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コーヒーに角砂糖を三つ入れたら、太陽の騎士様に拾われました

作者: メイ
掲載日:2026/03/13

「セシリア・フォン・エルメス! この場をもって、貴様との婚約を破棄するッ!!」


 王立学園の卒業パーティー。

 豪奢なシャンデリアが輝く大広間に、王太子ユリウス殿下の声が高らかに響き渡った。


 その腕には、自称『光の聖女』の義妹ミリアが、勝ち誇った笑みでしなだれかかっている。


 ああ。

 あの目を、私は知っている。


 人を見下し、自分は守られる側だと信じ切っている目だ。


 まさかこんな場所で、そんな目を向けられることになるなんて。

 ……なんで私が。


 ミリアはぺろっと舌を出して、あっかんべーをした。

 それを見たユリウス殿下は咎めるどころか、愛しそうに彼女の頭をぽんぽんと撫でる。

 その目はとろりと緩みきっていて、完全に骨抜きだ。


 ミリアはまさしく、小動物のような女だった。

 愛嬌を煮詰めて形にしたら、きっとミリアみたいな生き物になる。

 ただし、その正体は——厭らしい蛇だ。


 なんてことはない。

 ユリウス殿下も、その毒牙にかかっただけのこと。

 言葉通り骨抜きにされた。いや、骨ごと溶かされたのだろう。


 周囲の貴族たちは、私への同情と嘲笑を隠そうともしない。

 最低限の品ぐらい、大層な邸宅に忘れてきたのだろう。かわいそうに。


 私はグレーのドレスの裾を軽くつまみ、完璧なカーテシーをしてから、ゆっくりと顔を上げた。


「——はい。承知いたしました」


 あまりにもあっさりした返答に、ユリウス殿下は眉をひそめる。


「……強がるな。貴様がミリアに陰湿ないじめをしていたことは、すでに明らかだ! このような女を次期王妃にするわけにはいかない! 僕は真実の愛、このミリアと新たに婚約を結ぶ! ……もう大丈夫だ。怖かったよなぁ、愛しのミリア」


「ユリウス殿下……貴方がいなかったら、私は死んでいたと思うのです……」


「違うよ、ミリア。君がいなかったら、死んでいたのは僕の方だ。いや、君を見た瞬間に一度死んで、君を思うたびに生き返るんだ。なんて素敵な気分なんだろうね」


 まったく何を言っているのかわからない。


 死んだあとに生き返る?

 あらやだ。

 つまりゾンビのような腐敗臭をまき散らしているってことでいいのかしら。


「いいのですか、本当にそのメスへ……その、優秀すぎて汗をかくことすらないミリアで?」


 危ない危ない。

 雌蛇と言うところだった。


 執事をゴミ同然に扱い、愛嬌という糸で人を操り、自分は何もしないミリア。

 そりゃあ汗なんてかかない。

 やっぱり我が義妹こそ、立派な雌蛇なのである。


「貴様、何を言っている。優秀すぎるのなら文句の出るはずもなかろう。僕が幸せそうで悔しいか? ん? 僕が欲しいか? 残念だったな、岩女め」


 岩女。

 どうやら私のことらしい。


 感情が乏しく、いつも無表情だと、ユリウス殿下はそう呼んだ。

 夜伽の時ですら、そうだった。


 あの夜は、本当につまらないことの連続だった。

 話もなければ、雰囲気もない。ムードの欠片すらない。

 演技で啼くふりをするのすら億劫だった。


 きっとこの人は、一生気づかないのだろう。

 私が岩女なのは——ユリウス殿下、貴方の前だけだということに。


 ……私だって、本当は笑いたい。


 勝ち誇る彼を見て、私は心の中で静かに数え始めた。


 三。

 二。

 一。


 私には前世の記憶がある。

 現代日本で、来る日も来る日もデスマーチを乗り越えていたブラック企業の社畜OL、それが私だ。

 過労で倒れ、目が覚めたらこの世界に転生していた。


 しかも転生特典つき。

 圧倒的な魔力と、『タスク管理』という概念操作スキル。


 この国の政務は、前時代的な紙ベースで滞りまくっていた。

 おまけに国を覆う魔物よけの『大結界』は、手動で魔力を注ぎ続けるというバカみたいな超絶アナログ仕様。


 見かねた私は、前世のプログラミング知識と社畜スキルを魔法に応用し、『全自動政務処理・結界維持システム』——通称、王国OSを裏で構築したのだ。


 殿下が「僕の完璧な政治手腕!」とドヤ顔で提出していた書類の九割は、私が裏で自動処理していたもの。

 この王都が今日まで平和だったのも、私がシステム経由で結界を維持していたから。


 ……あれ?

 私、転生してもブラックな労働体質、抜けてなくない?


 哀れすぎる。

 ブラックなのはコーヒーだけでいい。

 角砂糖は二つ。なんなら三つでもいい。


「私が無能だから、婚約破棄。……殿下のご意志は、岩のように揺るぎないのですわね?」


「当然だ! 貴様のような女は修道院で一生祈りでも捧げているがいい!」


 最後の確認に、ユリウス殿下は傲慢に言い放った。

 岩という皮肉に気づくわけもない。


 修道院で祈れと言うなら、殿下とミリアの周囲に、二度とまともな家臣が寄りつきませんようにと祈っておく。

 くだらなさすぎて死にたくなるから。

 なんか、前世の使えない上司を思い出すな。


「分かりましたわ。——では、これをもって私は王太子妃候補の座を退き、同時に、私が維持していたすべての魔法契約を解除します」


 私は冷たい笑みを浮かべ、片手を天にかざした。


「システム、管理者権限アドミン・プリビレッジ返上。——全タスク、強制終了アボート


 その瞬間だった。


 パァァァンッ!!


