31 鴉の骨
「姐さん」
情報屋の男は、店に入ってきた依頼人の姿を見付けてそう呼び掛けた。
カウンターから離れたテーブル席で待ち合わせの相手が手招きしているのに気付き、クチナワは真っ直ぐにそちらに向かった。
「なんか食います?」
「いらない。それより、ちゃんと調べてくれた?」
「そりゃもちろんで」
クチナワは男の対面に腰掛ける。男は差し出していたメニュー表を下げ、背中と椅子の背もたれの間に置いていた鞄の中を探った。
「随分と早かったわね」
「ええ、丁度タイミングが良かったもんで」
「タイミング?」
「いえいえ、こっちの話で……こちらですね」
鞄から取り出した封筒を二つ重ねてテーブルの上に置いた。
上に重ねられた封筒を手に取り、中身をざっと検める。書類には自分が調べて欲しいと依頼した、二人の人物の情報が事細かに書かれていた。
「こっちの封筒は?」
「そいつはおまけです。随分と早く仕事が終わっちまったもんで、ついでに何かの役に立てばと思いまして
「ふーん……」
クチナワはもう一つの封筒の中身も検めて、すぐに興味なさげに机の上に放った。先に開封した封筒の中身を手に取って、詳しく目を通す。
二人分の情報の内、片方の人物の犯罪歴を目でなぞる。どこでどう調べてきたものか定かではないが、それは世間や警察に知られているような犯罪歴ではない。知られていれば、その人物が今も陽の下を歩いているはずはない。
「ああ……やっぱり噂通り……そう、こうでなくちゃ」
犯罪歴の中に羅列した名前の一番上を見て、対面に人がいるのも忘れてうっとりと呟いた。
「どうやら金銭的な契約があったようですよ? 女の方が、男を護衛として雇ったようです」
男は報告書の内容を要約して伝えた。
「本当にそれだけ? お金目当てにそんなことするとは思えないんだけど」
「と言われましてもねぇ……調べた限りはそれが事実のようですし。叩けばまだ埃が出てくるかもしれませんけど」
「じゃあ叩いてみてよ」
「いいですけど、これ以上の突っ込んだ調査は追加料金取りますよ? ああ、姐さん相手だったら、身体での支払いでも――……っ!」
男の身体が椅子ごとがたりと揺れた。テーブルの下で、クチナワが男の股の間を狙って椅子を蹴り飛ばしていた。
「冗談、冗談ですよ……」
男は冷や汗を垂らしながら、両手を挙げて降参のポーズをして見せた。
「……ふん、もういいわ。自分で心当たりを当たるから」
クチナワはテーブルの上に乱暴に札束を置いて、封筒を掴み立ち上がった。注文を取りに来たウェイターが慌てて身を引かせる。
視線が靴音を鳴らして去っていくクチナワに向いている隙に、男は素早く札束を懐に隠した。
「ほんと、女らしくしてりゃいいのに、もったいないねぇ……」
情報屋の男は訳知り顔で呟いて、それからコーヒーを一杯注文した。
「……さて、一休みしたら次に行きますかね」
男は鞄の中から、先程の物と同じ封筒を一つ取り出した。
「――――じゃあとりあえずこれ、処理費用差し引いての、この間の分です」
事務的な口調でそう言って、ヤタは伝票と現金の入った封筒を差し出した。ケイはそれを受け取って、少し困惑したような視線をヤタに向けた。
「……さっきの話、本気なの?」
「ん、まぁね。少し前から考えてはいたんだけど、最近色々重なって仕事がやりづらくなっちゃったから。丁度頃合いなのかなって」
いつもの砕けた軽い口調に戻ってヤタはそう言った。
「……そう」
「えーと……もしかして寂しがってくれたりしてる?」
「私は別に構わないのだけど、アキが寂しがるわ」
「俺のことアキちゃんから遠ざけようとしてたのに? 病院も教えてくれなかったじゃない」
「それはそれよ」
ケイの物言いにヤタは苦笑を洩らす。個人的な感情はともかくとして、妹の話し相手としてはそれなりに重宝されていたらしい。
「ま、細かいことが決まったらまた改めて挨拶に来るよ。アラクネにも話さないといけないし」
「あの人だったら、もう少し待てば来るけれど?」
「いや、いいよ。報告が遅れたからって怒るようなヤツじゃないし、いざとなれば電話でも済む話だよ」
それじゃ、と言ってヤタは命屋の店を後にした。
車を停めた場所に向かい、少しだけ近道をする。大きな道を逸れて、細い路地に入った。
「ヤータくんっ」
「うぉっ!?」
路地に入った瞬間、ヤタは驚きの声を上げた。
「び、びっくりした……どうしたの、こんな所で……」
目の前に立塞がったのはクチナワであった。待ち伏せに驚いたのに加え、この人物が苦手なこともあってヤタは狼狽した。
「ねぇヤタくん。今、命屋とかいう店から出てきたよね?」
そう言って命屋の店がある雑居ビルを顎で指す。
「出てきたけど……」
「アラクネってあの店の女のボディガードしてるんでしょ? なんで?」
「! ……どこでそんなこと……」
クチナワはヤタに詰め寄る。思わず一歩後ずさると、退路を塞ぐように回り込まれた。
「ねぇ、なんで?」
「……さぁ? 雇われたからでしょ。詳しいことは知らないよ」
「嘘。それだけじゃないんでしょ?」
(妙に確信持ってるな……情報屋でも使ったか?)
