跪け
セレーネが「この山賊ダリルを自分の騎士にする」と宣言したとき、額を床にこすりつけて伏していたその男を指さしながら、エヴァンデルは彼女を正気を失ったかのように見つめた。
口を開きかけ、閉じ、また開き――言葉を選ぶのにひどく苦労しているのが見て取れた。
「あなたの判断を疑うわけではない……奴らを制御する手立てはあるの? 何しろ山賊。荒くれ者よ」
セレーネの声は落ち着いていた。むしろ、落ち着きすぎていた。
「北方では、どうしているのです?」
「通常は……爆裂首輪をつけるんだ。首に不安定な魔石をはめ込む。逃げたり誰かを傷つけようとした瞬間に、ドン、だ」
天気の話でもするように淡々と告げる。
(さすがに柔らかい性格とは言えないわね)
セレーネは皮肉に思った。長年そうした残酷な慣習に慣れ切っているのか、それとも北方特有の冷酷さなのか、エヴァンデルは眉一つ動かさなかった。
「効果的なのは確かですね」
彼女は口に出して認めたが、内心の感想を言う気はなかった。哀れみだけで罪人を許すほど愚かではない。北方には北方の事情がある。人手不足、絶え間ない魔物の襲撃、さらには政治。牢獄など短期の拘留所にすぎず、刑罰といえば鞭打ちか処刑が常。だから罪人を北へ送り、砲弾の代わりに使うのが効率的な政策とされた。
「今、爆裂首輪があればよかったのだがな」
エヴァンデルは続けた。
「もちろん、私の騎士たちなら力ずくで服従させられる。しかし、君にはその手はない」
侮辱ではなく、ただの率直な事実。罪人を相手にすれば当然の懸念だった。
「心配には及びません」
セレーネはすっと歩み寄り、ダリルの前に立った。
そして膝を折り、片手を彼の剃り上げた頭に軽く置いた。掌の下で頭皮が緊張して震える。
「よく聞きなさい、ダリル。選択肢は三つ。一つは、ここで死ぬこと。二つ目は、北へ連れて行かれ、刑罰部隊で短い余生を砲弾の肉壁として終えること」
ダリルはごくりと喉を鳴らし、かすれ声で問う。
「……三つ目は?」
「三つ目は――私の騎士となること」
「……騎士だと?」
「ええ」
彼女は再びその頭を撫でるように撫でた。ダリルは怒りを噛み殺し、こめかみに青筋を浮かべる。巨体に無数の傷、丸坊主に斧を振るう姿は野蛮そのもの――その彼が、貴族の娘の前で屈辱に耐えている。それだけで十分な自制の証だった。
(見た目以上に賢い男ね)
セレーネは確信していた。冷静さ、戦いの勘、統率の才――それがあるからこそ、仲間は彼に従っている。規律なき山賊の群れが纏まるはずもない。
「もちろん、すぐに騎士とするわけにはいきません。まずは刑罰部隊で罪を贖うこと。そのうえで価値を示せば、私自らあなたを解放し、身代金も払ってでも騎士に叙任します」
「……それなら、二つ目と何が違う?」
「大きな違いです」
セレーネの声は揺るがなかった。
「あなたが価値を証明すれば、自由がある。未来がある」
ダリルは沈黙した。不可能と必然を天秤にかけているのが見て取れた。
「……仲間たちは?」
「剣を振れる猫でも雇うつもりよ」セレーネはさらりと答えた。
「役に立つなら受け入れる。戦うしかできなくても兵や護衛にはなる。ただし、彼らもまずは罪を償わねばならない」
周囲でアシュフォード家の従者たちがざわめく。
「本当に受け入れる気なのか?」
「信じる奴は馬鹿だ」
「セレーネ様に、そんな約束を守れるのか?」
だが北方の騎士たちは薄く笑みを浮かべていた。
「面白いご令嬢だ」
「芯がある」
「エヴァンデル様の婚約者というのも納得だ」
セレーネは一切気にせず、ダリルの答えを待った。
ついに彼は顔を上げる。
「……本当に俺を信じるのか?」
「もちろん、信じてはいないわ」
即答に、ダリルは一瞬侮辱されたかと思い身を震わせた。
「それで雇うと?」
「ええ」
「……爆裂首輪もなしで?」
「首輪で縛られた主のために命を捨てるかしら?」
彼女は静かに問い返す。
「いいえ。むしろ主を危険に突き落とすでしょうね」
脅しよりも正直さのほうが、彼を動揺させた。目が泳ぎ、思考が巡る。
(彼を知らなければ、私も迷ったかもしれない。でも私は見てきた。仲間を見捨てず、忠誠を誓えば裏切らない男だと)
肩を落としたダリルが呻く。
「……なら、一つ頼みを――」
「駄目」
セレーネは言葉を遮った。
「立場を誤解しているようね。あなたに残された権利は一つだけ。選ぶこと。それだけ」
噛み締めた歯に血管が浮かぶ。きっと仲間の命乞いをするつもりだったのだろう。だがこれも馴致の一部。圧力も、時に残酷さも必要だった。
「ただ……選択が気に入らないなら、四つ目をあげてもいい」
「……四つ目?」
「決闘よ。ここで、今。もし私を倒せば、あなたも仲間も全員解放する」
「セレーネ!」
エヴァンデルが叫ぶ。怒りに震え、彼女を狂気と見なした。
「エヴァンデル様」
彼女は視線を返す。揺るがぬ瞳に、彼の言葉は喉で止まった。
「大丈夫です。無能と呼ばれてはいますが、ただの山賊に負けるほど弱くはありません」
エヴァンデルの顎が強張る。
「……無謀にも限度がある!」
吐き捨てたが、従者たちの目を意識し、それ以上は言えなかった。
セレーネは柔らかく笑った。
「そんなに心配しなくても」
「し、心配など……」
エヴァンデルは口をつぐみ、渋々一歩退いた。
「死んでも、後始末はしませんからね」
「ありがとうございます」
彼女は軽く微笑んで答えた。
セレーネが歩み出ると同時に、ダリルも立ち上がる。山のような巨体が彼女を見下ろす。目は鋭く、表情は冷たく。
「……もし決闘でお前が死んだら、その約束はどうなる?」
「貴族の誇りは、そんなに軽くはないわ。私が倒れても、エヴァンデル様が私の名誉を守る」
――もっとも、倒れるつもりはないけれど。
自信に満ちた微笑みが、彼をさらに挑発する。荒い息を吐き、目を細めた。
「……いいだろう。俺が勝てば、全員解放だ」
「保証しよう」
エヴァンデルが断言する。
「セレーネを倒せば、彼女の言葉どおり全員自由だ」
ダリルは鼻を鳴らした。
「貴族は……理解できん」
「それは彼女だけだ」
エヴァンデルは即座に突き放した。
(早いわね、手のひら返し。でも、それも信頼の証よね)
セレーネは内心で笑った。
「ならば、俺が負けたら一生お前に仕える。それでいいな」
「いいわ」
次の瞬間、巨腕が振るわれた。空気を裂く拳に、周囲は息を呑む。
だがセレーネは口元を歪め、片手を掲げた。
冷たい声で、ただ一言。
「――跪け」
ダリルの頭上に光が走る。見えざる力が叩きつけられ、膝が砕けるように折れ、轟音とともに大地へ崩れ落ちた。
ざわめきが広がる。顔が凍り、目が見開かれる。
当のダリルも呆然と彼女を仰ぎ見ていた。何が起きたのか理解できないという顔で。
セレーネは彼を見下ろし、春の水のように澄んだ笑みを浮かべた。