2 蛍の唇
死んだはずの男が生き返った、という話を聞いた。
殺し屋を差し向けられ確かにその息を引き取ったはずの男が、数日後には平然と街を歩いていたと言うのだ。
その有り得ない現象が起こる裏側では、とある店の存在がまことしやかに囁かれている。
その店は命を売る店なのだという。
どのような仕掛けかは知らぬが、そこで命を与えられた者は死んでもまた生き返ることが出来るのだという。
生き返るたびに依頼が来るというのなら殺しを生業にしている者にとっては美味しい話であるが、依頼する側にとっては堪ったものではない。
そうして堪り兼ねた依頼人は、殺し屋にこの現象の元を断つ依頼をした。
アラクネは建ち並ぶ雑居ビルを見上げ、それから手元の小さな紙切れに視線を落とした。
紙に書かれた情報はこの辺りの住所を示しているが、特徴のないコンクリートの建物はどれも見分けが付かない。おまけに、空き物件が多いという様子ではないが看板を掲げている店舗が少ない。外から眺めただけでは探している店を見付け出すことは難しそうだ。
手近なビルから訪ねて回ろうと、紙片をポケットに捻じ込む。
誰かに店の場所を尋ねようにも、周囲に人の気配はなかった。それ故に、何者かが駆け足で近付いて来ることにすぐ気が付けた。
「お願い、助けてください!」
息を切らし、腕にしがみ付いてきた女の顔を見て、アラクネは一瞬目を見張った。
金髪碧眼の、妙齢の美人。しかし驚いたのは彼女の容姿に見惚れたのが理由ではない。
「てめぇ、このクソ女! 逃がしゃしねぇぞ!」
男が喚きながら走って来て、女が背に隠れた。事情は判らないが、女がこの男から逃げていることと、男が逆上しているということはその手に握られたナイフを見れば明白であった。
「よくも騙しやがって! 絶対に、絶対に許さねぇ!」
どうやら非は女の方にあるようだが、男が叫ぶ内容にアラクネは興味がなかった。怯える女を身体から離し、一歩前に出る。
「邪魔すんじゃねぇ、でかぶつが!」
立ちはだかった障害に、男はナイフを向けて突進した。直線的な動き。
アラクネは僅かに右半身を逸らして突き出された刃をかわすと、流れるような動きで男の顔面に拳を叩き込んだ。さほど腰を入れた一撃ではなかったが、自ら向かって行った勢いも手伝って男は後方へ派手に吹き飛んだ。そのまま気を失う。
一瞬の出来事に女は呆気に取られたが、すぐ我に返り恩人に駆け寄った。
「あ、ありがとうございます……あの、お怪我は?」
尋ねられ、拳を解いて手を軽く振った。歯にぶつかった指が多少痛んだが、怪我と呼ぶ程のものではない。
「なんともない」
「良かった……すみません、見ず知らずの私のために」
アラクネからすれば全く見ず知らずの顔という訳でもなかったが、余計なことは言わず短く「いや」と答えるに留めた。
「この近くに私のお店があるんです、一緒に来ていただけませんか? お礼をさせていただきたいですし、それに、その……」
口篭って、男が倒れている方角をちらりと見た。要は、まだ安心し切れていないので送って欲しいということなのだろう。
「構わない」
承諾すると、女はほっと息を吐いて礼を言った。
「そいつは放って置いていいのか?」
「少しすれば、ほとぼりも冷めますから」
怯えている割に確信があるような物言いだ。妙に思ったが、アラクネとしても警察に通報される事態は職業柄好ましくない。本人がいいと言うなら放置していても問題はないのだろう。
状況は、アラクネにとって都合の良い方向へと転がっていた。
雑居ビルの地下へと続く階段を下り、その先にある扉の前まで来ると、女はアラクネを待たせて先に中に入った。
扉には看板も表札も掲げられていない。
「お待たせしました、どうぞ」
女に招かれ、中に入る。
「そちらに掛けてお待ちください。今、お茶の準備をしていますので」
ソファーに座るよう勧めて、女は入口の扉とは別のもう一つの扉の向こうに姿を消した。
どうやらここは応接室らしい。中央にテーブルとソファー、隅にはインテリアの類なのか空っぽの鳥篭が吊るしてあるだけだ。店だという割に、商品らしきものはどこにも見当たらない。奥の部屋も、隙間から僅かに見えた限りでは商いに使用しているという様子ではなかった。
見る物もないので言われた通り座って待つ。しばらくの後、女が二人分のティーカップを載せた盆を手に戻ってきた。一つはアラクネの前に置き、もう一つを対面するソファーの前に置いて自分がそこに腰掛けた。
「どうぞ、冷めないうちに」
促され、茶を一口啜る。熱い。茶の良し悪しが判る程舌は肥えてはいないのでそれ以上の感想は持たなかった。
「ここは何の店なんだ?」
「気になりますか?」
