19 蛹の聲
扉を開けた瞬間に鼻孔に流れ込んできた臭気に、アラクネは思わず手で口元を覆った。
マオに案内されて訪れた呪い屋の店の中は、噎せ返るほどに甘ったるい香の臭いが充満していた。
「ミノムシー? ミノムシー、いるー?」
マオは店主のものであろう名を呼びながら店の中へと踏み込む。こちらもやはり臭いに耐えられないらしく、鼻を摘んでいるので鼻声だ。
「はいはァい。どちら様ァ?」
店の中に配置された怪しげな人形や壷の後ろから、男とも女とも取れない、それどころか人間の肉声であるかも疑わしい奇妙な声が聴こえた。
足元から這い出るように、これもまた奇妙な風貌の人物が顔を覗かせた。
床に敷かれた絨毯に直接座り込んでいた人物は、ベルトだらけの拘束具のような服を着ていた。ベルトが覆っていない部分からは白い包帯が覗いており、肌の露出がほとんどない。顔だけは部分的にしか包帯は巻かれておらず、不健康そうな土気色の肌と白い髪が生身のものとして見て取れた。
灰色の濁った瞳が、来訪者を見据える。
「あらァ、名前屋さんトコの子猫ちゃんじゃない」
「子猫ゆーな! キモイ!」
マオは暴言を飛ばすが、店主は気に触った様子もなくけらけらと笑った。声からも見た目からも判断しづらいが、どうやら男であるようだ。
「そう怒らないで、子猫ちゃん。そちらの色男は初めて見る顔だわねェ。紹介してくれないかしら?」
アラクネ相手だと『名前で呼べ』としつこく言及するマオだが、そのやり取りすらも不快と感じているのかそれ以上は訂正を要求しようとはしなかった。
「ケイんとこのボディガードのアラクネ。ミノムシに相談したいことがあるんだってさ」
「ふゥん、ケイちゃんにボディガードがいたなんて初耳ね。どォも、アタシはこの呪い屋の店主のミノムシよ。ヨロシクね」
ミノムシは女口調で変声機でも通したような声を発した。
「ゴメンなさいねェ、聴き苦しい声で。喉が潰れてるものだから、人工の声帯を入れてるの」
そう言いながらミノムシは自分の喉を軽く押さえた。
「声よりも、この臭いが気になるんだが」
店主は平然としているが、客からしてみれば焚かれているこの香の臭いはきつ過ぎる。
「あァ、アタシは慣れて麻痺しちゃってるから気付かなかったわ。それもゴメンなさいねェ。でもこれくらい焚いていないと、もっと臭いがキツイらしいのよねェ」
「何の……」
「なーーーーーッッ!!」
何の臭いがだと言おうとしたのと同時に、マオが奇声を発した。
「もうムリ! このニオイ耐えられない! ボク外で待ってる!!」
アラクネとしては待たずとも先に帰って貰って一向に構わなかったのだが、それを告げる前にマオは店から飛び出して行ってしまった。
「あらら」
(……まぁいいか)
わざわざ追い掛けるのも面倒なので、マオのことは好きにさせておくことにした。
「ま、お客様を立たせたままってのもなんだから、アナタも座って。床で悪いけれどね」
ミノムシに促されてアラクネは絨毯の端に腰を下ろし、片膝を立てて座った。
「それで、アタシに相談って何かしら? 呪いをお求め? 痛いのも苦しいのも、色々取り揃えてるわよォ」
アラクネは名前屋に話したのと同じ内容を、ミノムシにも話した。名前屋が言っていた通り、命屋と面識がある分話は通じやすかった。
「へェ、命を盾にオトコを縛るだなんて、ケイちゃんもやるわねェ」
命屋に命を与えられた経緯も包み隠さず話したが、ミノムシは特に動じた様子は見せず、むしろ楽しそうに笑った。
「アタシの見解はマナちゃんと一緒ね。ケイちゃんの能力をただ解除してもムダ。他に命を動かす原動力を確保しておかないと、死んじゃってそれでオシマイだわ」
「能力の解除自体は出来るのか?」
ミノムシは呪術を専門に取り扱っているのだと名前屋は言っていた。命屋の能力が『呪い』の一種なのだとすれば操作は可能ではないかと思い、尋ねた。
