った。ヤタはそれを確認すると、脱力して壁に張り付いた。
連絡用の端末を所持しているので簡単に救援を呼ぶことは出来る。すぐにでも病院に行って処置を受けたいところであったが、なるべく命屋の近くにいて状況を把握しておきたいという気持ちもあった。
さてどうするべきかと思考を巡らせていて、ふと今更な事柄に気が付いた。
「あれ……? もしかして俺、アラクネに心配されてた……?」
(遅いわ……)
ケイはテーブルを拭く手を止め、時計に目をやった。
普段ならばもうアラクネが店に来ている時間であるはずだが、今日はまだ姿を見せていない。明確な出勤時間や店の開店時間を定めている訳ではないので遅刻を咎めるつもりはないが、最初の客が店に来るまでには奥の部屋で待機していてもらうのが理想だ。
だが正直なところ、居ても居なくてもそう変わりはないというのがケイの見解だった。雇った手前、仕事中は傍に置いているが雇ってからはケイ自身が護衛を必要とするような危機的状況に陥ったことはない。むしろそういった点での一番の懸念材料はアラクネ自身の存在である。
(やっぱり、護衛にしたのは失敗だったかしら)
しかし現時点ではまだ強硬手段に乗り切ろうという気配は感じられない。それに危険だと判っているのなら、野放しにしておくより目の届く所に置いていた方がまだ安心出来る。
どうせ保険のつもりで雇ったのだ。居ても居なくても同じなのであれば、もしもの場合に備えておくことは自分にとって不利益にはならないだろう。命を握っている以上主導権はこちらの側にあるのだから、いざとなれば命の供給を断ち切ってしまえばいいのだ――とそこまで考えた所で、ケイの思考は中断された。
店の扉を叩く音がした。
(お客さん?)
アラクネは店に入ってくるのに今更ノックなどしない。常連の客が尋ねて来るにはまだ時間が早い。一見の客はそう珍しいものではないが、護衛が到着する前に客が来てしまったではないかと内心で文句を言いながら、ケイは布巾を片付けて扉に向かった。
「お待たせ致しました――――」
扉を開けて、ケイは身を硬くした。
「うわ、すげぇ美人」
「え、どれ? ……ホントだ、オレ好みかも」
「どうでもいいから、さっさと済ませるぞ」
見知らぬ若い男が三人、扉を開けた先の狭い通路に固まっていた。
「どちら、様……?」
不穏な空気を感じ、ケイはドアノブを握った手に力を込めた。開いた扉の隙間を狭めようとしたが、あっさりと押し開かれてしまう。
「ちょっと――ッあ……!」
距離を取って相手の無作法を注意する前に、手首を掴まれて動きを封じられた。男達の内一人が素早く部屋の奥まで進み、薄くドアを開けて隣の部屋の様子を探った。
「聞いていたボディガードとかいうのは居ないみたいだな」
「マジ? だったら超余裕じゃん」
「何なの、貴方達……!?」
ケイを拘束する男は三人の中では一番小柄で細身だが、女の腕ではそれを振りほどくことすら出来ない。
「楽に済むならそれに越したことはない。早く連れて行くぞ」
「へーい」
ケイの質問に答えたという訳でもないだろうが、どうやら連れ去ることが目的であるのは確実のようだった。
「余裕ならそう慌てることもないだろ? 少し遊んでこうぜ」
二人がケイを連行しようとするのを、もう一人の男が引き止めた。
「馬鹿、連れて来いとしか言われていないだろう」
「手ぇ出すなとも言われてねぇだろ。依頼してきたの女だし、先にヤッちまっても文句は言われねぇって」
「えー、ここでやんの?」
男達の会話を聞いてケイは青ざめる。
舐めるような視線が足元から這い上がってくる。不意に、顎を持ち上げられた。
「こんないい女目の前にして我慢しろって方が無理だろ」
「は……離して!」
首を振って手から逃れる。掴まれた腕を振り払おうともがくが、逆に引っ張られて床に引き倒された。
「しっかり押さえてろよ」
「はいはい。後で代わってよー?」
先程から腕を掴んでいた男がそのままケイの両腕を押さえつけ、仰向けになった身体にもう一人が覆い被さってきた。
「早く済ませろよ。ボディガードじゃないにしても、人が来るとまずい」
残った一人は呆れたようにそう言って入口の付近に移動し警戒に当たったが、そんな様子に気付ける程の余裕はなかった。
布に覆われていた膝上が外気に触れ、男の指が内腿の間に滑り込む。冷たく吸い付くような感触が、ケイの中で恐怖と不快感を増長させた。
「や……っ、嫌! 離して! いやァ!!」