クチナワの口元は笑っているが、ヤタを見据える眼は鋭い。ヤタはアラクネとケイの関係にまつわる一切を把握していたが、不穏な空気を感じ取り、知らぬ振りを通すことにした。
「知らないって、本当に。答えられることがないんだから、もういいかな? 急いでるんだよ」
「待ちなさいよ」
傍をすり抜けようとしたヤタの肩をクチナワが掴む。
「い……ッ!」
肩を掴まれただけにしては大袈裟な反応に、クチナワは怪訝な顔をした。指を少し押し付けると、服の下に妙な感触があった。
「包帯……? ヤタくん、怪我してるの?」
「……ぅ……っ」
ヤタが痛みに呻き声を洩らすと、クチナワの口元がサディスティックに歪んだ。
「ねぇヤタくん、本当に何も知らないの?」
「知ら、ない――ッ!」
クチナワは肩に指を押し込み、顔を近付けた。一旦身体を引き寄せられたかと思うと、次の瞬間には引き離されていた。背中が壁にぶつかり、そのまま尻餅をつく。クチナワは崩れ落ちたヤタの肩を踵で踏みつけた。
「ぐああッ!!」
縫い合わされていた傷口が開き、作業着に血が滲む。
身体を踏みにじりながら、クチナワはヤタを見下す。
「ほらヤタくん、痛いの嫌でしょ? 素直に答えてくれたらやめてあげるよぉ?」
ヤタは額に脂汗を浮かべながら、向けられた視線に対抗してみせた。
「本当に、何も知らない……知っていたとしても、キミには教えられない……!」
「ふぅん?」
「俺はもうこれ以上、アイツを裏切りたくはないんだよ……キミが何を考えてるかは知らないけど、そう簡単に、情報は売れない……」
「それって、自分の身体より大事なこと?」
踵を押し付けられ悲鳴が洩れそうになるが、それを飲み込んで強がりの笑みを浮かべる。
「女の子には解らないかもしれないけどね……」
――――殺されたっておかしくなかったのに、俺は命を拾ったんだ。
「……義理とかさ、本当はガラじゃないんけど……一応俺も男だから、ちょっとくらいは頑張ってみる――よッ!」
「!」
肩に乗せていた足を掴まれ、クチナワの身体が傾いだ。
「このッ!!」
バランスを崩して転倒しそうになるが踏み止まり、掴まれた足を振り切ってヤタの横面を蹴り飛ばした。
「ぐ……ッ!」
地面にぶつかり、脳が揺れる。
「あたしは女だから、解らないって……?」
ヤタの反撃は失敗に終わり、クチナワは横倒しになったヤタの身体を滅茶苦茶に踏みつけた。
「……ッ……が、ぁ……!」
「あたしには解らないんだ? そう、だったら――……あたしのことも、解るはずがない」
猛攻が止んで、ヤタは恐る恐る顔を上げた。
見上げたクチナワの瞳からは怒りの焔が消え、どこか悲しげな色が宿っていた。
「……クチナワ――……ッ!?」
その名前を口にした瞬間、揺れた脳が更に掻き乱された。
――――こんなもの、いらない。
頭の中に、過去が流れ込む。
知ろうとした訳ではない。しかしヤタは知ってしまった。今しがた口にした名前の人物がその身に宿した、黒い焔の正体を。
「クチナワ……その傷は……そうか、キミは……」
思わずそう呟いたヤタの視線が身体の一点に注がれていることに気付いたクチナワは、両の目を見開いた。
「あたしの、何を知っている?!」
不用意な言葉が再びクチナワに火を点けた。全てを見透かしたようなヤタの発言を受け、クチナワは怒りに顔を紅潮させた。
腰を屈め、起き上がろうとしたヤタの胸倉を掴み壁に叩きつける。
「が……ッ」
手を離すと腰を伸ばし、右足を軽く持ち上げた。
「……もういい。アンタが何を知っていようといまいと、もうどっちでもいい……」
クチナワの冷たい視線がヤタを射抜く。
ゆっくりと、ヤタの視点から靴の底が見えるほどの高さにまで持ち上げられる。
――――あ、やばい。
そう思ったのと同時に、足の付け根を狙って靴底が落下してきた。
「!」
クチナワの足は、狙いに到達する前にその動きを止めた。
ヤタは咄嗟に右足を突き出して、不恰好な姿勢で靴底を受け止めていた。
「ぐ、あ……ッ!」
最悪の事態は避けられたものの、脛に強い衝撃を受けてヤタは顔を顰める。
狙いを妨げられたクチナワは予想外の動きに一瞬怯んだが、引くことはなかった。捻りを加え、そのまま足に体重を乗せた。
「――――ッッ!!」
悲鳴は声にならなかった。
骨が折れたのか腱が切れたのか、ヤタは耳にしたことのない音が自分の身体から発せられるのを聴いた。痛みに身体が跳ね上がるが、踏みつけられた右足だけは置いてけぼりにされたように動かなかった。踏みつけられているからだけではない。動かそうと力を込めようとする程に、力が抜けていく感覚。
(本当に……やばい……)
冷たい汗が噴き出し、意識が薄れる。己の意思では脚どころか指一本も動かせそうにはなかった。二撃目が来れば、今度こそ逃げることは叶わない。
「あーあ、変に逃げるから余計痛いことになっちゃった」
心配を余所に、もう一度踵が振り下ろされることはなかった。ヤタの苦しむ姿を見て加虐心が満たされたのか、その眼から怒りの焔は消えていた。己の危機は去ったように思えたが、ヤタは安堵の息を吐くことは出来なかった。
「細かいことはもういいや。アラクネとあの女に何かあるのは判ったんだから、後は本人から聞き出せばいいんだもんね。ごめんねヤタくん、痛い目合わせちゃって。じゃあねー」
そう言って、クチナワはヤタを放って踵を返した。
(ダメだ、止めないと――……!)
そう思いながらも、声を掛けて引き止めることすら出来なかった。
ヤタの意識は、そこで一旦途切れた。




