3-1.
「先ほどのトスカがスカルピアを刺し殺すシーンなのですが」
「はいはい」
二週に一度の、午前のみの土曜授業。
高校だけあって一般教養の授業も多くある。
そのため、ここは必ず演劇稽古の補填に充てられるのだ。
「確かに凄まじい激情でした。しかし」
「足りない?」
「足りないというより……憎き相手です。私としては、もっと怒りを剥き出しにするべきなのでは、と思うのですが」
「怒り」
「ト書きや台詞でも、明らかにそのように書かれている。でも、あなたのトスカは恐怖や悲しみに震え、そう、殺意が足りない」
「うーん、だけどね?」
しかしそれも午後には自由になるわけで。
よって土曜授業のあとは『Chartreuse』、窓際の席。
ここで先ほどの演技を講評し、演劇論を戦わせる。
それが私たちのルーティンとなり、二学期になっても続いていた。
「トスカは『歌に生き、愛に生き』。信心深くて純朴な人なの。ここは差し迫られてスカルピアを殺すけれど」
今日はイチゴクリームと木苺のカップケーキ。
紀平吉良の持つフォークがピンク色のクリームを映す。
「あれが本当の彼女じゃない。トスカが魂を爆発させるのは、歌と信仰だけ。人を刺すこと、憎しみを果たすこと、余計なことを彼女の真実に立ち入らせたくない。彼女はそこに注がない」
「余計なことに、注がない」
「それに、『トスカ』自体が全編にわたって鐘、血、死と死と死、狂騒の作品でしょ? トスカはその主人公なんだよ?」
それは彼女の内面のような色。
舞台に対する情熱の燃える赤と、純粋に役や作品と向き合う感性の白。
二つが混ざり合ったピンク色。
それらが彼女のフォークにまとわり付く。
トスカがスカルピアを刺し殺したのは卓上ナイフだったか。
「彼女は『トスカ』の世界で特別でないとだめ。血を受容してはいけないの。その純白こそがあの世界で、彼女を主人公たらしめるの」
「しかしトスカは、最後にサンタンジェロ城から身を投げます。血の結末です」
「だから悲劇の傑作なの。恋人も主人公も死んで終わるからじゃない。トスカの心の美しさが、運命の残酷さに屈するから悲劇なの」
ケーキ屋でするのは営業妨害なのでは、というようなグロテスクな話題。
紀平吉良は、そんなものを熱く語った唇へふわふわのスポンジを運んで、
「だからどれだけ彼女が人殺しに激情を発揮しても。ラストシーンまでは、どこか気高いトスカでありた、あれっ」
「どうかしましたか?」
「私、どこまで食べたっけ」
「残りは全部紀平さんのですよ」
ようやく少女の我に返る。
本当はまだ少し私の取り分が残っていたが。
そんな彼女を見ているだけで、私はじゅうぶん胸いっぱいだった。
そして月曜日の授業。
「『これがトスカのキッスよ!!』」
「はい、じゃあ今日の稽古はここまで!」
「「「「「ありがとうございましたー!」」」」」
「お疲れー! 吉良ちゃんやっぱ別格だね!」
「そんなことないよ」
「あるって! なんていうか、圧がすごいもん! トスカそのものになってるっていうか」
「なんか、『あぁ、トスカって吉良ちゃんだったんだ』って感じ?」
「そう、それ!」
「それはなんか、いろいろ失礼だよ、多方面に」
「でもやっぱ、納得の主役だよ。東山さんも別格だけど、やっぱり歌パートになる、と、吉良……」
「えぇ、私もそう思います。完敗です」
「ひゃっ! ひゃが、しやま、さん」
「今日のところは」
「そ、そっか! そうだね!」
紀平吉良の周りに集まっていた生徒たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
演劇の授業が終わると彼女はいつも囲まれる。
取り巻きのおもねりではない。
誰もが役者の卵であるがゆえに、感動は素直に表出しなければ気が済まないのだ。
なので私がプレッシャーを孕んでいれば、敏感に感じ取る。
「透子ちゃん、怖いよ」
「怖くしているのです。あなたを称えるための引き合いに出されて」
「かわいいところあるよね」
「笑うなら笑いなさい。言葉で反論はできないから、圧を掛けるような女です」
今日もまた敗北感、いや、敗北を与えられる。
胸いっぱいにされたかと思えば、今度は苦しく詰まらされる。
