26 蜉蝣の伽
アキツの笑顔が姉に似ていないと感じたのは、それが作られたものではないからだということに気が付いた。
アキツは屈託を感じさせない笑顔で自分の姉を殺して欲しいと、アラクネにそう言った。
「何故だ?」
この少女がそのようなことを頼む理由が解らなかった。少なくとも、姉の方は妹のことを過剰とも言える程に愛している。先程二人が会話している姿を目にしたが、不仲であるという風には見受けられなかった。そう見える、というだけで妹の方は姉を恨んでいるのかもしれなかったが、どちらにせよ事情を聞いてみなければ解らない話であった。
「普段のお仕事も、理由を聞かないと請けないの?」
普段の仕事というのは殺し屋としての仕事のことを指す。基本的に、依頼人の事情に立ち入るようなことはしない。個人的な趣味で標的の事情に立ち入ることはよくあることであるが。
「あんたのは仕事の依頼じゃなくて『お願い』だろ」
「じゃあ、依頼したら理由は聞かない?」
「……金はあるのか?」
金の話を持ち掛けるなどおよそ十代半ばの少女にするようなことではなかったが、もちろん肯定的な返事を期待していた訳ではない。アキツは目を瞬いて、少し考えるような素振りを見せた。
「お金は持ってないから、依頼はムリだね。やっぱり『お願い』でいいや」
冗談を言うような口調ではあったが、お願いの内容が冗談ではないことは伺えた。
「あの女を嫌っているのか?」
「そんなことないよ、大好き」
益々意味が解らない。先に挙げられた候補と含めて、選択肢がアキツ自身を殺すか姉を殺すかの二択である理由も不明だ。
「私、身体が弱いの」
アキツは突然、見れば判るようなことを口にした。病院に入院している健康な人間、というのは探してみてもなかなか見付かりはしないだろう。
「いつ発作を起こすか判らないから病院を離れることができないんだけど、入院費ってすごくお金がかかるの。他に家族がいないから、お姉ちゃんは一人で私の入院費を稼いでくれているわ」
アラクネはアキツが理由についての説明を始めたのだということに気が付いた。
「だから、お姉ちゃんが悪いことしてお金を稼いでいるのは全部私のせい。お姉ちゃんにそんなことさせておいてのうのうと生きている私って、すごく悪い子だと思わない?」
「だから殺せと?」
それが、一人目の候補を殺そうとした理由ということだろうか。
「私がいなくなれば、お姉ちゃんはもうこんなこと続けなくてよくなるわ。それに私、そんなことをしてもらってまで生きていたいとは思ってないし」
アラクネの眉が微かに動いた。
「自分勝手なのよ、お姉ちゃんは。私の意思を無視して、ただ私を生かすことだけを考えてる」
「そんなに嫌なら、なぜてめぇで命を絶たん?」
アラクネは苛立たしげに尋ねる。
アキツは悲しげに、少しだけ目を伏せた。
「死ぬだけだったら簡単なことよ。私はいつ死んでもおかしくない身体だから、放っておけば勝手に死ぬ――だけど、お姉ちゃんがそれをさせない」
その言葉に閃くものがあった。
「ボディガードさんならお姉ちゃんの能力のこと知ってるでしょ? 私は、お姉ちゃんに生かされてるの」
――――私が、貴方を生かすのよ。
「……てめぇもか」
「私も? ……そっか、アラクネさんもそうなんだ? おそろいだね」
微笑ましさなど欠片もない『おそろい』であるが、アキツは悲しげだった顔を綻ばせた。
アラクネは命屋に命を与えられている。七日で尽きる、蛍の命を。その命を継続的に与えられることで、自らの生を終えた肉体は蘇生と死を繰り返す。
アキツは、自分は持病により随分前に命を落とした身なのだと言った。
病院は自分を死なせないようにするための場所であると同時に、自分の死を監視するための場所なのだと言う。アキツの場合、七日の寿命を待たずとも病状の悪化で命を落とすことは間々あることらしい。命を落とせば、すぐさま姉に連絡が行く。命を落とし、与えられていた命によって生き返り、その命が尽きるまでに次の命が与えられる。
