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地獄商会  作者: あぜるん
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1. 最初の客

アスパノは街へ入る前に、もう一度だけ高くそびえる城壁を見上げた。

その夜は雨が降っていたが、月は明るく輝いていた。

それでも、まるで月明かりでさえ街へ足を踏み入れるのを恐れているかのようだった。夜の闇に沈んだような細い路地には、月の光が届かなかったからだ。月明かりが照らしていたのは城壁の外に広がる村々だけで、大きな街全体は深い闇に包まれていた。

アスパノは月明かりの下で、もう一度自分の身なりを確かめた。

格好よく見せたいわけではない。今夜は人と会う約束がある以上、きちんとした身なりでいる必要があった。北の王国では、誰かと会うときは身なりを整えることが相手への敬意だと考えられている。

アスパノの白いシャツは古びてはいたが、汚れひとつなかった。ゆったりとした黒いズボンも新品ではない。それでも、その黒は今なお深く色あせていなかった。

彼は十九歳の青年だった。

この年頃の若者は、どんな服を着ていても天使のように見えるものだ。しかし、本人はそんなことに気づいてはいなかった。

街の細い路地には霧が漂っていた。高くそびえる灰色の家々の石壁は雨に濡れている。歩みを進めるたび、どこからともなく蹄の音が聞こえ、そのたびにアスパノは振り返った。

だが、そこにあったのは霧だけだった。

その瞬間、自分は正しい道を進んでいるのだと悟る。行く手を覆う霧が、目的地へ導いてくれているのだ。

家々の小さな木窓からは、ほのかなろうそくの明かりが漏れていた。開いた窓の向こうからは、眠りたがらない赤ん坊たちの泣き声が聞こえてくる。

少し肌寒さを感じ始めたそのとき、不意に温かな風が頬をなでた。

目の前の霧がゆっくりと晴れていく。

青年は一枚の木の扉へ視線を向けた。

二階建ての、ごくありふれた石造りの家だった。

扉の上には「Hell Shop」と書かれた看板が掲げられている。

見た目はどこまでも普通だった。ただ、その看板だけは違っていた。

文字は、今にも燃え上がりそうな熾火のような赤い輝きを放っていた。

アスパノはおそるおそる扉を押した。

扉の向こうでベルが鳴る。

「いらっしゃいませ。ご用件をお聞かせいただけますか?」

若い少女が、やさしい声で迎えた。

アスパノは店へ一歩足を踏み入れた。

その瞬間、彼の目を奪ったのは、カウンターの向こうに立つ少女の竜を思わせる翼でも、その美しい顔立ちでもなかった。

思わず口を開けたまま、彼は天井のはるか上を見上げる。

外から見れば二階建てだったはずの建物の内部には、空へ届きそうなほど無数の階層が果てしなく続いていた。

壁は灰色の石でできており、内部は信じられないほど広大だった。

上階へ続く巨大な階段が、左右に一本ずつ伸びている。

どの階にもいくつか部屋があり、扉は入口と同じ木製だった。しかし、その頑丈さはまるで城門のようだった。

中には今にも外れそうなほど激しく揺れる扉もあれば、その向こうから時折炎が噴き上がる部屋もあった。

店番の少女は微笑みを絶やさないまま、短い黒髪を耳にかけた。

青年の顔に浮かぶ驚きと恐怖を見ても、彼女は少しも動じない。

そんな表情は、この店では見慣れていた。

客が店へ入るたび、店番は背筋をまっすぐ伸ばし、穏やかな笑みを浮かべていなければならない。

さらにもう一つ。

竜の翼は誇らしく高く掲げておくこと。

それも店番の務めだった。

だが、青年の怯えた様子を見ると、少女は翼をゆっくりと下ろした。

もっとも、翼はあまりにも大きく、とても隠せるようなものではなかった。

アスパノは店の無数の階層からようやく視線を外し、ゆっくりと、しかし迷いのない足取りでカウンターへ近づいた。

「どんな罪を犯すつもりですか?」

少女は笑みを崩さぬまま尋ねると、カウンターの下から革張りの手帳を取り出した。

「……言わなきゃいけないんですか?」

アスパノは小さな声で尋ねた。

犯そうとしている罪を、自分の口で言いたくなかったのだ。

彼は家族を支え、毎日畑で働く、ごく普通の、誠実で心優しい青年だった。

彼にとって、罪を犯そうと決意すること自体が世界の終わりにも等しいことだった。

それを口にしてしまえば、良心の最後の欠片まで失ってしまう気がしていた。

「……人を殺したいんです。」

勇気を振り絞り、ついに胸の内を口にした。

店番の少女の微笑みは、少しも変わらなかった。

まるでありふれた話でも聞いたかのように、自分の翼へ手を伸ばす。

翼の先に枝のように細く伸びた突起を一本折り取り、それをペン代わりにして革の手帳へ書き始めた。

アスパノは不思議そうにその様子を見つめる。

少女は彼の名前も、彼についてのことも何ひとつ書かなかった。

手帳に記したのは、彼が犯そうとしている罪、それだけだった。

「殺したい相手は、ご家族のどなたですか?」

店番の少女はそう尋ねた。

彼女にとって、この質問は毎日のように繰り返している、ごくありふれたものだった。

それは仕事の一部にすぎない。

「違う!」

アスパノはわずかに怒りをにじませた声で答えた。

その問いは、彼にとって侮辱にも等しかった。

幼い頃から家族を愛し、支え続けてきた彼は、親孝行な息子として育ってきた。

そして今夜ここへ来た理由も、家族を守るためだった。

だからこそ、その質問は彼の胸に怒りを呼び起こした。

少女には、アスパノが怒っていることは分かった。

だが、その理由までは理解できなかった。

彼女はただ、自分の仕事をしているだけだった。

(人間って、本当に変わってる。)

(誰かを殺そうとしているのに、その相手が誰なのか尋ねただけで怒るなんて。)

