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1.

「あっ」


 舞台の上、強いライトに照らされたヘクトール。

 いや、


 逆光を真っ直ぐに割る、凛々しい立ち姿の()()()()()()()


東山(ひがしやま)さん?」

「す、すいません、台詞が」

「トんじゃった?」

「はい」



 私の頭は、自分の方が過剰な照明を浴びた被写体のように、白飛びしてしまった。



「はい、じゃあもう一回、アンドロマケが入ってくるところからー!」

「「「はーい!」」」


 先生が手をパンパンと叩き、他の生徒が最初のポジションに戻るなか、


透子(とおるこ)ちゃん」

「っ! はい!」


 私の正面、一字一句覚えたはずの台本をキレイさっぱり消し飛ばした女は、



「めずらしいね」

「……えぇ、本当に」



 人懐こく笑った。



 高校一年生、一学期末のこと。


 この日私は初めて、

 紀平(きひら)吉良(きら)という少女を意識した。






 本当にめずらしかったのだ。

 この私がリハーサルとはいえ、舞台の上で失敗するなど。

 正直、年単位で覚えがない。

 つまりはこの都立折川(おりかわ)女学院音楽高等学校・舞台演劇科に進学してからは、一度もなかった。


 だからこそ私は同輩たちの崇敬を集め、学内外の注目を浴び、

 元大ヒットドラマ子役やら元アニーやらが集まるなかトップに君臨し、

 今回の学期末公演の舞台でも、指定席のようにヒロイン役を射止めたのだ。


 だというのに。






「紀平さんっ!」


 翌日の昼休み。

 私は教室で即座に彼女を捕まえた。


 いても立ってもいられなかったのだ。



 この私がミスをした。

 繰り返しになるが、本当にめずらしいのだ。


 あの場にいた全員、初めて目にしたはずだ。

 瞬間、たしかに「えっ?」という空気が場を支配した。

 背筋さえ伸ばしていればいい兵士役がビクリと動き、舞台袖の裏方が幔幕を揺らしてしまった。

 目が合いそうになった生徒は逸らした。


 完璧なスターの()()()()、アンタッチャブルな出来事にまでなっていた。



 なのに、このヘクトールは小揺るぎひとつしなかった。

 どころか


『めずらしいね』


 気まずいことなど何もないかのように。

 ぬけぬけと、柔和な笑顔でさらっと触れた。



 それがこの私に、どれだけの敗北感を与えたか。

 何より、



 この私が、見惚れた。



 父は実力派俳優、母はオペラ界の歌姫(ディーバ)