毎日病院に出掛けていたのは妹の様子を見て命を与えるためか、と納得したのと同時に、命屋が護衛を雇った理由をアラクネは理解した。命屋の能力がなければ妹を生かし続けることは出来ない。自身の命を守ることが妹の命を守ることに繋がる。あの女の行動原理は全て妹にあるのだと考えると、今まで頭を悩ませていた時間が無駄であったと思える程に単純な話であったことに気付く。
「アラクネさんがお姉ちゃんのボディガードになったのは、命を貰ったお礼?」
ヤタもさすがにその経緯までは話していなかったようだ。アキツは何やら美談を想像しているらしい。
「そんなキレイな話じゃねぇ。命を握られて脅されてるだけだ」
口止めされた憶えもないので事実を言った。
アキツは驚いたが、実の姉が脅迫をしていると聞かされた割にはその反応は薄いものだった。よほど姉の悪事を聞き慣れているのか、あるいは――アラクネが言えた口ではないが――感覚がずれているのかもしれないとアラクネは思った。
アキツは永らく病院のベッドの上で過ごしている。情報はその耳に入ってきても、それが真実であるかどうか確かめる術はない。病室の外の世界の話は彼女にとって、遠い国の御伽噺のようなものなのだろう。
「じゃあ、アラクネさんは仕方なくお姉ちゃんを守ってるんだ?」
ファンタジーだからこそ、こんなにも純粋な笑顔を浮かべていられる。自分がした『お願い』の意味を正しく理解しているのか疑問だった。
「気に食わねぇのは確かだな。守れと言う割に同行に制限を掛けるし、隠し事が多い。俺を信じられねぇならさっさと切って、信じられる人間を探して護衛に置くべきだろ。主導権はあの女にあるってのに、それをしないのが気に入らん」
切られてしまえばアラクネは死を迎えるのだが、それ以上に『生かされている』という現状の方が屈辱だった。今となっては不可解な言動の数々はアラクネからアキツを守るためのものであったと解るのだが、解っても気に食わないものは気に食わない。
「アラクネさんのことは信じられたから傍に置いたんじゃないかな? 中身……じゃなくて、強さを信じたとか。殺し屋さんなんだし、強いんでしょ?」
ケイも似たようなことを言っていたが、殺し屋だから強いというのは偏見だ。殺人に必要なのは腕力よりもタイミングである。正面から掴み掛かるよりも背後から奇襲を仕掛けた方が効率はいいというものだ。しかしアラクネの場合、どちらかというと腕力にものを言わせている節があるので姉妹の読みは当たっていたと言えるのだが。
「それか、思い付きで護衛を頼んで、そこから引くに引けなくなっちゃったかだね。お姉ちゃん、意地っ張りなところがあるから」
こちらの理由の方がより納得出来る気がした。自分勝手で強情だという評価は間違ってはいないだろうとアラクネは思う。
「……あ、アラクネさんが私と一緒ってことは、お姉ちゃんを殺したらアラクネさんも死んじゃうってことか。引き受けてもらうの難しそうだね」
アキツは今頃になってその事実に気付いたらしく、しまった、という顔をした。
「なぜあの女を殺したがる? そこまでして死にたいか?」
話を聞く限り、アキツはケイを悪女であると知りながらも家族として愛している。ケイが自分のために手を汚していることに負い目を感じこそすれ、恨む理由は見当たらない。姉の負担を減らすために命を絶ちたいというのならまだ解らないでもないが、自分が死ぬために愛する姉を殺すというのはどこかちぐはぐに感じる。
「ベッドの上で何もできずにただ生き続けなきゃいけないのって、結構辛いんだよ? それこそ、死んだ方がマシってくらいに」
やはりこの少女は死を軽く見ている節がある。アラクネ同様、死に慣れているというのもあるのだろうが、その態度がアラクネの眉間に皴を増やさせた。
「でもだからって、お姉ちゃんが死ぬ姿を見たいってわけでもないよ。もしお姉ちゃんを殺すんだったら、私の知らないところで殺してね」
「あ?」
「お姉ちゃんが突然病院に来なくなっても、私にはその理由を知ることも探しに行くこともできない。そうしたら私は大好きなお姉ちゃんが死んだことも知らずに『お姉ちゃんはどうしたんだろう?』って心配しながら、そのまま死ぬことができるわ」