少女は心の中でそう思った。

それでも、どんなことがあっても客に失礼な態度を取ることは許されない。

「お支払いは今になさいますか? それとも、ご用件を終えたあとになさいますか?」

少女は穏やかに尋ねた。

その質問こそ、アスパノが最も恐れていたものだった。

彼は裕福ではない。

持っているのはわずかな金貨だけで、それをすべてポケットに入れて持ってきていた。

だが、この店で足りるほどの価値があるのか、自信はなかった。

それでも引き返すつもりはなかった。

「……これしかありません。」

小さな声でそう言うと、アスパノはポケットから金貨を取り出し、手のひらに載せた五枚の金貨を少女へ差し出した。

少女は表情ひとつ変えず、静かに説明した。

「お支払いは果物でしかお受けできません。」

アスパノは驚いたように手の中の金貨を見つめ、それを再びポケットへしまった。

「でも……果物なんて持ってきていません。」

不安そうな声だった。

アスパノがこの人生で最も多く持っていたものは、果物と野菜だった。

だが、一番必要なこの場面でさえ、リンゴ一つ持ち合わせていなかった。

少女はどうすればいいのか分からなかった。

微笑みを崩さないまま、解決策を考え続ける。

この店に足を踏み入れた客は、何があっても望むものを手にせず帰してはならない。

それもまた、店番の務めだった。

「大丈夫。支払いはあとでしてもらえばいい。」

上の階から声が降ってきた。

その声を聞き、アスパノは顔を上げた。

四階から、一人の美しい少女が降りてくる。

長い黒髪は一本の三つ編みにまとめられ、腰まで届いていた。

黒いベルベットのドレスは足首まで彼女の身体を包んでいる。

胸元はわずかに開いていたが、人目を引くほどではない。

大きな瞳には、まるで炎が揺らめいているようだった。

それなのに、長いまつげが彼女の瞳と顔立ちに、信じられないほどの無垢さを添えていた。

彼女にも、店番の少女と同じような翼があった。

違うのは、翼に浮かぶ溶岩の模様だけだった。

階段を下りてくる少女の竜を思わせる翼には、細い溶岩の川のような筋が走り、その溶岩は絶えずゆっくりと流れ続けている。

時折、数滴の溶岩が石造りの床へ落ちた。

「お帰りなさいませ。」

店番の少女は軽く頭を下げ、敬意を込めて言った。

今夜は、ルーナが《Hell Shop》で働く最初の夜だった。

それを悟られないよう、自信に満ちた態度を崩さない。

カウンターへ来ると、革張りの手帳を手に取り、アスパノが犯そうとしている罪を静かに読み始めた。

アスパノは、まだ店番の少女の美しさに見とれていた。

その矢先に、目の前へさらに美しい少女が現れたことで、言葉を失い、ただ見つめることしかできなかった。

ようやく我に返り、口を開く。

「支払いは、いつすればいいんですか?」

