15 蛇の歯
この辺りからちらほらと性的な描写が入ってきますので注意です。
――――どうして、こんなにも違うのだろうか。
「……ふ……ぅぐ……う……ッ……」
身体を拘束され、猿轡を噛まされた男は口の端から溢れる唾液を拭うことも許されず、ただ喘ぎ続ける。
靴のつま先で男のモノを乱暴に弄ぶ人物は、てらてらと光沢を放つ皮の衣服――所謂ボンデージファッションに身を包んでいた。その光景はその手の趣味の者が好むプレイに似ていたが、グロテスクに変色した男の肌の色と、恐怖に涙を浮かべたその目が合意の上での行為ではないことを物語っていた。
――――どうして、こんなにも……
つま先が、するりとジッパーを撫で上げる。足はそのまま持ち上げられてゆき、ある程度の高さまで来るとぴたりと動きを止めた。
――――……こんなにも、醜い。
憎しみにも似たどす黒い感情が心を満たす。
踵を振り下ろし、欠片程に感じていた愛情ごと、それを踏み砕いた。
アラクネは珍しく物思いに耽っていた。
視線は窓の外の流れる景色に向いているが、その脳裏に映っているのは見慣れた女の姿だった。
今、一番殺してやりたいと思っている女の姿。
女のことを知るたびに、その想いは強まっていく。しかしその想い反して、知るほどに疑問は増してゆき、殺すタイミングを見失っていた。
先日、女は自らの弱み――妹の存在を明かした。それと同時に、その存在が脅しの道具にはなり得ない事も。
女は妹に危険が及ぶことがあれば自ら命を絶つと言った。それだけの覚悟があると。それだけの覚悟がありながら、何故――……
―――まだ死ぬわけにはいかないの。
―――私を守って欲しいの。
(……よく解らん)
妹には人質にするだけの価値は充分にある。実際に妹に危険が及んだ際に見せた、女の取り乱した反応がその証拠だ。上手く使えば、女はアラクネの望む表情を見せてくれることだろう。しかしそれは、上手くいけばの話だ。女に自ら命を絶たれることは、アラクネの望むところではなかった。
アラクネの望みは、あくまで自分の手で殺してやることだ。
しかし人質を利用するにせよしないにせよ、どの道今のアラクネには実行不可能であった。居場所が判らないのだ。爆弾魔の事件の後、件の妹が入院していた病院は一時閉鎖され、患者は別の病院へと移送されたらしい。行き先を調べようと思えばいくらでもその方法はあったのだが、利用価値が不確定な存在にそこまで食指を動かそうという気にはなれなかった。
いつも澄ました態度の女が取り乱した、その姿を思い返す。
(あれは、悪くなかった)
だからこそ、タイミングを逃したことを少し後悔していた。
「――――あの時、殺しておくべきだった」
殺し屋の男の物騒な呟きに、運転席のヤタは急ブレーキを踏んだ。慣性に引かれて二人の身体は前のめりになり、それから座席のシートに背中をぶつけた。
「きゅ、急に何言ってんの、アラクネ……」
「何がだ?」
完全に無意識下での呟きだったらしく、呟きを洩らしたアラクネ自身が不思議そうな反応をした。
「え、もしかして寝言? アラクネ寝てた?」
「起きていたが」
「あー? ……うん、まぁいいや……とにかく、着いたよ」
ヤタは深く考えるのをやめて、目的地であるアパートを指した。
「じゃあ、いつものように三十分後に死体引取りに行くからね。あんま長引かせないでよ? 何かあったら連絡して」
「ああ」
アラクネは装備――とはいっても凶器と連絡用の端末くらいの物だが――を確認すると、ライトバンから降りた。
約二週間ぶりの殺し屋としての仕事だった。二週間も本業を休んでいた理由は、成り行きで首を突っ込んだ事件で怪我を負い、身体が本調子ではなかったためである。打撲や擦り傷は大した問題ではなかったが、身体を支えるのに必要な腰回りの痛みは問題だった。不調の原因が腰痛であると聞いたヤタは、必死に笑いの発作を堪えていた。
それなりに付き合いの長いヤタは、先程までぼんやりと眠たそうにしていたアラクネの纏う雰囲気の変化に気付く。
(おあずけくらってた犬だなぁ)
殺しの標的のいるアパートへと向かっていくアラクネの後姿に、尻尾をぶんぶんと振る強面の闘犬の姿を幻視する。既に声は届かないだろうが、口に出せば睨まれるような気がして、ヤタはそのことを口には出さず思うだけに留めた。
エレベーターのない古ぼけたアパートの階段を上り、アラクネは今回の標的の居住がある五階の部屋の前まで辿り着いた。
部屋番号を確認し、ドアの横のブザーを押す。ここまでは普通の来訪客の行動と変わりはない。
ワイヤーの先の錘を手の中に収め、いつでも引き出せるように構える。
(……留守か?)