 甲高い破裂音とともに、王城を覆っていた薄青い光のドーム——大結界が、まるで飴細工のように砕け散った。


 会場が静まり返る。

 誰も、何も言わない。

 シャンデリアの光だけが、ゆらゆらと揺れていた。


「……な、なんだ? 結界が……」


 ユリウス殿下の声が、珍しく小さい。


「……殿下」


 沈黙を破ったのは、老齢の宰相だった。


「この結界……まさか、ずっとセシリア嬢が維持していたのですか」


「う、うるさい! そんなはずが——」


「では、先月の魔物討伐の報告書も……三年前の北方との外交協定も……」


「まさか……」


「殿下の政務は……」


「三年間、一度も滞らなかったのは……全部、セシリア嬢が?」


 ざわり、と空気が揺れる。


 今まで私を見ても、ただそこにいるものとして通り過ぎていた人たちが、初めて“私”を見た気がした。


 声になりきらないざわめきが、波紋のように会場を広がっていく。


 私はそれを、ただ静かに聞いていた。


 ああ、この感じ。

 ブラック企業で退職届を出した朝に似ている。


 長年気づかなかったくせに、いなくなって初めて「あの人がやってたのか」となるやつだ。


 ——遅い。

 そして笑えるほどに愚か。


 そう思うのに、胸のどこかが、どうしようもなく痛かった。


 そこへ追い打ちをかけるように、さらなる異変が起きた。


 ユリウス殿下の頭上に浮かんでいた『王位継承者』の魔法紋章が、ノイズとともに霧散したのだ。

 同時に、彼の指にはめられていた『魔力バンク』のアクセスリングが、ピキィィンと音を立てて砕け散る。


 いいね。

 この音、癖になりそう。


「僕の紋章が……!? リングが!? どういうことだ!?」


「ユリウス殿下。私の『システム魔法』は、殿下の『王位継承者資格』を管理者として認証し、王室の魔力バンクから魔力を供給していたのですわ。……私が管理者権限を返上した今、殿下はシステムにとって『ただの魔力を持たない一般人』です。理解できますか? 復唱しましょうか?」


