8-2.
「待たせてごめんね?」
「あっ、いえ」
声を掛けられ、意識が今この時に戻る。
あの日以来、紀平吉良は私をよく構うようになった。
どうやら自責の念があるらしい。
『あの時自分が変に声を掛けなければ』
と。
決してあなたのせいではないと伝えたが、納得したかは私にも分からない。
だが、
「じゃ、早く片付けて行こっか」
私の荷物持ちを積極的に買って出るのはやはり、思うところがあるのだろう。
あるいは元から甲斐甲斐しいのか。
「いろいろまとめるから、ちょっと待ってね〜」
私に微笑み掛けて、舞台袖へ小走りで向かおうとする彼女。
その背中へ、
「紀平吉良」
私は呼び止めるように声を掛けた。
「なぁに?」
急なフルネームだったからだろうか。
彼女が振り返るのには、一瞬の間があった。
けれど向き合った彼女は、やはり人懐こい笑みをしていた。
だから私も微笑み返す。
うまく笑えていた
と思う。
「本日は本当に、お疲れさまでした」
「ありがとう」
「今日の舞台は、本当に素晴らしかった。あなたは輝いていた」
「透子ちゃんに褒めてもらえると、うれしいな」
紀平吉良は無邪気に微笑む。
かつて演劇論を交わしていたころ。
私が褒めても意見しても、いつもニコニコ笑っていたが。
そのなかでも今日の笑顔は、一番の輝きがあった。
そのおかげか、私も今なら
今だけは素直に話せる気がした。
「それで、ですね」
「なぁに?」
「やっぱりあなたが、トップスターです」
「それは、どうかな」
さっきまで純粋な喜びを浮かべていた顔に、だんだん照れが入ってくる。
「私、ずっと演技やってなかったし。主役も別に、透子ちゃんが、棚ぼたで」
紀平吉良はその長身を軽く捩る。
やはりある申し訳なさと
あとは思い出したのだろう。
私が階段から落ちた翌日。
また先生が車座の中心で「どうしよう」と呟いたとき。
私が真っ先に立ち上がって、
「紀平さんに、私の役を」
彼女の目を真っ直ぐ見て指名した瞬間のことを。
私も覚えている。
また目を丸くして口をあんぐり開いた、愛らしい間抜け面を覚えている。
「棚ぼたではありません。神があなたを放っておかないのですよ。演劇の神が」
「何それ。信心深いタイプだったの?」
「だとしたら、そう変えたのはあなたですね」
「へぇ?」
紀平吉良の眩しい瞳が、少し変なものを見るような色になる。
しかし私に真剣さを見たのだろう。
バカにはしてこない。
だから私は好き勝手に続ける。
「私は今まで、常に自分がナンバーワンだという自負を持っていました」
「私は今でも、透子ちゃんだと思ってるよ」
「ですが、思えばそれは、演じることの楽しさを食い尽くし、肥大し。いつしか私は喜びではなく、生まれの義務か、傲慢を満たすためか……。自分でもよく分からない何かのために舞台へ立っていた」
真剣さは伝染する。
彼女の表情も真顔になっていく。
役作りに脚本と真摯に向き合うときの顔付きになっていく。
かつて私たちの高め合う思いが、きっと伝染していたように。
「しかしそれは入学早々、あなたによって打ち砕かれた」
なんなら今でも。
「舞台に立つ理由を粉々にされた私は、次の理由を求めました。『トップスターの奪回』『舞台に上がればあなたを浴びて、今まで以上に成長できる。輝ける』『むしろ私という存在が、最もあなたの輝きを引き出せる。最高の舞台を作り出せる。そのはずだし、そうありたい』」
急にこんなことを言われて、紀平吉良はどう思っているだろう。
気持ち悪かったら申し訳ない。
でももう止まらないのだ。
「文章にすればいくらでも脚本が書けるけど、テーマはいつも同じ。『紀平吉良』『紀平吉良』『紀平吉良』でした」
そういえば結構早い段階で、彼女のルームメイトに『ストーカー』と言われたか。
「この三年間は、私の舞台は、あなたを求めて存在していた。私のためにあなたがあって、あなたのために私がある、本気でそう信じていた」
それに私は『望むところ』と言ったのだったか。
とまぁ、ここまでが我ながら引いてしまうような、今までの私の話。
「でも、今日の公演を見たら、違いました」
「えっ?」
ここからが大事な、これからの話。
私はいまだ網膜に焼き付いている、舞台に熱気と狂騒の余韻が残る、
先ほどの卒業公演を思い出していた。
「思えば、初めて舞台ではないところから、あなたが本気で演じる姿を見ました」
「そうかもね」
「照明係の席から見ていても、あなたは輝いていた。『常に一番近くで見ていたい』そんな必要はないくらいに輝いていた」
私の心境を感じたのだろう。
「何より、私がいなくても。隣で演じる者が誰であろうと、あなたは変わらない輝きで全てを焼き尽くしていた」
心なしか、紀平吉良の眉が寂しげに動く。
「私はずっとあなたを必要としていたけど、あなたに私は必要ではなかった。私にはあなたのいる舞台が全てだったけど、あなたは舞台が全てではない」
「それは」
「だからあなたは私を置いて、平気で舞台を去ってしまう。そうでしょう?」
「えっと」
「きっとあなたは卒業したら、私の手に届かないところへ行ってしまう。今度こそ照明の世界に行って、二度と舞台へは帰ってこないのでしょう」
明らかに彼女は困っていた。
なんと答えたらいいか困っていた。
ごめんね。別にあなたを困らせたいわけではなかった。
「だけど私が立つ舞台には、あなたがいなければならない」
でも、役の台詞はスラスラ出るのに、こんなときには上手く言葉が出ないただの少女。
そんなあなたをかわいいと思うことを、どうか許してほしい。
最後に素直な気持ちを伝えるくらい、許してほしい。
「ならもう、私も舞台を去りましょう。全ての執念が、執着が、なんだか白飛びしてしまいました。三年間焼き尽くされて、情熱も嫉妬も燃え尽きました」
「えっ? ちょっと!?」
「ありがとう、紀平吉良。さようなら、私の一番眩しい照明。愛しています」
私は一方的に告げると
自分の荷物を片手で持ち上げ、逃げるように
いえ、逃げました。
ここまで思いの丈を吐き出したあとでも、
泣き顔を見られるのは恥ずかしいから。
それからあっという間に卒業式。
学友たちが多くの思い出を、あるいは抱き締め、あるいは空へ放ち、
きっと最高の催しとなった。
しかし、そこに至るまでも、その場でも。
私と紀平吉良のあいだに、会話ややりとりはなかった。
気まずいし気恥ずかしいし、
何より、
言葉で今更、お互いの気持ちが動くことはないと知っていたから。
そのまま卒業後も、私たちが連絡を取り合うことはなかった。
いつまでも更新されないチャットアプリのトークルームを、消すことさえせず眠らせて、
私は一応滑り止めに受験しておいた、演劇になんの関係もない一般大学へ進学を決めた。