「『呪い屋』だなんて名乗ってるけど、呪いを作り出したり、呪いの効果を操作したりってことはアタシには出来ないの。アタシに出来るのは、そこにある『呪い』をモノからモノへ移し替えること。解除とは少し違うけれど、アラクネちゃんのナカの呪いを他のモノに移すことは出来ると思うわ」
解除は出来ても、やはりそれだけでは意味がない。得られた結論は、名前屋で話していたものと大差がなかった。
「無駄足だったか……」
「せっかちねェ。もう少しアタシの話を聴いてみても、損はしないと思うわよォ?」
立ち上がろうとしたアラクネを、ミノムシが引き止める。
「何か方法があるのか?」
「なくは無いわねェ」
焦らすように言われ、アラクネは再び腰を下ろした。
ミノムシは血色の悪い唇をにやりと歪ませる。
「ずばり、呪いには呪いよ。より強い呪いで、呪いの効果を打ち消すの。例えば、不死の呪い。七日で死ぬ呪いと一緒に不死の呪いを体内に入れて、不死の力が勝てば、七日で命が尽きようが死ぬことはないわ」
オカルト染みた話はこれまでにも散々聴いてきたアラクネであるが、この手の話はやはり簡単には受け入れ難かった。
「不死――死ねない呪いということか? そんなものがあるのか?」
「あるわよ、ここに」
ミノムシは自信たっぷりにそう言って、自分の胸を指した。
「不死の呪いは、アタシのナカにある。もっとも、この呪いはアタシのお気に入りだから売る気はないのだけれどね」
焦らしておきながらそれを売る気はないというふざけた態度に、アラクネは眉根を寄せた。
「金を詰まれても……――痛い目を見てもか?」
これまでの話を聴いた時点ではミノムシから本気で不死を奪い取ろうという気は起きなかったのだが、アラクネは苛立ちから脅し文句を口にした。
「力ずく? いいわねェ、キライじゃないわよォ」
言いながらミノムシの手は、机の上にある伝票の刺さった伏差しを引き寄せていた。
アラクネはミノムシの挙動を油断なく見据えながら、ワイヤーを仕込んだ手元に感覚を集中させる。
いつでもアラクネに向けて伏差しの針を振りかぶることが出来る、その距離まで引き寄せられたところで―――
「ぐ!! ……ァ……っ」
「!?」
ミノムシは自分の手の平を、針の上に叩きつけた。
太い針が皮の手袋と骨肉を貫き、手の平の下の伝票に赤い染みを広げる。
「……ふふ……ァは、あははは……」
顔を伏せ、脂汗を肌に浮かべていたミノムシはやがて、肩を震わせて笑い始めた。
「なんのつもりだ……?」
気が触れたとしか思えない行動に、アラクネは唖然とする。
「ははは、はは……あは、はァ……っ」
ミノムシは笑うのを止めて顔を上げた。恍惚混じりの吐息と共に、アラクネに問いを投げ掛ける。
「ねェアラクネちゃん……呪い屋の商品は、一体どこにあると思う?」
呪い屋の『商品』となると、当然それは『呪い』のことである。アラクネの目線が周囲の人形や壷の方へと動いた瞬間に、ミノムシはアラクネが口を開くよりも早く答えを口にした。
「ハズレ。それらは形の無い『呪い』という商品を受け渡すための、ただの容れ物。呪いを移し替えるためには、一度呪いをアタシのナカに入れる必要があるの。この店の呪いは全て、アタシのナカにあるのよ」
「呪いを身体の中に? お前は、その呪いとやらの影響を受けないのか?」
ミノムシの奇行に先程までの苛立ちなどすっかり忘れ、アラクネは尋ねていた。
「もちろん、受けるわ。アタシのナカの呪いはアタシのナカで暴れ回って、断続的に苦痛を与え続けている」
猟奇的な笑みを浮かべたまま、傷口をさらに抉るように、手の平を伏差しに押し付ける。