「な……嘘だ、嘘だ!!」


 へたり込む殿下の隣で、ミリアにも異変が起きた。

 彼女から溢れていた聖女のオーラが、一瞬にして消え失せたのだ。


「あ、あれ……? 私の甘美な力が……!?」


 両手を見つめて首を傾げるその仕草は、見ようによってはかわいらしい。

 でも、会場の空気はもう違っていた。


「……聖女様の力が、消えた?」


「では、あの光は……」


「偽物、だったということか?」


 冷たい視線がミリアへと注がれる。


 ミリアはぱちぱちと瞬きをして、それから上目遣いで唇を震わせた。


「み、皆さん……誤解です。私はただ……ユリウス殿下を愛していただけで……」


 でも、今度は誰も頷かなかった。


 その静寂が、さっきまでの喝采より、ずっと残酷だった。


「ミリア。あなたの聖女の力も、私がシステムの余剰魔力を回して『聖女っぽく見せていた』だけですわ。……偽物の光、お疲れ様でしたわね」


「お、お姉さま。な、なぜ、私をそんなにいじめるのですか……?」


 これは恐れ入った。

 その目は完全に『被害者ヅラ』の目だ。


 自己中心的な人間の怖いところは、自分が見えていることじゃない。

 他人が一切見えていないことだ。


「妄想乙」


 私が鼻で笑って吐き捨てると、ミリアは真っ赤になって肩を震わせた。


「ど、どういう意味ですの!?」


「悲劇のヒロインの演技が、赤子のあんよのようにとてもお上手。って意味ですわよ」


「な、なんて侮辱なの……! ゆ、許せないわ……!」


 唇を噛んだミリアは、ふらりとユリウス殿下の胸にすがりついた。

 上目遣いで、甘く囁く。


「ねえ、私の殿下様。あの人、もう婚約者じゃないのよね……?」


「当然だミリア! 僕にこんな仕打ちをしたんだ! 謀反は立派な反逆罪だぞ!?」


 怒りで真っ赤になった殿下の胸元を、ミリアの細い指がなぞる。

 表情は柔らかい。

 けれど、その瞳にはどす黒い殺意が宿っていた。


「なら、殺して」


「ミ、ミリア……!? い、いいのか、だって彼女は君のおねえさ——」


 その言葉は、ミリアの毒を含んだ唇によって塞がれた。


 背伸びをした彼女が、周囲の目も憚らずユリウス殿下に深く、ねっとりとしたキスを落とす。

 愛嬌という名の猛毒を、そのまま脳へ流し込むように。

 唇が離れると、ミリアは妖しく微笑んだ。


 毒蛇の笑みだった。


「殺して」


「……ああ。ミリア、愛してる。あのクソ女を殺そう」


 甘い毒に脳髄まで溶かされた殿下は、うわ言のように呟き、腰の剣に手をかけた。

 金色のライオンの紋章がいやらしく光る。


 これはまずい。

 ——逃げないと。


 さすがの私も、命の危機には反応する。

 死は一度経験した。……そう思っていた。


 だけど。


「ふっ。どうした? 声も出ないか? まさか恐怖で動けなくなるとは。最後まで滑稽な岩女だ」


「バカなお姉さま。私に逆らうからこうなるのよ」


 ドロッとした足取りで、ユリウスがゆっくり近づいてくる。

 バカにしか見えなかった男の顔が、死神みたいに歪んでいた。


 ……あれ。

 どうしたの、私。


 膝が動かない。

 がくがくと震えて、太ももに力が入らない。


 自分の状況をなるべく俯瞰する。

 震える指先が見える。

 私の指だ。


 それを見て、淡々と絶望した。


 ……なぁんだ、私。

 ちゃんと、死ぬの怖いんだ。


 一回目はただの過労死。

 しっかり殺されるのは、これが初めてなんだ。


 でも二回目は、こうやって殺される。

 バカな男と、それを弄ぶバカな女に。


 ……ダガッ、ダガッ。


 死の足音が近づいてくる。


 ダガッ。

 ダガッ。


 そのたびに、胃をぎゅっと掴まれるようで。


 ダガッ。


 目の前に、もうそれはいた。


 ああ。

 嫌だな。

 死にたくないな。


「泣いてるのか? 哀れな女め。……死ねえっ!!」


 ユリウスは剣を振り上げた。

 間違いなく、私を殺すための動作。


 ドッドッドッドッドッ。

 心臓が高鳴る。

 ——いや、違う。


 それは私の鼓動じゃない。

 何かが、猛然と駆けてくる音だった。


 凶刃が振り下ろされる。

 私は反射で目を瞑った。


 あ、死ぬ——。


 そう思った瞬間。


 ガキィィィンッ!!


 甲高い金属音が大広間を震わせた。


 え。

 ……生きてる?


 恐る恐る目を開ける。


 目の前には、信じられない光景が広がっていた。


 ユリウス殿下の剣は、巨大な両手剣に受け止められていた。

 その剣は、眩しいほどに煌いている。


「女を泣かすのは、喜ばせる時だけだと決まっている」


 ドキュンッ。


 変な音が、内側からした。

 いやこれもたぶん誰かの足音だ。

 うん、そういうことにしておこう。


 私の前に立っていたのは、闇から這い出たような圧倒的威圧感を纏いながら、それでも盾のように私を庇う男。


 隣国レグルス帝国の筆頭公爵にして、大陸最強の騎士。

 レオンハルト・ヘリオス・アークライト、その人だった。


「き、貴様ァ~~ッ! 来賓の分際で何をするッ!?」

 ユリウス殿下が怒鳴る。


 しかし、その怒号をかき消すように黄色い声が上がった。


「なにあの人、かっこいいっ!!」


 ……ミリアである。


 頬を染め、両手を胸の前で組み、レオンハルト様を熱い目で見ている。


 おい雌蛇。

 さっきまで私への殺意に満ちてたのに、切り替え早すぎない?

 完全に極上のオスを狙う目じゃないの。

 雌猫属性まで持ってるの? ますますヤバい女だな。


「ミリアッ!? な、何を言っている!?」


「え……ちがうんです、殿下さま。殿下さまをかっこいいと言ったんですよ。私たちの愛を疑うんですか……?」


 上目遣いで涙ぐまれ、ユリウス殿下はあっさり絆された。

 チョロい。チョロすぎる。

 バカとバカ。アホとアホ。

 本当にお似合いの二人だ。


「ミ、ミリア。そんなわけないだろう。待ってろ、あの男を殺してくる」


「お?」


 レオンハルト様が、面白そうに片眉を上げる。


「貴様、許さんぞ」

「やるか? ……いいぞ。だが覚悟しろ。それをもう一度抜いたら戦争だ。その意味がわかるな? 裸の王様さん」


 底冷えする声。

 その覇気だけで普通の人間なら気絶しそうなのに、不思議と私には暖かさも感じられた。

 なんだろう、この安心感は。


「は、裸の王様だと……!? 侮辱するなぁあああっ!! ここは僕の国だ! 僕を誰だと思っている!? 僕はユリウス・デ・ダサイゴン三世様だぞ! 貴様は殺すっ!」


 ……ダサイゴン。

 最初に聞いたときもすごく同情したけど。

 自分で名乗っていて悲しくならないのかな。

 名前がすでに敗北している。


「決闘として承った……俺は太陽の騎士、レオンハルト・へリオス・アークライト」

「う、うるさい!」

「おっと」


 レオンハルト様が名乗り終える前に、ユリウス殿下が剣を振りかぶって突っ込んだ。


「太陽の騎——」


「知るかァッ!! 死ねええッ!」


 ……なんだこのコント。


 レオンハルト様はひらりと剣を躱し、くるりと回って、ユリウス殿下の背中へ重い後ろ蹴りを叩き込んだ。


「うぐっ!」


 無様な声をあげて、殿下は床を転がる。

 うん、床が似合う男だ。


「ダメだ。死ぬにしても名乗りは絶対だ」


 レオンハルト様は大剣を肩に担ぎ直し、今度こそ堂々と宣言した。


「——俺は太陽の騎士、レオンハルト・ヘリオス・アークライト。この世界に笑顔をもたらす者だ」


 ……認めたくないけど。

 顔も声も所作も、全部圧倒的にかっこいい。


 え、かっこいい?

