24 鴉の銘
「ねぇ、なんかちょうだいよ」
そう声を掛けられて、一瞬足を止めてしまったのが失敗だった。聴こえていない振りをして無視するべきだった。
「ねぇ、ねぇってば。ねぇ。ねー!」
慌てて目を逸らし、早足で通り過ぎようとしたが手遅れだった。纏わりつかれてしまった。
この物乞いはおそらくきちんと相手を見てしつこく食い下がっているのだろうな、と考えて自分が情けなくなった。初対面のこんな小さな子供にまで舐められているということか。とにかくここは無視だ、無視。
「ねぇ、なんでもいいからちょうだいってば、ケチ!」
「ケチとはなんだ、失礼な子供だな! こちとら人に恵んでやるほど余裕がないんだよ!」
思わず返事をしてしまった。いよいよ逃げられない、馬鹿か俺は。
しかし反応してしまったものは仕方がない。適当に同情した振りでもして、隙を見て逃げようと考えた。
「あー……キミ、名前は?」
身寄りのない子供のお涙ちょうだいな事情に興味はない。というか、そんな過去は名前さえ判れば自然と知れる。あれこれと聴かされるのも面倒なので、手っ取り早く名前を尋ねた。
自分の能力を嫌っているくせに、自然と躊躇いなくその能力に頼る癖が付いてしまっている。そういう自分が嫌いだったが、自然と手の届く場所にあるのが悪いのだ、と使われる道具の所為にしてみた。
しかし物乞いの子供から返ってきた答えは予想外のものだった。
「なまえなんてないよ」
相手は身寄りのない孤児だ、あり得ない話ではないだろう。しかし、初めて遭遇するケースだった。
困った。
俺のコミュニケーション方法を封じられてしまった。いや、コミュニケーションを取ること自体が目的であった訳ではないのだが、なんだか負けた気分だ。何に対しての負けかはよく解らないが。
「……あ、そうか」
この場を脱するいい方法を思いついた。自分がこの子供にあげることが出来るものを持っていることに気が付いた。
「それじゃあキミに名前をあげるよ」
「いらない」
即答だった。なんでもいいと言っていた癖になんて態度だ。
「そんなものあってもなんのやくにもたたないよ。なまえじゃおなかもふくれない」
「あーのーねぇ、役に立つとか立たないとかそういう問題じゃなくて、名前は大事なものなんだよ! というより、人は価値のあると思ったものに名前を付け、名前を付けられたものはそこで初めて存在する意味を持つんだ」
「?」
一体何を必死になっているのだろうか。自分の能力を馬鹿にされたような気がして、それが悔しかったのかもしれない。ここで引き下がるのはなんとなく癪だった。
「名前は人に最初に与えられる祝福の形だ。名前を与えられたものはその名前に縛られることになってしまうけど、それは必要なことなんだ。名前は鎖で、鎖は命綱だ。生きていく中で、誰かに鎖を引いてもらうことは必要なことなんだよ」
「……よくわかんないよ」
子供には難しい話であったか。話している自分自身も何を言っているのか解らなくなってきた。当たり前にあるものを改めて言葉で説明するというのはなかなか難しい。やはり、説明するより実際に名を与えてしまう方が解りやすくていい――そう考えて、新たな問題に直面した。
この子供に合う名前を持ち合わせていない。
名を与えるに当たって、適性というものが重要になる。解りやすい例を挙げるとすれば、年齢や性別だ。対象の性質に合わない名を与えることは出来ないこともないが、齟齬が生じやすくなってしまう。自分の性質と与えられた情報に食い違いが起き、下手をすると精神崩壊に繋がりかねない。
行きずりの子供がどうなろうと知ったことではないが、自分の所為でどうにかなってしまうというのだけは勘弁だった。精神崩壊を起こす可能性を知っていながらそれを押し付けるのは、殺人と変わりがないように思えた。好んで人を殺すような趣味は、俺にはない。
「ねぇ、なまえ、くれるんじゃなかったの?」
頭を悩ませていると、物乞いの子供が急かしてきた。
「あー、ちょっと待って。今考えてるから…」