しばらく待ってみたが、応答がない。事前の調査によると、今日この時間帯は在宅であるはずだが――ドアノブに手を掛けると、抵抗なくノブは回った。鍵が開いている。
薄くドアを開き室内の様子を探る。ドアを開けてすぐの通路の左右がキッチンとバスルームになっており、その先がリビングのようだ。よくあるワンルームの間取りだが、通路の幅が狭く、奥の様子までは探れない。
ワイヤーから手を離し、代わりに小回りの利く折り畳みのナイフへと持ち替えた。部屋の中へと身体を滑り込ませ、音を立てないようにドアを閉める。バスルームのドアに背中を張り付けるようにしながら、リビングに近寄る。
そして、一気に跳び出した。跳び出すと同時に、ナイフを持った手を突き出す。
まるで鏡に向かってナイフを突き出したかのように、アラクネに向かって同じようにナイフが突き出された。
お互いの喉元にぴたりとナイフが押し当てられ、二人の人間は互いの腕をクロスさせた姿勢で動きを止めた。
「あ?」
「ア……」
停止してから、二人の人間はお互いの顔を確認して同時に声を洩らした。
アラクネがナイフを突きつけた相手は、女だった。艶かしい肢体を窮屈そうな皮の衣服で包んだ、目付きの鋭い女。その鋭い目の上にある細くてやはり鋭い眉が、少しだけ持ち上がった。
「アラクネっ!」
女はナイフを下ろし、突き出されたままのアラクネの腕をするりとかわすと、目の前の男に抱擁をした。
「クチナワ……?」
アラクネは頬ずりをするように身体全体を擦り付けてくる顔見知りの女の名を口にした。
ふと気付いて、部屋の隅へと目をやる。拘束された上に猿轡まで噛まされた男が、壁にもたれて座った姿勢のまま事切れていた。苦悶の表情で見る影はないが、この部屋の主――アラクネが殺そうとしていた人物に間違いはないようだった。
「あんっ」
アラクネはクチナワを引き剥がすと、自分のコートのポケットをごそごそと探った。端末を取り出し、肉屋の端末の番号を入力する。
「――――はいはい、どしたのアラクネ? もう終わったの? キミにしては随分と早くない?」
一回目のコール音が鳴り終わらないうちに相手の声が端末から流れてきた。
「ヤタ、キャンセルだ」
「――――キャンセルって、なんかトラブル?」
「ああ、先客が――……」
事情を説明しようとしたアラクネの手から、クチナワが端末をひったくった。
「もしもし、ヤタくーん? お仕事お願ーい。あ、でもゆっくり来ていいからね」
「――――えっ、誰? ちょっ、アラク……」
「じゃあねー」
困惑する通話相手と端末の持ち主の了承を得ずに、クチナワは勝手に通信を切ってしまった。
クチナワは端末を持った手をアラクネのコートと身体の間に滑り込ませると、手を背中の方に回してわざわざ尻ポケットに端末を押し込んだ。
「はぁ……久しぶりのアラクネの感触ぅ」
背中に手を回したまま、うっとりとした表情で頬ずりを再開する。
「何してやがる」
されるがままになりながら、アラクネが尋ねた。この行為の意味を尋ねているのか、この場にいる理由を尋ねているのか、どちらの意味にも取れる質問だが、クチナワは後者の意味だと判断した。
「もちろん、仕事。痛めつけて殺してって言われたから、ちょっと張り切っちゃった」