ルーナはアスパノの正面に立っていた。

翼から伝わる熱気に、青年の額には汗がにじむ。

それでも、この美しさを前にして後ずさるほど、彼は臆病ではなかった。

「好きなときに払えばいいわ。」

ルーナはそう答えると、左側の階段へ向かって歩き出した。

「ついてきて。」

穏やかで優しい声でそう言い、振り返って青年を呼ぶ。

アスパノも慌てることなく、ルーナのあとを歩き始めた。

ルーナが先に階段を上り、アスパノはその後ろをついていく。

数段上ったところで、彼はふと足を止めた。

ルーナの裸足が目に入ったのだ。

長いドレスはほとんど全身を覆っていたが、雪のように白い素足だけは見えていた。

「私たちは人間じゃない。」

ルーナは振り返り、彼を見つめながら言った。

「だから、安心して。」

アスパノの足が止まったことに気づき、ルーナは振り返って、自分たちが何者なのかを静かに伝えた。

ルーナが階段を上るたび、その翼から溶岩が滴り落ちる。

アスパノは落ちた溶岩を踏まないよう、一歩一歩、足元を確かめながら階段を上っていった。

青年とルーナは、ゆっくりとした足取りで四階まで上がった。

「……覚悟はできた?」

ルーナは彼を怖がらせないよう、穏やかな声で尋ねた。

彼女は扉の前で立ち止まっていた。

片手はすでにドアノブにかかっている。

今にも開けようとしているようだった。

「ヴェヴァリア。」

その名を呼ぶと、扉はゆっくりと開いた。

しかし、アスパノが入るはずだった部屋ではなく、その隣の部屋から一人の男が姿を現した。

男は階下を見下ろしながら、店番の少女へ声をかける。

長く雪のように白い髪は腰まで届き、前髪は左右に分かれていた。

氷のような淡い青い瞳は冷たく、感情を感じさせない。

背には淡い青色のガラスの翼が生えており、その翼は厚く、重厚で、圧倒的な威厳を放っていた。

身にまとっているのは、前が開いたゆったりとした白いシャツだった。

襟は左右へ折り返され、胸元と引き締まった腹筋の一部がのぞいている。

黒いズボンは彼の脚にぴたりと合っていた。

飾り気のない装いにもかかわらず、その姿はまるで高貴な王子のようだった。

アスパノは男の姿を見た瞬間、その扉の向こうで待ち受けている地獄のことさえ忘れてしまった。

この男こそが、この場所――地獄の主なのだと、一目で分かった。

「かしこまりました、主様。」

ヴェヴァリアはそう答えた。

男が店番の少女の名を呼ぶと、少女は翼を広げ、ほんの数秒で上階へ舞い上がった。

主人の前に立つと、姿勢を崩すことなく、敬意を込めて軽く頭を下げる。

その手には、紫色の葡萄が盛られた皿が載っていた。

「ありがとう。」

ヴォルカンは穏やかに礼を言った。

その優しい微笑みに、アスパノは思わず目を見開いた。

(地獄の主なのに……どうして気高い天使のように見えるんだ?)