接近した身体を蹴り退けようと脚をばたつかせるが、蹴散らすどころか相手を怯ませることすら出来ない。
「暴れんなって。あんたも早く終わらせたいだろ? 大人しくしてた方が早く済むぞ」
「何、お前早いの?」
「そういうことじゃねぇよ」
彼女自身の叫び声で、軽口はケイの耳には届かない。
だから、入口で見張りの男が呻き声を上げたことにも気付きはしなかった。
何か煌くものが視界に入ったと思った次の瞬間、ケイに覆い被さっていた男の顔の、顎から上が滑り落ちた。
「え……?」
何が起きたのが思考の処理が追いつかず、ケイを押さえていた男は間抜けな声を発して動きを止めた。
「ぅ……うわああああああッッ!!?」
頭の軽くなった男がゆっくりと横に倒れ、床に赤い液体を撒き散らしたところでようやく疑問符は悲鳴へと変わった。弾かれたように女の身体を離し、手足をじたばたとさせて後ずさる。
仲間の男が居た場所には、代わりにコートを着た長身の男が佇んでいた。コートの袖から赤く濡れた糸のような物を垂らして、高い位置から地べたのものを見下ろす。
「どういう状況だ?」
床の上のものに順番に視線を送り、最後に女の姿を見てそう尋ねた。しかし女がその質問に答える気配はなかった。
「ぁ……ああ、ぁ……」
「おい、何をしている!? 逃げるぞ!」
小柄な男が悲鳴にならない声を洩らし続けていると、入口の方から声が飛んできた。見張りをしていた男が、ドアを開いて生き残った仲間に呼び掛けていた。もう片方の手で腹を押さえている辺り、コートの男に不意打ちで一撃喰らったらしい。
「あ、ああああッッ!!」
返事の代わりにもう一度悲鳴を上げて死体の脇を通り抜けると、二人して扉の先の階段を一気に駆け抜けて行った。
アラクネは手を出さず視線だけで逃げる二人の姿を追った後、またケイの方に視線を戻した。
「一人殺したが構わなかったか?」
駄目だと言われても取り返しようがない質問を投げ掛けるが、やはりケイは答えない。
よくよくその姿を見てみると、安心したのか目の前の光景に驚愕したのか、目に涙を溜めたまま放心しているようだった。アラクネはしばらく、黙ってその姿を眺めていた。
「いい格好だな」
しばらくしてぼそりと呟いたその言葉に、ケイはようやく反応を示した。
はしたなく捲くれ上がっていたスカートの裾を素早く押さえ、上目遣いにアラクネを睨み付ける。
「もう少しまともな物言いは出来ないの?!」
「戻ったか。つまらんな」
「……っっ!!」
ケイは重ねて叱咤しようとしたが、以前アラクネに「感情的になると面白い」と言われたことを思い出し言葉を飲み込んだ。この男にこれ以上情けない姿を見せることは自身の命の危険にも繋がり兼ねない。急いで涙を拭い、乱れた髪を整えて立ち上がる。
「……どうするのよ、これ。お店開けられないじゃない」
店の中に出来た血溜まりと死体を指して文句を口にした。そう言うケイ自身も店の中にそれらを作った前科があるのだが、そのことは完全に棚に上げた。
平静を装ったつもりでいて微妙に声は震えていたが、気付いていないのか気にしていないのか、アラクネがそれを指摘するようなことはなかった。
「肉屋がその辺にまだ転がっているとは思うが、使い物にはならんだろうな……」
肉屋に死体処理を依頼すればいい、と言いたい事の要領は得たものの、その他の部分の意味が理解出来ずケイは首を傾げた。
「転……? 貴方の方こそ、どういう状況なのよ?」
惚けている間に掛けた言葉も、一応耳には入っていたらしい。
「ふぅん……そう、ご愁傷様。もういいわ、じゃあね」
自宅で結果の報告を受けたクチナワは、端末の通信を切るとベッドの上に放った。
結果は失敗。雇った三人の内の一人はアラクネに殺され、残った二人はほうほうの体で逃げ出したらしい。
「あっはははははは!」
企みが失敗に終わったというのに、クチナワは嬉しそうに笑ってベッドに身を投げ出した。
「さっすがアラクネ! チンピラじゃ相手になんないかぁ」
ひとしきり笑って、ベッドの上でごろりと転がった。
「けど、どうしようかなぁ……」
今回失敗したことで警戒は強まるだろう。そうなると同じ手はもう使えない。
ふと、テーブルの上に置きっぱなしにしていた封筒が目に入った。情報屋から受け取ったものだが、興味が持てずにそのままにしていたものだ。ベッドに寝転がったまま、手を伸ばして封筒を掴み取る。
「案外『おまけ』が役に立つかな……?」
クチナワは独りそう呟いて、流す程度にしか見ていなかった中身に改めて目を通した。