やると言った手前、今更あげられないと言う訳にもいかなかった。こうなったら自分でこの子に合う名前を考えるしかなかった。
「……ええと、うん……そうだな―――」
キミの名前は―――
ああ、そうか。
マナは、あの子供に自分の名前を分け与えたんだった。
あの子は、マナの半身だったんだ。
自分の行いは、いずれ自分に還ってくる。
――――だからこれは、因果応報ってヤツだろうか。
「……っう! ぐ、ぇ……っ」
マナが息を引き取ったのを見届けた直後、ヤタは嘔吐した。
「く、そ……! 一緒に消えりゃ、いいもの、を……っ!」
何事か毒吐きながら、床に手を突き胃の中の物を吐き散らす。目からは生理的なものか、涙を零していた。
「ああ……そうだよな……還ってきた、だけか……ちくしょう……」
やがて胃液すらも吐き切り、何度か咳き込んだ後袖で口元を拭い、ようやく平静を取り戻したようだった。
「終わったか?」
その様子を見続けていたアラクネが声を掛けた。
「……せめて『大丈夫か』くらい言えないの?」
「見れば判る」
――――まぁ、確かに大丈夫じゃないけど。
身体中切り傷だらけで、結構な量の血を流した。ヤタの人生の中でここまでの怪我をしたのは初めてのことだった。
肉体的にも、精神的にも疲労していた。
自分が吐き出したものが視界に入り、瞬間的に疲労よりも不快感が勝って這うようにその場を離れた。一番近くの柱を背もたれにして、ぐったりと座り込む。
「ああ……やっぱり、向いてないや」
震える手の平を見つめ、そのまま手の平に顔を埋めた。
しばらく顔を伏せていたが指の間から靴の先が見え、ヤタは億劫そうに顔を上げた。
「何?」
アラクネがすぐ傍まで歩み寄り、その姿を見下ろしていた。珍しく、何か考えているような顔だった。
「…………結局のところ、てめぇは何なんだ?」
たっぷりと間を空けて、そう尋ねた。
目の前で人が一人死んでいるというのに――良いことなのか悪いことなのか――いつもと変わらないペースのアラクネの態度に、ヤタは苦笑を洩らした。
「俺はヤタだよ。さっきも言った通りだ。俺がそう名乗り続ける限り、俺はヤタ……俺は、俺なんだよ」
それは、自分自身に言い聞かせているようにも聴こえた。
「そうか」
「そーだよ。だから、マナなんて名前の男とは何の関係もありません。あったとしても、アレはもう死体だ。名前なんて、もう関係ない」
二人して、少し先の床の上に転がる男の亡骸を見た。
「けど……他人の死でも、感傷的になることはあるよな……」
小さくそう言って、ヤタは立てた膝に頬杖を突いた。果たしてそれは、誰のことを指しての言葉であろうか。
アラクネはヤタの言葉には同意せず、亡骸を見つめたままだった。
「マナは……死ぬつもりでここに来たのか?」
「えー?」
ヤタは既に死んでしまった男の考えていたことなど解るはずがないと言おうとして、アラクネの表情を見て考えを改めた。
「……かもね。半分は本当に八つ当たりだったんだろうけど、アイツは一人じゃ生きることも死ぬこともできないヤツだったから、俺に死に場所を求めて来たのかもしれない。まったく、迷惑な話だよ」
考えてみれば、本気で殺す気で来たのであれば刃に毒でも仕込んでいたはずだ。あの標には、そうして使うための溝が刻まれている。ヤタは自身の傷を検めるが、毒を受けた痕跡は感じられなかった。
死体を見つめるアラクネの顔は、不機嫌そうな表情をしていた。マナがアラクネに見届けろと言っていたのは、生き様ではなく死に様だったのだろう。
だから、アラクネは不機嫌な表情をしている。
「俺は……マオに何を伝えればいい?」
「そーゆーこと俺に訊く? キミが頼まれたんなら、自分で考えなよ」
自分の身に何かあればそのことを死んだマオに伝えて欲しい――それが、アラクネに託されたマナの最期の願いだった。ヤタがその約束のことを知るはずもないが、おおよその事情は察したらしい。
約束の相手を殺した張本人に尋ねることではないだろう、とヤタは突き放すような答えを返した。
「マオは、俺が死んでもその名前を憶えておくと言っていた」