(翼はなぜガラスでできていて、どうしてあんなにも光を放っているんだ……。)

アスパノは思わず見惚れながら、ヴォルカンを見つめ続けた。

ヴォルカンはヴェヴァリアが差し出した皿から、一房の葡萄を手に取った。

アスパノは再び、自分が入ろうとしている扉へ視線を向ける。

だが、その前にどうしても聞いておきたいことがあった。

何が待っているのかも、生きて戻れるのかも分からない場所へ、何も知らずに足を踏み入れたくはなかった。

「あの……一つ、お聞きしてもいいですか。」

そう言って、ヴォルカンへ顔を向けた。

「もちろん。」

ヴォルカンは微笑みながら、一粒の葡萄を口へ運ぶ。

「どうして報酬は果物しか受け取らないんですか?」

ヴォルカンは葡萄を一粒ずつゆっくりともぎ取り、薄い唇へ運んでいく。

その顔には、まるで天使だけが浮かべられるような気品ある微笑みが、少しも揺らぐことなく残っていた。

「地上で最初の殺人者の話は知っているか?」

そう問いかけた。

まるで長い間、葡萄を口にしていなかったかのように、彼は休むことなく静かに食べ続けている。

それでも、地獄の主としての気高い佇まいも、その眼差しも、少しも崩れることはなかった。

ヴォルカンは問いを投げかけたものの、答えを待とうとはしなかった。

アスパノの無垢な瞳が、その答えをすでに物語っていたからだ。

青年は、その話を知らなかった。

「最初の人間アダムには、二人の息子がいた。」

地獄の主は静かに語り始めた。

話し始めると同時に、その高貴な微笑みはゆっくりと消えていく。

「カインとアベルだ。

カインは農夫で、アベルは羊飼いだった。

カインはこの世で最も美しく、最も実り豊かな果実を持っていた。

一方、アベルは最も良い家畜を持っていた。」

ヴォルカンは葡萄を持った手をゆっくりと下ろし、アスパノを見つめながら話を続ける。

「ある日、神は二人に供え物を求めた。

大きな犠牲を求めたわけではない。

ただ、自分たちが持つものの中から、贈り物を一つ捧げてほしいと望んだだけだった。

羊飼いだったアベルは、神へ捧げるために一番良い子羊を選んだ。

だが、カインは自分の広い果樹園で実った最も美しい果実を手放すことができなかった。

その代わりに、腐った果実ばかりを籠いっぱいに詰めて捧げた。」

「兄弟は神の御前へ進み出た。

神はアベルの供え物――つまり贈り物を受け入れた。

だが、カインの供え物は受け入れなかった。」

「自らの過ちの犠牲となったカインは、弟アベルを妬むようになった。

その嫉妬は長くは続かなかった。

ある日、彼は石を手に取り、弟の頭を打ち砕いて殺した。」

ヴォルカンはそう語った。

彼はアスパノのすぐそばまで歩み寄ると、さらに一歩前へ出て、青年の真正面に立った。

そして、その瞳をまっすぐ見つめる。

「カインの末裔に、果物以外の何を捧げられるというのだ?」

ヴォルカンの口元には、皮肉めいた笑みが浮かんでいた。

その一言は、アスパノの胸へ深く突き刺さる刃のようだった。

青年は誇り高かった。

だが同時に、自分が罪を犯さなければ家族を守れないことも理解していた。

広大な街の反対側では、ゼヴィアンが仕事を終え、店を閉めようとしていた。

「ビオラ、帰るぞ。」

そう言いながら、ゼヴィアンは上の階から降りてくる。

今夜の彼は、自分は運がいいと思っていた。

妹のルーナにとって《Hell Shop》での初仕事だったが、その面倒は兄のヴォルカンが見てくれている。

だが、いつかはその役目が自分に回ってくることも分かっていた。

ゼヴィアンは一家の末っ子の息子だった。

ヴォルカンより年下で、ルーナより一つ年上。

兄とはまったく似ていない。

夜を思わせる黒い髪と、竜を思わせる翼を持つ彼は、どちらかといえばルーナによく似ていた。

髪は長くなく、耳が少し隠れる程度の長さだった。