カップを置いて尋ねると、女店主はその質問を待っていたと言うようににこりと微笑んだ。
「ここは命屋、命を売るお店です」
――――やはりな。
期待通りの答えに口元が歪みそうになるのをかろうじて抑えた。
「命を?」
「ええ。誰もがただ一つしか持たない命をもう一つ手に入れることが出来るとすれば……それは素敵なことだと思いませんか?」
「死んでも生き返ることが出来る、ということか?」
「つまりはそういうことですわね。とても信じられないという気持ちはよく解りますけれど」
興味を持つ素振りを見せると、店主は滑らかな口調でその疑問に答えた。おそらく、彼女にとっては幾度となく繰り返された質疑応答なのだろう。
アラクネは質問を重ねる。
「その話が本当だとして、どうやって生き返らせる? いつ、どこで死ぬかも判らない人間を、死ぬまで見張っているわけにもいかないだろう?」
発信機を取り付けて、客の行方と生体反応の管理でもするのだろうか。そのような技術があるのかも定かではないが、その方法だと効率と確実性に欠けるように思える。
信頼性も薄い。前払いで命を購入したとして、その商品が本物であるかどうかが判るのは一度死んでからの話になる。もし騙されていたのだとしても、客は文句を言うことすら叶わない。
死んだら店まで来てください、というのは更に無理な話だ。
「私には、死者を蘇生することは出来ませんわ。私に出来るのは、生きている人間にもう一つ、別の命を与えること」
店主はそこで一旦言葉を区切ると、自分の顔に掛かった金髪を耳に掛けた。
どういうことかとアラクネが先を促すと、続きを話し始める。
「お客様が生きている間に、もう一つの命を与える儀式を施します。儀式を施された身体は、一度目の生を終えた後、次の生へと移行します」
話がオカルトめいてきたな、とアラクネはぼんやり思う。
「自動で電池交換が行われるようなものですわね。病気は治せませんが、亡くなる際に受けた傷はある程度なら回復します。身体から離れてしまった部位は、さすがに修復出来ないみたいですけれど」
「ふぅん……」
ここまで相手に合わせて話をしていたアラクネであるが、話の内容自体にはさほど興味がなかった。
アラクネは、女の所作を見ていた。
笑みを絶やさぬ口元。髪をかき上げる指の動き。眼の動き。口調、声。
死を目の前にした時、それらはどのような変化を見せるのか――アラクネは、そんなことを考えていた。
「そう、それで私考えたのですけれど……命を救って頂いた恩は、命でお返しすべきではないかと思いますの」
それは先程の礼に命を与えたいという提案だった。
「命は一つで足りている。礼は、茶で充分だ」
命の金額ともなればそれなりに高額の値が付けられているはずだ。命を救った礼とはいえ、只より怖いものはない。話の真偽も含め、胡散臭いことには変わりなかった。
目的であった殺しの標的の姿は眼に焼き付けた。これ以上の長居は無用と、対面するに至った偶然に感謝しつつアラクネは席を立とうとした。
「そう仰らず……今すぐに、試してみませんか?」
「何……――っ!?」
立ち上がった途端に、膝が崩れ落ちた。
咄嗟にソファーに手を突くが、自分の体重を支えきれず、そのまま床に倒れこむ。
身体全体に痺れが走り、力が入らない。
「て、めぇ……何っ……しやがった……!?」
呂律の回らない舌を動かし、なんとかその言葉を絞り出した。
「お茶、美味しかったですか?」
店主は微笑み、感想を尋ねる。
「……に、入れやが……っ」
振舞われた茶に、一服盛られていたらしい。
アラクネは、女を睨めつける。
女は、アラクネを見下ろす。
「貴方……殺し屋さんでしょう? 私を殺しに来た」
「……っ!」
女の言葉に、アラクネは目を見開く。
――初めから、偶然だと思っていた遭遇以前から知っていたというのか。
「喋りにくそうね、ごめんなさい。でも、貴方には何が起こるのかちゃんと見ていてもらう必要があるから、この薬を使わないといけなかったの」
「ど……いう……」
身体の自由が利かないだけで、意識ははっきりとしている。致死性のある毒ではないようだが、この女がそれを使う意図が分からない。
「親切な人がね、貴方のことを教えてくれたの。その人のためにも誰かは言えないけれど。私、まだ死ぬわけにはいかないの。だから――……」
女はソファーの隙間に手を入れ、そこからナイフを取り出した。
「……れを……ろす、か……?」
「私が貴方を殺す? ……いいえ、違うわ」
女はアラクネの傍に跪くと顔を寄せた。
女はそのまま、アラクネの胸に唇を押し付けた。
女は、顔を上げる。
そして、
「私が、貴方を生かすのよ」
心臓に、冷たい刃が突き立てられた。