 ちょっと待って、何言ってんの私。


「き、貴様ァ……!」


 プライドを粉々にされた殿下が再び飛びかかってくる。


「参る」


 レオンハルト様は微かに笑い、迫る剣をジャストタイミングで弾いた。

 甲高い金属音。

 殿下が大きく体勢を崩したその瞬間、大剣の腹を使った強烈な一薙ぎが叩き込まれる。


「ひぎぃっ!?」


 ガシャンッ! と派手な音が響き、豪奢な鎧が粉砕された。

 破片が宙を舞い、ユリウス殿下は数メートル吹き飛んで床へ転がる。


「がほっ! げっ、げほっ……!」


「ユ、ユリウス殿下ッ!? 大丈夫ですか? まだ戦えますか?」


「……いやいや、これ見てわからぬのか。今の僕は傷を負っているんだぞ!」


「——チッ、使えねえぞこいつ……」


「え」


 駆け寄ったミリアの口から、信じられない本音が漏れた。

 聖女(偽)のメッキ、完全に剥がれてる。


 しかも次の瞬間、その目はもう別の獲物を探していた。


 そして見つけたのだろう。

 この場で最も強く、最も美しく、最も寄りかかる価値のある男を。


 ミリアは倒れたユリウス殿下から視線を外し、何事もなかったかのようにレオンハルト様へ一歩にじり寄った。


「……あんな混乱を一瞬で鎮めてしまうなんて、さすがでいらっしゃいますわ、レオンハルト様。私、思わず見惚れてしまいました。よかったらこのあと、少しだけお話を聞かせていただけませんか?」


 うわ。

 切り替え早っ。怖っ。

 馬車でももう少し発進に時間がかかる。


 レオンハルト様は、ミリアを一瞥しただけだった。

 その目には、熱も興味も欠片もない。


「すまない」


 低く静かな声。


「タイプじゃないんだ」


 一瞬、会場の空気が止まった。


 ミリアの笑みが引きつる。

 頬がぴくりと震え、目の奥にどす黒いものが浮かんだ。


 けれどレオンハルト様は、もう彼女を見ていなかった。

 視線はユリウス殿下に向いている。


「どうだ、まだやるか?」


「貴様ッ! ど、どこまで僕を侮辱する気だッ!? もういいっ! 衛兵! クソ女諸共やれっ!!」


 ダサイゴン三世の叫びとともに、周囲で待機していた数十人の衛兵が一斉に槍を構えた。


 嘘でしょ。

 私まで巻き込む気!?


「ぐっ……!」


 身構えた瞬間、ぐいっと腕を引かれた。


「えっ?」


 視界が反転する。

 レオンハルト様が私を引き寄せ、抱え込むように低い姿勢を取ったのだ。


 ふわりと、微かな香水の香りと、戦士特有の熱を帯びた匂いが鼻をくすぐる。


 彼は私を庇うように地面へそっと寝かせると、その場を軸に巨大な大剣を竜巻のように一回転させた。


 ブォォォンッ!!


 空気を裂く轟音。


「ぐあぁっ!!」


 迫っていた衛兵たちの槍がまとめてへし折られ、木の葉のように吹き飛んでいく。

 たった一撃。


 これが、大陸最強。


 静まり返るホールの中、レオンハルト様はゆっくりと身を起こし、呻く衛兵たちとユリウス殿下を冷ややかに見下ろした。


「気安く触れるな、無能共。この女は、我が帝国が貰い受ける」


 そう言ってから、彼は私を見下ろした。

 冷酷と恐れられる男とは思えないほど、熱のある優しい目で。


 ドキンッ。


 また心臓が大きく鳴る。


「貰い受ける……はっ!? いやいやいやいやっ!」


 私は真っ赤になって飛び起きた。

 助けてもらったのは感謝する。

 でも勝手に所有権移転しないで!?

 私、たった今退職したばっかりの無職なんですけど!?


「いや、そうだよな。すまん。もっとちゃんと言う」


「は、はいっ!?」


 だめだ。

 レオンハルト様が現れてから、全然冷静じゃいられない。

 死の恐怖でおかしくなったのか?

 いや、たぶん別の意味でおかしい。


 彼は私をさっと引き上げた。

 力強いのに、まったく痛くない。

 いつの間にか、私は地面に座ったまま彼と視線の高さを合わせていた。


「セシリア。俺のことを覚えているか?」


 低く甘い声。

 脳内CPUが一瞬フリーズする。


 彼のことは、遠巻きに見ていた記憶しかない。

 いつだって私は、ぽんこつ王太子の隣で書類処理に追われていたのだから。


「は、はい。レオンハルト様、何度もお城に来てくださっていましたよね。あまりたくさんはお話しできていませんが」


「——だから、この言葉は早すぎるかもしれない」


「え?」


「本当なら、もっと落ち着いた場所で伝えるべきなんだろう。君が怯えていない時に、きちんと」


「……はい」


「だが、今言わなければ、きっと俺は後悔する。だからセシリア——」


 彼の大きな手が、私の頬をそっと包み込んだ。


 え、なに。

 この少女漫画みたいな展開。

 システムにこんなフラグ実装した覚えないんですけど?