それでも前髪を左右に分けているため、全体的に豊かに見える。

翼はルーナのものよりさらに大きく、力強い威圧感を放っていた。

ゼヴィアンはヴォルカンのように色鮮やかな服を着ることはない。

少しゆったりとした、前が半分ほど開いた黒いシャツに、黒い革のブーツ。

その装いが、彼の闇のような雰囲気をいっそう際立たせていた。

夜が訪れると、彼は闇そのものに溶け込む。

まるで夜そのものになったかのようだった。

暗闇の中で見えるのは、炎のように輝く瞳と、翼を流れる溶岩が放つ赤い光だけだった。

ゼヴィアンと店番のビオラは店を閉め、街をあとにした。

背後には、闇に包まれた街の城壁が遠ざかっていく。

目の前には広大な畑が広がる村々が続いていた。

二人は村を抜け、プラタナスの城壁へ向かっていた。

だが、その城壁へたどり着く前に、巨大な森を越えなければならない。

その森はあまりにも広大で、地獄の主たちでさえ簡単に飛び越えることはできなかった。

森では北の王国の戦士たちが夜通し見張りを続けている。

《Hell Shop》が閉店したあとの毎晩、兄妹はこの森で落ち合うことになっていた。

先に着いた者は、ほかの者が来るまで決して立ち去ってはならない。

それが彼らの決まりだった。

ゼヴィアンとビオラは森の入口で、木々の間に身を潜めながら待っていた。

「来たわ。」

ビオラは空を見上げながら言った。

兄妹が近づいてくるのを見ると、ゼヴィアンは翼を広げ、静かに宙へ舞い上がる。

「初日の仕事はどうだった?」

彼は尋ねた。

ゼヴィアンとルーナは、ほかの兄妹とは違い、一歳しか年が離れていない。

そのため兄妹であると同時に、とても仲の良い親友同士でもあった。

ゼヴィアンは妹の初日の様子が本当に気になっていた。

だが、この質問は心配というより、少しからかってみたい気持ちのほうが強かった。

「店は店よ。いつもどおりの一日だったわ。」

ルーナは翼を羽ばたかせながら答えた。

彼女はとても疲れていた。

少し怖い思いもしていた。

それでもゼヴィアンが自分をからかっていることに気づくと、平然とした口調で答えた。

何事もなく終わったように振る舞いたかったのだ。

だが、ゼヴィアンは誰よりも妹のことをよく知っている。

どれほど疲れているのか、一目で分かった。

それでも何も言わず、ただ微笑んで前へ進んだ。

地獄の主たちは、森の中を鳥のように音もなく滑るように飛んでいく。

「……ホッキョクグマだ。」

ヴォルカンが小さくつぶやいた。

ヴォルカンは地獄の主たちの中でも、とりわけ鋭い感覚を持っていた。

白い毛並みが見えるよりも早く、その接近を察知できるほどだった。

誰もが彼の感覚を信頼していた。

「急げ。」

ゼヴィアンはそう言うと、先頭へ飛び出した。

翼を矢のように背中へ畳み込み、弾丸のような速さで空を切り裂いて進んでいく。

兄妹が追いつくまでに、前方の様子を確かめておきたかったのだ。

しかし、仲間からそれほど離れないうちに、巨大なホッキョクグマが突然目の前へ現れた。

白い熊の大きな翼は、まるで天界の天使から奪い取ったもののようだった。

夜の闇も、森で最も暗い場所でさえ、その純白の輝きを隠すことはできない。

熊が空中で翼を羽ばたかせるたび、その下から真っ白な雪がはらはらと舞い落ちた。

「通さない……絶対に!」

震える声で叫んだのは、一人の若い戦士だった。

ホッキョクグマの背には、まだ十五、六歳ほどにしか見えない少年の戦士が乗っていた。

氷の結晶を思わせる大剣を、両手で強く握りしめている。

その切っ先はまっすぐゼヴィアンへ向けられ、すでに戦闘態勢に入っていた。

「ゼヴィアン!」

ヴォルカンが鋭く呼びかけた。

ゼヴィアンは決まりをすべて知っていながら、ときに反抗的だった。

自分に襲いかかろうとする相手がいれば、真っ先に攻撃を仕掛けるのはいつも彼だった。