 父方は太秦(うずまさ)時代からの俳優一家、母方は歌舞伎の名門藤沼屋(ふじぬまや)染島(そめじま)宗家。


 小さい頃から業界でサラブレッドと騒がれ、演技の英才教育を受けた私。

 両家の名に恥じぬよう、同世代では絶対王者であり続ける私。

 ()る者すらいない、この私。


 小さい頃から幾度となく舞台に立ち、

 その都度同年代のレベルの低さを無感情に眺めていた私。


 そんな私が、初めて。



 早い話、突然手に入れた言語化しがたい衝動を、どうにも抑えられなかったのだ。



「なぁに?」


 振り返った彼女、紀平吉良は、やはり人懐こく笑う。

 あの日と同じ笑みがそこにあった。


 バレーやバレエに呼ばれそうな長身なのだ。普段からもっとクールにキャラを作れば。

 そう思うほどに柔和な笑みだった。


 私などは声がアルトゆえに、少し()()()()()ところもあるのに。


「どうかした?」

「あっ、いえ」


 思考に陥って妙な間を開けてしまったらしい。

 彼女は小首を(かし)げる。


「ふふ。透子ちゃん、昨日からちょっと変」

「なっ!」


 紀平吉良はその角度のまま、笑顔の形を変える。

 ほんの少しだけ()()()()ような、イジワルめいて細まる目元だった。


 反射的にムッとする私だったが。

 事実、変だった。


『どうかした?』と問われて初めて、私はノープランだったことに気付く。

 衝動そのままに声を掛け、そのあと何をどうするのか考えていなかった。


 反論のしようもない変なやつである。


 だから私は答えに窮して、


「一緒にお昼でも、いかがでしょうか、と、思い、まして」


 昼休みらしい出まかせで凌いだ。






 教室や中庭は人が多いのが、なんとなく嫌で。

 私たちは校舎裏の花壇で弁当を広げた。


 揺れる木陰、頬と髪を撫でる夏風、皮膚を刺す太陽光線。

 半袖と入道雲とソーダアイスが似合う、爽やかな夏の日だった。


「紀平さんは」

「吉良でいいよ」

「……紀平さんで」


 口にして改めて、変な名前だと思ったのを覚えている。

 めずらしい名字。対して名字のようなファーストネーム。


 キヒラキラ、人を食ったような

 キラキラキラキラ、正直頭の良くなさそうな響き。


 確かにあの日は焼き尽くされそうなほどに眩しかったが、

 それが嘘だったのではと思うような、穏やかさに似合わない無声音の多さ。


「で、どうしたの?」

「あー」


 思考が逸れていた私に、せっかくの誘い水。

 なのに私は、


「紀平さんは、実家から通ってらっしゃるのですか?」


 一歩退いてしまった。


 仕方ない。

 なぜか人間とは本題に入るまえに一拍入れたい生き物なのだ。

 特に『悪いことしました』とか『あなたに恋しています』とか、告白の(たぐ)いには。


「どうして?」

「お弁当ですから」


 出まかせのわりには、我ながら上手いアドリブ。


 本学は日本中から生徒が集まる。

 寮生は基本食堂で食べ、弁当を持っているのは用意してもらえる実家通い。

 しかし彼女は


「寮に入ってるよ? これは自分で作ったの」

「ご自身で。マメなのですね」

「ていうより、お料理好きなの」


 少し気に入らない。

 趣味だとかなんだとか、私生活の全てを演技に捧げていないことが。

 いや、あらゆることが芸の肥やしになるとしても、


 その雰囲気、態度。

 私を震えさせた存在が、私より命懸けでなさそうなのが。


 今思えば、自身の生い立ちからの八つ当たりでしかない。



 彼女はただ『堅い空気』と感じたのかもしれない。


「あのさ、呼び方もそうだけどね。敬語じゃなくていいんだよ」


 出し抜けに、こちらの顔を覗き込んだ。

 背が高い分曲げ方も大きくなる。


「それなんですが、小さい頃から周囲は大人ばかりで。(しつけ)もあってこちらの方が」

「そうなんだ。おっきい家の人はそういうのもあるんだね」

「ですのでどうか」

「うん。それなら話しやすいようにやって」


『敬語()()()()()()()()()()