「ん?」
急に話の内容が跳んだような気がして、ヤタは疑問符を発した。
アラクネはまだ、亡骸を見つめている。
「俺は……死んだ奴の名前を、憶えておくべきか?」
亡骸をというよりはどこか遠くを見つめながら発せられた言葉に、ヤタは目を丸くさせた。
アラクネらしくない言葉だと感じた。しかし不思議と、いつだったかのように不快な気持ちになることはなかった。今度は突き放すことなく、アラクネの問いに自分なりの答えを返した。
「それは、マオの生き方だよ。あの子は自分がしたいようにしていただけで、キミがムリにその生き方を真似る必要はないと思う。……けど、憶えていたいのなら憶えていればいいさ。必要がないなら自然に忘れる、人間はそういう風にできているものだよ。だから別に、キミは名前に囚われる必要はないはずだ、アラクネ」
それはどこか、小さな子供に言い聞かせているような物言いであった。
「……そうか」
年下であるはずのヤタが自分よりも年上であるかのように感じ、それが錯覚であると確かめるかのようにアラクネはヤタの姿を見た。
「さてと……いつまでもここで死体を眺めてるってのもなんだから、そろそろ帰ろうか」
ヤタは立ち上がろうとしたが、身体の痛みに顔を顰めて再び腰を落とした。
「あー……アラクネ、肩を貸してくれると助かるんだけど。あとついでに、病院に連れてってもらえるとすごく嬉しい」
情けない物言いにやはり錯覚であったと決め付け、アラクネは黙って手を差し出した。
「いっ、てて……」
アラクネに身体を支えられて、ヤタはなんとか立ち上がった。
「マナはどうする気だ?」
手を貸しながらそう尋ねた。死体処理はヤタにとって手馴れたものだが、今の状態では難しいだろう。かと言って、建設現場に死体を放置しておく訳にもいくまい。
「あー、仲間に連絡とって片付けてもらうよ」
肉屋に仲間がいるというのはアラクネにとって初耳であったが、考えてみればヤタ一人きりで死体処理を一から十までこなしているとも思えないので当然かと納得した。
亡骸を放って歩き始めるが、ヤタの足元はおぼつかない。軽く振舞ってはいるが、やはり消耗しているようだった。
「マオも、名前屋に置いたままだが……」
「あー、うん……そっちもウチで処理するよ」
「…………」
「心配しなくても、死体を売り払ったりはしないよ」
そういった心配からの沈黙であった訳ではない。ただ、死体を片付けられると約束を果たせなくなると考えてのことだった。
しかし未だ、死体に語り掛ける意味は見出せずにいる。もしかすると、やはりそこに意味などはないのかもしれない。死体はどう考えても、ただの肉の塊だ。
ならば死んだ『マオ』は、どこにいるのだろうか。
――――マナが喜んでくれるなら、ボクにとってのマナが名前だけになっちゃっても、それでいい。
(そういう意味か)
肉体は傍になくとも、記憶している限り名前は永遠に自分の中にある。死者に語り掛けるということは、自らの記憶に語り掛けるということなのかもしれない。
(俺は、マオの名をいつまで憶えていられるだろうか……)
マオに何を語るべきか、未だ考え付きはしない。しかし伝える術については、理解することが出来た気がした。
「二人の死体は、ちゃんと埋葬するよ。隣に埋めてやるくらいのサービスはさせてもらうって」
「罪滅ぼしのつもりか?」
「俺は俺自身を守っただけだ、罪なんて感じてないよ。……けど、俺に『ヤタ』の名前をくれたアイツには一応感謝してるんだ。今の俺の人生があるのは、アイツの名前があったからだからな……アイツが死んだことで、俺はようやく本当の意味で『俺』になれたのかもしれない。前に、キミは人の生に依存して生きてるって言ったけどさ、そう言う俺は人の死に依存しないと生きていけないみたいだ」
人の死を食い物にしている死体処理業者の男は、そう言って自虐的に笑った。
ヤタの言葉は、アラクネにある種確信めいたものを植え付けた。以前から疑問に思っていた事柄の、答えになるだろう考えを。
「ヤタ」
「ん、何?」