ヴォルカンは、大きく広げられた弟の翼を見ると、命じるような口調で呼びかけた。

ゼヴィアンにはその声が聞こえていた。

それでも翼を下ろそうとはしなかった。

「私たちは人間と戦うために来たわけではない、若者よ。道を開けなさい。」

ヴォルカンは落ち着いた声でそう告げた。

ヴォルカンはゼヴィアンの前へ一歩進み出た。

「どかない!」

若い戦士は怒りを込めた声で叫んだ。

彼はたった一人だった。

剣を前へ突き出し、いつでも斬りかかれるよう構えている。

だが、その目は絶えず周囲を見回していた。

隊長や仲間の戦士たちの姿を探し、彼らが来るのを待っていたのだ。

手は震え、視線は助けを求めていた。

それでも、その覚悟だけは揺らがなかった。

その若き戦士の本物の戦士としての気概に、ヴォルカンは心を動かされた。

侮辱するつもりも、屈辱を与えるつもりもなかった。

だから、彼にできることは一つしかなかった。

ヴォルカンは重厚なガラスの翼をゆっくりと持ち上げた。

淡い青色の翼が月明かりを受けて静かに輝く。

そして空中で、一度だけ翼を羽ばたかせた。

翼から厚いガラス片が次々と剥がれ落ち、若い戦士の周囲を取り囲む。

戦士はまるでガラスの檻に閉じ込められたように、身動きひとつ取れなくなった。

ガラスはホッキョクグマの身体を焼いているかのようだった。

熊は苦しみに満ちた咆哮を上げる。

「行こう。」

ヴォルカンはわずかに後ろを振り返り、静かに言った。

戦士を傷つけることなく、その場を離れようとしていた。

だが、それは思っていたほど簡単ではなかった。

白い熊はなおも咆哮を響かせている。

ガラスの檻に閉じ込められた若い戦士は、その隙を逃さなかった。

剣で何度もガラスを叩きつける。

ホッキョクグマの力と自らの力が重なり合い、ついにガラスの檻を砕いた。

青いガラスは砕け散り、地面へ降り注ぐ。

戦士は間髪入れず剣を握り直した。

地獄の天使たちはすでに遠ざかっていた。

それでも、まだその姿は見えている。

彼は全力で、水晶の剣を槍のように天使たちへ向かって投げ放った。

「主様!」

ヴェヴァリアは悲鳴を上げた。

振り返った彼女の目に映ったのは、光の速さでヴォルカンへ迫る氷の剣だった。

主を守るため、彼女は迷うことなく剣の前へ飛び出し、黒い翼を大きく広げる。

ヴォルカンは、氷の剣が届く前から、その冷気を感じ取っていた。

だが、気にも留めていなかった。

剣が届いた瞬間に振り向き、一撃で砕くつもりだったのだ。

しかし、ヴェヴァリアが身を挺して前へ出たことで、今度は彼が彼女を守らなければならなかった。

ヴォルカンは両腕でヴェヴァリアを抱き寄せる。

落ち着かせるように、翼で彼女を包み込んだ。

地獄では、彼は『四本腕』と呼ばれていた。

両腕と翼が、それぞれ別々に動くからだ。

腕でヴェヴァリアを抱きしめる一方で、ガラスの翼はすでに戦いを始めていた。

翼から放たれた鋭いガラス片が、氷の剣の行く手を遮る。

水晶の氷の剣は、地獄の熱を帯びたガラスと激突した瞬間、粉々に砕け散り、白い粉となって宙へ舞った。

「お兄ちゃん……あの戦士が……」

ルーナは小さな声でつぶやいた。

空中に漂う氷の粉が晴れると、彼女の目に飛び込んできたのは、自分たちへ向かって飛んでくるホッキョクグマの真っ赤に染まった背中だった。

大きなガラス片が、若い戦士の胸に深く突き刺さっていた。

流れ出した血は、わずか数秒で白い熊の背を真紅に染め上げる。

戦士は胸に刺さった分厚いガラスを見つめながら、熊の背から地面へ落ちていった。

それはホッキョクグマの怒りに火をつけた。

熊は咆哮を上げながら、ヴォルカンへ向かって飛びかかる。

「私の後ろにいろ。」

ヴォルカンは落ち着いた声で言った。

ホッキョクグマの巨大な体躯を前にしても、彼は微塵も恐れなかった。