 その物言いらしく、彼女は無理に矯正を求めなかった。


 ともすれば他者への見下しを(つくろ)うがための仮面を、剥いだりはしなかった。


「それよりさ」

「なんでしょう」

「どうしてお昼に誘ってくれたの?」


 私の人間性に頓着するより、今の状況の方が大事と思ったのだろう。


「それは、その」


 しかしそれは私にとって、内面の醜さよりよっぽど急所だった。

 何せ、本当にノープランで誘ったのだし、


「あなたが、あなたの、ヘクトール……」


 敗北感が、ライバルが、

 いや、



 今まで舞台に立ったなかで、一番美しいものを見たから



 などと。


 それこそ告白。

 恥ずかしいことは言えなかった。


 恥ずかしいと思うくらいには、私はトップとしての傲慢さを有していた。


 私が答えられないでいると、

 紀平吉良は勝手に台詞の続きを書いたらしい。


「あぁ、アンドロマケだもんね。自主練?」

「え、えぇ! はい!」


 的外れもいいところだが、内容としては都合がいい。

 私は乗っかることにした。


「どこやりたい? 昨日トんじゃったところ?」

「……そこでお願いします」


 ちょっとだけ癪に触ったが。



 (くだん)のシーンは『イーリオス』より。

 アンドロマケがヘクトールに泣いて(すが)るというもの。


 戦場で果敢に戦う夫へ、


『あなたに何かあったらどうするのか』

『幼い我が子のこと、先立たれる私のことを考えてほしい』


 と訴えるのだ。



 紀平吉良は立ち上がり、私はその足元にしゃがむ。

 スカートが汚れるので倒れ込みまではしない。

 それでも一応、彼女を見上げる角度は作れる。

 あの日と同じように。


「『あなたはひどい、あまりにもひどすぎます。どうしてそのような無体をなさるのですか』」

「『おおアンドロマケ。あなたはいかなる理由を持って、(いくさ)より戻った夫を(なじ)るのか』」


 たとえ舞台でなかろうと、やるからには妥協しない。

 一字一句、魂を込めて演じて魅せる。


 もちろん設備が、何もかもが昨日とは違う。いつもとは違う。

 空気感が大きく変われば集中力にも影響する。


 それでも人が『弘法筆を選ばず』と言うように。

 私は関係なく芝居の世界に没入できる自信があった。


 あったのだが。

 それにしても、



 あぁ、なんということだろう。



 なぜだろうか。

 このなんでもない裏庭の花壇が、今までのどの壇上より『世界』を際立たせる。

 この時ばかりは小さな赤煉瓦のスペースが、世界で一番トロイアの宮殿であった。


 その理由はすぐに分かる。


 台詞に合わせて、紀平吉良が一歩右へ動く。

 その瞬間、



「『しかしアンドロマケ、私はトロイアの王子として戦わねばならない。あなたは決して、私が王子であり英雄であるがゆえに愛したのではないはずだ』


『あなたは私を、一人の気高き存在として愛してくれていると。私はそう信じている』



『だから、あなたが愛せる私であることが、私があなたに捧げる愛だ』」



 彼女の背後に、太陽が被った。

 昨日の舞台の照明のように。


 あぁ、眩しい、眩しい。

 輝いている。

 焼かれる。

 また、頭が白飛びしてしまう。



 最初は、その体格がゆえに雄々しき英雄の役を射止めただけだと。

 正直そう思っていた。

 周囲のレベルを見下していた私は、あまり他者のオーディションを見ていなかった。



 だが、今は()()()()分かる。


 真実彼女は私のヘクトールであり、

 彼女が私を引き出し、引き立てるからこそ、


 今までのどの舞台より甘美な、芝居の世界に耽溺できているのだ。


 私の心が熱くたぎる。

 全身の血が逆流する。

 瞳孔は大きく開き、耳は産毛を逆立て、少しでも鮮明に世界を享受しようと沸き立つ。



 と同時に。


 あまりにも強い、強すぎる輝きを放つ少女。

 彼女の前では、私の才能など、積み上げてきたものなど到底歯が立たず、


 全神経を集中して立ち向かわなければ。全てを演技に捧げ、真実アンドロマケにならねば。

 東山透子などという存在は、凡庸な消し炭として世界から消え去ってしまうのだ。


 心臓が握り潰される。

 全身から汗が吹き出しる。

 動悸が止まらず息は絶え()えになって、世界にいるだけで拷問のように感じる。


 私は確信した。



 私を最も輝かせる存在は、この人しかいない。

 しかし私の輝きをかき消す存在は、この人しかいない。


 二人なら今までより、これからの何より、最高の舞台が作れる。

 しかし舞台に私程度の存在は特別ではないと、叩き出されてしまう。


 最高の舞台役者に高め合っていける。

 しかし私に自身の凡庸さと無力感を突き付ける。



 彼女が照明や太陽を浴びているのではない。


 紀平吉良という存在そのものが、あまりにも尊い輝きを放っているのだ。

 トップであるはずの私が、その魅力の全てを発揮するための、

 あるいは価値を守り証明するために戦わなければならない、



 最高で最悪のスポットライトに、巡り会えたのだ。



 と。






 これが二日連続、二回目の紀平吉良との出会いであり、


 気が付けば私は、スカートが汚れるのも忘れ、地面に膝をついていた。

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