3 蜘蛛の血
――――俺は、どうなった……?
アラクネは、硬い床の上で目を覚ました。
身体を起こそうと手を突くが、力が入らない。身体がだるい。
一旦諦めて突いた手を投げ出すと、びしゃり、と濡れた感触が手の平に伝わった。
二の腕から指先に向かって視線を這わせていくと、その先端が赤く濡れていた。更にその先へと目をやると、床に血塗れのナイフが落ちていた。
――――そうだ、俺は……
自分の胸をまさぐる――傷がない。痛みも感じられない。
シャツを摘み上げて見てみると、それは真っ赤に染め上げられていた。
ゆっくりと身を起こす。眩暈を感じた。
頭を軽く振って視線を落とすと、周囲の床には点々と血が撒き散らされていた。
――――あの女は……?
周囲を見渡す。
殺風景な部屋――命屋の店に間違いはない。
女の姿はない。女の着ていた服だけがソファーの背もたれに掛けられている。床と同じように点々と、血が染み付いている。
カチリ、とドアノブの回る音。
奥の扉が開かれ、件の女が姿を現した。
「あら……起きたのね。気分はどう?」
服を着替え、シャワーを浴びた後なのか濡れた髪を拭きながら尋ねる。
「てめぇ……っ」
アラクネは一瞬で距離を詰めると、女の首を掴み壁に叩きつけた。
「――うっ!」
衝撃が背中から肺へと伝わり、女は呻き声を洩らす。
「……っ」
女の首を掴んだまま、ぐらりとアラクネの身体が傾いだ。
「急に動かない方がいいわよ。血が足りていないのだから」
「……るせぇ……っ」
なんとか踏みとどまり、女を睨みつけた。
「てめぇ……何しやがった……?」
「判っているのでしょう? 貴方はちゃんと見ていたのだから」
「…………」
振り上げられたナイフ。
ずぶりと胸に浸入する、冷たい異物の感触。
死ぬ直前、その瞬間の記憶。
――――覚えている。
そのためにこの女は、わざわざ身体の自由を奪う薬を使った。
抵抗出来ない状態で殺し、その光景を本人に見せつけるために。
だが、そうする理由が解らない。
自分を殺しに来た男を、殺される前に殺すのが目的だったと言うのなら、致死性のある毒薬を使えばいい。そうすればそれで終わる。
自らの死を理解させることに――理解させた上で『生き返らせた』ことに何の意味があるというのか。
「何を考えてやがる……? こうなることは考えなかったのか?」
細い首を掴んだ手に、一瞬だけ力を込める。女はわずかに顎を上げ、か細い喘ぎ声を洩らした。
力を緩めると、女は軽く息を吐き――微笑んだ。
「貴方に私は殺せないわ」
「……んだと……?」
指が微かに動くが、それ以上力を込めずに話の続きを聞く。
「私を殺せば貴方も死ぬわ」
「どういうことだ?」
指の代わりに、眉間に力を込める。女は表情を変えない。
「蛍の寿命は七日間。貴方に与えたのは、蛍の命」
女は、謡うように言う。
「どういうことか……解る?」
「解らねぇよ。俺には学がねぇんだ……簡単に言え」
女は少し困ったような表情をして、少し考えてから口を開いた。
「貴方は七日後、確実に死ぬわ」
「…………」
「だけど私が命を与えれば、貴方はもう七日、生きることが出来る」
「…………」
「貴方はもう、私なしでは生きていけな――ぐ……ぅッ!」
アラクネは、女の首を壁に押し付けた。
「ざけんな。てめぇに生かされて堪るか」
「でも……もぅ……手遅れ、よ……」
指に力を入れる。女が呻く。
「俺がてめぇを殺せねぇか、試してみるか……?」
「……い……わ……試し、て……み……」
女は苦しみに表情を歪める。
しかしその目は己の生を確信しているかのように――アラクネを見ていた。
「……気に入らねぇ」
アラクネは吐き捨てるように呟くと、手を離した。
女は咳き込みながらその場に崩れ落ちた。首元を押さえ、酸素を求めて荒い息を吐く。首と襟元が、アラクネの血に汚れていた。
女は、アラクネを見上げる。
「死ぬのが……怖い?」
「……るせぇよ……」
この女が気に入らない。
この女の目が気に入らない。
自分はまだ死なないのだと確信している態度が気に入らない。
自分はまだ死ねないのだと言いながら、死に抗おうとしないその態度が気に入らない。
「てめぇが気に入らねぇ。てめぇは、もっと生かしてから――……死にたくねぇと泣かせてから殺す。それまでは、てめぇに生かされてやる」
「それじゃあ、私は貴方に泣かされないように頑張るわ。ひとまず、契約は成立かしら?」
女は立ち上がり、乱れた襟元を正す。
「俺はてめぇに命を貰う。てめぇは、俺に何を望む?」
アラクネは睨む。
女は、微笑う。
――――気に入らない。
「私を――守って欲しいの」