最後に恐怖を覚えたのがいつだったのか、自分でも思い出せない。

誰もが彼を恐れる。

地獄の主が、いったい誰を恐れるというのか。

白い熊がヴォルカンへ迫るのを見たゼヴィアンは、黙って見てはいなかった。

兄に助けが必要ないことは分かっていた。

それでも彼は兄の隣へ並び、翼を広げた。

誰もがホッキョクグマへ意識を向けていた。

暗闇の中、ルーナの姿が消えたことに気づく者はいなかった。

彼女は初めてプラタナスの境界を越えた。

そして初めて、人間たちの王国へ足を踏み入れた。

血まみれになって地面へ落ちた若い戦士を見た瞬間、炎でできた彼女の心は、その光景に耐えられなかった。

彼を助けるため、ルーナは地上へ降り立つ。

戦士は自分の血の中で、今にも溺れそうになっていた。

口からも、胸の大きな傷口からも、絶え間なく血が流れ出ている。

それでも、まだ息はあった。

苦しそうに咳き込み、息を詰まらせている。

ルーナは彼のそばへ降り立った。

溶岩の雫が青年に落ちないよう、翼を背中でたたむ。

戦士は目を大きく見開いたまま、恐怖に満ちた眼差しでルーナを見つめていた。

自分を殺しに来たのだと思っていたのだ。

「……ガラスを抜くね。」

ルーナは小さくささやいた。

不安そうな目で、青年の胸に突き刺さった太いガラス片を見つめる。

細く長い指でガラスをしっかりと握った。

痛みを与えたくはなかった。

それでも、これを抜かなければ助けることはできない。

彼女は一気にガラスを引き抜いた。

その瞬間、胸の傷口から血が勢いよく噴き出す。

ルーナの顔も、髪も、服も、青年の血で真っ赤に染まった。

「これから少し痛むわ。」

ルーナはそう言って両手を高く掲げた。

両手を宙にかざし、血が噴き出している戦士の傷口の上へ向ける。

すると、地獄の天使の掌から塩がさらさらとこぼれ始めた。

砂のように降り注ぐ塩は、ゆっくりと傷口を埋めていく。

塩が傷に触れた瞬間、その痛みは命を奪われるのではないかと思うほど激しかった。

若い戦士はその激痛に耐えきれず、目を閉じる。

もう自分の血に溺れることはなかった。

だが、あまりの苦痛に、叫ぶ力すら残されていなかった。

そのまま意識を失った。

「ルーナ!」

ヴォルカンが鋭い声で叫んだ。

ホッキョクグマとの短い戦いを終えたあと、ヴォルカンとゼヴィアンはルーナの姿が消えていることに気づいた。

しかし、彼女を見つけるのに時間はかからなかった。

地上へ降り立ったときには、ルーナはすでに若い戦士の傷を塞ぎ終えていた。

戦士はまるで死んだように横たわっていたが、まだ生きている。

胸の大きな傷は完全には塞がっていなかったものの、その空いた部分は白い塩で満たされていた。

「お前……何をしたんだ!」

ゼヴィアンは動揺した声で言った。

二人の兄は、愕然とした表情でルーナを見つめていた。

ルーナは、天使たちにとって最も神聖な掟を破ってしまったのだ。

だが、もう手遅れだった。

瀕死の人間を救ってしまったのだから。

ルーナは、その掟を知っていた。

自分が破ったことも分かっていた。

けれど、それは知識として知っていただけだった。

本当の意味では理解していなかった。

彼女は炎の心を持つ若い天使だった。

掟の本当の重みを理解するには、まだ時間が必要だった。

しかし、その時間も、その機会も、もう残されてはいなかった。

地獄の主たちは言葉を失い、ただ恐ろしいものを見るような眼差しでルーナを見つめていた。

「来るわ……。」

ビオラが小さくつぶやいた。

暗い夜空から雪が降り始める。

しかし今度の雪は、先ほどとは比べものにならないほど激しかった。

「行くぞ。」

ゼヴィアンが言った。

「戦士たちが近づいている。」

降りしきる雪には誰もが気づいていた。

冷気はますます強くなっていく。