クチナワはアラクネの同業者――アラクネと同じく、殺し屋だ。クチナワとは情報交換を目的として交流があったが、こうして仕事でかち合うことは珍しいことだった。そしてどういった訳か、アラクネはクチナワに妙に気に入られていた。
「こんな所で出くわしちゃったってことは、アラクネも仕事? もしかして、依頼かぶっちゃった?」
「らしいな……」
未練の篭った目で、部屋の隅の死体を見る。それを見て、クチナワも残念そうな顔をした。
「ざぁーんねーん。アラクネが殺してるところ見たかったのにぃ……もう少し待ってれば良かったなぁ。ねぇアラクネ、今からどうするの?」
「……帰って寝る」
二週間ぶりの殺しの仕事がふいになり、アラクネはすっかりとやる気を失くしてしまっていた。
「添い寝したげようか?」
「いらん」
そんなやり取りをしていると、玄関のドアが忙しなく開閉される音がワンルームに響いた。
「だ……っ、誰かと思ったら……やっぱり……クチナワか……っ」
先程の通話終了から三分と経たず、ヤタが部屋に駆けつけてきた。五階まで一気に駆け上がって来たため肩で息をしている。状況が把握しきれずに慌てて来たようだが、仕事を依頼された手前、一応その手には死体袋が抱えられていた。
クチナワはアラクネに絡みついたまま、不満げにヤタを見た。
「ゆっくりでいいって言ったのに」
「いや……状況説明もなしにゆっくり来いって言われても、余計慌てるだけだって。何があったのかと思ったら……先越されたんだね、アラクネ……」
部屋の隅の死体と、抵抗もせず棒立ちになっているアラクネの姿を見て状況を察した。
「てゆーかクチナワ、いつも言ってるけど仕事の依頼は事前にしておいてよね。今日はアラクネの依頼でここにいたから良かったけど、殺した後でいきなり来いって言われてもこっちにも都合ってモノがあるんだから」
「はいはぁい、以後気を付けまーす」
殺人から回収までに時間が空くと、その分他人に目撃されるリスクが高まる。クチナワから依頼を受けることは間々あったが、ヤタにとってクチナワは『困ったお客さん』であった。
「あと、イチャつくなら余所でやってよね。俺今からここで仕事なんだから」
依頼人が変わったところで死体処理という業務内容に変更はないのだが、クチナワの態度が気に食わなかったのか重ねて文句を口にした。
「あたしだってお持ち帰りできるならそうしたいんだけど、すぐに仕事完了の報告に行かなきゃいけないのよねぇ。依頼人が直接来いってうるさくって」
「ならさっさと行け」
アラクネは怒っているという風でもないが、倦怠感を隠そうともせずにそう言った。こちらは仕事を奪われたことが気に食わないでいるのは言うまでもない。クチナワはそんなアラクネの態度に落ち込むでもなく、むしろ嬉しそうな顔をした。
「んー、アラクネが言うならそうする。添い寝はまた今度ねっ」
そう言ってアラクネの頬にキスをすると、ようやくその身体から離れた。
「それじゃ、またね」
「あとで請求書送るからね!」
上機嫌で部屋を出て行こうとするクチナワにヤタが呼びかけ、はいはーいと適当な返事と共にドアが閉められた。
ドアが閉められたのを確認してから、ヤタは大きく息を吐いた。