「アタシはね、呪いの収集家なの。集めた呪いは首を絞めたり、爪を剥がしたり、内臓を捻ったりするような、ありとあらゆる苦痛をアタシに与える。実際に傷が開くような呪いもあるわ。傷が開いて、その傷が塞がる前に次の傷が開く。治癒力が追いつかずに傷口はどんどん腐っていくの」
店の中に充満する香の臭いは、身体から発せられる臭いを誤魔化すためのものであったらしい。言われてみて、アラクネは血と膿の臭いをその中から嗅ぎ取った。
「けれど、身体が半分腐っても痛みに耐え切れず狂いそうになっても、アタシは決して死ぬことはない! 何故なら―――」
「不死の呪い」
声に熱の篭り始めたミノムシの発言を、アラクネが冷静に攫う。
「そう! 死なずの呪いのお陰で、アタシは痛みを感じ続けることが出来る。痛みこそがアタシの生! 痛みを感じることで、アタシは生きてるんだって強く想うことが出来るのよ!」
ミノムシはけらけらと笑う。
「…………脅しは効きそうにねぇな」
「そうねェ。むしろ望むところだわ」
楽しそうにそう言って、手の平から伏差しを引き抜いた。伝票が吸い取り切らなかった血が、机の上に広がり血溜まりを作る。
常軌を逸したマゾヒストには、拷問めいた手は逆効果にしかなりそうになかった。
「マナとは正反対のようだな」
「あらァ、そんなことまで知ってるなんて、マナちゃんと仲良しなのねェ」
「……昔、同じものを使っている奴がいて、臭いに覚えがあった」
名前屋が煙管で吸っていた葉。誰であったかまでは覚えていないが、同じ葉を愛用していた同業の男がいたとアラクネは記憶していた。
その葉は感覚――特に痛覚を遮断する、麻酔のような効果を持つのだとその男は言っていた。殺しの仕事をしていると思わぬ逆襲を受け、傷を負うことがある。煩わしい痛みに気を取られず仕事をこなすために使っていたのだろうとその男に関しては思ったが、名前屋に関してはそれを使っていた理由が解らない。
しかも、どうやら頻繁に使用しているらしかった。あの葉の煙は感覚を鈍らせ、筋肉を弛緩させる。慣れない者であれば立つこともままならないはずだが、名前屋はアラクネの目の前で素早い動きをしてみせた。マオの口振りから察した部分もあるが、よほど吸い慣れていなければそのような動きをするのは不可能だろう。
「あのコはね、生きることを拒絶しながら生きてるのよ。生きることにも死ぬことにも怯えてる。だからせめて何も感じなくすることで自分を誤魔化して、死んだ振りをしてるの」
「理解できねぇな」
「そうねェ。痛みを拒絶して生きるなんて、アタシにはちょっと理解出来ないわァ」
そう言ってミノムシは、穴が開いた己の手の平を愛しげに撫でた。
「……てめぇのことは、さらに理解できん」
「あっ、アラクネ!」
店の扉が開いた瞬間、そのすぐ横で膝を抱えて座っていたマオは跳ねるように立ち上がった。
「どうだった? なんかいい方法あった?」
「今すぐにどうにかできるような方法はなかったな」
呪い屋には、不死の呪いを与えることは出来ないが他に有効そうな呪いが手に入れば譲るので時々店に顔を出すようにと言われた。わざわざ店に足を運ぶのはいささか面倒だが、連絡しようにも電話線を引いていないらしいので仕方がない。
「そっか、残念だったね。でもなんとかなるって、きっと」
根拠のない慰めを口にして、来た時とは逆にアラクネの後にマオが続いて歩きだした。
「それよりさ、終わったんだったらゴハン食べに行こうよ、ゴハン! アラクネのおごりで! ボクおなかすいちゃった」
「食って来なかったのか?」
ここに来る前、アラクネはマオがどこからか盗んできたと思われる食糧を大量に抱えている姿を見ている。それを言うと、マオは「あれはヒジョーショク」と答えた。
「ね、いいでしょアラクネ、行こうよ」
小さな子供に纏わりつかれ、アラクネは少しだけ斜め上を仰ぎ見た。
「……まぁいいか……」