「は、はい……な、なんでしょう」


「……好きだ」


「…………は?」


 王城の崩れたホールに、不釣り合いなほど真っ直ぐな二文字が落ちた。


「……えっ!? す、好き!? 正気ですかっ!?」


「正気だ」


「そういう問題じゃなくてっ!」


 言葉の定義じゃない。

 状況のバグを指摘しているのだ。


 なのに彼は、まるで私の慌てぶりごと愛おしむみたいに少しだけ笑って、さらに顔を近づけた。


「……好きなんて言葉じゃ、足りないな」


「え」


「——愛してる」


「はひっ!?」


 変な声が出た。

 いや、出ざるを得ない。


 顔が熱い。

 前世の激務で死んだはずの乙女回路が、許容量オーバーで火花を散らしている。


「俺に愛されてくれ。……返事は?」


「返事!? 今!? この大惨事のど真ん中で!?」


 周囲を見れば、伸びているダサイゴンと衛兵、ぽかんとこちらを見る国王や貴族たち。

 その真ん中で、この顔面偏差値の暴力みたいなスパダリから逃げ場ゼロの告白。


「返事って、あはは、えーと、その……」


「ああ、なんだ?」


 至近距離で甘く問いかけてくる彼の分厚い胸板が視界に入る。

 あまりの頼もしさと熱に、くらくらと酔いそうになる。


 だめだ。

 これ以上近くにいたら、私の自我システムが完全初期化される。


「む、無理でしゅっ!」


 噛んだ。

 盛大に噛んだ。


 気づいたら私は全力で両手を突き出し、レオンハルト様の胸を押していた。

 完全に警戒を解いていたのだろう。

 帝国最強の騎士は無防備に尻餅をつく。


 やばい。

 自分でわかる。

 生まれて初めての特大パニックだ。


「ご、ごめんなさいっ!」


 私はその場からダッシュした。

 ドレスの裾を振り乱し、崩れかけた城門を風のように飛び出す。


 残されたのは、尻餅をついた最強騎士と、崩壊した王国だけだった。



 ◇



 どれぐらい走ったのかわからない。


 気づけば私は、森にいた。


 息を整えながら、腰を下ろせそうな場所を探す。

 あ、切り株発見。


 直接座ったら綺麗なドレスが汚れるけど、いいのいいの、おかまいなし。

 これもあのクズ男が選んだドレスだし。

 汚しちゃえ、汚しちゃえ。


 ……あ、作ってくれた人には感謝してます。普段は大事にしてます。

 って、誰に弁明してるのよ。


 切り株は普通に硬いし、ドレスは緩衝材として機能不足だし、お尻は普通に痛い。

 うう……私のボリューム控えめなお尻がさらに削られてしまう。


 でも、ささくれてないのはありがたい。

 綺麗に切ってくれた木こりのおっさんに感謝だ。

 ……見たことないから、お姉さんかもしれない。

 とりあえず木こりマスターに感謝ということで。


 さて。

 それより、ここはどこだ。


 細かい場所はわからない。

 でも大枠では把握している。

 城の近くにある森は、『癒しの森』か『死の森』のどちらかだ。


 うん、名前のコントラストがえぐい。


 そしてここが『死』ではなく『癒し』だとわかった理由は単純。

 癒しの森は葉が青系で、死の森は赤系だから。


 木を見る。

 葉を見る。

 青い。


 ここは癒しの森。

 Q.E.D.私、天才かもしれない。

 ……ツッコミは不在。


 ちなみに、癒しの森に何があるかは知らない。

 私、お城からほとんど出たことないから。


 というか、結界の権利者権限を持っている間は外に出ない方がいいと判断していた。

 転生してから、ずっとそんな感じだ。


 もしかしてこれもブラック労働気質のせい?

 ……うわ、考えると嫌になる。


 地獄しょくばのことは、考えても寿命が縮むだけ。

 脳内消去デリート

 脳内消去デリート

 気持ちいい。


 そうやって脳内会議を強制終了したときだった。


 ——この森、妙に静かだ。


 ほら、耳を澄ませばカラスの鳴き声。

 その反対側から、今度は低い唸り声。


「ガル……」


 気づけば目の前にいた。

 私より二回りは大きい、狼らしき獣が。


 夜に光るような瞳と視線がぶつかる。


「きゃあああああああっ!」


 喉が潰れそうな悲鳴が出た。

 私は必死に走る。

 正しい道なんてわからない。

 とにかく森の奥へ。


 ——もう、死ぬような思いはしたくない!


 だけど相手は狼。

 逃げ切れるわけがなかった。


 狼は跳躍し、一気に距離を詰めてくる。


 ガブッ!


 噛まれた!


 ……い、痛っ……くない?


 恐る恐る見ると、噛まれていたのはドレスの裾だった。

 トレーン部分。


 引きずるサイズのドレスに助けられた。

 ありがとうドレス職人さん、いい仕事です。星五つ。


 ——なんて冗談で恐怖をごまかしていられたのも束の間。


 狼はゆっくり私の前に回り込み、口元から涎を垂らしながら、悪戯っぽく笑っているように見えた。

 そして次の瞬間、勢いよく突っ込んでくる。


「あぁあああっ! 死ぬぅううっ!?」


 今度こそ終わった。

 そう思った、その時。


 カプリッ!


 ……ん?

 かぷり?


 モフモフッ!


 もふもふ?


 ペロペロッ!


 ぺろぺろ?