一応、自分が世界をファンタジーとして見ている自覚はあったようだ。
アキツは、ベッドの傍に置かれた置時計に目をやった。
「そろそろ十分経つね」
二人きりで話が出来るのは十分間だけだという約束だった。アラクネは時計の針を確認するのを忘れていたが、もうそのくらいの時間が経過していたらしい。
「ねぇ、一応返事を聞かせて。お姉ちゃんのこと、殺してくれる?」
姉が病室に戻ってくる前にと、アキツは二つ目のお願いの返事を尋ねた。
アラクネはドアの向こうから足音が近付いてくる気配を感じながら、短く答えた。
「……そのうちな」
「私の妹は、貴方のお眼鏡にかなったかしら?」
病室を出て帰路に着くため二人連れ立って廊下を歩いていると、ケイが挑戦的な口調でそう尋ねてきた。顔は不機嫌そうだ。
「微妙だな」
負けず劣らずの不機嫌顔でアラクネは返した。
二人で話すことでアキツに人質としての利用価値があるかを判断するつもりであったが、得られた判断は言葉通り微妙なものだった。思っていた通り、価値は充分にあると判断出来たものの、それを利用しようという気はどうにも起きなかった。
「死にたがりばかりだ」
ケイの耳には届かないように口の中で呟いた。
ケイも、アラクネの耳には届かないようにして肺に溜めていた空気を吐き出した。
「収穫はなかったようね」
「収穫……」
首を回し、半歩後ろで小馬鹿にしたような笑みを浮かべた女の顔を見下ろす。
「あんたが感情的になると、なかなか面白い」
ケイが足を止めた。首が回るところまでは視線を送り続けたが、アラクネは足を止めることなく視線を正面に戻してそのまま先行した。
背中に鋭い視線を感じる。
ケイがスカートを穿いていなければ、背中を目掛けて蹴りの一つでも見舞われていたかもしれない。
翌日、アキツの入院している病院の付近で他殺体が発見された。
路地の隅で息絶えた男の死体。
男の死体にはいくつもの痣があり、その局部は潰されていた。
時は前後して、死体発見の十五時間程前。
クチナワは一人、空腹と退屈を訴えて外に出た。
食事をするだけであれば住処の側にも店はあったが、酒も呑みたかった。盛り場を目指して、少しの距離を歩く。
陽が沈んでから営業を始める店が近くにあるため、夜でもそれなりに明るく、人通りは多い。
途中、クチナワにとってはあまり縁のない病院の前を横切る。と、そこで思いがけない人物の姿を目にした。
「アラクネ?」
人波と時折通る車に隔てられた道の向こう側に見知った顔を見付け、クチナワは顔を綻ばせた。この付近で見掛けるのは珍しいことだと思ったが、これ幸いと呑みに誘うべく、声を掛けることにした。
道の反対側に渡るタイミングを計っていると、不意にアラクネが後ろを振り返った。クチナワの存在には気付いていない様子だ。すぐにまた、前を向いて歩き始める。その後ろから、金髪の女が早足でアラクネの背中に追いついてきた。追いつくと速度を落とし、一定の距離を保ったまま同じ方向へと歩き去って行った。
「何、あの女……」
クチナワは道を横断するタイミングを外して、そのままアラクネの姿を見送った。
「姉ちゃん、一人かい?」
しばらく呆然と立ち尽くしていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると同時に睨み付けてやろうかと思ったが、やめておいた。
クチナワに声を掛けたのは、酒臭い息を吐く見知らぬ中年の男だった。
男は振り返ったクチナワの艶かしい肢体を正面から目の当たりにして、息を飲んだようだった。次いで――本人は人の良さそうな笑みを浮かべたつもりだったのだろうが――下卑た、としか表現出来ないような笑みを浮かべた。
「独りで退屈そうじゃないか。暇なら、俺と遊ばんか? 奢ってやるぞ?」
酔っ払いの中年の相手をするような趣味はない。趣味ではなかったが、クチナワは笑みをその口に浮かべた。
「いいわよ、遊んであげる――……人のいない所に行きましょ、オジサン」




