10 鴉の胆
ケイが常連客の一人に求婚をされてから一週間の後、命屋の店にその男が姿を現すことはなかった。
「あの、息子さんは?」
いつも息子を付き添いに店を訪れていた老人の傍らにその姿がないことを訝しく思い、ケイは尋ねた。
「ああ……倅は今少し、人前に出られる状態ではなくてね」
そう言うと老人は大儀そうにソファーに腰を下ろした。ケイも対面のソファーに腰を下ろす。
「もしかして、それは私の所為で……?」
一週間前、ケイはこの老人の息子から求婚を受け、それを断った。その時はそれほどショックを受けているようには見受けられなかったが、やはり再び姿を見せるのには躊躇いが生まれてしまったのだろうかと思い、続けて尋ねた。
「いや、ケイさんの所為ではないのだよ……――事件に、巻き込まれてしまってね」
「事件?」
「爆弾魔のニュースを聞いてはいないかね?」
爆弾魔という単語には聞き覚えがあった。ここ一ヶ月ほど、連日ニュースで派手に報じられている事件だ。不思議なことに死者は出ていないのだという話だが、ケイはまさか身近にその事件に関わっている者がいたとは思ってもみなかった。
「では、その爆弾魔に?」
「ああ、命に別状がなかったのは幸いだったがね……それ以上に、心を病んでしまった。私にも何があったかは話してくれなかったが、よほど恐ろしい目に合ったようだ……」
「まぁ……」
憔悴した様子の老人を、ケイは憐憫の表情で見た。
「こんちわー」
老人が店を出てからしばらくすると、ヤタが軽い挨拶と共に店に入ってきた。
「……よぉ」
「うわ、アラクネが居る。本当にボディガードやってんだね」
客用のソファーにどっかりと腰掛けた男の姿を見て、ヤタは面白いものでも見たかのように笑い混じりでそう言った。
「何しに来た?」
「何って、仕事だよ。仕事。ケイさんに死体回収するように頼まれたんだよ」
命屋の客の中には自身の死後の肉体を担保として商品を購入する者もいる。そういった者の死体の回収を請け負っているのが、肉屋と呼ばれている死体処理業者のヤタである。
「ケイさんは?」
ヤタが尋ねると、アラクネは顎で奥の部屋を指した。タイミングよく、扉が開かれる。
「あら、ヤタさん。いらっしゃい」
「どーも」
ヤタの目は、隣の部屋から出てきたケイの手元のハンドバッグに留まった。
「ケイさん、今からおでかけ?」
「ええ。後はいつもの通り、適当にお願い。二人とも、お留守番よろしくね」
「はいはい、りょーかい。いってらっしゃーい」
慣れた調子で了承し、ヤタはケイに向かってひらひらと手を振った。
「…………」
無言のアラクネを一瞥し、ケイは店を通り抜けて出て行った。
「そんなワケだから、お客さんが来るまでちょっと待たせてもらうよー」
「……ん」
扉が閉められるまで彼女を見送り、ヤタは空いたソファーに腰掛けた。
正面に座ったアラクネはどこかぼんやりとした様子だ。いつにも増してテンションが低いなとヤタは思ったが、すぐにそれは死体が無い所為だと思い至った。ヤタとアラクネが仕事以外で会うことはそう滅多になく、仕事で会う時には高確率で二人の間には死体が転がっている。殺しの仕事をしている時のアラクネは、その高揚感から今よりは『生きている』という印象を受ける。しかしそれ以外の時のアラクネは死んでいるような状態、つまり今は完全にスイッチオフの状態だ。
「……あの女……」
「ん?」
死体が無い状態で会うのもなんだか新鮮だ、などと考えながら目の前の死体のような男を観察していると、その死体が声を発した。
「……あの女は、いつもどこに行ってるんだ……?」
命屋の店主はほぼ毎日、時間を見つけてはどこかへと出掛けて行く。アラクネを護衛にしておきながら、その時ばかりは絶対に同行させようとはしない。アラクネはそのことをずっと疑問に思っていた。
「どこって、病院でしょ?」
「どこか悪いのか?」
「いや、そうじゃなくて……――なんで俺に訊くのさ? いつも一緒にいるんだから本人に訊きなよ」
ヤタの方が命屋との付き合いは長いが、最近はアラクネの方が圧倒的に一緒に居る時間が長いはずだ。自分から本人に尋ねる機会はいくらでもあっただろう、とヤタは逆に尋ねた。
「前に訊いたが、詮索するなと言われた」
「ちょ……っ、訊くなって言われたことを俺に言わせないでよ! 言っちゃったじゃんか……あー、ケイさんゴメン……!」
ヤタは慌ててこの場にいない相手に許しを乞うた。
「……病気じゃないなら、何をしに行ってんだ?」
「人の話聞いてた?! これ以上は無理、言えない! 女の人の隠し事を暴露する趣味は俺にはないのっ!」
正直なところ、ヤタにはそれが隠すほどの内容であるとは思えなかった。しかし女性の秘密をわざわざ明かすような趣味がないことも事実であるため、口を噤んだ。アラクネもそれ以上追究してくることはなかったので、ヤタはひとまず安堵した。
「……にしてもアラクネ、少し変わったよね」
「……何がだ?」