 ……え、なんか、ざらざら温かい。

 あとちょっと獣臭い。

 そして何より——


「あはははははっ! ちょっとやめて、くすぐったい! 首はくすぐったいのよ! なんで弱点知ってるの!?」


 気づけば私は、もふもふ狼に首元と頬をめちゃくちゃ舐められていた。


 よく見れば、こいつ、かわいいじゃん。


 そうか。

 一回目は過労死。

 二回目はモフ死か。

 悪くないかもしれない。


 さらば、私の人生。

 来世はブラック企業から解放してくれ。

 金持ちの猫とかになりたい。


 そうやってモフモフに翻弄されていると。


「こら、ライカ! 勝手にペロペロするな!」


 聞き覚えのある低いバリトンボイス。

 立派な体格。

 ——レオンハルト様がいた。


 ドクドクッ、と心臓が跳ねる。


 最悪だ。

 森が静かすぎて、もうごまかせない。


 ライカと呼ばれたワンちゃん(狼)は、しっぽをぶんぶん振りながらレオンハルト様へ突撃した。

 彼はそれを優しく受け止め、ごろんと寝転ぶ。

 ライカは私にしたように、彼の顔を縦横無尽に舐めまくる。


 ……あまりに慣れてる。

 今のレオンハルト様の顔、たぶんスライムぐらいべちょべちょだ。


 こうして見ると、あの大きなライカがただの大型犬に見えてくる。

 そしてレオンハルト様の恰幅の良さが、さらによくわかった。


「あー、わかった! わかったよライカ。帰ったらワイバーンの骨をやるから、落ち着けって」


 ひとしきりなだめてから、彼はライカをお座りさせ、こちらを向く。


「さて」


 まっすぐな視線。

 その先は——どうやら私の足元。


「……ドレス、済まなかったな。ライカが食い破ったみたいで」


「い、いえ。し、仕方ないですよ。ライカちゃん、遊びたかっただけでしょうし」


「そうなんだよな。いつもなら最低でも十キロは散歩させるんだが、今日は来賓としての仕事が溜まっていてな。でも、あれだけ懐くのはすごい。本能で優しい人だって感じたんだろう」


「えへ。それは嬉しいことを聞きました。でも私が優しいだなんて、そんなことありますかね……」


「あるさ。……にしても、さっきは荒らしてすまなかったな」


「いえ! むしろ助けてもらってありがとうございました」


 その一言で、さっきの情景が鮮やかによみがえる。


 そうだ。

 レオンハルト様は大切な来賓だ。

 それなのに、私が限界になってあの二人をぶった切ったせいで、こんな形で巻き込んでしまった。


 本当に申し訳ない。


「あ、あの……ごめんなさい」


「え……なんでセシリアが謝るんだ。むしろ謝るのはこっちだろ」


「……え?」


 命の恩人が、何を謝るというのだろう。


 レオンハルト様は少し困ったように笑った。


「今思えば、ズルいやり方だった。助けた勢いで愛の告白なんて。あれは本当にフェアじゃない」


「……」


「驚かせたよな。怖がらせたかもしれない。俺が言いたかったのは、あの気持ちに嘘はないってことだけだ。セシリアを誑かしたかったわけじゃない」


 申し訳なさそうにそう言う彼の顔は、どこまでも穏やかだった。


 そんなふうに言われたこと、前の人生を合わせても一度もない。


「そ、そのう……少しびっくりしただけで、嫌だったわけじゃないと……思います」


「……それなら良かった」


 彼はほっとしたように目を細めた。


「せめて、二人きりの時に言うべきだった。もっと落ち着いた場所で。なのに、思わず溢れた。気づいたら、好きだって口にしてた」


「……」


「でも、今度はちゃんと向き合う。ズルいことはしない」


「……それなんです」


「それって?」


「私も、ちゃんと向き合いたいんです。レオンハルト様に。もちろん自分にも」


「俺と、セシリア自身に?」


「はい。……聞いてもいいですか?」


「もちろん」


「私のこと、なんで好きなんですか?」


 その瞬間、レオンハルト様は少しだけ言葉に詰まった。


「え。うーん……その質問は難しいな」


「……ほら」


 やっぱり。

 適当なんだ。


 レオンハルト様ほどの人なら、モテてきたに決まってる。

 よりどりみどり、引く手あまた。

 そんな人が、こんなちんちくりんで、恋愛経験もろくにない、ただの社畜に本気になるわけがない。


 危なかった。

 また下手に期待するところだった。

 また遊ばれるところだった。


「……だってさ」


「……はい」


「……ん? セシリア、拗ねてる?」


「べっつにー、拗ねてません」


「いや、拗ねてるだろ。まあいい。続けるぞ」


「……好きにしてください」


「好きにする」


 そう言って、彼は私の手をそっと握った。

 逃がさないためじゃない。

 自分の言葉をちゃんと受け取ってほしい、そんな力加減。


「まず言っておく。俺がセシリアを好きだって気持ちに嘘はない。これに誠実でいたい。理由を挙げようと思えば、たくさんある。跳ねるような声も、少し大きめの耳も、こじんまりしたサイズ感も、切れ長な瞳も……そして今、拗ねてるその顔も。見れば見るほど好きが更新される」


「……っ」


 甘い。

 あまりにも甘い。


 しかも、彼が挙げたのは、私にとってコンプレックスだったところばかりだ。

 前世の面影を残したこの見た目。

 ずっと、嫌だったのに。


 なのに、そんなふうに言われたら。

 嬉しくなってしまう。

 もっと欲しくなってしまう。


 でも、欲しくなればなるほど怖い。

 信じたいのに、信じたら壊れそうで怖い。


「……俺は、セシリアがまるごと好きなんだ。理由があって好きなんじゃない。好きだから、セシリアの全部が愛しく見える。『どうして好きなのか』って聞かれて、最初に浮かんだのが『好きだから好きだ』だった。だから、少し言葉にするのが遅れた。不安にさせてすまない」


「そんなの……」


 そんなの、無条件の愛みたいじゃない。

 そんなもの、本当にあるの?