「命屋に俺を売ったのはてめぇか?」
ヤタの足が止まった。密着していた身体が心なしか離れ、アラクネに預けていた体重が半分程になった。
「きゅ、急に何言い出してんの……?」
「別に急ってわけじゃねぇ。前から思ってはいた」
アラクネは命屋店主の殺害依頼を受けたが返り討ちに遭い、その後命を盾に取られ彼女の護衛をすることになった。店主の口振りから命屋に情報を洩らした密告者がいることは確実であったが、その正体については確信を持てないままでいた。
「だ、だからってなんでこのタイミングで……」
「てめぇなら、てめぇの都合でそのくらいのことはやると今思った」
ヤタの声には明らかな動揺が含まれている。身体を支えるために首の後ろに回されていた腕が引かれる感覚がしたが、アラクネはその腕を掴んだまま離そうとはしなかった。
逃げられないと悟ったのか、ヤタは諦めたようにため息を吐いた。
「ああ――そうだよ。俺が、ケイさんにキミの情報を売った」
ヤタは、アラクネの予想を事実として認めた。
「なぜだ?」
「簡単なことだよ。ケイさんはウチのお得意様だからね、失うのは惜しいと思ったんだよ。商売相手としてアラクネとケイさんを比べて、俺はケイさんの方を選んだんだ。……ただ、彼女がキミに命を与えてボディガードにするなんてのは予想外だったけどね」
その事実をアラクネの口から聞かされた際、ヤタは本当に驚いたのだと言う。
「いつも言ってるだろ? 俺は、キミが怖いんだよ。キミがケイさんに命を与えられたと知って、いつ俺のことがバレるかってヒヤヒヤしてた。……けど、もうバレてたんだね。どうする? 俺を殺す?」
若干開き直ったような物言いだった。
「殺して欲しいのか?」
「まさか。俺は死にたがりなんかじゃない。キミが俺を殺すつもりだって言うのなら、俺は全力で抵抗してやる」
言いながら、ヤタは空いた方の腕を腰のホルダーに伸ばしていた。その気配を感じながらアラクネは、
「別にいい」
短くそう応えた。
「……へ? あ? いいの?」
アラクネのあっさりとした反応に、ヤタは思わず間抜けな声を出してしまった。油断を誘うための演技――と取れなくもないが、アラクネがそういった駆け引きを不得手としていることを知っているヤタは、その可能性に考えが至ることすらなかった。
「情報が漏れることはたまにある。それが原因で殺られたなら、それは俺の油断だ。てめぇを殺したところでこの身体が元に戻るわけじゃねぇし……それに、てめぇがいなくなると死体を片付ける奴がいなくなる」
「ああ、そういうこと……」
余りにもあっさり過ぎていて、もう少し必死になってもいいのではないかとヤタは思ったが、自分の命が懸かっているので余計なことは口に出さずに置いた。
アラクネもヤタを商売相手として見て、生かしておく方を選んだということなのだろう。確かにアラクネのように現場を派手に散らかす相手の仕事を、文句も言わず喜んで請けるような業者がそうそういるとは思えない。ならばヤタは文句を言わず喜んでいるのかと問われると、真逆の答えが返ってくるのだが。
「てめぇが全力で抵抗するってんなら、それはそれで面白そうではあるがな」
「あー……しまった、そのこと忘れてたよ。命を賭けてキミを悦ばせようなんて気は俺にはないよ、勘弁して」
アラクネは他人の死ぬ間際の生き足掻く姿を見ることを好む。物騒な軽口を叩き合って、ヤタはアラクネの肩に体重を預けた。アラクネはヤタの手がホルダーから離れたのを確認してから、肩の荷物を引きずるようにして歩き始めた。
ヤタの身体がアラクネの胸にぶつかり、コートの下でかさりと音が鳴った。命屋から預かった封筒をそこに入れたままであったことを思い出した。
(渡すことができなかったな……)
その封筒を渡す相手は、もうこの世には存在しない。
そしてもう一つ、その相手に関わる事柄を思い出した。
(マナは、俺に何の話があったのだろうか――――?)
アラクネの心の声に応える者はいなかった。
マナは真魚と書く。
真魚はマオと読む。
「名前を分け与える」の意味。