近づいてくる戦士たちの気配と冷たさを感じ取ることができた。

ただ一人、ヴォルカンだけは、その場で凍りついたように動かなかった。

その顔には、どうしようもない苦しみが浮かんでいる。

ルーナを見つめていた。

だが、もう何を言うこともできなかった。

掟は破られ、人間は死から救われた。

ヴォルカンに残された選択は、一つだけだった。

「行くぞ!」

彼は厳しい声で命じた。

地獄の主は妹から目を離さぬまま翼を広げ、夜空へ舞い上がる。

ゼヴィアンと店番の少女たちも、そのあとに続いた。

「もう、お前は私たちと一緒には帰れない。」

ヴォルカンは言った。

兄たちが飛び立つのを見て、ルーナも翼を広げる。

しかし、ヴォルカンが彼女を制した。

天使は、人間を死から救ってはならない。

ルーナは、その掟を誰よりもよく知っていた。

幼い頃から本で何度も読んできた。

だが、知っていることと理解していることは違う。

その掟を破った代償も知っていた。

それでも、その意味を本当には理解できていなかった。

地獄の天使が人間を死から救えば、その代償は――永遠に地獄を追放されることだった。

「もう戻ることはできない。」

ヴォルカンは怒りを押し殺した声で言った。

ルーナは絶望したまま空中にとどまる。

兄たちのあとを追いたかった。

だが、ヴォルカンは彼女を止め、もう一度その掟を突きつけた。

「兄さん……。」

ゼヴィアンは歯を食いしばりながら言う。

「この子をここに置いてはいけない。」

彼も掟は知っていた。

それでも、幼い妹を人間の王国へ一人残すことなどできなかった。

ここへ置き去りにすることは、死を意味するからだ。

ヴォルカンも、妹を見捨てることはしない。

ゼヴィアンはそう信じていた。

だが、それは間違いだった。

「行くぞ!」

ヴォルカンの怒声が響く。

地獄の主は最後の言葉を強く言い放つと、一度も振り返ることなく、プラタナスの境界へ向かって飛び去っていった。

ゼヴィアンは妹を助けたかった。

だが、どうすることもできなかった。

たとえヴォルカンが許したとしても、家へ戻れば父も家族も、誰一人として認めないだろう。

もう、誰もルーナを地獄へ迎え入れることはできない。

ゼヴィアンは最後にもう一度だけ、悲しげな目で妹を見つめた。

ルーナは空中で力なく翼を羽ばたかせている。

彼女にできることは、兄たちが遠ざかっていく姿を見送ることだけだった。

雪はさらに激しさを増した。

ルーナが振り返ると、ホッキョクグマに乗った戦士たちがこちらへ迫ってくるのが見えた。

若い天使は、自分の死がすぐそこまで来ていることを悟る。

翼を閉じ、静かに地上へ降り立った。

そして膝をつき、目を閉じたまま眠るように横たわる若い戦士を見つめる。

ルーナは悲しかった。

それでも、後悔はしていなかった。

戦士たちに殺される前に、自分が救った命を最後にもう一度見届けたかった。

翼を背中でたたみ、膝をついたまま、すべてを受け入れたように静かに待つ。

迫ってくる戦士たちと戦おうなどとは、ほんの少しも考えていなかった。

彼女は戦士ではない。

ただ、一人の天使だった。

その視線は、傍らに横たわる負傷した戦士から離れなかった。

「下だ!」

一人の戦士が叫ぶ。

十頭の巨大なホッキョクグマが、大きな翼を羽ばたかせながら彼女へ迫ってくる。

純白の翼は激しい吹雪を巻き起こしていた。

ルーナは寒さに震え始めた。

それでも身体を制御しようと、全力で耐える。

彼女は戦士ではない。

だが、死を前に震え上がるほど弱い存在でもなかった。

ルーナはゆっくりと顔を上げ、空を見上げる。

ホッキョクグマたちも、戦士たちも、吹雪も――そのすべてが、彼女を四方から包囲していた。


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