 親ですら、子どもに理想像を求めるのに。

 なのにこの人は、『セシリアだから』好きだなんて。


「セシリアだから好きじゃ、だめなのか?」


「……わ、わかりません! や、やめてください!」


「セシリア?」


「誑かさないでください。なんで私が社畜になったか、どうせあなたにはわかりませんから!」


「シャチク……?」


「私は頑張ってきたのに……何も評価されなくて……なんで過労死で死ぬんですか。転生した先でも、なんで私、社畜やってるんですかっ……!」


 気づけば怒鳴っていた。

 涙まで出ていた。


 何に怒っているのか、自分でもよくわからない。

 でも、止まらなかった。


「触るぞ」


 彼はハンカチで、私の涙をそっと拭った。

 まるで乱暴にしたら壊れてしまうものに触れるみたいな手つきで。


「すまんな。俺のわがままで、涙を拭う。嫌なら拒否しろ」


「……なんで、こんなに優しいんですか……理由があるでしょ……? なんで、こんな私に……」


 私はその場にうずくまった。

 彼は急かさなかった。

 ただ、本当に優しく頭を撫でてくれる。


 その手が触れるたび、張りつめていたものが少しずつほどけていく気がした。


「シャチクってのはよくわからねえ。だが、大事なことはわかった」


「……」


「こっちを向いてくれ。俺の目を見てほしい」


「……嫌です」


「うん、じゃあそのままでいい。目を見てほしいって言ったのは、俺のわがままだ」


「……え?」


「……目、合ったな。ありがとう。話すよ」


 いつの間にか、彼は私の手を握っていた。

 包み込むような大きな手。

 安心させるために握っているのがわかる。


 だから私も、気づけば握り返していた。


「覚えてるか。初めて会った時のこと」


「……なんとなくでしか。冬の日で、辛そうにしていたのは覚えています」


「あの日、コーヒーを振る舞ってくれたことは?」


「……いえ、すみません」


「コーヒー、君が淹れてくれたんだ」


 その一言で、胸の奥が小さく震えた。

 意味があるわけじゃないのに。

 でも、なぜか大事な扉をノックされた気がした。


「あの日は寒かった。雪も積もっていて、体が凍えそうだった。魔獣討伐が続いていて、正直しんどくて仕方なかった。ようやくたどり着いたのが、この城だった」


「……」


「中へ通される時、一緒にいた家臣とコーヒーの話をしていたんだ。あいつは苦いブラックが好きで、俺は甘いコーヒーが好きだ。でも、家臣の前では少しかっこつけたくてな。角砂糖は最低でも二つ、できれば三つ欲しいって言えなかった」


「……」


「セシリアはそこにいた。何かあればいつでも声をかけてください、って顔をして。けど、邪魔はしないようにちゃんと距離を取ってくれてた。俺たちの会話も、たぶん聞いていたんだろう」


「……それで?」


「客間に案内されて、君が淹れてくれたコーヒーを持ってきた。そして、俺の耳元で一言だけ聞いたんだ」


「……私はなんて?」


「『二個ですか? それとも三個ですか?』って」


 言われた瞬間、胸がきゅっとなった。


 そんなの、本当に小さなことだ。

 覚えていなくても不思議じゃない、些細なこと。


 なのに彼は、それを宝物みたいに話す。


「俺は指で三を作った。そしたら家臣にバレずに、見事に甘いブラックコーヒーが飲めたってわけだ。あの時のコーヒー、すごく美味かった。忘れられない味になった」


「……」


 忘れられない。

 その言葉が、胸の奥へやわらかく沈んでいく。


 私のしたことが、誰かの中にそんなふうに残ることがあるなんて。

 思ってもみなかった。


「それからだ。俺がセシリアを気にするようになったのは」


 彼の瞳は、あいかわらず優しい。

 優しいのに、逸らせない。


「花を踏まないように歩く君が好きだ。魔力が擦り切れそうでも、城の安全のために魔法を使い続ける君が好きだ。城に来た人をただの数字で見ず、一人ずつ気にかける君が好きだ。街の子どもが雪遊びしたいと言えば、わざわざ城へ招いて一緒にはしゃいでやる君が好きだ。家臣でもメイドでも、落ち込んでいる者がいれば真っ先に気づいて駆け寄る君が好きだ。コーヒー一杯にも相手の好みを込められる君が好きだ」


「……そんなの、誰も」


「見ていなかった、と言うのか」


「……っ」


「俺が見ていた。七回来て見かけただけの俺ですら、こんなに見つけられたんだ。毎日そこにいた者たちが気づかなかったのなら、それは君の価値が小さいからじゃない。あいつらの目が、あまりにも曇っていただけだ」