彼女は今日も私を完璧に引き出した。
自賛になるが、日々進化し最高は更新される。
毎日『明日はもっと素晴らしくなる』という確証を持てている。
その私が、全力以上の私が、今日も紀平吉良に消し飛ばされる。
真っ白に。
プライドやモチベーションは完全に焼き尽くされ、
しかし絶え間ない彼女の輝きによって、不死鳥のように灰から蘇生される。
それを一瞬のあいだに何度も繰り返す。
ともすれば私は、日々殺され、生まれ変わっているから、更新されていく。
だというのに。
「透子ちゃんのパートは男声だから、差が出て聞こえるのは仕方ないよ」
彼女は私を笑わない。
そもそも私は、主役をあなたに奪われたからカヴァラドッシをやっているのだ
そんな現実に気付かないかのように。
気付けば私たちは切磋琢磨の末に。
以前よりさらに周囲と隔絶した、誰も追い付けないツートップとして君臨しており、
そこには教員生徒10人に聞けば10人がそうと答える、
『トップは紀平吉良。ついで東山透子』
という絶対的な序列が完成しているのに。
当の紀平吉良という世界には、
「でも助かったかな」
「何がですか?」
「あんまり囲まれたくないんだよね。私今汗臭いから」
優劣など存在しない
あなたと違って私には、そんなもの眼中にない、興味がない
とでもいうように、笑って汗を拭う。
あぁ、なんと癪に触る、狂おしい、私を傷付ける、妬ましい。
私もそのような高みに立ってみたい。
並び立ってみたい。
あなたになってみたい。
なれないからこそ。
「紀平さん。放課後、今日の内容について話し合いたいのですが」
「『Chartreuse』?」
「いえ、妙な時間にケーキを入れては夕食に差し障ります」
「じゃあ」
「吉良ー、そういうのは教室でやってよね」
「澄美ちゃん」
以前より周囲から敬遠されているフシはあったが。
最近紀平吉良のルームメイトなどは、明確に私を避けたがるようになった。
一度彼女の部屋に上がり、遅くまで延々演劇論を交わしたこと。
結果そのまま泊まることになり、ならばと日付けを跨ぐまで話し込んだこと。
根に持っているのだろう。
「では柿崎さん。あなたが私の家に泊まりますか?」
「へあっ!?」
「その方がよっぽど生産的だと思いますよ? お互いにとって」
「何それ。それはよく分かんないけどさぁ。東山さん、最近吉良のストーカーじみてるって評判だよ?」
「ちょっと澄美ちゃん、そんな言い方」
「ストーカー、ですか」
相手にまとわり付き、延々永遠追い掛ける存在。
だけれど決して、真実の意味で相手の隣にはたどり着けない存在。
私が、紀平吉良の、
「望むところです」
「透子ちゃんっ!?」
なんと言い得て妙なことだろうか。
もうかつての、『周囲に傲慢がバレていはしないか』と考える私はいない。
彼女らのことなど眼中にない。
私には紀平吉良しか見えない。
彼女が私に与えるものと、私が彼女にいつか何かを及ぼすこと。
それのみが私の望む全て。
他のことなどどうでもいい。
ならばそのために、今日も明日も、舞台で、そこかしこで、
その輝きを常に間近で浴び、焼かれ、敗北し、嫉妬し、敵視し、狂い、憧れ、
切磋琢磨しようではないか。
そのためには真実、ストーカーになって魅せようではないか。
少なくとも私の方が、おまえよりは彼女の隣にふさわしい。
結局一年生のあいだに四回の劇があったが。
その全ては、紀平吉良で塗り潰されて暮れていった。
心理的にも、実績的にも。
私自身はその日々に満たされ、かつ、飢えさせられていた。
もっと具体的に言えば、次こそは彼女を上回ると
紀平吉良という照明を浴びて、私こそが舞台で最も輝くと
そう希求し続け、一度も叶うことはなかった。
しかし逆に言えば、いつか手につかむことさえできれば。
それだけでもう、他に何もいらなかった。
しかし私たちは進化している。
『紀平吉良の前では私など白飛びしてしまう』
そんな図式が崩せなかろうと、二人のレベル自体は際限なく高まっていく。
二人で高め合っていく。
新たなステージが開かれたのは、二年生になってすぐのことだった。
私は最初の演劇の授業を終えたあと、
「東山さん、このあと部活?」
「いえ」
「時間ある?」
先生に呼び出された。