相変わらずアラクネはぼんやりとしている。ぼんやりし過ぎて少し眠たそうにも見える。
「いや……なんて言うかさ、キミが殺す相手以外に興味持つなんて、今までそうなかっただろ?」
アラクネは殺す対象の事は『下見』と称して積極的に知ろうとするが、それ以外の人間に興味を持つことは滅多にない。他人のことを自分から、しかも彼にしてはしつこく尋ねてきたことが引っ掛かっていた。
「なんかさ、人間死ぬ思いをすると世界の見え方が変わるってよく聞かない? 生のありがたみを知って、今まで気付かなかった道端の花に気付いたり、空はこんなに青かったんだーって気付いたり。アラクネもさ、実際に死んでみて考え方とか変わったんじゃないかと思って」
「花なんぞ咲いてねぇし、空は灰色だ」
比喩のつもりで口にした言葉に、正論で返されてしまった。確かにヤタも道端に花が咲いているのを見たことはないし、スモッグに覆われた空が青く晴れ渡るのを見たことはなかった。
「それに……あの女は、いずれ殺すつもりだ」
「えッ!? でも、それじゃケイさんに生かされてるキミも――……」
死んでしまうのではないか、と言おうとして途中で止めた。そのことをアラクネ自身が理解しているにせよ、していないにせよ、おそらくヤタにはその考えを理解することは出来ない。今までの経験から、そのことだけは理解することが出来た。
しかしアラクネにとって命屋は殺す対象なのだと考えると、彼女のことをしつこく尋ねてきたことも『下見』の一環として納得出来る。
もし他に彼女のことを知ろうとする理由があるとすれば――とヤタは考えを巡らせて、
「……ケイさんに惚れたとか?」
睨まれた。
「ごめんなさい、冗談です。口が過ぎました」
鋭い視線を受け、条件反射的に謝った。
「そ、そういやさ、知ってる? 最近ニュースでやってる爆弾魔のこと」
これ以上この話題を続けるのは危険だと判断し、ヤタは思いっきり話を――比較的アラクネが興味を持ちそうな話題に――逸らした。
「さっき来た客もそんなことを話していた」
「お、知ってた? じゃあ、被害者に死人が出てないって話も?」
「ああ……」
ニュースで報じられている程度の情報は知っているようだ。もっともアラクネはラジオにも新聞にも興味がないので、これは先程の老人と店主の会話から仕入れた情報であるのだが。
「じゃあさ、これは? その爆弾魔は、自分と心中してくれる相手を探すために、相手を殺さずに試してるんだって話」
これはニュースでは報じられていない情報だ。実際に被害に合った人物の話を、ヤタが商売相手の医者を介して聞いた話だった。
「ふぅん……」
「ありゃ、興味ない?」
「死にたがりに興味はねぇよ」
それもそうか、とヤタは納得した。アラクネが興味を持っているのは、死に向かう人間の生きようともがく姿だ。考えてみると、自ら進んで死に向かおうとする爆弾魔に興味を持つはずはなかった。
「あわよくば、キミにさくっと殺して貰えればなーと思ったんだけど……」
「それは依頼か?」
アラクネの眼に微かに生気が宿る。最近は護衛の仕事に重点を置いているため、死にたがりに興味はなくとも殺しには飢えているようだ。
「いや、そういうワケじゃないんだけどさ。死体が出ないんじゃ俺の商売にはならないし、商売にならない事件は平穏な暮らしを脅かすただの脅威だろ? 善良な市民の一人としては、こんな事件は早いとこ解決してもらいたいなー、なんて」
「警察の仕事だろ」
「そうだけど、警察がアテにならないのは知ってるだろ? まぁ、お陰で俺らみたいなのが堂々と仕事していられるワケだけど」
とても『善良な市民』の発言とは思えない。しかしアラクネ自身も、自分が善良な市民であるとは言わないが、その恩恵に与かっているのは確かである。
「大体、どこに出るかも判らん奴を殺せるか」
「それが、そうでもないんだなー」
その質問を待っていたと言わんばかりに、目を光らせるヤタ。
「ここ一週間ほど、爆弾魔が現れる場所は限定されてきてるんだ。どこだか判る?」
「死にたがりの考えることなんて判るか」
「そりゃ俺にも判らないけどさ、でも『死にそうな』人間の居る場所なら――……」
そこまで聞いて、アラクネは立ち上がった。
「? ……アラクネ、どうし――……あっ」
ヤタはそこでようやく、自分の犯したミスに気が付いた。話を逸らしたつもりで、墓穴を掘ってしまっていた。
「あの女はどこに行った?」
「いや、だから、それは言えないって……」
「どこの病院だ?」
「病院だからって、必ずしも爆弾魔に狙われるワケじゃないし……」
「いいから言え」
「でも、ほら、一応俺も客商売だし、信用ってモノが……」
「言え」
背の高い強面に見下ろされ、ヤタは身体を後ろに引かせた。ソファーの背もたれに阻まれて逃げられない。
「ああぁぁ……ケイさん、ほんっとゴメン……!」
射るような視線に耐え切れず、ヤタは再びこの場にいない相手への謝罪を口にした。