「……」


「それに」


「……はい」


「城の魔法を全部解いたと嘘をつきながら、一番外側の結界だけは今も残してる。あんな扱いを受けたのに、それでも守ろうとしている君が、大好きだ」


 好きだ。

 好きだ。

 好きだ。


 その言葉が重なるたび、胸の奥の冷たいものが少しずつ溶けていく。


 苦しいのに、逃げたくない。

 むしろもっと聞いていたい。


 なんでこの人は、こんなにもちゃんと私を見つけてくれるの。


「……たった七回で、これだけある。じゃあ君は、毎日どれだけの優しさを、誰にも知られず配ってきたんだ。俺からしたら、本当に優しいのはセシリア、君だよ」


「わ、私……だって、それって当然のことで……そうしないと……私……嫌われたく、ないから……」


 口にした瞬間、自分の声が自分に刺さった。


 嫌われたくない。

 ああ、そうだったんだ。


 ずっと認めたくなかったのに。

 今、自分で言ってしまった。


「やめろ」


「え?」


 彼の声は、強かった。


「自分を責めるのはやめろ」


「だって私……そうしないと、自分を自分で罰しないと、嫌われた時に辛くて……」


「誰が嫌うかよ」


 次の瞬間、私は彼の胸の中にいた。


 抱きしめられた、というより。

 まるごと受け止められたような感覚だった。


 硬い胸板なのに、あたたかい。

 耳を寄せれば、鼓動が聞こえる。


 生きている人の音。

 ……私を拒まない人の音。


「……うん」


「俺、もう一つだけ見てたんだ」


「何を……?」


「こっそり独り言を言いながら、甘いコーヒーを飲んでたところ」


「……え」


「すごく楽しそうだった。あの時間だけは、自分のために使ってるのがわかって、少しほっとした」


 彼はゆっくりと私の体を起こし、まっすぐ目を見る。


 隠れる場所なんていらない、と言われているみたいだった。


 でも、だめだ。

 そんなふうに見られたら。

 嫌なところまで見られたら。

 せっかく好きになりかけてる人に、また嫌われて——


「嫌わない」


 ぴたり、と心の暴走が止まる。


「……なんでわかるの。ずるい」


「ずるくねえ」


「……もう」


「優しいことをやめろとは言わない」


「……うん」


「でも、俺の前くらいはいいだろう。俺の前だけでは、わがままでいてくれ。俺の前だけでは、自分に優しさをたくさん使ってくれよ」


 その言葉がまっすぐで。

 胸の奥の、ずっと凍っていた場所に触れた。


「もうっ……私、そんなこと言われたら、やばいですよ」


「いいよ。やばくなったセシリアも好きだ」


「……本当はすごいわがままなんです」


「知ってる。でも、それ最高にかわいいやつだからな」


「冗談とかも、めっちゃ言いますよ、こう見えて」


「さっきから魅力アピールしまくって、どうかしたか?」


「……っ」


 ああ言えばこう言う。

 なのに不思議と嫌じゃない。


 むしろ、このやりとりがずっと続いてほしいと思ってしまう。


 この感情が幸せじゃないなら、私はもう幸せを知らなくていい。


「ねえ……私の騎士様になってくれる?」


「もちろんだ。……騎士様としては国と折半でも大丈夫か?」


「ばか」


「俺は太陽の騎士。君の心を照らし続けることを誓う」


「……はい」


「……で、欲しいのは騎士様だけか?」


「レオンハルト様のばか……私に言わせる気ですか」


「レオンでいい」


「……レオン」


 その名を呼んだだけで、胸が甘く痛んだ。

 好きな人の名前って、こんなに熱を持つんだ。


 レオンは私の頬に手を添え、親指でほんの少し撫でた。


「改めて言う」


「はい」


「俺は君のことが好きだ」


「……はい」


「俺と婚約——いや、違うな」


 小さく笑って、言い直す。


「結婚してくれ」


「——よろこんで。……末永く、よろしくお願いします」


 その瞬間、レオンの表情がふっとほどけた。

 ああ、この人も緊張してたんだ。

 そう思ったら、たまらなく愛しくなった。


 彼が私をぐっと引き寄せる。

 今度はもう、逃げたいなんて思わなかった。

 むしろ自分から少し寄ってしまった。


「愛してる」


 その言葉が、じわじわと私の体に染み渡っていく。

 胸の奥まで、指先まで、あたたかく満ちていく。


 そして。


 レオンはそっと、

 確かめるように、宝物に触れるように、

 ——私に口づけをした。


 やさしい。

 あたたかい。

 なのに、どうしようもなく胸が苦しい。


 好きって、こういうことなんだって。

 遅れて体が理解した。


「レオン。……私も愛しています」


 そうして私とレオンは、この日結ばれた。


 婚約破棄された日。

 岩女が死んだ日。

 でも、初めて自分の意志で進むと決めた日。


 そして、私はこの人を何があっても愛すると決めた日。


 この日、私の本当の人生が始まった。


 気づけば、ライカの遠吠えだけが、月明かりに照らされる癒しの森に木霊していた。


 ……あとでいっぱいモフモフしてやろう。

帝国に渡ったセシリアは、今日もコーヒーを飲んでいる。

角砂糖は三つ。

足元ではライカがワイバーンの骨にかぶりつき、向かいでは「甘すぎないか」と言いながら自分のカップにも三つ入れる男がいる。

そんな毎日も、案外悪くない。

この続きは、またいつか。


――――――――――



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