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5-1.

 紀平吉良の舞台からの消失。

 それが私には受け入れられなかった。


 しかし引き止めることもできなかったので、最初は先生に話してみたりしたが


「そうねぇ、夏休み終わるまえくらいからねぇ。『たくさんの人から期待してもらってるのに申し訳ないけど』って。先生も『もったいない』って止めはしたんだけどね?」


 思った以上に堅い決心だったらしい。

 私が実家で稽古しているあいだに、彼女は彼女で何かが起きていたのだ。


 怖がらずに会っておけばよかった。

 そうしたら、もしかしたら。

 間に合ったかもしれないのに。


 私は頭のどこかで重い鐘の音が響くのを感じながら、


『期待してもらってるのに申し訳ないけど』


 どことなく、紀平吉良らしいと思った。






 生徒たちも最初は『天才の理解しがたい気まぐれ』『ものは試し』程度だろうと思っていた。

 しかし彼女は学外公演ともなる学年末の舞台にすら、照明での参加を表明した。

 野球で言うならドラフト拒否みたいなものである。

 さすがに皆驚き、かつ、


 紀平吉良に舞台へ帰ってくる気はない


 そのことを、なんとなく察しはじめた。


 なので冬休みが近付く肌寒い季節。

 誰しもが舞台の上に残る残像を忘れることにしたころ



 私は名実ともに、誰もが認めるトップに返り咲いた。



 私以外の、誰もが認める。



 本当に寒い冬だった。

 孤独な戦いだった。

 今まで実力以上のものを紀平吉良に引き出されている自覚があった。

 太陽の強い輝きを浴びているから光って見えるだけの、月の自覚があった。


 だが、その太陽は沈んでしまった。


 だから私は戦わなければならない。

『紀平吉良がいなければ、案外凡庸なエトワール』

 そう思われないために必死で取り組まなければならなかった。

 一人で。独りで。



 本当に寒い冬だった。

 こういうのを天才というのだろう。

 彼女こそ舞台のために生まれてきたのだろう。

 あるいは誰より優れた演者だったからこそ、求めるものが分かるのだろう。


 紀平吉良の照明演出は完璧だった。

 彼女の灯す光は役の内面を如実に引き出し、演者の美しさを際立たせた(もっとも、実力不足さえも克明に晒されるのだが)。

 そもそも彼女自身が私を惚れ込ませた、至高の照明だからかもしれない。


 しかし。

 いくら照明に照らされても、どれだけスポットライトを注がれても。

 電灯が発する熱を、これっぽっちも感じない。


 上を見ても、どこを見ても、舞台を端から端まで彷徨(さまよ)い歩いても。


 かつて私の体温を高揚させ、幾度も焼き払い、白飛びさせた照明は、どこにもない。


 稽古が終わるたび、周りが『疲れたねー』なんて軽く言葉を交わすなか、

 私とただ二人、本当に大汗をかいてエネルギーを出し尽くしていた照明は、どこにもいなかった。


 温かくない。眩しくない。

 何もかもが足りない。

 設備が壊れているんじゃないかとすら思った。


 たまにふと、合間に舞台袖へ目をやると。

 そこには私が欲しくてたまらない、求めてやまない笑顔がいる。

 いるはずなのだが。


 裏方がいるのは幔幕の陰なせいだろうか。

 なんだか少し暗くて、はっきり見えなかった。


 照明は点いている最中はもちろん、消してもしばらくは触れると火傷する熱を孕む。

 軍手でもしていなければ、決して手を伸ばしてはいけない。


 だがそれ以上に


 もう絶対に触れることができない。

 そんな何かを見た気がした。



 本当に寒い冬だった。

 皆が『もうトップは東山透子』とは言うが。

 私はそんな気持ちになれなかった。


 あくまで私はナンバー2なのだ。

 トップは今でも紀平吉良で、

 でもそこは空白になったままで。


 そのぽっかりしたスペースが、どうにも寒い冬だった。



 本当に寒い冬だった。

 私の二年生の集大成、学年末公演にはたくさんの観客が訪れた。

 座席は満席で、純粋に楽しみにきた客から品評するスカウトまで。

 普通に生きていれば一生分くらいの視線が私に注がれる。


 なのに誰も私を見ていない気がした。

 いや、違う。


 一番見ていてほしい人が

 舞台で私の目の前に立って、誰より特等席で見ていてほしい人が

 唯一見ていてほしかった人が

 そこにいなかった。

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